第八話
鬼塚探偵事務所──午後五時
夕焼けが事務所の窓から差し込み、室内にはオレンジ色の柔らかな光が広がっていた。
蓮司はデスクで煙草をくわえ、里沙はカップにコーヒーを注ぎながらのんびりとした時間を過ごしていた。
「最近、依頼が続きますね」
里沙がカップを片手に蓮司を見る。
「まぁ、霊関係の依頼ってのは波があるからな」
蓮司は煙を吐きながらぼやく。「静かな時はとことん静かだが、騒がしくなると立て続けにくる」
「今回も何かヤバそうな案件がきそうな気がします」
里沙が苦笑する。
──と、その時。
カラン……。
事務所のドアが開いた。
蓮司と里沙が顔を上げると、一人の女性が立っていた。
二十代前半、肩までのダークブラウンの髪を持つ女性。華奢な体つきで、どこか緊張した面持ちをしている。
オフィスカジュアルな服装で、手にはバッグを握りしめていた。
「失礼します……」
「いらっしゃいませ」
里沙が優しく声をかける。
「どうぞ、おかけください」
蓮司はソファを指し示す。
女性は小さく頷き、ゆっくりとソファに腰を下ろした。
「ご依頼ですね? まずはご依頼の内容を伺います」
里沙がノートを開く。
女性は、不安げに視線を落としながら口を開いた。
「……私、最近”夜中に訪ねてくる人”がいるんです」
「夜中に訪ねてくる?」
蓮司が眉をひそめる。
「はい」
女性は小さく息をついて続けた。「毎晩、深夜二時ちょうどに、部屋のインターホンが鳴るんです」
──室内の空気が僅かに張り詰める。
「誰が来てるか、確認しましたか?」
里沙が慎重に尋ねる。
「……はい。でも、ドアの”覗き穴”から見ても、”誰もいない”んです」
「ふむ……」
蓮司は腕を組む。
「オートロックはついてますか?」
「はい、マンションのエントランスにはオートロックがあります。でも、管理人に確認しても”誰も入っていない”って言われました」
「……つまり、誰もマンションには入っていないはずなのに、深夜二時ちょうどにインターホンが鳴る」
蓮司は冷静に言った。「そいつは随分と興味深いな」
「それだけじゃないんです……」
女性は少し震えた声で続ける。
「インターホンの履歴を見ると、”不明な番号”からの記録が残っていました」
「不明な番号?」
里沙がメモを取りながら尋ねる。
「はい。普通なら部屋番号が表示されるはずなのに、”UNKNOWN”って表示されているんです」
「……それは、霊的な何かの可能性が高いな」
蓮司がタバコをもみ消しながら言う。
「それで……ある日、私は思い切って”ドアを開けた”んです」
「っ……開けた?」
里沙が驚く。
「……ええ」
女性は、かすかに震えながら話を続けた。
「でも、やっぱり”誰もいなかった”んです。……ただ」
「ただ?」
蓮司が促す。
「……”誰かが、すぐそばにいる気配”がしたんです」
──ザワッ。
室内の空気が一気に重くなる。
「誰かが”いる”って、どういうことですか?」
里沙が慎重に尋ねる。
「……見えないのに、”呼吸の音”が聞こえたんです」
「…………」
蓮司が静かに目を細める。
「インターホンを鳴らしていたのは、”見えない何か”だったってことですね」
里沙が呟く。
「……はい。それ以来、怖くなって、もうドアを開けていません」
女性は、力なく微笑む。「でも、毎晩二時になると、必ずインターホンが鳴るんです……」
「……お名前を聞いてなかったですね」
蓮司が改めて尋ねる。
「……相沢 真由です」
「相沢さん、質問だ」
蓮司は静かに言う。「この現象が始まる前、何か”変わったこと”はありませんでしたか?」
「…………」
真由は、一瞬考え込んだ後、何かを思い出したように顔を上げた。
「……そういえば、一週間前に”古い本”を拾いました」
「古い本?」
「はい……マンションのエントランスに落ちていたんです。持ち主が分からなかったので、一度部屋に持ち帰りました」
「今、その本は?」
「部屋にあります……」
「なるほどな……」
蓮司はタバコをくわえ直し、ゆっくりと息を吐いた。
「”その本”が原因で、何かが”お前の部屋に入った”可能性がある」
「……え?」
「相沢さん、”見えないもの”が呼吸をしていたってことは、そいつは”すでに部屋にいる”ってことです」
「……!」
真由の顔が青ざめる。
「早くしないと、あなたは”次の段階”に進むかもしれない」
「……次の段階?」
「今はまだ”訪ねてきている”だけだ」
蓮司は静かに言った。「だが、いずれ”あなたの名前を呼び”、そのうち”部屋の中にまで入ってくる”」
「そ、そんな……」
「だから、今夜、”あなたの部屋を調査する”」
蓮司は立ち上がる。「準備しろ。そいつが何者かを暴く」
「今夜……ですか?」
「ああ。”今夜二時”が勝負だ」
里沙も荷物をまとめながら言う。
「相沢さんの部屋で、”訪ねてくる者”の正体を突き止めます」
「……分かりました」
真由は不安そうにしながらも、意を決したように頷いた。
──こうして、鬼塚探偵事務所の新たな事件が幕を開けた。
”夜の訪問者”の正体とは何か? そして、真由が拾った本の秘密とは?
相沢真由のマンション──深夜一時四十五分
鬼塚蓮司、里沙、そして依頼人の相沢真由は、彼女の部屋の中にいた。
間接照明の灯る室内は、静かで落ち着いた雰囲気だったが、蓮司と里沙は”何か”の気配をすでに感じ取っていた。
「……確かに、空気が重いですね」
里沙が腕を組みながら部屋を見回す。
「霊的な気配があるな」
蓮司はポケットから小さな呪符を取り出し、部屋の四隅に貼っていく。
「こ、これで何か分かるんですか?」
真由が不安そうに尋ねる。
「ああ。これで”霊的な影響”が部屋のどこに強く現れるか分かる」
蓮司が最後の呪符を窓際に貼った瞬間──
パチン!
室内の照明が、一瞬チカチカと瞬いた。
「っ……!!」
真由が肩をすくめる。
「……もう来てるみたいですね」
里沙が小さく息をつく。
「深夜二時、”訪ねてくる者”が現れる時間まであと十分か……」
蓮司は時計を確認しながら、デスクの上にある本に目を向けた。
「これが”例の本”か?」
「はい……」
真由は怯えながら、本を蓮司に差し出す。
それは、古びた革表紙の本だった。ページの端は黄ばんでおり、明らかに年代物だ。
「相沢さん、この本を拾った後、ちゃんと中身を読みましたか?」
「いえ……怖くてあまり開いていません。でも、最初のページに”誰かの名前”が書かれていました」
「誰の名前?」
「……”水沢美月”って書かれていました」
「……水沢美月?」
里沙がメモを取りながら、蓮司を見た。
「聞き覚えのある名前ですか?」
「いいや……だが、”夜に訪ねてくる何か”と関係があるかもしれないな」
蓮司は慎重に本を開く。
──すると。
ザザザザザ……!
ページの文字が、一瞬”滲んで”見えた。
「っ……!!」
里沙が息をのむ。
「本に”霊的な力”が染み付いてるな」
蓮司が低く呟く。「この本が”何かの媒体”になってるのは確かだ」
蓮司はページをめくりながら思案を巡らせる。
──と、その時。
ピンポーン……。
「っ……!!」
真由が凍りつく。
「……来たな」
蓮司が時計を見る。
ちょうど二時ジャスト。
「いつも通りですね……」
里沙が呟く。
「覗き穴を見ていいですか?」
真由が震えながら言う。
「待て」
蓮司は手を挙げて制止する。「開けるなよ。ドアの覗き穴に”目を合わせるな”」
「えっ……?」
「”見た瞬間に引き込まれる”ってパターンもあるからな」
蓮司はポケットから”特殊な霊視鏡”を取り出す。
「この鏡越しに、”何がいるか”を見る」
蓮司はゆっくりと、鏡をドアに向けた。
──そして。
「……っ!」
里沙が息を呑む。
鏡に映った光景には、”女の影”が立っていた。
しかし、それは人間の形をしているが、”顔がぼやけている”。
まるで、”形が定まっていない霊”のようだった。
「……。”水沢美月”か?」
蓮司が低く呟く。
ピンポーン……ピンポーン……。
インターホンが鳴り続ける。
「開けて……」
──女の声がした。
「っ……!!」
真由が怯える。
「蓮司さん……どうします?」
里沙が緊張した声で尋ねる。
「……確定だな」
蓮司は鏡を下ろし、煙草に火をつけた。
「”水沢美月”は、今ここにいる」
「……っ! そ、それじゃ、私は呪われて……?」
真由が青ざめる。
「違います」
蓮司は静かに言った。「こいつはあなたを”迎えに来た”んじゃない。”訴えに来た”んだ」
「訴えに……?」
里沙が怪訝な表情を浮かべる。
「こいつはただの悪霊じゃない。”本当は、何かを伝えたくてここにいる”」
蓮司はコートの内側から、”封印用の呪符”を取り出した。
「なら、直接話してやるしかないだろ」
ピンポーン……ピンポーン……ピンポーン……!!
──インターホンが急激に鳴り響く。
「……さて、”本当の目的”を聞いてみるか」
蓮司は、ゆっくりとドアに手を伸ばした。
「蓮司さん!? 開けるんですか!?」
里沙が驚く。
「大丈夫だ。結界を張ってる。もし襲ってきたら、即座に封じる」
「……っ!」
真由は不安げに蓮司を見つめる。
「いいか、”話せる霊”ってのは滅多にいない。だが、コイツは”自分の名前が残された本”をあなたに拾わせた。これは”偶然”じゃない」
蓮司は、深く息を吸い込んだ。
「”お前が、ここに来た理由”を聞かせろ」
──そう言って、蓮司は静かにドアを開けた。
──そこには、”ぼやけた顔の女”が立っていた。
「…………」
霊は、ゆっくりと口を開く。
「……”私のことを思い出して”」
──次の瞬間、部屋の中の本が”勝手にページをめくり始めた”。
「っ……!!」
本の最後のページには──
”私は、忘れられたくない”。
そう書かれていた。
「……そういうことか」
蓮司は静かに呟いた。
”水沢美月は、忘れられたくなかった”。
「さて……”お前の願い”をどう叶えてやるか、考えてやるよ」
──”夜の訪問者”の真相が、今、明らかになろうとしていた。
相沢真由のマンション──深夜二時五分
蓮司がドアを開けた先には、ぼやけた顔の女の影が立っていた。
霊の姿は不明瞭で、まるで煙のようにゆらめきながら、しかし確実に”こちらを見ている”。
「……”私のことを思い出して”」
女の霊が、低く囁いた。
──その瞬間、部屋の中の本が勝手にページをめくり始めた。
「っ……!!」
真由が小さく悲鳴を上げる。
蓮司は、静かに霊を見つめながら、呟いた。
「お前が”夜ごと訪ねてきた理由”は、それか」
霊は答えず、ただ静かに揺れている。
「相沢さん、この本を拾ったって言ってたな?」
蓮司が振り返る。
「は、はい……」
「この本の持ち主は”水沢美月”……そして、”彼女のことを思い出してほしい”って言ってる」
「……忘れられたくない、ってことですか?」
里沙が慎重に尋ねる。
「そういうことだろうな」
蓮司は煙草をくわえ、ゆっくりと火をつける。
「”夜ごと訪ねてくる霊”ってのは、大抵”未練を残して死んだ者”だ。”迎えに来る”パターンと、”伝えたいことがある”パターンの二つに分かれる」
「じゃあ、この人は……?」
真由が震えながら尋ねる。
「”伝えたいことがある”側だ」
蓮司は煙を吐きながら言った。「問題は、その”伝えたいこと”が何なのかってことだな」
「……!」
──本が、最後のページでピタリと止まった。
そこには、たった一文だけが書かれていた。
”私を思い出してくれる人は、もういないの?”
ザワッ……。
室内の空気が、また一段と重くなる。
「……この人、生前に誰かに忘れ去られたって思ってたんでしょうか?」
里沙が呟く。
「それにしても、不思議ですね」
蓮司は眉をひそめる。「”本を拾った相沢さんがターゲットになった”ってのが妙だ」
「……っ!!」
真由が何かを思い出したように顔を上げる。
「どうした?」
「わ、私、もしかしたら……水沢美月さんのことを知っているかもしれません」
「なに?」
「その……昔、小学生の頃に”水沢さん”という名字の人が同じクラスにいました」
「それで?」
「でも、その子……ある日、突然転校してしまって、そのまま忘れていました。でも、確か……名前は”美月”だったような気がします……」
「…………」
蓮司は少し考え込んだ後、ゆっくりと霊の方を向いた。
「お前……相沢が”忘れていた”から、お前を呼んだのか?」
霊は、ゆっくりと頷いた。
──静寂が訪れる。
「……じゃあ、この人は”私を思い出してほしい”ってだけで……?」
真由が戸惑いながら尋ねる。
「いや、問題はそこじゃない」
蓮司は指をトントンと机に当てながら言った。
「”なぜ今になって思い出させようとしたのか”って話だ」
「……!」
里沙と真由が息をのむ。
「幽霊ってのは、そんな気まぐれに動かねぇ。”何か”のきっかけがあったはずだ」
「……それって、私が本を拾ったことじゃないんですか?」
「いや……そもそもその本が”なんでそこにあったのか”を考えろ」
「…………」
「俺は、この”水沢美月”の死に関する情報を調べる必要があるな」
蓮司は立ち上がった。「里沙、警察や市役所の記録を当たれ。”水沢美月”という人物がいつ、どういう理由で死亡したのかを調べる」
「了解しました」
里沙は即座にスマホを取り出し、ネットで情報を探し始める。
「相沢さん、あなたは……”水沢美月”について、もう少し何か思い出せることはないか?」
「えっと……」
真由は考え込み、やがて小さく頷いた。
「小学生の頃、美月さんは……いつもひとりでした。でも、ある日を境に学校に来なくなったんです。その後、転校したって聞かされて……」
「……ふむ」
「でも、もしかしたら……”転校”じゃなくて……」
「”死亡していた”可能性もある、ってことか」
「…………」
「だが、そうなると”なんで今になって現れたのか”が謎だ」
蓮司は煙草の火を消し、霊をじっと見つめた。
「……お前、”思い出してほしい”ってだけか?」
霊は、ゆっくりと首を振った。
「……!!」
「違うんですか……?」
真由が緊張した面持ちで尋ねる。
霊は、ゆっくりと消えかけた姿を揺らしながら、静かに”指をさした”。
その先には──”窓”。
「……?」
「窓の外?」
里沙が訝しげに見つめる。
「いや……”窓そのもの”を指してる」
蓮司は、ゆっくりと近づく。
──すると、窓ガラスに、”うっすらと何か”が浮かび上がった。
「……っ!!」
そこには──
”助けて”
という文字が、白く曇ったガラスに書かれていた。
──ザワッ……!!
「っ……!!」
真由が震える。
「……なるほどな」
蓮司は静かに息を吐いた。
「”水沢美月”は、”何者かに助けを求めていた”……それが、ここに繋がってるってことか」
──この霊は、ただの”思い出してほしい霊”じゃなかった。
「……事件の匂いがするな」
蓮司は、霊を見つめながら呟いた。
「よし、”水沢美月”の死の真相を掘り下げるぞ」
「……っ!」
真由が息を呑む。
「”迎えに来た”んじゃねぇ。”助けてほしい”って訴えてたんだ」
──果たして、”水沢美月”の死の真相とは?
鬼塚探偵事務所は、新たな”過去の謎”に足を踏み入れることになった。
鬼塚探偵事務所──翌日午前
翌朝、鬼塚探偵事務所では、里沙が市役所や警察の記録を調べながら、コーヒーを片手にパソコンとにらめっこしていた。
蓮司はデスクに肘をつきながら、静かに煙草をふかしている。
「……ありました」
里沙が画面をスクロールしながら、小さく呟いた。
「”水沢美月”の死亡記録、見つかったか?」
蓮司が視線を向ける。
「はい。でも……妙なんです」
里沙が眉をひそめる。
「どう妙なんだ?」
「水沢美月さんは、”十五年前に死亡”したことになってます。でも、その死亡届が出されたのは”十年前”なんです」
「……つまり、五年間の空白があるってことか」
蓮司は指をトントンと机に当てる。
「ええ。そして、死亡原因は”事故死”って記載されています。でも、その詳細が載っていません」
「事故死? 何の事故だ?」
「それが、記録が不自然に”抜けてる”んですよ」
「…………」
「ネットのニュースアーカイブとかも調べましたけど、水沢美月さんの名前が出てくる事故の記録はありません」
「まるで、”意図的に隠された”みてぇだな」
蓮司は、煙を吐きながら冷静に言った。
「”誰かが、美月の死を五年間隠していた”……そういう可能性もあるな」
──その瞬間、事務所の電話が鳴った。
「……相沢真由からだな」
蓮司は電話を取り上げ、通話ボタンを押す。
「鬼塚探偵事務所です」
『蓮司さん……! あの、本が……勝手にページを開きました!』
「……何?」
『しかも、”見たことのないページ”が現れて……”ここに来て”って書かれてるんです!』
「……っ」
里沙も、その言葉を聞いてすぐにメモを取る。
「”ここ”ってのは、どこを指してる?」
『住所が書かれています……でも、古い地名で……”水沢邸”って……。』
「……水沢邸?」
蓮司は、すぐに里沙に目配せした。
「里沙、”水沢美月”の実家の住所を照会しろ」
「了解です!」
里沙が急いで市の土地台帳を調べる。
「ありました! ”水沢邸”……確かに存在してました。でも、今は”廃墟”になってます!」
「なるほどな……」
蓮司は煙草を消し、電話に向かって言った。
「相沢さん、今すぐそっちに迎えに行く。”水沢邸”の現場に向かうぞ」
『……分かりました!』
──”水沢美月”が遺したメッセージ。 それが指し示す”水沢邸”とは、一体何なのか?
午後三時──水沢邸前。
蓮司、里沙、そして相沢真由は、車を降りて”水沢邸”の前に立っていた。
そこは、荒れ果てた廃墟となっており、家の外壁は朽ち、雑草が生い茂っていた。
窓は割れ、扉には錆びた南京錠が掛けられている。
「……十五年間、誰も住んでなかったんですね」
里沙が、周囲を見渡しながら言った。
「いや……”誰も住めなかった”んだろうな」
蓮司は低く呟いた。「”水沢美月の死”に関する何かが、ここにある」
「……鍵、どうします?」
里沙が錆びた南京錠を指さす。
「簡単な話だ」
蓮司はポケットから呪符を取り出し、南京錠に貼り付けた。
「開封──解錠」
バチィィン!
南京錠が”自然に外れた”。
「……っ!」
真由が驚く。
「さて、行くか」
蓮司が扉を押し開けると、湿った空気が中から漂ってきた。
──水沢邸の内部は、時間が止まったかのように荒れ果てていた。
埃っぽい空気、剥がれ落ちた壁紙、崩れた家具。
そして、どこからか”誰かの視線”を感じる。
「……来てますね」
里沙が慎重に言った。
「相沢さん、美月に関係ありそうな部屋を思い出せるか?」
「え、えっと……昔遊びに行ったことがあって……確か、”奥の部屋”が美月さんの部屋だったはずです」
「決まりだな」
蓮司は静かに奥へと進んだ。
美月の部屋に足を踏み入れた瞬間、空気が一変した。
──そこだけ、十五年前のままだった。
ベッド、机、本棚……全てが、そのまま残されている。
だが、部屋の壁には”無数の引っ掻き傷”が残されていた。
「……なんだ、これ」
里沙が青ざめる。
蓮司は部屋の中央に立ち、霊視のために呪符を取り出した。
「過去の痕跡を視せ──霊視開放」
バチィィィィ……ン。
空間が揺れ、”十五年前の残留思念”が浮かび上がった。
──そこには、怯えた表情の水沢美月が、部屋の隅で震えていた。
「……助けて……」
「……っ!!」
真由が息をのむ。
「……監禁されてた、の?」
里沙が呟く。
「そうみたいだな」
蓮司は眉をひそめた。「美月は、ここで”閉じ込められていた”」
「じゃあ、美月さんは”事故死”じゃなくて……」
真由が言葉を失う。
「迎えに来たの……?」
思念の美月が、小さく囁く。
蓮司は、静かに彼女の霊を見つめた。
「お前が”夜に訪ねてきた理由”は、これか」
「助けてほしかった……私を……忘れないで……」
──その瞬間、部屋の窓が”バン!!”と音を立てて閉じた。
「っ!!」
そして、霊の姿が消えると同時に、床板の一部が不自然に浮いていた。
「……隠し床か」
蓮司が床板を持ち上げると、そこには”封じられた手紙”があった。
手紙の封を開けると、そこには震える文字でこう書かれていた。
”助けて。私はここに閉じ込められている。”
「……これが真実か」
蓮司は静かに呟いた。
”水沢美月は、十五年前、事故ではなく”何者かに監禁されていた”。”
──そして、それを隠そうとした”誰か”がいる。
「……こりゃ、”霊の事件”だけじゃ済まねぇな」
蓮司たちは、”封じられた事件の真相”に踏み込むことになった。
水沢邸──美月の部屋
蓮司が掘り出した手紙は、埃にまみれ、紙は湿気を吸って脆くなっていた。
しかし、その文字ははっきりと残っている。
「助けて。私はここに閉じ込められている」
静寂が部屋を包む。
──水沢美月は、十五年前、事故ではなく監禁されていた。
そして、そのまま”死亡した”か、あるいは”殺された”。
「……美月さんは”家族に監禁されていた”んでしょうか?」
真由が震える声で尋ねる。
「……可能性は高いな」
蓮司は手紙を慎重に畳み、封筒に戻す。「それにしても、十五年前の事件がなぜ今になって動き出した?」
「もしかして……”美月の霊が、自分の死の真相を伝えようとしている”とか?」
里沙が推測する。
「だろうな」
蓮司はポケットから呪符を取り出し、部屋の隅に置く。「これで一時的にここを封じる。だが、これだけじゃ”核心”には辿り着かない」
「じゃあ、どうするんですか?」
「……”水沢家の人間”を探し出す」
蓮司は煙草をくわえながら言った。「もし、家族が美月の監禁に関与していたなら、必ず”何かを隠している”」
「確か、水沢家には両親と姉がいたはずです」
里沙がスマホを操作しながら言った。「ただ……記録上、水沢家は”十五年前にこの家を売却して、行方不明”になっています」
「……行方不明?」
「ええ。公的な転居届が出されていません。”失踪”扱いになっています」
「妙だな」
蓮司は目を細めた。「”家族ごと消えた”ってことか?」
「それか、誰かが”意図的に消した”」
里沙が推測する。
「どっちにしても、こいつは普通の”未練が残った霊の案件”じゃ済まないな」
蓮司は煙を吐きながら、手紙を慎重に持ち上げた。
「……警察記録を当たるか。あるいは、当時の近隣住民に話を聞くのも手だな」
「でも、十五年前のことを覚えてる人なんて……」
真由が不安げに言う。
「いるさ。”そういう記憶を抱えてるやつ”がな」
蓮司は口元を歪めて笑った。「そいつを見つけ出す」
翌日──鬼塚探偵事務所。
里沙は、警察記録や地元の住民リストを調べ、ようやくある名前を見つけた。
「長谷部孝一」
水沢邸の近くに住んでいた当時の住人で、今も同じ市内に住んでいる。
「……どうやら、まだ市内にいるみたいですね」
里沙がメモを取りながら言う。
「なら、直接会いに行くか」
蓮司は立ち上がる。「”十五年前の真実”を聞く」
午後四時──長谷部孝一の家
長谷部の家は、古びたアパートの一室だった。
ドアをノックすると、中からしわがれた声が返ってくる。
「……どちらさんだ?」
「鬼塚探偵事務所の者です。少しお話を伺いたいのですが」
ドアがゆっくり開き、中から白髪混じりの初老の男性が顔を覗かせた。
「探偵? 俺に何の用だ?」
「十五年前の”水沢美月”について、何かご存知ではありませんか?」
長谷部の顔色が一瞬、変わる。
「……なんで、今さらそんな話を?」
「彼女が”助けを求めていた”からです」
蓮司は静かに言った。
「…………」
長谷部はしばらく沈黙した後、ため息をついた。
「……あの家のことを、覚えてるのは俺くらいかもしれねぇな」
彼はソファに腰掛け、静かに語り始めた。
「水沢美月は、”母親に監禁されていた”んだ」
──衝撃の事実が明らかになる。
「母親……?」
里沙が息を呑む。
「ああ。あの家では、母親が”美月を外に出さなかった”。近所でも噂になっていた。”水沢家の娘は病気で寝たきりらしい”ってな」
「実際は違ったんですね」
蓮司が言う。
「そうだ。美月は”母親の精神的な異常”のせいで、あの家に閉じ込められていた。母親は”外の世界は危険だから”って理由で、娘を監禁してたらしい」
「それで、”事故死”っていうのは?」
「警察の公式発表だ。でも、近所のやつらは皆知ってた。”美月は自分で家から逃げようとした”って」
「…………」
「ある晩、美月が窓から脱出しようとしたらしい。でも、何かの拍子にバランスを崩して、”転落死”した」
──つまり、美月は”逃げようとして死んだ”のだ。
「警察は事故として処理した。だが、実際は”監禁されていた”って話が広まって……」
「それで、水沢家は消えた」
蓮司が静かに言った。
「そうだ。事件の後、母親は”精神病院に入院”したはずだ。家族もすぐにこの町を去った」
「母親の現在地は?」
「……知らねぇ」
「…………」
蓮司は深く息をついた。
「あんたが知っていることは、これで全部か?」
「……ああ。だが、ひとつだけ言える」
長谷部はタバコに火をつけながら、静かに呟いた。
「あの女は、今でも”娘のことを探している”かもしれねぇぞ」
「…………」
蓮司は、ポケットから呪符を取り出し、手のひらで転がした。
「”迎えに来る者”は、”水沢美月”だけじゃなかった可能性があるな」
「え?」
里沙が顔を上げる。
「まだ終わってないってことだよ」
蓮司は、静かに微笑んだ。
”夜の訪問者”の正体が明らかになった今、新たな怪異が姿を見せようとしていた。
──次の”迎えに来る者”は、一体誰なのか?
鬼塚探偵事務所──深夜
長谷部孝一の証言により、水沢美月の死の真相が明らかになった。
美月は母親に監禁され、逃げようとして転落死した。
その後、家族は町を去り、母親は精神病院に収容された。
だが、蓮司には一つの疑念が残っていた。
「”迎えに来る者”が、水沢美月だけだとは限らない」
「どういうことですか?」
里沙が尋ねる。
「”夜に訪ねてきた者”が、ただ”思い出してほしい”だけなら、こんなに執拗にインターホンを鳴らす必要はない」
「それじゃ、”迎えに来ていた”のは……」
真由が不安げに顔を上げる。
「……”水沢美月の母親”かもしれねぇ」
──その瞬間、事務所の窓が”コン、コン”と鳴った。
「っ!!」
真由が肩をすくめる。
「……まさか、来やがったな」
蓮司はタバコを消し、窓の方へとゆっくり歩いた。
「蓮司さん、開けるんですか?」
里沙が緊張した声を出す。
「ああ……だが、普通に開けるわけじゃねぇ」
蓮司はポケットから”霊視鏡”を取り出し、窓に向けた。
──すると、鏡の中に”女の姿”が映り込んだ。
それは、美月とは違う存在だった。
ぼさぼさの髪、やせ細った体、そして異常に大きく見開かれた目。
口元は不気味な笑みを浮かべている。
「……。”あの世”から戻ってきてやがるな」
蓮司が低く呟く。
「私の娘を、どこにやったの?」
女の影が、窓越しに不気味に囁く。
「娘?」
里沙が驚く。「水沢美月のことを言ってるんですか?」
「いや……こいつの認識じゃ、美月は”まだどこかにいる”と思ってやがる」
蓮司は目を細め、低く笑った。
「”監禁していたことすら忘れてる”んだろうよ」
──水沢美月の母親は、今でも”娘を探し続けている”。
生前の狂気のまま、霊となって”美月を迎えに来た”のだ。
「……こいつはヤバいぞ」
里沙が警戒しながら、呪符を手に取る。
「蓮司さん、どうします?」
「”迎えに来る者”ってのは、放っとけばどこまでも追ってくる。”何があっても娘を見つけるまで”な」
「つまり、私も狙われる可能性がある……?」
真由が青ざめる。
「ああ。あんたが”美月の記憶を持っていた”せいで、”美月の関係者”だと勘違いされた」
「じゃあ、どうすれば……!」
「簡単な話だ。”こいつの未練を断ち切る”」
蓮司は、ポケットから特製の封印符を取り出した。
「”水沢美月の母親”が、”娘はもういない”ってことを理解すれば、この霊は消える」
「……そんなこと、霊が聞き入れますか?」
里沙が懐疑的な顔をする。
「聞き入れないなら、”無理やり消す”までだ」
蓮司は静かに言った。「だが、まずは説得を試す」
──再び、窓が”コン、コン”と叩かれる。
「私の娘を、どこにやったの?」
低く、不気味な声が響く。
「水沢美月は、”十五年前に死んだ”」
蓮司は窓越しに静かに言った。
「お前の監禁のせいでな」
──ザワッ……。
一瞬、空気が張り詰めた。
「……嘘よ」
影が、低く呟く。
「私は……私は美月を、ずっと守っていた……」
「違うな。お前は”娘を閉じ込めていた”だけだ」
「嘘……そんなことは……」
影が、ゆらゆらと揺れる。
「私の娘は、どこにいるの……?」
「”もうどこにもいない”」
蓮司は静かに言った。「美月は、”お前のせいで”死んだんだ」
「…………」
影が、ゆっくりと後ずさる。
「……違う……私は、娘を……」
「もういいだろう」
蓮司は、呪符を指先に挟み、目を細めた。
「美月は”迎えに来てほしくなかった”」
「…………」
「”お前のことを、思い出してもいなかった”」
──ビキッ!!
影の動きが止まり、瞬間、室内の温度が一気に下がる。
「……違う……違う違う違う違う違う!!!」
影が、狂ったように叫ぶ。
「私は、娘を愛していたの!!!」
──その瞬間、影が窓を突き破り、室内へと侵入してきた。
「蓮司さん!!」
里沙が叫ぶ。
「やるぞ!!」
蓮司は、即座に呪符を投げつける。
「封印──終幕!!」
バチィィィン!!!
呪符が影を包み込み、室内に強烈な光が走る。
「グアアアアアアアアア!!!!!」
影は苦しそうにのたうち回り、形を崩していく。
「……お前の娘は、もうどこにもいない」
蓮司は静かに呟いた。
「…………」
影は、次第に霧のように消えていく。
「美月……ごめんなさい……」
そう呟くと、影は完全に消滅した。
──部屋の空気が、静かに戻る。
「……終わった?」
真由が恐る恐る顔を上げる。
「ああ。”迎えに来る者”は、消えた」
蓮司は煙草に火をつけ、深く息を吐く。
「…………」
里沙も、疲れたようにソファに崩れ落ちた。
「蓮司さん、”迎えに来る者”って、これで終わりなんですか?」
「さぁな」
蓮司は苦笑する。
「だが、”迎えに来る者”は、世の中にまだまだいるんだろうさ」
──霊は消えたが、霊が生まれる理由は尽きない。
「まぁ、そうなったら”また片付けるだけ”だ」
蓮司は、窓の外を眺めながら呟いた。
鬼塚探偵事務所は、今日もまた”次の依頼”を待つ。
鬼塚探偵事務所──数日後
事件が終わって数日が経った。
水沢美月の霊は成仏し、彼女を”迎えに来ていた”母親の霊も消滅した。
相沢真由の元には、もう”夜の訪問者”は現れなくなった。
事務所には、いつもの静けさが戻っていた。
蓮司はデスクで煙草をくゆらせ、里沙はソファに寝転がりながらスマホをいじっている。
「平和になりましたね」
里沙がコーヒーをすすりながら呟く。
「ああ……静かすぎて気味が悪いな」
蓮司はため息をつく。「こういう時に限って、次の依頼が来るんだよ」
「じゃあ、平和を楽しめるうちに楽しんでおきましょうよ」
里沙はリラックスしたように椅子の背もたれ手に身を任せる。
──と、その時。
カラン……。
事務所のドアが開いた。
「!」
里沙が身を起こす。
入ってきたのは、相沢真由だった。
「こんにちは」
「……相沢か」
蓮司は煙草を灰皿に押し付け、立ち上がった。
「その後、何か問題は?」
里沙が尋ねる。
「いえ……もうインターホンも鳴らなくなりましたし、変な影も見えません」
真由は小さく微笑む。「でも……お礼をちゃんと伝えたくて」
「礼ならもう受け取ったぞ」
蓮司は軽く肩をすくめる。「金さえ払ってくれりゃ、それでいい」
「そういう問題じゃないですよ」
真由は少しだけ拗ねたように言う。「本当にありがとうございました。私……水沢美月さんのこと、ちゃんと忘れません」
「…………」
蓮司は、短く頷く。
「そうか。なら、それでいい」
「それに……今回のことがあって、ちょっと考えたんです」
真由が静かに続ける。「私……これから、人の記憶に残るような仕事をしたいなって」
「記憶に残る?」
里沙が首をかしげる。
「うん……例えば、文章を書く仕事とか」
真由は小さく微笑む。「何かを伝え続ける仕事を」
「いいんじゃねぇか?」
蓮司は口元に微笑を浮かべる。「”忘れ去られる”ってのは、思った以上に辛いことだ。お前がそれを防ぐ仕事をしたいってんなら、悪くねぇ選択だろうよ」
「はい……そう思います」
真由は深く頭を下げた。
「本当にありがとうございました」
「まぁ、また何かあったら来な」
里沙が軽く手を振る。「……でも、今度は”普通の悩み相談”にしてくださいね」
「そうですね」
真由は笑いながら、事務所を後にした。
──静かな午後が戻る。
「さて、今度こそ本当に平和ですね」
里沙がコーヒーを飲みながら、満足げに言う。
「いや、まだ分からねぇぞ」
蓮司はぼんやりと窓の外を眺めながら呟く。
「”迎えに来る者”は、世の中にまだまだいる。今回の件も、ほんの一部に過ぎねぇさ」
「……そりゃまぁ、そうですけど」
里沙が肩をすくめる。「でも、今日はゆっくりしましょうよ」
「……そうだな」
蓮司は、もう一本煙草をくわえ、静かに火をつけた。
──そのまま、静かな時間が流れていく。
それは、嵐の前の静けさかもしれない。
あるいは、本当に平和な日々かもしれない。
どちらにせよ、鬼塚探偵事務所は、また次の”奇妙な依頼”を待っている。
──そして、次なる依頼へ。