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3/3

村瀬

三年前の春。

江戸城の台所前は、昼前の支度で慌ただしかった。

井上は、奥詰の使いで、勘定所に届ける書付を持っていた。

その途中、台所前を通りかかったとき、湯気と人の波に押されて、

懐から書付を落としてしまった。


「おい、落としたぞ」

声がして振り返ると、握り飯を片手にした男が、紙を拾い上げていた。

浅葱の羽織に、腰の差し物が少し傾いている。

井伊家の供回り――村瀬源太だった。

「お役目の紙か? 風に飛ばされるぞ」

源太は、飯を口に運びながら紙を差し出した。

井上が受け取ると、「字が細かいな。俺なら三行で間違える」と笑った。


その場で立ち去るかと思いきや、源太は台所の隅に腰を下ろした。

「待ち時間だ。殿の昼餉がまだでな」

源太は、台所の賄方に声をかけて、余りものを分けてもらっていた。

「一つどうだ。冷めてるが、味は悪くない」

井上は一瞬ためらったが、受け取った。

中は貝の佃煮だった。


「お前、磐城平か?」

「そうだ」

「じゃあ、安藤様のとこか。……あの家老、声がでかいな」

井上は思わず吹き出した。


 源太は、よく喋る男だった。

話題は、城の噂話から、国元の祭り、鷹狩りの失敗談まで多岐にわたった。

井上が黙って聞いていると、「お前は聞き上手だな」と言って笑った。

だが、ただの饒舌ではない。

供回りの心得や、殿の癖、駕籠の揺れに合わせた歩き方など、

源太の言葉には、実地で培った工夫があった。

「殿の足が速い日は、機嫌がいい。遅い日は、だいたい誰かが怒られる」

そんなことを言って、井上を笑わせた。


ある日、源太がぽつりと漏らしたことがある。

「俺は、槍も刀も下手だ。だから、せめて殿の歩調くらいは合わせたい」

その言葉に、井上は何も返せなかった。

ただ、源太の背を見ていた。



村瀬源太は、長屋の奥に寝かされていた。

顔には浅く裂けた傷が残り、頬のあたりまで布に覆われている。

胸から腹にかけて赤朽葉(あかくちば)に変色した(さらし)が、かすかに上下していた。


井伊家赤坂邸の塀に沿って並ぶ長屋――

普段は下役の詰所や、控えの者が寝泊まりするその板敷きの続き間に、白い晒で傷を巻かれた男たちが横たえられている。

畳は古く、壁は煤け、冬の風が隙間から忍び込んでいた。


井上は、長屋の外の廊下に立っていた。

障子は開け放たれていたが、部屋には入らなかった。


年の頃五十ほど。鼻の下に髭を蓄え、寒さのせいか肩をすくめている。

井上は、懐から包みを取り出した。

白い和紙に包まれた薬包と、小さな菓子箱。

薬は、藩邸の医者に頼んで処方してもらったものだった。

「主より、負傷された方々にと」

言いながら、井上は深く頭を下げた。


包みを受け取った門番は、薬包を開いて確認し、次に菓子箱の方も蓋をずらして中を見る。

しばし目を細めた後、包みを突き返す。

「悪いが、見舞いも届けも、全部止めてある。上からの命令だ」


その時だった。

奥から足音とともに、藍鼠(あいねず)の羽織を着た男が現れた。

左腕を吊っている。

顔には切り傷が残り、目だけが鋭かった。


「何だ、届け物か?」

井上が頭を下げると、門番が事情を説明した。

男は井上を一瞥し、門番に向かって言った。


「薬方の用向きだろう? 俺が案内する」

門番は一瞬ためらったが、男の言葉に押されるように菓子箱を懐に収め、黙って道を開けた。



「自力で戻ったそうだ。門番に急を知らせて、気を失った。……それきりだ」

横たわる村瀬を前に、男が言った。

名は知らないが、上役らしいことはすぐに分かった。


「せいぜい気をつけろ。次はそちらの番かもしれんぞ」


吊った腕を揺らしながら、男は廊下を去っていった。



藍鼠(あいねず):落ち着いた青灰色

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