【15】
結局、明るくなるのを待ってから、凛達は動き出したのだった。急いで馬車をとばして帰ると、朝の霧が冷たかった。
ーやっとだ。
疲労感がどっと出たが、他も同じなのか、無言だった。優なんかずっと下を向いて襦裙を抱きしめているし、雅巳は雅巳で腕を組み、怖い顔をしている。
「あ! 着くよ!!」
努めて明るく言うと、2人が反応し、馬車から外を見る。これなら雅巳も仕事に間に合うかもしれないと思ったが、体調は大丈夫だろうか。
「寝不足じゃない、雅巳さん?」
「大丈夫。俺のことなら心配するな。それより、お前の連れのほうが真っ白だぞ、顔」
「え…。優?」
顔を覗き込もうとすると、避けられた。どうも慎二が死んだことが衝撃的らしい。
ーでも逆にいうと、もう暴力はふるわれないんだから、優的にはいいはずなんだけど。
それでも旦那のことを思っているのかと心配すると、
「大丈夫。何でもないから」
気丈に言われた。そのため凛はそれ以上、追求せず、黙り込む。
「ー着きますよ」
御者の安堵した声に、凛は素早く反応し、外を見る。懐かしさのあまり、泣きそうになった。
ーたった1日で景色が変わるなんて。
思ってもみなかった。過去の能天気な自分を責めてみる。馬車が停まったのは、凛の家の前、つまり雑貨屋だった。
ーああ、やっと帰って来た。
色々あり過ぎて、泣きたくなってくる。1番に凛が降りると、店から大雅が駆けてくる。
「凛…!! どうしたんだ、一体?」
「お父さん…!!」
凛は大雅に抱きつくと、ぎゅっと袍を掴む。懐かしい香りや感触に、ようやく、心から安堵する。
「母さん!! 母さん!!」
奥に向かって大雅が叫ぶと、美明を抱えた定が姿を現す。
「凛!! どうしたの、今頃、帰って来て!! 日帰りのはずでしょう!!」
定の大声にびっくりしたのか、美明が泣き出す。
「美明!! 美明…!!」
馬車から降りた後に優が手を伸ばし、定から美明を受け取る。目からは涙が溢れて、声をあげて泣き出す。
「…何があったんだ、一体?」
大雅の怖い顔に、凛は正直に答える。
「酷い目に遭ったのよ…!! お父さん、お母さん、聞いて!!」
店の前で話すような内容ではないが、かいつまんで話すと、大雅と定がびっくりする。
「そんな…。まさか事件に巻き込まれていたなんて」
「それはそうよ!! 帰って来ないから、変だとは思っていたけれど…」
定にそっと抱きしめられ、凛はその温もりに安心する。
「お母さん、お母さん、お母さん!!」
色んなことが浮かび、頭がぐちゃぐちゃだった。涙が自然と溢れてくる。
「よしよし。安心しなさい。もう大丈夫だから」
頭を撫でられ、その気持ち良さに目を細める。ずっと我慢していた緊張の糸が、切れたようだった。
ー何で私ばっかり…!! ただ温泉に行っただけなのに!!
本当ならすっきり帰ってくるはずが、とんでもないことになった。明日は我が身というが、その通り、何が起きるかなんて分からなかった。
「泣くだけ泣きさい。…雅巳くんは大丈夫かい?」
大雅に聞かれ、雅巳が低く頭を下げる。
「申し訳ありません!! せっかくの温泉が…」
「いい、いい。雅巳くんのせいじゃない。自分を責めるんじゃないよ」
「そうよ。無事、帰って来られただけ幸せ者だわ」
定の優しい言葉に、雅巳は子どものようにうなずく。怒鳴られる覚悟をしていたのかもしれない。少し体が弛緩したようだった。
「本当に申し訳ありませんでした」
もう一度、雅巳が謝ると、大雅が優しく肩を叩く。
「謝るのは一度でいい。自分を痛めつけるな。雅巳くんは何も悪くないんだから」
「しかし…!!」
「とにかく美加さんのところへ行きなさい。心配していると思うから」
「…はい」
美加の名前に、雅巳の頰がぴくりと動く。彼なりに、心配をかけさせたかもしれないと、思っているに違いない。
ー人間、いつ事件や事故に巻き込まれるか、分かったものではない。
凛はようやく涙を拭くと、ぼうっとしている雅巳に声をかける。
「ほら、雅巳さん。甘味処に向かわないと」
「あ、ああ。そうだな」
「御者さん、連れて行ってくれます?」
定はそう言うと、大雅から何かー恐らく金だと思うが、受け取り、御者に手渡す。彼は嬉しそうに笑むと、雅巳を急かしてくる。
「早く」
「は、はい。ーでは、また後で」
雅巳が馬車に乗り、去っていく。凛は見えなくなるまで見送り、美明を抱きしめる優に声をかける。
「優、美明ちゃんがずっと泣いている。ーお母さん」
「はいはい。…優ちゃん、大変だったわね。奥へ行こうか」
「は、はい…」
消え入りそうな声で答えると、定と去っていく。それで気づくことがあった。
「あれ…? お客さんがいたの?」
店の中に、椅子に座った3人がいるのに、ようやく気づき、視線を向ける。
「恥ずかしい…。今の聞かれたかしら?」
「多分な。でも安心しなさい。誰も悪くないんだから」
頭を撫でられ、嬉しくなってくる。「やっぱり我が家が1番ね」などと思いつつ、店内の人達に接近する。
「おはようございます」
凛が赤い目をしながら頭を下げると、3人が話しかけてくる。
「おはよう。どこに行っていたんだい?」
3人のうちにの1人ー肉屋の李に声をかけられ、凛はどきどきする。
「その…。ちょっと。それよりも皆さん、お店は…?」
残る2人にも目を向けると、優しい笑みが返ってくる。
「大丈夫。少しくらいいなくても何とかなるから」
先に答えたのが、衣服屋の張で、後に答えたのが、油屋の楽だった。3人とも大雅よりも若く、30代くらいだった。皆、商売がらか、声が大きく、明るかった。凛に対し、優しく接してくれる人達だと信じていた。
「最近、不景気だからね。潰れていく店も多いし。若い子たちの意見は新鮮さがあって刺激になるから、集まっていたんだ。そうしながら、お前の帰りを待っていたんだよ」
「…ごめんなさい。それとありがとう」
子どもみたいに大雅の袍をひっぱると、大雅が勘違いしたようだった。
「どうした? 皆、知っている顔だから怖くないだろう?」
「うん。大丈夫」
「それより寝なくて大丈夫かい? 1日中、起きていたんだろう?」
「そうなんだけど…。一緒にお茶飲みしてもいい? 興奮して落ち着かないというか…」
凛がそう言った途端、明るい雰囲気に包まれたのだった。大雅は目を丸くしたが、すぐに人のいい笑みを向けてくる。
「どうぞ。ほら」
「うん。よろしくお願いします」
そう言うと、凛は商売仲間に加わったのだった。




