村瀬
三年前の春。
江戸城の台所前は、昼前の支度で慌ただしかった。
井上は、奥詰の使いで、勘定所に届ける書付を持っていた。
その途中、台所前を通りかかったとき、湯気と人の波に押されて、
懐から書付を落としてしまった。
「おい、落としたぞ」
声がして振り返ると、握り飯を片手にした男が、紙を拾い上げていた。
浅葱の羽織に、腰の差し物が少し傾いている。
井伊家の供回り――村瀬源太だった。
「お役目の紙か? 風に飛ばされるぞ」
源太は、飯を口に運びながら紙を差し出した。
井上が受け取ると、「字が細かいな。俺なら三行で間違える」と笑った。
その場で立ち去るかと思いきや、源太は台所の隅に腰を下ろした。
「待ち時間だ。殿の昼餉がまだでな」
源太は、台所の賄方に声をかけて、余りものを分けてもらっていた。
「一つどうだ。冷めてるが、味は悪くない」
井上は一瞬ためらったが、受け取った。
中は貝の佃煮だった。
「お前、磐城平か?」
「そうだ」
「じゃあ、安藤様のとこか。……あの家老、声がでかいな」
井上は思わず吹き出した。
源太は、よく喋る男だった。
話題は、城の噂話から、国元の祭り、鷹狩りの失敗談まで多岐にわたった。
井上が黙って聞いていると、「お前は聞き上手だな」と言って笑った。
だが、ただの饒舌ではない。
供回りの心得や、殿の癖、駕籠の揺れに合わせた歩き方など、
源太の言葉には、実地で培った工夫があった。
「殿の足が速い日は、機嫌がいい。遅い日は、だいたい誰かが怒られる」
そんなことを言って、井上を笑わせた。
ある日、源太がぽつりと漏らしたことがある。
「俺は、槍も刀も下手だ。だから、せめて殿の歩調くらいは合わせたい」
その言葉に、井上は何も返せなかった。
ただ、源太の背を見ていた。
村瀬源太は、長屋の奥に寝かされていた。
顔には浅く裂けた傷が残り、頬のあたりまで布に覆われている。
胸から腹にかけて赤朽葉に変色した晒が、かすかに上下していた。
井伊家赤坂邸の塀に沿って並ぶ長屋――
普段は下役の詰所や、控えの者が寝泊まりするその板敷きの続き間に、白い晒で傷を巻かれた男たちが横たえられている。
畳は古く、壁は煤け、冬の風が隙間から忍び込んでいた。
井上は、長屋の外の廊下に立っていた。
障子は開け放たれていたが、部屋には入らなかった。
年の頃五十ほど。鼻の下に髭を蓄え、寒さのせいか肩をすくめている。
井上は、懐から包みを取り出した。
白い和紙に包まれた薬包と、小さな菓子箱。
薬は、藩邸の医者に頼んで処方してもらったものだった。
「主より、負傷された方々にと」
言いながら、井上は深く頭を下げた。
包みを受け取った門番は、薬包を開いて確認し、次に菓子箱の方も蓋をずらして中を見る。
しばし目を細めた後、包みを突き返す。
「悪いが、見舞いも届けも、全部止めてある。上からの命令だ」
その時だった。
奥から足音とともに、藍鼠の羽織を着た男が現れた。
左腕を吊っている。
顔には切り傷が残り、目だけが鋭かった。
「何だ、届け物か?」
井上が頭を下げると、門番が事情を説明した。
男は井上を一瞥し、門番に向かって言った。
「薬方の用向きだろう? 俺が案内する」
門番は一瞬ためらったが、男の言葉に押されるように菓子箱を懐に収め、黙って道を開けた。
「自力で戻ったそうだ。門番に急を知らせて、気を失った。……それきりだ」
横たわる村瀬を前に、男が言った。
名は知らないが、上役らしいことはすぐに分かった。
「せいぜい気をつけろ。次はそちらの番かもしれんぞ」
吊った腕を揺らしながら、男は廊下を去っていった。
藍鼠:落ち着いた青灰色