第七話
静かな午後、鬼塚探偵事務所の扉がゆっくりと開いた。
古びたベルがカランと音を立てる。
「いらっしゃいませ」
里沙がデスク越しに声をかけると、ドアの向こうには一人の女性が立っていた。
二十代前半の女性で、肩まで伸びた栗色の髪。どこか落ち着きのない様子で、目は何かに怯えているようだった。
彼女はゆっくりと事務所の中へ足を踏み入れた。
「こちら、鬼塚探偵事務所ですか……?」
女性は戸惑いながら尋ねる。
「ええ、そうですよ」
里沙が微笑んで椅子を勧める。「どうぞ、お掛けください」
女性は少し躊躇った後、おそるおそるソファに腰を下ろした。
そして、目の前のデスクに座る蓮司を見つめた。
「で、何の相談ですか?」
蓮司は煙草に火をつけながら、淡々と問いかける。
女性は一瞬ためらった後、意を決したように口を開いた。
「……私の名前は柊沙織といいます」
彼女は少し声を震わせながら続ける。
「実は……最近、私の周りで"奇妙なこと"が続いているんです」
「奇妙なこと?」
里沙がノートを取り出し、話をメモし始める。
「はい……」
沙織は不安げにうつむいた。「最初は、小さな違和感でした。物が勝手に動いたり、夜中に変な音が聞こえたり……」
「それだけなら、気のせいってこともありますね」
蓮司は煙を吐きながら言う。
「そう思いたかったんです。でも……明らかに普通じゃないことが起こり始めたんです」
「普通じゃないこと?」
里沙が眉をひそめる。
「誰もいないはずの部屋に、"誰か"がいるんです」
沙織の声が震える。
「…………」
蓮司と里沙は顔を見合わせる。
「部屋の中に"誰か"がいる?」
蓮司が静かに尋ねる。
「はい……。夜になると、部屋の隅に黒い影が立っているのが見えるんです」
沙織は青ざめた顔で話し続ける。「最初は、気のせいかと思いました。でも、毎晩……同じ時間に、同じ場所に立っているんです」
「……それ、"見間違い"ってことはないですか?」
里沙が慎重に尋ねる。
「違います」
沙織はきっぱりと否定した。「だって……その影、少しずつ近づいてきているんです」
室内の空気が一瞬張り詰めた。
「…………」
蓮司はじっと沙織を見つめた。
「つまり、その"影"は最初は部屋の隅にいたが、少しずつ動いてるってことですか?」
蓮司が確認する。
「はい」
沙織は震えた声で答える。「最初は部屋の隅にいたのに、数日前から……ベッドの近くまで来てるんです」
「それは……確かにヤバいですね」
里沙が呟く。
「他には?」
蓮司がさらに問いかける。
「最近、夢の中に……"黒い人影"が出てくるようになりました」
沙織は目を伏せる。
「夢?」
里沙が驚いたように聞き返す。
「はい……毎晩、その夢を見るんです。最初は遠くにいた影が、少しずつ近づいてきて……そして……昨夜、ついに"私の耳元で囁いた"んです」
「なんて言われました?」
蓮司が真剣な表情で尋ねる。
沙織は、震える唇を押さえながら答えた。
「"迎えに来た"……って」
「……!!!」
里沙が息を呑む。
蓮司はしばらく沈黙した後、ゆっくりと煙を吐き出した。
「……そいつは、ヤバいな」
「わかるんですか……?」
沙織が恐る恐る尋ねる。
「ああ……"迎えに来た"って言葉はな、"取り憑かれた人間"が聞く常套句だ」
蓮司は静かに答えた。
「取り憑かれた……?」
沙織の顔がさらに青ざめる。
「霊がな、お前を"連れて行こうとしている"可能性がある」
蓮司は真剣な表情で告げた。「そして、お前がそれを"受け入れてしまったら"──もう帰ってこれなくなる」
「……そんな……」
沙織の手が震える。
「今のところ、あなたの霊的な状態はギリギリ"警告"の段階だ」
蓮司は机の上のペンを指で転がしながら続けた。「つまり、まだ間に合う」
「助かるんですか……?」
沙織が不安げに尋ねる。
「ええ。あなたの部屋を調査して、そいつの正体を突き止める。そして、"完全に祓う"」
蓮司は力強く答えた。
「……ありがとうございます!」
沙織は安堵したように胸を押さえた。
「ただし」
蓮司は鋭い視線を向けた。「これから数日は、絶対に一人で寝ないように」
「えっ……?」
沙織が驚く。
「あなたに取り憑いてるのは、"時間をかけて獲物を追い詰める"タイプの霊だ」
蓮司は言葉を続けた。「そいつは、"夜が深まるごとにあなたの魂を削っていく"」
「……っ」
沙織は身震いする。
「一人でいる時間が長ければ長いほど、あなたは霊の影響を強く受ける」
蓮司は立ち上がり、コートを羽織った。「だから、万が一のことがあったら、家族や友人の家に泊まって下さい」
「……わかりました」
沙織は小さく頷いた。
「里沙、準備しろ。すぐに依頼人の部屋へ向かうぞ」
蓮司が指示を出す。
「了解です!」
里沙は素早く霊的な道具をバッグに詰め込む。
「じゃあ行くぞ」
蓮司は煙草を灰皿に押しつけ、立ち上がった。
こうして、鬼塚探偵事務所の新たな事件が幕を開ける。
果たして、"迎えに来た"という霊の正体とは──?
夜、柊沙織のアパート前。
蓮司と里沙は、彼女の部屋を調査するため、静かな住宅街に佇むアパートの前に立っていた。
辺りは既に暗くなり、風がビルの隙間を吹き抜けるたび、不吉な音を奏でる。
「ここが柊さんの住まいですね……」
里沙は警戒しながら、アパートの建物を見上げた。
「……霊的な気配が強くなってるな」
蓮司は鋭い目つきでドアノブに手をかける。
沙織が鍵を開けると、扉がゆっくりと軋みながら開いた。
──ゾワッ。
その瞬間、二人の背筋を悪寒が駆け抜ける。
「……気のせいですかね?」
里沙が眉をひそめる。
「いや、気のせいじゃないな」
蓮司は一歩部屋の中へ入り、深く息を吸った。
──重い。
空気が、異常なほど重い。
「……"いる"な」
蓮司は静かに言った。
沙織は不安そうに後ろで立ち尽くしていたが、「本当に……?」と震えた声を漏らした。
「間違いない」
蓮司は部屋を見渡しながら言う。「だが、こいつはまだ姿を見せていない……慎重に行くぞ」
室内は、一見何の変哲もないワンルームマンションだった。
ベッド、クローゼット、小さなテーブル、そして壁際に置かれた姿見の鏡。
「……この鏡」
里沙がふと、壁際の鏡を見つめた。
「何か気になるか?」
蓮司が尋ねる。
「はい……」
里沙は慎重に鏡へ近づき、指で表面を軽くなぞる。
──"冷たい"。
「この部屋の温度より、鏡の表面が異常に冷えてます」
里沙がそう言った瞬間──
バチン!!
突然、鏡にヒビが入った。
「っ!!?」
沙織が悲鳴を上げる。
蓮司はすかさず呪符を取り出し、鏡の前に投げつけた。
バチバチバチ……!
霊的な波動が発生し、鏡の表面が一瞬光る。
「やっぱりこいつが"鍵"か」
蓮司は確信したように呟く。
「でも、柊さんは"鏡の影"の話はしてませんでしたよね?」
里沙が首を傾げる。
「だな」
蓮司はじっと鏡を見つめる。「……こいつは、"影"を映し出す媒体かもしれねぇ」
「……?」
沙織は困惑した表情を浮かべる。
「簡単に言うと、あなたが見てた"影"は、ここから"投影"されてた可能性があるってことです」
蓮司は鏡の前にしゃがみ込む。
「この鏡、どこで買いました?」
彼は沙織に尋ねた。
「えっ……? ずっと前から部屋にあったものです。前の住人が置いていったものらしくて……」
「前の住人か」
蓮司はタバコをくわえ、考え込む。「そいつの情報、調べてみる必要があるな」
「じゃあ、今すぐ調べてみます!」
里沙はスマホを取り出し、手早くアパートの過去の住人情報を検索し始めた。
「……ありました」
里沙がスマホの画面を蓮司に見せる。
そこには、驚くべき事実が書かれていた。
【五年前、この部屋の住人が変死──遺体は部屋の中央にうずくまり、何かを"見つめる"ような状態だった。死因は不明。】
「……マジかよ」
蓮司は眉をひそめた。
「しかも、これ……事件が起こった時間、"夜の二時ちょうど"ですよ」
里沙が指で記事の一部を示す。
「柊さん、"影"が現れるのって何時だ?」
蓮司が確認する。
「……毎晩、ちょうど二時です」
沙織は震えながら答えた。
「ビンゴだな」
蓮司はゆっくりと立ち上がる。「こいつは……"この部屋に取り憑いてる霊"だ」
「取り憑いてる……?」
沙織の表情が青ざめる。
「前の住人が何らかの理由で"死んだ"。そして、その霊が"次の住人"に影響を与えている……」
蓮司は鏡を睨みつけた。「つまり、あなたは……"次のターゲット"ってことだ」
「……っ!!」
沙織は思わず口元を押さえる。
「でも、普通、霊って"恨み"や"未練"があって残るんですよね?」
里沙が慎重に尋ねる。「この霊は何が目的なんでしょうか?」
「それを今から探る」
蓮司は呪符を数枚取り出し、鏡に貼りつけた。
「里沙、お前は部屋全体の"霊的な痕跡"を探ってくれ。俺は、こいつの正体を突き止める」
「了解です!」
里沙はバッグから霊視用の道具を取り出し、部屋の気配を探り始めた。
「柊さん、あなたは俺たちの後ろにいろ。何があっても、この鏡には近づくな」
蓮司は低い声で指示した。
「……わかりました」
沙織は怯えながらも、頷いた。
──そして。
時計の針が、ゆっくりと"二時"へと近づき始めた。
次の瞬間、部屋の空気が"凍る"ように冷たくなった。
「来るぞ……」
蓮司が呪符を握りしめた。
──そして、鏡の表面が"波打ち"、黒い影が"ゆっくりと"現れた。
「やっぱり"この霊"か……!!」
里沙が緊張の面持ちで叫ぶ。
鏡の中には、ぼんやりとした"黒い影"が立っていた。
しかし──次の瞬間。
「……やめて……」
影が、"初めて言葉を発した"。
「……?」
蓮司は驚いたように影を見つめる。
「助けて……私は……"迎えに来た側"じゃない……"連れて行かれそうになってる"の……!!」
──この霊は"襲う側"ではなく、"取り込まれそうになっている者"だった。
「……何……?」
蓮司は、事態の異常さに気づいた。
「……これ……"呪いの霊"じゃない……。"本当の元凶"がまだ別にいる……!!」
柊沙織の部屋──午前二時
鬼塚蓮司、里沙、そして依頼人の柊沙織は、"黒い影"の霊と対峙していた。
だが、その霊はこれまでの"呪いの霊"とは違っていた。
「助けて……私は"迎えに来た側"じゃない……"連れて行かれそうになっている"の……!!」
蓮司の予想が崩れた。
この霊は、ただの"悪霊"ではない。
むしろ、"何か"に取り込まれそうになっている被害者側だった。
「……どういうことだ?」
蓮司は、影に向かって問いかけた。
「"迎えに来た"って言葉……お前が言ってたんじゃないのか?」
「違う……。"あの者"が、私を"連れて行こうとしている"の……!!」
──その瞬間、部屋の空気が一変した。
ズズズズ……!!
床が軋み、鏡の表面が波打つように揺れる。
「来ます……!」
里沙が呪符を構え、身構える。
そして──
鏡の奥から、"何か"が這い出してきた。
それは、"人間のような影"だ。
──いや、違う。
それは、"顔のない人間の形をした、闇そのもの"だった。
"黒い影"よりも、さらに濃い漆黒の存在。
そして、その影は"無数の手"を伸ばしながら、這い出してきた。
「迎えに来た……」
蓮司は、すぐに理解した。
「こいつが……"本当の迎えに来た者"か」
迎えに来た者──"霊喰い"の正体
「何なんですか、あいつ……!!」
里沙が震えながら叫ぶ。
「おそらく、"霊喰い"の類だな」
蓮司は冷静に呪符を指先で弾いた。
「霊喰い……?」
沙織が怯えながら尋ねる。
「ああ。"未練を持った霊"を取り込んで、より強い存在になろうとする"捕食者"だ」
蓮司は淡々と言った。「そして、今まさに──"こいつの次の獲物はあなた"ってことです」
「迎えに来た……お前も、"こっち"へ……」
"迎えに来た者"は、無数の手を伸ばしながら、沙織に向かってゆっくりと近づいてくる。
「くっ……!」
沙織はベッドの端に後ずさる。
「させるかよ……!」
蓮司は呪符を鏡の前に叩きつけた。
「封印・展開!!」
バチバチバチッ!!
光が弾け、霊喰いの影を押し戻す。
「グァァァァァ……!!」
霊喰いは、苦しそうに身をよじらせた。
「効いてますね……!!」
里沙が叫ぶ。
「だが……"これだけ"じゃダメだ」
蓮司は真剣な表情を崩さずに続ける。「こいつを完全に消すには、"影の核"を潰す必要がある」
「影の核?」
沙織が震える声で尋ねる。
「この霊喰い、普通の霊とは違って"形を持たない"。本体は、"どこか別の場所"にあるはずだ」
蓮司は鋭い視線を鏡に向けた。
「つまり、"鏡の中"にあるってことですね……」
里沙がすぐに理解する。
「そういうことだ。だから……"こっちから乗り込むしかねぇ。"」
「行くぞ、鏡の向こうへ」
蓮司と里沙は、霊的なエネルギーを最大限に集中させ、鏡の表面に手をかざした。
「"境界突破"!!」
次の瞬間、二人の体が鏡の中へと吸い込まれる。
──そこは、"異様な空間"だった。
まるで世界が反転したかのような、歪んだ空間。
周囲には"うごめく無数の影"が漂っていた。
「……ここが、霊喰いの本拠地か」
蓮司はゆっくりと辺りを見回した。
「迎えに来た……」
──その瞬間、空間が揺れた。
"巨大な影"が、蓮司と里沙の前に姿を現した。
──それは、"無数の人の顔を持つ影"だった。
「こいつが……"霊喰いの核"か」
蓮司は、呪符を握りしめる。
「来ます!!」
里沙が叫ぶ。
霊喰いの核は、一斉に"顔"を開き、無数の悲鳴を上げながら、蓮司たちに襲いかかる。
「させるかよ……!!」
蓮司は呪符を投げつけ、"霊的な波動"を発生させた。
バチィィィィン!!!
「蓮司さん、核が露出しました!!」
里沙が叫ぶ。
「なら、"決める"ぞ……!!」
蓮司は、"霊滅符"を手に持ち、全力で霊喰いの核へと叩きつけた。
「封印・絶!!!」
ズドォォォォォン!!!!
爆発的な光が放たれ、霊喰いの核が砕け散る。
「グァァァァァァァ!!!!」
霊喰いは苦しみながら、"完全に消滅"した。
現実世界──終焉
気がつくと、蓮司と里沙は沙織の部屋に戻っていた。
鏡は、"完全に砕け散っていた"。
「……終わったの?」
沙織が恐る恐る尋ねる。
「ああ」
蓮司は煙草に火をつけながら、疲れたように頷いた。「これで、もうあなたを"迎えに来る者"はいません」
「本当に……ありがとうございます……!」
沙織は涙を滲ませながら、深々と頭を下げた。
鬼塚探偵事務所に戻った後、里沙は調査報告をまとめながら言った。
「今回の霊喰い、完全に消滅しましたよね?」
「……ああ、多分な」
蓮司は煙を吐きながら、机の上の書類を眺める。
「……何か気になることが?」
里沙が尋ねる。
「今回の霊、"迎えに来た"って言ってたよな?」
蓮司は目を細めた。
「ええ、それが何か?」
「"あれ"は、"まだ何かの予兆だった"のかもしれねぇ」
蓮司は静かに呟いた。
"迎えに来る者"は、まだ終わっていない。
新たな事件の気配が、すぐそこまで迫っていた──。
鬼塚探偵事務所──数日後
柊沙織の事件が解決して数日が経過した。
事務所にはようやく平穏な時間が戻ったかに見えた。
「ふぅー……」
里沙はコーヒーを片手に、ソファでくつろぎながら大きく伸びをする。
「今回のはキツかったですね。久々に本気でヤバいと思いました」
「だな」
蓮司は煙草をくわえ、煙をゆっくりと吐き出す。「だが、どうにも引っかかる」
「……やっぱり、"迎えに来た"っていう言葉のことですか?」
里沙はカップを置いて、蓮司を見つめる。
「ああ。今までは、霊喰いが"迎えに来た"って言ってたと思ってた」
蓮司は机の上の書類を指で弾きながら続けた。「だが、あの霊は"迎えに来る側じゃない"って言ったよな」
「確かに……」
「つまり、"迎えに来た者"は、霊喰いじゃなかった可能性がある」
「え? でも、霊喰いは確かに沙織さんを狙ってましたよね?」
「そうだ。だが、アイツは"何か"の影響を受けていた気がする。霊喰い自体も、"上位の何か"に操られてたんじゃねぇか……」
蓮司が言葉を続けようとしたその時──
事務所のドアがノックされた。
「いらっしゃいませー」
里沙が返事をすると、扉がゆっくりと開いた。
そこには、一人の男性が立っていた。
スーツ姿の三十代前半の男。黒縁の眼鏡をかけ、落ち着いた雰囲気を持っているが、表情は明らかにこわばっている。
「……鬼塚探偵事務所、でしょうか?」
「ええ、そうですが」
「私……水無月浩一と申します」
男は深く息を吐き、ゆっくりと話し始めた。
「お願いがあります。私の家に"迎えに来る者"を止めてほしいんです」
その言葉を聞いた瞬間、蓮司と里沙は顔を見合わせた。
"迎えに来る者"──また現れた。
「詳しく聞かせてもらいましょうか」
蓮司は煙草を灰皿に押し付け、視線を鋭くした。
水無月浩一は、静かに語り始めた。
「一ヶ月ほど前から、私の家で"奇妙な現象"が起こるようになったんです」
「奇妙な現象?」
里沙がノートを取り出し、メモを取り始める。
「最初は小さな異変でした。家具の位置が微妙にずれていたり、部屋の隅に黒い染みのようなものが現れたり……」
「ふむ」
蓮司は腕を組む。「それだけなら、そこまで深刻じゃないな」
「ですが、ある日……"それ"が現れました」
水無月は、少し顔をこわばらせながら続けた。
「最初は気配だけでした。夜になると、部屋の隅に"何か"がいる気がする。けれど、目を凝らしても見えない。……しかし、翌日になると、その"気配"が少しだけ"近づいて"いたんです」
「……出たよ。"少しずつ近づく"系」
里沙が肩をすくめる。「もうそれ、確実にヤバいやつじゃないですか」
「……その通りです」
水無月は苦笑しながら頷いた。「そして、数日前──ついに"それ"が見えました」
「見えた?」
蓮司が身を乗り出す。
「はい。夜中、目を覚ました時、"部屋の隅に黒い人影が立っていた"んです」
──ザワッ。
事務所内の空気が、僅かに重くなる。
「そいつは……何か言ってたのか?」
蓮司が慎重に尋ねる。
「……はい」
水無月は、声を震わせながら答えた。
「"迎えに来た"って」
"また"だ。
「…………」
蓮司は目を細め、じっと水無月を見つめた。
「そいつの特徴は?」
「全身が黒い影のようで、顔が見えない。けれど、目の部分だけが"じっとこちらを見ている"ような感覚がありました」
「それは、動いたか?」
「はい。最初は部屋の隅に立っていましたが、次の日には"ベッドの横に"……」
「…………」
蓮司は煙草を取り出し、火をつけた。
「おいおい……マジですか」
里沙が青ざめる。
「"迎えに来た"と言いながら、日に日に距離を詰めてくる……」
「ええ」
水無月は深く息をついた。「……そして昨夜、ついに"それ"が、私の"耳元"で囁いたんです」
「何て?」
蓮司が尋ねる。
「"次は、お前の番だ"って……」
「…………」
里沙がゴクリと唾を飲む。
蓮司は、じっと水無月を見つめた後、静かに言った。
「水無月さん、あなた"何か心当たりはありますか?"」
水無月は、一瞬考え込んだ。
そして──あることを思い出し、ハッと顔を上げた。
「……あの……」
「どうぞ、言ってみて下さい」
蓮司は低く言った。
水無月は、おそるおそる口を開いた。
「実は、数ヶ月前に……古い屋敷を取り壊したんです」
「古い屋敷……?」
里沙が眉をひそめる。
「はい。私の祖父が住んでいた家です。もう誰も住んでいなかったので、取り壊して更地にしたんですが……」
水無月は言葉を選びながら続ける。
「その屋敷には、祖父が"決して入るな"と言っていた"一室"がありました」
「……決して入るな?」
蓮司の目が鋭く光る。
「ええ。でも、取り壊す前に、私はその部屋に入ってしまったんです」
「何かありましたか?」
「……壁の一面が、"無数の黒い手形"で覆われていました」
ザワッ……。
事務所の空気が、一層重くなる。
「……おいおい」
里沙が小声で呟く。
「……そいつが"迎えに来てる"ってことか」
蓮司は静かに煙を吐き出した。
「つまり、あなたは"決して入るな"と言われていた部屋に入った」
蓮司は机に肘をつき、じっと水無月浩一を見つめる。
「……はい」
水無月は顔をこわばらせながら頷いた。
「その時、何か感じましたか? 寒気、耳鳴り、異常な気配……」
里沙が慎重に尋ねる。
「ええ……まるで"誰かに見られている"ような感覚がありました」
水無月は語る。「でも、その時は特に何も起こらなかったんです。だから、そこまで気にせず、そのまま屋敷を取り壊しました」
「その後、異変が起き始めた、と」
蓮司は煙草をくわえながら、静かに言った。
「……はい」
水無月は息をのむ。「その部屋の"何か"が、今になって僕を迎えに来ようとしているんでしょうか?」
「"迎えに来た"……か」
蓮司は煙をゆっくりと吐き出した。「面倒な話だな」
「どうするんですか?」
里沙が尋ねる。
「決まってる」
蓮司は椅子から立ち上がる。「"その屋敷の跡地"に行く。そこに何が残っているのか、確かめるしかない」
水無月は驚いたように目を見開いた。「でも……もう何もないはずです」
「そんなわけありません」
蓮司は皮肉げに笑う。「あなたに"迎えに来た"って言ってる時点で、何かが"まだそこにある"ってことです」
「…………」
水無月は黙り込む。
「今から行くぞ」
蓮司はコートを羽織りながら言った。
「えっ、今からですか!?」
里沙が驚く。
「当然だ。"迎えに来る者"は、いつ来るか分からない。"迎えに来られる前"に、俺たちが行く」
夜、蓮司たちは水無月の祖父が住んでいた屋敷の跡地に到着した。
そこは更地になっており、建物の形跡はほとんど残っていなかった。
しかし、蓮司と里沙はすぐに"異様な雰囲気"を察知した。
「……寒気がすごいですね」
里沙が腕を擦る。
「間違いない。"何か"がまだここにいる」
蓮司は霊視用の呪符を取り出し、周囲を見渡した。
「本当に何かが……?」
水無月が恐る恐る尋ねる。
「まぁ、見てろ」
蓮司は呪符を地面に撒き、封印陣を展開する。
「封印解除──視覚開放!」
バチッ──!
呪符が光を放ち、"跡地に残る霊的な痕跡"が浮かび上がる。
ズズズズズ……!
地面に"黒い手形"が無数に浮かび上がった。
「……うわ」
里沙が息をのむ。
「やっぱりな」
蓮司は手を組み、低く呟く。「ここには、まだ"霊の気配"が残ってる」
「これ……前に見た壁の手形と同じものじゃないですか?」
水無月が怯えながら言う。
「ああ。だが、こいつらは"もう力を持ってない"」
蓮司は地面を指さす。「本当の問題は……"この先"だ」
蓮司は、屋敷の"地下部分"にあたる場所を見つめた。
「……地下?」
里沙が眉をひそめる。
「水無月さん、屋敷には地下室がありましたか?」
蓮司が尋ねる。
「え? いや、そんなものは……」
水無月は首を振る。
「……じゃあ、"隠し部屋"は?」
蓮司が続ける。
「……!」
水無月の表情が凍りついた。
「……そういえば……祖父が"絶対に開けるな"と言っていた床板がありました」
「ビンゴだな」
蓮司はニヤリと笑う。「……"そこに何かが封じられていた"ってことだ」
「ま、まさか……」
水無月は震えながらつぶやく。
「だが、あなたがその屋敷を壊したことで、"封印が解けた"」
蓮司は言い放った。「そして、そいつはあなたを"迎えに来た"わけだ」
「…………」
水無月は恐怖に顔を引きつらせる。
「ここで"本体"を潰さねぇと、あなたは一生狙われ続けることになる」
蓮司はポケットから"特製の霊符"を取り出す。
「里沙、準備しろ。地下の封印跡を暴く」
「了解です!」
里沙はすぐに道具を取り出し、準備を始めた。
封印の跡──"何か"が出ようとしている
蓮司と里沙は、地面に残された封印の跡を掘り返し始めた。
すると──
ゴゴゴゴ……。
突然、地面が微かに揺れた。
「……っ!!」
水無月が飛び退る。
「来るぞ……!!」
蓮司が低く呟く。
その瞬間、地面の奥から"黒い気配"が溢れ出した。
ズズズズ……!!
「迎えに来た……」
蓮司たちの前に、"影の集合体"のようなものが現れた。
「こいつが……"迎えに来る者"の正体か」
蓮司は呪符を構える。
「お前も……"こっち側"へ……」
影は、じわじわと水無月に向かって伸びていく。
「やらせるかよ!!」
蓮司は即座に呪符を投げつける。
バチィィィン!!
だが──影は呪符を弾き、なおも水無月へ向かって進む。
「クソッ……こいつ、強いですね!!」
里沙が焦りながら霊的な封印陣を展開する。
「蓮司さん、どうします!?」
「決まってる。"こいつの核"を叩く!!」
蓮司は影の中心を見据える。
──そして、"地下の奥"から何かが光を放っていた。
「……あれが核か」
「じゃあ、そこをぶっ潰せば……!!」
里沙が呪符を構える。
蓮司は、すかさず"霊滅符"を取り出した。
「里沙、援護しろ!! 俺がトドメを刺す!!」
「了解!!」
里沙は結界を張り、蓮司は"霊滅符"を影の核に向かって叩きつけた。
「封印・絶!!!」
ズドォォォォォン!!!!
──影は、苦しみの声を上げながら、完全に消滅していった。
翌日、鬼塚探偵事務所に戻った蓮司と里沙は、疲れた表情でコーヒーをすすっていた。
「……本当に終わったんでしょうか?」
里沙が尋ねる。
「さぁな……」
蓮司は煙草を咥えながら、じっと机の上の"残った呪符の焦げ跡"を見つめていた。
"迎えに来た者"──それは、本当にこれで終わったのか?
"迎えに来る者は、一体どこから来るのか?"
次なる事件が、静かに迫っていた──。
鬼塚探偵事務所──事件解決から数日後
鬼塚探偵事務所は、いつもと変わらぬ静けさに包まれていた。
デスクの上には解決したばかりの事件の報告書が広げられ、蓮司はそれに目を通しながら、ゆっくりと煙草をくゆらせていた。
「……ふぅ」
煙を吐き出し、蓮司は椅子にもたれかかった。
「何とか終わりましたね」
里沙がコーヒーを持ってきて、隣のソファに腰掛ける。
「終わったって言ってもな……完全に"迎えに来る者"を消せたかどうかは分からねぇ」
蓮司は指でデスクをトントンと叩きながら呟いた。
「でも、少なくとも水無月さんはもう大丈夫ですよね?」
里沙が尋ねる。
「ああ。アイツに取り憑いてた"影"は完全に祓った。もう迎えに来ることはねぇだろうよ」
蓮司は一応の安堵を滲ませながら答えた。
「……それにしても、"迎えに来る者"ってのは気味が悪かったですね」
里沙は、未だに胸の奥に残る不気味な違和感を振り払うように、ため息をついた。
「確かにな」
蓮司はタバコの火を消しながら続けた。「普通の"地縛霊"や"怨霊"とは違った。まるで"何か"に操られてたみてぇだったな」
「……迎えに来る者は、まだ"何か"の一部でしかないってことですか?」
里沙が慎重に尋ねる。
「そうかもしれねぇな」
蓮司は無言でコーヒーを飲み干し、机の上の報告書を閉じた。
──水無月浩一は事件解決後、事務所に訪れ、深く頭を下げた。
「本当に……ありがとうございました」
彼の表情は以前よりも明るくなっており、憔悴していた様子も幾分か和らいでいた。
「これで夜もぐっすり眠れるってもんだな」
蓮司は軽く肩をすくめた。
「はい。本当に怖かったですが……もう"迎えに来る者"の気配は感じません」
水無月は安心したように笑った。
「まぁ、しばらくは何か異変がないか気をつけて下さい」
蓮司は軽く忠告する。「完全に終わったとは限らないですからね」
「……分かりました」
水無月は真剣に頷き、改めて感謝の言葉を述べて帰っていった。
夜──鬼塚探偵事務所
蓮司は、デスクに肘をつきながら、じっと窓の外を見ていた。
事務所の窓の外には、いつもの夜の街並みが広がっている。
「何を考えてるんですか?」
里沙が小さな菓子を口にしながら尋ねる。
「……迎えに来る者は、これで終わったのか……」
蓮司は低く呟く。
「え?」
「アイツらは"迎えに来た"って言ってたが、"迎えに来る理由"が分かってねぇんだよ」
「理由……?」
「そうだ。普通の霊なら、生前の未練や恨みが原因になることが多い。でも"迎えに来る者"は、それがなかった。まるで"ルール"に従ってるかのように現れてた」
「……確かに」
里沙は腕を組み、考え込む。
「もし、アイツらが"何かの仕組み"で動いてたとしたら……まだ"本当の元凶"がどこかにいるってことだ」
蓮司は煙草に火をつけ、深く息を吐いた。
「じゃあ、"迎えに来る者"は、また別の誰かを迎えに行く可能性がある……?」
「……それが一番嫌な展開だな」
蓮司は皮肉げに笑った。「だが、その時はまた俺たちが片付けるだけだ」
「……ですね」
里沙は苦笑しながら頷く。
窓の外の街灯がぼんやりと光る。
今夜は静かだ。
──だが、その静けさが"永遠"に続くとは限らない。
"迎えに来る者"は、本当に消え去ったのか?
それとも、また新たな"迎え"が近づいているのか……。
蓮司と里沙は、静かにコーヒーを飲みながら、次の事件に備えるのだった。
鬼塚探偵事務所──午後三時
事務所の窓からは西日が差し込み、室内にはのんびりとした空気が漂っていた。
蓮司はデスクで煙草をくわえ、里沙はパソコンと向き合い仕事に集中していた。
「……また最近は静かになりましたね」
里沙が呟く。
「まぁ、たまにはのんびりするのも悪くねぇ」
蓮司は煙を吐きながら返す。
事件が一段落してから数日が経ち、探偵事務所には依頼もなく、穏やかな時間が続いていた。
だが──
ガチャッ!
突然、事務所のドアが勢いよく開いた。
乱暴に開かれた扉から飛び込んできたのは、一人の男だった。
三十代半ばくらいの男。くたびれたスーツを着ており、顔色は悪く、明らかに何かに怯えている。
「た、助けてください!!」
彼は息を切らせながら、蓮司と里沙の前で両手を突いた。
蓮司は煙を吐きながら、男をじっと見つめる。
「とりあえず落ち着いて、座ってください」
里沙がソファを指し示した。
男は肩で息をしながら、震える手で額の汗を拭い、恐る恐るソファに腰を下ろした。
「す、すみません……私は岡崎透といいます」
「岡崎さんね。それで、助けてってのは?」
里沙がメモを取りながら尋ねる。
岡崎は、怯えた表情で声を震わせながら話し始めた。
「実は……数日前から、"何か"に見られている気がするんです……」
「見られてる?」
蓮司が眉をひそめる。
「ええ……最初は気のせいかと思ったんですが、日に日にその感覚が強くなって……」
岡崎はゴクリと唾を飲む。
「部屋のどこかに"誰かがいる"ような気がして仕方ないんです。だけど、振り返っても誰もいない」
「そういうのはよくあるな。幽霊に取り憑かれやすいタイプの人間が陥る"被害妄想"ってやつだ」
蓮司は煙を吐きながら冷静に答える。
「ち、違うんです!! 本当に"何か"がいるんです!!」
岡崎は声を荒げる。
「"何か"って具体的に?」
里沙が慎重に尋ねる。
「……"影"です」
「影?」
蓮司の目が鋭くなる。
「はい……。気のせいかと思ったんですが、ある時、鏡を見たんです」
岡崎は震える声で続けた。
「すると……僕の後ろに、"もうひとつの影"が映っていました」
──室内の空気が一瞬張り詰める。
「それ……確実に"霊的な何か"ですね」
里沙が険しい表情を浮かべる。
「その影は、どんな形をしてた?」
蓮司が尋ねる。
「人間の形をしてました。……でも、"顔がない"んです」
岡崎の声は震えている。
「顔がない……?」
蓮司は静かに呟く。
「はい……。僕の後ろに立って、じっとこちらを見ている。"顔がない"のに、"見られている"感覚があるんです……」
岡崎は両手で顔を覆った。「もう……怖くて部屋にいることもできません」
「それ、いつから見え始めましたか?」
「……三日前です」
「心当たりは?」
「ありません……でも、ひとつだけ気になることが……」
「何だ?」
岡崎は、意を決したように話し始めた。
「三日前、僕は古いビルの解体作業に関わったんです。 仕事の関係で、そのビルに立ち入る機会がありました」
「……それで?」
「解体が始まる前、そのビルの地下に入ったんです。誰もいないはずなのに、地下の奥の壁に"黒い染み"があって……。なんだか妙に気になって、僕はスマホで写真を撮ったんです」
「その写真は?」
蓮司が尋ねる。
岡崎はおそるおそるスマホを取り出し、写真を開いた。
──そこには、"黒い染み"が写っていた。
だが、その写真をよく見ると……。
「……待って下さい」
里沙が画面を指差す。
「この黒い染み……"手形"じゃありませんか?」
「えっ……?」
岡崎は震える手でスマホを握り直し、画面をじっと見つめた。
──確かに、それはただの染みではなかった。
壁には、無数の"手形"が浮かび上がっていた。
「……こりゃ、ただの影じゃねぇな」
蓮司は煙を吐き出しながら呟いた。
「岡崎さん、あなたは……"何かを連れてきた"可能性が高いぞ」
「そ、そんな……!!」
「一つ聞きますが……その影は、"日に日に近づいてきてる"んですね?」
岡崎は絶望したような表情で頷いた。
「はい……最初は遠くにいたんですが、昨日の夜は……"すぐ後ろ"にいました」
「…………」
「そして、今朝……"耳元"で囁かれました」
「なんて言われました?」
蓮司が慎重に尋ねる。
岡崎は、涙目になりながら口を開いた。
「"お前を連れて行く"……」
──その瞬間、室内の温度が下がった気がした。
「……クソが」
蓮司は舌打ちをし、煙草を灰皿に押し付けた。
「里沙、準備しろ。現場に向かうぞ」
「了解です!」
里沙はバッグを用意しながら頷く。
「お、お願いします!!」
岡崎はすがるように頭を下げた。
「いいですか、岡崎さん。あなたはすぐに"自分の部屋"には戻らないよう。もし戻ったら……"連れて行かれる"可能性がある」
「わ、わかりました!!」
蓮司はコートを羽織り、静かに言った。
「さあ、行こうか。"あなたを連れて行こうとしている"モンの正体を暴きに」
鬼塚探偵事務所の新たな事件が、ここに幕を開ける──。
鬼塚蓮司、里沙、そして依頼人の岡崎透は、岡崎の住むアパートの前に立っていた。
外灯の明かりが弱々しく灯り、夜の静寂が周囲を包んでいる。
「ここが岡崎さんの部屋ですね」
里沙がアパートを見上げながら確認する。
「は、はい……」
岡崎は不安そうに頷く。「でも、本当に大丈夫なんでしょうか……?」
「心配すんな。俺たちはこういうのを"専門"にしてるんでな」
蓮司はタバコに火をつけながら、冷静に答えた。
「とりあえず、部屋の中を調べてみよう」
岡崎が震える手で鍵を開け、ゆっくりとドアを開いた。
──その瞬間。
ゾワッ……!
蓮司と里沙の全身に悪寒が走った。
「……霊的な気配が強いな」
蓮司が低く呟く。
「明らかに"います"ね……」
里沙も眉をひそめながら、慎重に部屋の中へ足を踏み入れた。
室内は、生活感のあるワンルーム。
だが、何かがおかしい。
空気が異様に"重い"のだ。
「岡崎さん、あなたが"影"を見たのはどこだ?」
蓮司が尋ねる。
「そ、この部屋の中です……。最近はベッドの近くに……」
岡崎はベッドの端を指差した。
蓮司は慎重に視線を巡らせる。
"いる"な。
それは、確実にこの部屋のどこかに"潜んでいる"。
「……岡崎さん、鏡はどこにある?」
「えっ?」
「あなたが"影"を見たのは、鏡越しだったんでしょう?」
「あ……はい! そ、そこです」
岡崎は部屋の隅に置かれた姿見の鏡を指差した。
蓮司は鏡の前に立ち、ゆっくりと目を凝らす。
──すると、鏡の表面が波打った。
ズズズズ……!
「来るぞ……!」
蓮司がすかさず呪符を取り出す。
鏡の中から、"黒い影"がゆっくりと姿を現した。
岡崎は息を飲み、震えながら後ずさる。
「やっぱり、"いた"か」
里沙が冷静に呟く。
影は、人間の形をしていたが、顔が"ぼやけて"いる。
──いや、"顔がない"。
それなのに、"じっとこちらを見ている"ような気配を放っている。
「お前を連れて行く……」
影が、静かに言葉を発した。
「クソが……」
蓮司は煙草を吐き出しながら、低く舌打ちする。
「里沙、今から"こいつの本体"を探る。援護頼むぞ」
「了解です!」
里沙はすぐに浄化の呪符を構え、影の動きを封じるために準備を始めた。
蓮司は影を睨みつけ、冷静に呟く。
「"お前の本体"はどこにいる?」
影は、答えずにゆっくりと動き出す。
──岡崎に向かって。
「……っ!」
岡崎は恐怖に顔を引きつらせながら、壁際に追い詰められた。
「動くな!!」
蓮司が叫ぶ。
影が、岡崎に"覆いかぶさる"ように伸びる。
バチィィィン!!
瞬間、蓮司が投げた呪符が影を弾き飛ばした。
「グァァァ……!」
影は苦しそうに後ずさる。
「……霊そのものを"追い払う"のはできるが、"本体"を潰さねぇと解決にはならない」
蓮司は呟く。「岡崎さん、あなたが"影"を見る前に関わった場所をもう一度思い出せ」
「そ、それは……!」
岡崎は震えながら、あの"古いビルの地下"を思い出した。
「地下の……壁……手形……!」
「決まりだな」
蓮司はすぐに立ち上がる。「こいつの本体は、"あの地下"にある」
「でも……ビルは解体されたんですよ!?」
岡崎が焦ったように言う。
「解体されても、"霊的な痕跡"は残るんだよ」
蓮司はコートを羽織る。「今から、その"跡地"に行く」
「ま、まさか……!」
岡崎は息を飲む。
「あなたを連れて行こうとしてる"影"の正体を、完全に暴く」
蓮司は鋭い目で言った。
「……行くぞ」
三人はとにかくもアパートから脱出した。
深夜、岡崎が関わった"古いビルの跡地"に蓮司たちはやってきた。
更地になった場所には、街灯の光がぼんやりと照らしている。
「……ここですね」
里沙が静かに言う。
岡崎はガタガタと震えながら辺りを見回した。
「もう……何もないはずなのに……」
「甘いな」
蓮司はポケットから呪符を取り出し、地面に向かって静かに呟く。
「"霊視開放"──"過去の痕跡を視せ"」
バチッ……!
地面に呪符が触れた瞬間──
ズズズズズ……!!
辺りの景色が"歪み"、"地下の風景"が浮かび上がった。
「こ、これは……!」
岡崎が息を飲む。
「……やっぱりな」
蓮司は呟く。「"解体されても、消えていなかった"ってことだ」
目の前には、"壊されたはずの地下室"が現れた。
そして、奥の壁には……。
"無数の手形"が、うごめいていた。
「これが……"影の本体"か」
里沙が緊張した声で呟く。
「ここで終わらせる」
蓮司は煙草を吹かし、静かに言った。
「影の本体を"完全に封じる"ぞ」
「はい……!!」
里沙が呪符を構える。
──迎えに来る者の正体が、ついに暴かれる。
深夜──消えたビルの地下
蓮司、里沙、そして依頼人の岡崎は、"解体されたはずの地下室"の痕跡を霊視によって浮かび上がらせていた。
そこには、今もなお残る"黒い手形"が無数に刻まれていた。
ザワザワ……ザザザ……。
壁の手形がゆっくりと蠢き始める。
「やっぱり、ここが"影の本体"ってことで間違いなさそうですね……」
里沙が慎重に呪符を構える。
「だな」
蓮司は煙草をくわえながら、じっと"手形のうごめく壁"を見つめる。
「岡崎さん、"影"が現れたのは、あの地下に入ったあとからなんですね?」
「はい……間違いありません」
岡崎は震えながら答える。「この地下に入って、"黒い染み"を見つけた時から……」
「その染み、今でも残ってますか?」
「えっ?」
蓮司の言葉に、岡崎はスマホを取り出し、霊視した地下室の写真を改めて確認する。
──すると。
「……あ……!!」
岡崎が指を震わせながら画面を示す。
そこには、"壁の中央"にある"黒い染み"が、はっきりと映っていた。
だが、それはただの染みではなかった。
──"人の顔のような形"をしていたのだ。
「……なるほどな」
蓮司は静かに言った。「つまり、あれが"影の核"だ」
──その瞬間、地下全体が揺れた。
ゴゴゴゴ……!!
「っ……!! 来ます!!」
里沙が叫ぶ。
そして──
「お前を迎えに来た……」
地下室の壁から、"無数の手"が這い出し、"黒い影の巨体"が姿を現した。
影は、"顔のない人間の形"をしていた。
いや……顔がないのではなく──
"顔の部分には、無数の"別の顔"が渦を巻くように浮かんでいた"。
「……これが"迎えに来る者"の正体か」
蓮司は煙草をくわえながら、冷静に呟く。
「完全に異常存在ですね……」
里沙が汗をにじませながら呪符を握りしめる。
「"迎えに来る"って言葉……やっぱりコイツは"取り込む"ことを目的にしてるってことですね?」
「ああ。こいつは、"過去にここで取り込まれた人間の魂"を積み重ねて成長した"霊の集合体"……"霊喰いの進化系"ってとこだろうな」
「……やっぱり」
里沙がゾクリとした表情を浮かべる。「つまり、岡崎さんも"次の一人"になろうとしてたわけですね」
「くっ……」
岡崎が顔を歪める。
「……お前も"こっち"へ……」
影は、ゆっくりと岡崎に向かって伸びてくる。
「やらせねぇよ!!」
蓮司は瞬時に呪符を放った。
バチィィィン!!
光が弾け、影の手が一瞬弾かれる。
だが──影はすぐに再び這い寄る。
「……やっぱり"核"を潰さねぇとダメか」
蓮司は舌打ちをする。
「影の本体は"壁の顔"……そこを狙えばいいんですね?」
里沙が確認する。
「ああ。里沙、お前は影の動きを封じろ。俺が"核"を叩く」
「了解!!」
里沙は結界を展開し、影の動きを制限する。
「封印結界──四方の鎖!」
バチィィィィン!!!
四方に張り巡らされた呪符の鎖が影を拘束する。
「今だ!!」
蓮司はコートの内側から"特製の霊滅符"を取り出し、壁の"顔"に向かって全力で叩きつけた。
「封印・絶!!!」
ズドォォォォォン!!!!
爆発的な霊力が炸裂し、"壁の顔"が一気に崩れ始める。
「グァァァァァァァ……!!」
影の巨体が悲鳴を上げながら揺れ、徐々に消滅していく。
そして──
「迎えに……来た……」
最後の声を残し、影は"完全に"霧散した。
──戦いは、終わった。
「……終わりましたね」
里沙が息を整えながら呟く。
「ああ」
蓮司は、壁の顔が完全に消えたことを確認し、煙草に火をつけた。
「これで"迎えに来る者"はもう現れねぇ」
岡崎は、その場に崩れ落ちるように座り込んだ。
「助かった……助かったんですね……」
「ああ」
蓮司は軽く肩をすくめる。「これでもう、あなたが連れて行かれることはないですよ」
岡崎は涙を滲ませながら深く頭を下げた。
「本当に……ありがとうございました……!」
「気にすんな。俺たちの仕事だ」
蓮司は、"影の痕跡"が完全に消えたことを確認し、立ち上がる。
「さて、帰るか」
「はい!」
里沙も疲れた表情を見せながら頷く。
鬼塚探偵事務所──翌日
事務所に戻った蓮司と里沙は、ソファで一息ついていた。
「……いやー、久々に大変な案件でしたね」
里沙がコーヒーをすすりながら呟く。
「だな」
蓮司は煙を吐きながら、ふと天井を見上げる。
「……結局、"迎えに来る者"は、"取り込まれた魂の集合体"だったわけだ」
「そうですね。でも、"迎えに来る者"って、もしかして他にも……?」
里沙の言葉に、蓮司は静かに考え込む。
「……可能性はあるな」
"迎えに来る者"は、単なる"ひとつの存在"ではなく、"様々な場所に生まれる怪異"なのかもしれない。
「ま、その時はまた俺たちが片付けるだけだ」
蓮司はそう言って、静かに笑った。
「……ですね」
里沙も微笑みながら、コーヒーを飲み干した。
──そして、鬼塚探偵事務所は、新たな依頼を待ちながら、静かな時間を取り戻すのだった。
──そして、次なる怪異へ。