第九話
鬼塚探偵事務所──午後三時
静かな午後。
蓮司はデスクで煙草をくゆらせ、里沙はコーヒーを片手にスマホをいじっている。
特に依頼もなく、久々に穏やかな時間が流れていた。
「こういう時に限って、また"来る"んですよね」
里沙がぼやく。
「来なきゃ、飯が食えねぇだろ」
蓮司は煙を吐きながら答えた。
カラン……。
──まるで予言したかのように、事務所のドアが開いた。
「ほら、来た」
里沙が苦笑する。
入ってきたのは、一人の若い女性だった。
二十代前半、栗色のセミロングヘアに優しげな瞳。だが、その顔には明らかに疲れが滲んでいる。
カーディガンを羽織った彼女は、落ち着かない様子で事務所の中を見渡した後、小さく息をついた。
「失礼します……」
「いらっしゃいませ」
里沙が柔らかく微笑む。
「おかけください」
蓮司はソファを指し示した。
女性は遠慮がちに腰を下ろし、手元でバッグをぎゅっと握りしめている。
「お名前を伺っても?」
里沙がノートを開く。
「山崎千鶴です」
「山崎さん、依頼の内容を聞かせてください」
蓮司が煙草を灰皿に押し付けながら言った。
千鶴はしばらくためらっていたが、やがて震える声で口を開いた。
「……夜になると、"子守唄"が聞こえるんです」
──空気が一気に張り詰める。
「……子守唄?」
里沙が慎重に尋ねる。
「はい。毎晩、決まって午前二時になると……どこからともなく、小さな声で"子守唄"が聞こえてくるんです」
「それは、どんな歌?」
蓮司が煙草をくわえながら問いかける。
「……古い、日本の子守唄みたいです。"ねんねんころりよ、おころりよ"って……」
「……江戸時代からある"江戸子守唄"か」
「ええ。でも、歌っているのは"女の人の声"で……すごく、悲しそうな声なんです」
「それは、どこから聞こえてくる?」
「……最初は、外から聞こえてくるのかと思いました。でも、最近は……"部屋の中"で聞こえるようになってきて……」
──"部屋の中で"。
「それで、何か姿を見たことは?」
蓮司が尋ねる。
「……はい」
千鶴はかすかに震えながら答えた。
「先週の夜……子守唄が聞こえた後、ふと目を開けたら、"ベッドの横に誰かが座っていた"んです」
「…………」
里沙が「ふむ……」と、メモを取る。
「それは、どんな姿だった?」
「……着物を着た女性でした。顔はよく見えませんでした。でも、"私を見ている"のは分かりました」
「その時、何か話しましたか?」
「……"赤ちゃんが、泣いているの"」
──ザワッ。
「……赤ちゃん?」
里沙が眉をひそめる。
「はい。その女の人は、何かを抱えているように見えました。でも、私には何も見えなくて……」
「それ以来、毎晩現れるのか?」蓮司が問う。
「はい。最初はただ歌うだけだったのに、最近は"私に話しかけてくる"ようになってきました……」
千鶴の声は震えていた。
「"あなたが、あの子の代わりになってくれるの?"って……」
──室内の空気が、冷たくなる。
「……なるほどな」
蓮司は煙を吐きながら静かに言った。
「山崎さん、引っ越したのはいつ頃?」
「一ヶ月前に引っ越したばかりです」
「その前に住んでたやつは?」
「分かりません……でも、管理人さんが"前の住人は急に出て行った"って言っていました」
「……確定だな」
蓮司は、コートを羽織った。
「あんたが"部屋に憑かれた"わけじゃねぇ。"その部屋自体に何かがある"」
「……じゃあ、私はどうすれば?」
「単純な話だ。"そいつが何を求めているのか"を突き止める」
蓮司はポケットから呪符を取り出し、軽く振った。
「そんで、"消すべきものは消す"」
──こうして、鬼塚探偵事務所の新たな事件が幕を開けた。
山崎千鶴の部屋──深夜二時
蓮司と里沙は、千鶴の部屋にいた。
静まり返った室内に、かすかな冷気が漂っている。
──チリン……。
どこからか、風鈴のような音が響いた。
「……来るぞ」
蓮司が呟く。
「ねんねんころりよ……」
──低く、ゆっくりとした歌声が響く。
「……!!」
千鶴が身を強張らせる。
「おころりよ……」
蓮司は呪符を構え、"霊視"の準備をする。
「見せてもらうぜ……。"子守唄の主"の正体をな」
──バチィィィン!!!
呪符が発動し、部屋の空気が一変する。
──ベッドの横に、着物姿の女が"ぼんやりと"座っていた。
その腕には、何も抱かれていないのに、"赤ん坊をあやしている"仕草をしている。
「……お前は、何者だ?」
蓮司が低く問いかける。
「私は……この子を、守らなくちゃ……」
女の顔がゆっくりと上がる。
──その目は、"黒く空洞になっていた"。
「"子供"は、もういねぇんじゃねぇのか?」
「違う……この子は、"私が守らなくちゃいけないの"……」
女はゆっくりと立ち上がり、こちらへと向かってくる。
「……"代わりになってくれるの"?」
──ザワァァァッ……!!
「……さて、こっからが本番だ」
蓮司は、両手をかざすと、霊力を放出した。霊との"戦い"に臨む。
──"子守唄の主"の真実が、今明かされようとしていた。
「……"代わりになってくれるの"?」
──ザワァァァッ……!!
着物姿の女が、千鶴に向かってゆっくりと歩み寄る。
腕には"何も抱かれていない"はずなのに、確かに赤ん坊をあやす仕草をしている。
顔はぼんやりとしか見えないが、"黒い空洞の目"が、千鶴をじっと見つめていた。
「っ……!!」
千鶴が恐怖に震える。
「蓮司さん!!」
里沙が呪符を握りしめながら蓮司を見た。
「分かってる」
蓮司は頷く。
「……お前は、何者だ?」
着物の女は、静かに首を傾げた。
「私は……この子を、守らなくちゃいけないの」
「"この子"ってのは、どこにいる?」
「……ここにいるわ」
女は腕を見下ろし、空っぽの腕を抱く仕草をする。
「"あなたには見えないの?"」
「"いねぇ"からな」
蓮司は低く言い放った。
「お前が抱いているのは、"何もない"。だが、"いないことを認めたくねぇ"から、お前はこうして霊になっちまった」
「……違う……違う違う違う……!!」
──ビキビキ……!!
部屋の空気が一気に歪み、壁が軋むような音が響く。
女の体が"不安定に揺れ始める"。
「……やっぱり、"未練"の塊だな」
蓮司はポケットから呪符を取り出し、呟いた。
「過去を"見せてもらう"ぞ」
──バチィィィン!!
呪符が光を放ち、"霊の過去"が映し出される。
"子守唄の真実"──十五年前の事件
──場所は、今と同じ"この部屋"だった。
部屋の中には、一人の若い母親がいた。
着物姿の彼女は、生後数ヶ月の赤ん坊を抱いて、静かに子守唄を歌っている。
「ねんねんころりよ……おころりよ……」
──だが、赤ん坊の泣き声は止まらない。
母親は疲れた様子で赤ん坊をあやすが、泣き声は大きくなるばかりだった。
「どうして……泣き止まないの……?」
母親は焦り、次第に涙目になりながら赤ん坊を強く抱きしめる。
「お願い……泣き止んで……!!」
──そして、次の瞬間。
母親の手が、赤ん坊の小さな首にかかった。
──グッ……!!
「お願いだから、静かにして……!!」
母親の顔が苦悶に歪む。
赤ん坊の泣き声は次第に小さくなり……やがて、完全に止まった。
「……あ」
母親の表情が、絶望に染まる。
「嘘……私……」
彼女は、腕の中の赤ん坊を見下ろし、震える。
「やだ……いやだ……こんなの……」
──そして、次の瞬間、彼女は自ら命を絶った。
"その場所"こそ、今千鶴が住んでいる部屋だった。
"未練の亡霊"との決着
蓮司は霊視を終え、深く息を吐く。
「……なるほどな」
「れ、蓮司さん……」
里沙が緊張した声で尋ねる。「この霊は……?」
「"自分の子供を誤って殺し、後追いした母親の亡霊"だ」
「っ……!!」
千鶴が息を呑む。
「そして、"亡くなった後も、自分の子供を抱いている"つもりになってる」
「……」
「だから"代わりになってくれるの?"って言ったんだ」
千鶴は顔を青ざめたまま震える。
「……じゃあ、私は……?」
「お前が"彼女の子供の代わり"にされる前に、終わらせる」
蓮司は、着物の女の霊を見据えた。
「お前の子供は、もうとっくに"成仏している"」
女の霊は、ゆっくりと顔を上げる。
「違う……この子は、まだいるの……」
「いねぇよ」
「違う……私は……この子を守らなくちゃ……」
「"もういない"ってことを受け入れろ」
「……」
「お前の未練が、"新しい住人を呪ってる"んだ」
「……そんなこと……」
「だったら、確かめさせてやるよ」
蓮司は、最後の呪符を取り出し、霊に向かって投げつけた。
──バチィィィン!!
呪符が女の霊を包み込むと、霊の体が揺らぎ始める。
「う……あぁ……」
──すると、女の腕の中に"本当は何もなかった"ことが、はっきりと見えた。
彼女の目から、涙がこぼれ落ちる。
「……もう……いないの……?」
「……ああ」
蓮司は静かに言った。
「正直、事情がどうあれあんたは人の親になっちゃいけない人間だった。だが、とは言えお前の子供は、もう苦しんでねぇ」
「…………」
「もう"泣いて"ねぇよ」
霊は、ぼんやりと自分の腕を見つめる。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
「……そう、なのね……」
──次の瞬間、霊の姿は霧のように消えていった。
部屋の空気が、静かに戻る。
「終わった……?」
千鶴が震えながら尋ねる。
「ああ。"子守唄の主"は、成仏した」
蓮司は煙草をくわえ、静かに火をつけた。
「"代わりになってくれる人"は、もう必要なくなった」
千鶴は涙を流しながら、深く頭を下げた。
「本当に……ありがとうございました……!」
──こうして、"夜に響く子守唄"の事件は終息した。
だが、"この世に未練を残す者"は、決していなくなることはない。
鬼塚探偵事務所には、まだまだ"成仏させるべき霊"が待っている。
蓮司は、窓の外を見つめながら煙を吐いた。
「……次は、どんなヤツが来るかね」
──そして、新たな依頼が動き出そうとしていた。
鬼塚探偵事務所──数日後
夜の帳が下りた事務所。
蓮司はデスクで煙草をくゆらせ、里沙はコーヒーを片手にパソコンを開いている。
事件が解決してから、千鶴の部屋では子守唄は聞こえなくなった。
霊が成仏し、"代わり"を求めることもなくなった。
「静かになりましたね」
里沙がコーヒーをすすりながら言う。
「ああ」
蓮司は煙を吐きながら答える。「こういう時が、一番気味が悪いな」
「せっかく平和になったんですから、もう少し楽しみましょうよ」
「そう言ってるうちに、また"次の依頼"が来るんだろうよ」
里沙は苦笑しながら、カタカタとキーボードを打つ。
カラン……。
──その瞬間、事務所のドアが開いた。
「ほらな」
蓮司が苦笑する。
入ってきたのは、山崎千鶴だった。
「山崎さんか。どうした?」
蓮司は煙草を灰皿に押し付けながら尋ねる。
「こんばんは」
千鶴は微笑みながら、紙袋を差し出した。
「お礼の差し入れです。あの時は、本当にありがとうございました」
「おっ、また差し入れですか」
里沙が紙袋を覗き込む。「クッキーと……コーヒー?」
「はい。お仕事の合間にどうぞ」
「まぁ、悪くねぇな」
蓮司は袋を受け取り、コーヒーを手に取る。
「それで、その後はどうだ?」
「はい、もう何も起こらなくなりました」
千鶴はホッとしたように笑った。
「夜もぐっすり眠れるようになりましたし、毎晩の恐怖から解放されて、本当に感謝しています」
「そりゃ良かったな」
蓮司はコーヒーを一口飲み、目を細める。
「……でも、ひとつだけ気になることがあるんです」
「ん?」
千鶴の表情が、少し曇る。
「夢の中で……たまに、"子守唄が聞こえる"んです」
──空気が一瞬張り詰める。
「ほう……」
「でも、前みたいに怖い感じじゃなくて……どこか、優しい感じで」
「……ふぅん」
蓮司は少し考え、静かに言った。
「まぁ、完全に消えたわけじゃねぇってことだな」
「え?」
「"未練を消した"とはいえ、あの母親の"子を思う気持ち"は消えてねぇ」
蓮司は煙草を取り出しながら続ける。「お前の夢に出るのは、おそらく"ただの残響"みてぇなもんだろうよ」
「じゃあ、怖がらなくていいんですか?」
「ああ。今度聞こえたら、こう思え。"あの母親が、やっと安らかに眠れるようになった"ってな」
千鶴はしばらく考えた後、小さく頷いた。
「……分かりました。そう考えることにします」
「それがいいさ」
千鶴は再び微笑み、深く頭を下げた。
「それでは、また何かあったら……」
「普通の悩み相談なら歓迎するけど、"霊関係"は勘弁してほしいですね」
里沙が冗談っぽく言うと、千鶴は苦笑した。
「そうですね……なるべく、お世話にならないようにします」
──カラン……。
千鶴が去り、事務所は再び静寂に包まれる。
蓮司は煙草に火をつけ、静かに息を吐いた。
「さて……次は、どんな奴が来るかね」
「もう次の依頼のこと考えてるんですか?」
里沙が呆れたように笑う。
「お前も分かってんだろ?」
「……はい」
里沙は苦笑しながらコーヒーを飲む。
鬼塚探偵事務所は、今日もまた"次の依頼"を待っている。
鬼塚探偵事務所──午後三時
午後、鬼塚探偵事務所には穏やかな陽が差し込んでいた。
蓮司は未確認の書類に目を通しつつ煙草をふかし、里沙はパソコンと向き合って事件の詳細をまとめていた。
「また依頼来ますかね?」
里沙がコーヒーをすすりながら尋ねる。
「来るだろ」
蓮司は煙を吐きながら言った。「妙な事件ってのは、いつだって突然降ってくるもんだ」
カラン……。
──まるで予言したかのように、事務所のドアが開いた。
「ほらな」
蓮司が苦笑する。
入ってきたのは、一人の若い男性だった。
二十代半ば、黒髪を短く整え、スーツ姿だがどこか疲れた表情をしている。
目の下には隈ができ、明らかに寝不足の様子だった。
「失礼します……」
「いらっしゃい」
里沙が柔らかく微笑む。
「おかけください」
蓮司はソファを指し示す。
男性は小さく頷き、深く息をついて腰を下ろした。
「お名前を伺っても?」
里沙がノートを開く。
「藤崎翔太です」
「藤崎さん、依頼の内容を聞かせてください」
蓮司が煙草を灰皿に押し付けながら言った。
翔太はためらいながらも、ゆっくりと口を開いた。
「……毎晩、"誰かがドアをノックする"んです」
──空気が一気に張り詰める。
「ドアをノック?」
里沙が慎重に尋ねる。
「はい。深夜二時ちょうどになると、"コン、コン"って……」
「誰か心当たりのあるやつか?」
「いえ……それが、"ドアの前には誰もいない"んです」
──ザワッ。
「部屋の前の監視カメラとかは?」
「……不思議なんです。録画を確認すると、"ノックの音だけははっきりと入ってる"のに、"映像には何も映っていない"んです」
「……なるほどな」
蓮司は煙を吐きながら静かに言った。
「で、そのノックは毎晩続いてるのか?」
「はい……最初は怖かったんですが、ある夜、思い切って"ドアを開けてみた"んです」
「……それで?」
翔太は唾を飲み込み、震える声で言った。
「"廊下には誰もいませんでした"……でも」
「でも?」
「"部屋の中からノックが聞こえた"んです」
──室内の空気が冷たくなる。
「……部屋の中?」
里沙が息を呑む。
「ええ。"ドアの向こう"じゃなくて、今度は"クローゼットの中"から"コン、コン"って……」
──確定だな。
蓮司は、煙草をもみ消しながら言った。
「あなたの部屋には、"何か"がいる」
翔太は顔を青ざめさせながら、震えた声で尋ねる。
「……助けてもらえますか?」
「当然だ」
蓮司はコートを羽織り、静かに笑った。
「今夜、あんたの部屋で"その正体"を暴く」
藤崎翔太のマンション──深夜一時五十分
翔太の部屋に入ると、特に異変はない。
ワンルームのシンプルな室内で、クローゼットが部屋の隅にある。
「ここか?」
蓮司がクローゼットを指さす。
「……はい」
翔太は怯えたように頷く。
「じゃあ、そろそろ"時間"だな」
一時五十九分。
「蓮司さん、準備は?」
里沙が呪符を手にしながら尋ねる。
「ああ。準備万端だ」
二時ちょうど。
「……!!」
コン、コン……。
部屋のドアが、ゆっくりとノックされた。
翔太は顔をこわばらせ、じっとドアを見つめる。
「……開けるか?」
蓮司が低く言った。
翔太は一瞬躊躇したが、意を決してドアノブに手をかける。
──ギィ……。
ドアが開く。
──だが、"誰もいない"。
「っ……!!」
翔太が息を呑む。
「…………」
蓮司は静かに部屋の中に戻る。
「……次は、"こっち"か?」
コン、コン……。
──今度は、クローゼットの中からノックが聞こえた。
「蓮司さん!!」
里沙が身構える。
「やるぞ」
蓮司は、呪符を取り出し、クローゼットの前に立った。
「さて……"お前の正体"を見せてもらうぜ」
──ギィ……。
蓮司がゆっくりとクローゼットを開ける。
そこには……。
"何もない"はずだった。
──しかし、部屋の温度が急激に下がる。
そして、翔太が突然叫んだ。
「そ、そこ……!!」
翔太の指が震えながら"鏡"を指す。
蓮司と里沙が鏡を見ると、そこには翔太の姿と並んで"もう一人"の影が映っていた。
「……いたな」
蓮司は目を細める。
「お前は、"何者"だ?」
──影が、ゆっくりと翔太の方に向かって"手を伸ばした"。
「蓮司さん!!」
里沙が叫ぶ。
「"こいつは、翔太を引きずり込むつもり"です!!」
「……なら、叩き出すまでだ」
蓮司は霊力を込めた呪符を鏡に叩きつける。
「封印──終幕!!」
──バチィィィィン!!
呪符が光を放ち、鏡が激しく揺れる。
「グアアアアアア!!!!!」
影は苦しみながら鏡の奥へと引きずり込まれ、そのまま霧散した。
──鏡は、粉々に砕けた。
「終わった……?」
翔太が息を切らしながら尋ねる。
「ああ。"お前の影"は、もういねぇよ」
蓮司は煙草に火をつけ、静かに息を吐いた。
「"深夜二時のノック"は、これでおしまいだ」
翔太は涙を浮かべながら、深く頭を下げた。
「本当に……ありがとうございました……!」
──だが、"この世の怪異"は、決して消え去ることはない。
蓮司は、窓の外を見つめながら呟いた。
「……次は、どんな奴が来るかね」
──そして、新たな事件が動き出そうとしていた。
鬼塚探偵事務所──数日後
春の陽が差し込む午後、鬼塚探偵事務所にはいつもの静けさが戻っていた。
蓮司はデスクで煙草をくゆらせ、里沙はコーヒーを片手に書類を整理している。
「最近、変な事件ばかりですね」
里沙がカップを揺らしながら呟く。
「今に始まったことじゃねぇよ」
蓮司は煙を吐きながらぼやいた。「"人ならざるもの"が、俺たちを必要としてるってことだろ」
「正直、勘弁してほしいんですけどね」
里沙は苦笑した。
カラン……。
──事務所のドアが開いた。
「ほらな」
蓮司が煙をもみ消しながら言う。
入ってきたのは、藤崎翔太だった。
「藤崎さんか。……何かあったか?」
蓮司が軽く眉を上げる。
「いえ……今日は、お礼を言いに来ました」
翔太は、手に紙袋を持っていた。
「差し入れです。忙しいでしょうし、少しでも休憩の足しになれば」
「あ、カステラだ」
里沙が嬉しそうに袋を覗き込む。
「はい。あの夜のことを考えると、今でも少し怖いですが……もう"深夜二時のノック"は聞こえなくなりました」
翔太はホッとしたように笑った。
「それは良かったな」
蓮司は、コーヒーを一口飲み、目を細める。
「……でも、ひとつだけ気になることがあるんです」
「ん?」
翔太の表情が、少し曇る。
「……たまに、"鏡の前に立つと、誰かの視線を感じる"んです」
──室内の空気が、一瞬張り詰める。
「へぇ……」
「でも、前みたいな恐怖感はなくて。"ただ見られている"ような感覚なんです」
「……それは、お前の"気のせい"かもしれねぇし、"気のせいじゃねぇ"かもしれねぇな」
蓮司は煙草に火をつけながら言った。
「どっちなんですか……?」
「さぁな」
蓮司は煙を吐き、ニヤリと笑う。
「だが、一つだけ言える。"ノックする者"は、もういねぇってことだ」
翔太は少し考えた後、小さく頷いた。
「……そうですね」
「もしまた何かあったら、来な」蓮司は言った。
里沙が軽く手を振る。「でも、次は普通の悩み相談にしてくださいね」
「はは……そうします」
翔太は笑いながら、事務所を後にした。
──そして、事務所には再び静寂が戻る。
「さて……次は、どんな依頼が来るかね」
蓮司は窓の外を眺めながら呟く。
「やめてくださいよ、またすぐ来ますよ?」
里沙が呆れたように笑う。
「……まぁ、そうなったら"片付けるだけ"だ」
蓮司は、煙草の灰を落とし、静かに目を細めた。
鬼塚探偵事務所は、今日もまた"次の依頼"を待っている。
某日鬼塚探偵事務所──午後四時
春の午後、鬼塚探偵事務所は静かな空気に包まれていた。
蓮司は腰掛ながら煙草をふかし、週刊誌のゴシップ記事を読んでいた。里沙は報告書のまとめに一段落してコーヒーで一息ついていた。
「最近、妙に立て続けに依頼が来てますね」
里沙がカップを揺らしながら呟く。
「いいことじゃねぇか」
蓮司は煙を吐きながら気だるそうに答える。「金が入るなら文句はねぇ」
「まぁ、そうなんですけど……」
里沙が何かを言いかけた時──
カラン……。
事務所のドアが開いた。
「ほらな」
蓮司が苦笑する。
入ってきたのは、一人の若い女性だった。
二十代前半、肩までのウェーブのかかった黒髪。淡いベージュのコートを羽織り、落ち着いた雰囲気を持っているが、どこか怯えた様子が見て取れる。
「失礼します……」
「いらっしゃいませ」
里沙が柔らかく微笑む。
「おかけください」
蓮司はソファを指し示す。
女性は小さく頷き、深く息をついて腰を下ろした。
「お名前を伺っても?」
里沙がノートを開く。
「水瀬奈緒です」
「水瀬さん、依頼の内容を聞かせてください」
蓮司が煙草を灰皿に押し付けながら言った。
奈緒は少し躊躇したが、意を決したように口を開いた。
「……私、"赤い部屋"に閉じ込められる夢を見るんです」
──空気が一気に張り詰める。
「"赤い部屋"?」
里沙が慎重に尋ねる。
「はい。最初は普通の夢かと思っていたんです。でも、最近は……"夢の中の感覚が、現実みたいにリアル"になってきて……」
「その部屋には、何がある?」
蓮司が煙を吐きながら尋ねる。
「何もないんです。ただ、"赤い壁に囲まれた部屋"で、"私一人"だけ」
「なるほど」
「でも……夢の中で、"部屋の中に誰かがいる気配がする"んです」
「姿は見えない?」
「はい……でも、気配だけは、すぐ近くに感じるんです」
「それで、その夢はいつ頃から見始めた?」
「……ちょうど、一ヶ月前からです」
「きっかけになりそうな出来事は?」
「……引っ越しました。アパートに」
「またかよ……」
蓮司は煙を吐きながらぼやく。
「そのアパート、曰く付きの場所じゃねぇのか?」
「分かりません。でも、最近おかしなことが起こるんです」
「どんな?」
奈緒は、一度唾を飲み込んでから、震える声で言った。
「目が覚めると、"部屋の壁が赤くなっている"んです」
──ザワッ。
「赤くなる?」
「はい。最初はほんの少しでした。でも、日を追うごとに広がっていって……」
「それ、"血"じゃねぇのか?」
奈緒の顔が一瞬青ざめる。
「……考えたくなかったんです。でも……手で触ると、"じっとりと湿っている"んです」
「…………」
「それに、ある晩……"赤い部屋"の夢の中で、"誰かが話しかけてきた"んです」
「何て?」
奈緒は、恐怖に震えながら呟いた。
「"私と代わって"……って」
──室内の空気が、一気に冷たくなる。
「代わる?」
里沙が息を呑む。
「はい……"代わって"、"代わって"って……」
「なるほどな」
蓮司は煙草をもみ消しながら言った。
「それ、あんたのアパートの"前の住人"じゃねぇのか?」
奈緒は息を詰まらせた。
「……!」
「お前の"代わりに"、そいつが生きようとしてるってことだよ」
「じゃあ……私は……?」
「このまま放っておけば、"夢の中で代わる"ことになる」
蓮司はポケットから呪符を取り出し、軽く振った。
「"赤い部屋の女"の正体を突き止めるぜ」
──こうして、鬼塚探偵事務所の新たな事件が幕を開けた。
水瀬奈緒のアパート──深夜二時
蓮司と里沙は、奈緒の部屋にいた。
壁には、うっすらと"赤黒いシミ"が広がっている。
「これは……」
里沙が呆然と壁を見つめる。
「間違いねぇ。"この部屋"だな」
──二時三十分。
奈緒はベッドに横たわり、目を閉じた。
「さて……"赤い部屋"に入る準備をしねぇとな」
蓮司はポケットから、"夢の中に入るための呪符"を取り出し、奈緒の額に貼る。
「夢の中へ……侵入開始だ」
──ザァァァァ……。
次の瞬間、奈緒の意識が"赤い部屋"に引き込まれた。
──奈緒の夢の中。
そこは、一面"赤い壁"に囲まれた部屋だった。
「……また、ここ」
奈緒が辺りを見回した瞬間──
──ギィ……。
背後の扉が、ゆっくりと開いた。
奈緒が振り向くと、そこには長い黒髪の女が立っていた。
顔は見えない。
ただ、ゆっくりと奈緒に向かって歩いてくる。
「"代わって……"」
奈緒の体が、ズルズルと"赤い部屋の床"に引きずられる。
「いや……いやぁ!!」
──バチィィィン!!!
突然、強烈な光が辺りを包み込む。
「こっからは、"俺の仕事"だぜ」
──蓮司が、奈緒の"夢の中"に入ってきた。
「"赤い部屋の女"よ……てめぇの"正体"、見せてもらおうか」
──そして、"赤い部屋の女"の真実が、今明かされようとしていた。
水瀬奈緒の夢の中──深夜二時四十分
「"赤い部屋の女"よ……てめぇの"正体"、見せてもらおうか」
蓮司が夢の中に入り込んだ瞬間、部屋の雰囲気が一変した。
赤い壁が脈打つように波打ち、血のような液体がゆっくりと床に染み出してくる。
「代わって……代わって……」
長い黒髪の女が、奈緒に向かってじわじわと迫っていた。
顔は影になっていて見えない。
ただ、異様に長い指が奈緒へ伸び、"彼女の身体に触れようとしている"。
「っ……!!」
奈緒が後ずさる。
「代わって……!!」
女が叫ぶと同時に、部屋の壁から無数の手が生え、奈緒を捕まえようとする。
「チッ……しつけぇな」
蓮司は霊力を放出すると、手を一閃した。
霊力の閃光が爆発し、壁から生えた手を一掃する。
「蓮司さん!!」
奈緒が縋るように叫ぶ。
「ああ、分かってる」
蓮司は女の霊を鋭く睨む。
「てめぇが"前の住人"ってことは、もうバレてんだよ」
「違う……!! "私の部屋"!! "私の居場所"!! "奪われた"!! "返せ"!!!」
女が突然、甲高い声で叫びながら姿を変え始めた。
──次の瞬間、女の顔が、"裂けたような口"を持つ不気味なものへと変わった。
真っ黒な目が奈緒を睨みつけ、異様に長い腕が伸びてくる。
「っ……!!」
奈緒が縮こまる。
「お前が"代わり"になるの……"私の代わりに"……ここで死ね!!!」
女の霊が、一気に奈緒へと飛びかかる。
「させるかよ!!」
──蓮司が霊力の弾丸を女の霊に叩きつける。
激しい閃光と爆発が女の霊に直撃する。
しかし、女はその一撃を弾き飛ばし、なおも奈緒へ手を伸ばそうとする。
「っ……こいつ、思ったよりしぶといな……」
「蓮司さん!!」
「……仕方ねぇな」
蓮司はコートの内ポケットから"封印用の札"を取り出す。
「こいつを"完全に終わらせる"」
蓮司は、霊力を放出して女の霊に向かって札を投げつけた。
「"赤き呪縛よ、今ここで終焉を迎えろ!!"」
──札が強烈な光を放ち、女の霊を包み込む。
「……アアアアアアアアアア!!!!」
女の霊が耳をつんざくような悲鳴を上げ、赤い部屋が激しく揺れる。
壁に染み込んでいた"赤"が、ゆっくりと消えていく。
「"お前の居場所"は、もうねぇんだよ」
蓮司が最後の呪文を唱えると、女の霊の身体が"黒い霧"となり、完全に消滅した。
──赤い部屋が、ゆっくりと白く戻っていく。
奈緒は、ぼんやりと立ち尽くしたまま、その光景を見つめていた。
「終わった……?」
「ああ。"赤い部屋の女"は、もういねぇよ」
蓮司は煙草に火をつけ、静かに息を吐いた。
「お前の夢も、今夜で終わりだ」
鬼塚探偵事務所──数日後
春の午後、事務所には静けさが戻っていた。
「最近、立て続けに"物件の呪い"系の依頼が続いてますね」
里沙がマグを揺らしながら呟く。
「まぁ、ありがちっちゃありがちだな」
蓮司は煙を吐きながら答える。「"曰く付きの部屋"は、世の中に腐るほどある」
「だったら、そういう物件に"注意喚起するサイト"でも作ればいいのに」
「そんなもん作っても、誰も信じねぇだろ」
カラン……。
──事務所のドアが開いた。
入ってきたのは、水瀬奈緒だった。
「水瀬さんか。どうした?」
蓮司が煙草を灰皿に押し付けながら尋ねる。
「こんばんは」
奈緒は微笑みながら、紙袋を差し出した。
「お礼の差し入れです。あの時は、本当にありがとうございました」
「また差し入れか」
里沙が笑いながら袋を覗き込む。「今度は何?」
「チョコと、コーヒーです」
「いい心がけだな」
蓮司は袋を受け取り、コーヒーの香りを嗅ぐ。
「それで、その後はどうだ?」
「もう、"赤い部屋"の夢は見なくなりました」
奈緒はホッとしたように笑った。
「でも……たまに、"何もない白い部屋"の夢を見るんです」
──室内の空気が、一瞬張り詰める。
「へぇ……」
「でも、怖くはないんです。"ただ白い部屋の中にいるだけ"で……すごく、静かなんです」
「……」
「もしかして……"あの女"が、やっと休める場所を見つけたんでしょうか?」
蓮司は、煙草に火をつけ、静かに息を吐いた。
「……かもな」
「だったら、もう大丈夫ですね」
「ああ。"お前の部屋は、もうお前だけのものだ。"」
奈緒は深く頭を下げ、事務所を後にした。
──そして、事務所には再び静寂が戻る。
「さて……次は、どんな依頼が来るかね」
蓮司は窓の外を眺めながら呟く。
「やめてくださいよ、またすぐ来ますよ?」
里沙が呆れたように笑う。
「……まぁ、そうなったら"片付けるだけ"だ」
蓮司は、煙草の灰を落とし、静かに目を細めた。
──鬼塚探偵事務所は、今日もまた"次の依頼"を待っている。