三月の雪に消ゆ
文久元年三月三日。
江戸は朝から雪だった。牡丹雪が空を覆い、城下を白く染めていた。しんしんと降る雪が街の音を吸い込み、いつも賑やかな桜田門外も、静寂に包まれていた。
登城は、定刻通り。
供回りの家人たちは雨合羽を着込み、刀には柄袋をかけていた。
雪に濡れて刃が錆びぬようにとの処置だったが、動きにくさは誰もが感じていた。
それでも、この日もいつものように、何も起こらないまま終わるはずだった。
門前には見物人がちらほら。
よくあることだ。江戸では登城する大名を一目見ようと人が集まる。
その男は、駆け出したわけでもなく、雪に沈むようにゆっくりと進み出た。
合羽の袖を広げ、駕籠に向かって叫ぶ。声は割れ、言葉にならなかったが、
直訴の構えであることは誰の目にも明らかに見えた。
誰かが制止しようと踏み出したその一歩の瞬間——乾いた銃声が鳴った。
男は手にしていたものを突き上げるように放ち、雪が舞い上がる。
家人たちの身構える間もなく、傘を捨てた男たちが雪を蹴って突進する。
護衛の手が柄袋でもたつき、刃は抜けきらず、足を取られ立ち尽くす者もいる。
「駕籠を守れ!」
怒声が飛び交う。
だが敵の動きは速い。小柄な男が駕籠の脇に斬り込み、前列の家士が肩口を裂かれて倒れる。後ろにいた者が踏み込もうとするが、雪で滑り、斬撃を避けきれない。
一人が倒れ、また一人が叫ぶ。
駕籠に駆け寄る護衛が、横から切り伏せられ、雪の中に崩れる。
血が広がり、雪が染まる。
怒声とともに、斬り込んだ浪士のひとりが、躊躇なく駕籠に刃を突き立てる。
木板が軋み、駕籠が大きく傾ぐ。
「退がれ!」
ようやく刀を抜き払い、駆ける。敵とぶつかり合い、刃を交える。
だが刀は濡れて重く、はしりが鈍い。腹に一太刀を食らい、足元が崩れた。
そのとき、白く染まった土に、駕籠から引きずり出された主君の姿が現れる。
誰かが髷を掴み、引き倒す。皆が叫ぶ。「止めろ!」「誰か!」
だが動ける者は少なく、雪はもはや障壁だった。
最後に、一人の浪士が踏み込む。
刀を高く振り上げ、首を刎ねる。
すべてが止まり、静寂が戻った。
雪は、ただ降り続けていた。