報せ
「……大老が斬られたってよ」
江戸城、西の丸下。
現在の皇居外苑の一角に建つ、陸奥磐城平藩主・安藤信正の役宅。
庭に積もる雪を見ながら廊下を歩いていた井上直信に、同僚の佐藤与四郎が団子を頬張りながら話しかけた。
「……殿中でか?」
井上が足を止めると、佐藤は首を振った。
「いや、登城の途中だと。供回りも何人かやられたらしい。詳しいことはまだ
分からんが……急使が駆け込んできたばかりだ」
井上は庭に目をやった。
石に生した苔が、白い雪に覆われている。
庭の主が、丹念に手を入れた苔だった。
屋敷の奥詰で、家老・岩松甚右衛門は机の文を睨めつけたまま、立ち上がった。
「だから申したのだ! 老中職など、金を積んで恨みを買うようなものと!」
髷に白が混じり、眉間の皺が深い。怒鳴るたび、顎のあたりがわずかに震える。
表廊下まで響いたであろう声に、中老の漆原市郎左衛門が帳面から目を上げた。
細身の体に浅葱の羽織。筆を持つ手は、爪の先まで墨が染みている。
声を荒げることは滅多にない。
「殿の迎えは、いかがいたしましょう」
漆原の言葉に岩松は一瞬黙り、用人の渡辺五郎左衛門に目を向ける。
渡辺は肩の広い男で、袴の腰が少し落ちている。几帳面な質ではないが、動きは早い。
「御城に問い合わせ、お戻りになる折は護衛を倍付けだ。屋敷は門番を増やし、
出入りは厳しく検めよ」
渡辺が一歩前に出る。
「畏れながら、増やそうにも人手が……」
岩松の視線に、渡辺は言葉を飲み込む。
「足りぬなら人宿でも構わん。日が高くなる前に搔き集めろ。国元にも急ぎ使いを出せ」
渡辺は無言で一礼し、控えの間を出ていった。
奥詰に静けさが戻る。
「金が出ていくばかりだ……!」
吐き捨てる岩松に、漆原が帳面を閉じながら言った。
「勘定方には、また頭を下げることになりそうですな」
岩松は答えず、腕を組んで庭の雪を見据えていた。