第四十三話
山里に朝日が差し込むころ、
静真の家の周囲には澄んだ冷気がまだ残っていた。
鳥の声。
遠くの川のせせらぎ。
そして、結界の薄膜が微かに震える音。
蓮司はゆっくりと目を覚ました。
昨夜の疲労が完全に抜けたわけではないが、
身体の内側の“影の軋み”はだいぶ軽くなっている。
(……師匠の薬湯、効くなやっぱり)
客間を出ると、
廊下の向こうから小さな声が聞こえた。
「……おはようございます、蓮司さん」
振り返ると、
里沙が控えめな笑みを浮かべて立っていた。
表情はまだ少し疲れているが、昨夜の“影の揺らぎ”は沈んでいる。
「大丈夫か、里沙」
「はい……たぶん、今日は落ち着いてます」
本当に、ほっとしたように見えた。
七つ目に関わる影が暴れた直後だというのに。彼女の精神は驚くほど強い。
その時――
「起きたか」
静真が奥の部屋から現れた。
黒の羽織を軽く羽織った姿は、夕べと同じく重厚な霊気を纏っている。
「二人とも、こっちへ来い。
話すべきことがある」
その声音に、蓮司も里沙も自然と背筋を正した。
座敷に座ると、
静真は昨夜とまったく違う表情をしていた。
まるで、言葉を慎重に選んでいるような――
そんな緊張があった。
「まずは、昨夜の現象だ。里沙、お前の中の“七つ目”は確かに動いた。だが……覚醒には至っていない。封術はうまく効いている」
里沙は静かに頷く。
「問題は、“外”だ」
「外……?」
蓮司が眉をひそめる。
静真は煙管を置き、淡々と続けた。
「昨夜、里に侵入した男――あいつは六つ目の核を操作できるほどの術者だった。おそらく、七つ目の存在にも気づきつつある」
蓮司は息を呑む。
「……ここに居続けるのは危険だということですか」
里沙が問う。
「危険なのは、お前ではなく里の方だ」
静真の声は冷静だった。
「奴は七つ目を“確かめに来る”。ここに留まれば、次に狙われるのはこの土地だ。お前たちのためではなく、里を守るために……今日中に出る」
「……出る、って。どこへ?」
静真は蓮司を見た。
その視線に含まれた意味は、重い。
「蓮司。七つ目を制御できるのは、お前だけだ。《影食》の系譜は……本来そのためにある」
里沙は驚いたように蓮司を見る。
蓮司は拳を強く握る。
(……やっぱり、そうなるか)
静真は続けた。
「これより――二人は、七つ目の本体を“覚醒させずに制御する方法”を探す。具体的には……ある場所へ向かう」
静真は巻物を一つ差し出した。
「“影連の古社”だ。七つの影が誕生した最初の地。そこに、七つ目を制御する唯一の手掛かりが眠っている」
蓮司の背筋に冷たいものが走った。
七つ目――
里沙の中に宿る影。
それを制御する方法が、たった一つの場所に残っているというのか。
里沙も、静かに息を飲む。
「……わかりました。行きます」
「俺もだ。師匠、案内は……?」
「俺は同行しない」
二人が同時に顔を上げた。
「蓮司。七つ目を抑え込むのは、お前の役目だ。俺が側にいれば、その場で“封じる”方へ流れる。本来あるべき未来を邪魔するだけだ」
蓮司は目を伏せ、強く頷いた。
「……わかりました」
静真は最後に、二人の顔を順に見た。
「覚悟だけは決めておけ。“影連の古社”に眠っているのは、七つ目の真実と……そのために選ばれた者の運命だ」
その言葉は、朝の静けさに重く響いた。
薄暗い研究室。
蛍光灯の冷たい光の下で、無数の儀式器具と高性能計測機器が並んでいる。
六つ目の核――
暴風の残滓を凝縮した黒い欠片が、ガラス容器の中で微かに揺れていた。
スーツの男はデスクに肘をつき、机上の分析データを静かに見つめていた。
「……やはり、反応が落ちているな」
六つ目は封じられた。
その事実そのものには興味がない。
彼の関心は、この核が“何に”反応していたか――そして今、何に反応しつつあるか。
男は六つ目の核に手をかざし、軽く術式を走らせる。
すると、核は震え、脈動を返した。
「――南ではない。反応の向きが……変わった?」
男の目が細まる。
核が示した方向は“東北”――
地図上に照らし合わせると、そこは……
「……“影連の古社”か」
その名を口にした瞬間、室内の空気が不自然にざわりと揺れた。
まるでその言葉そのものが、古い禁忌を刺激したように。
「七つ目が――動き出したというわけだな」
黒い瞳がゆっくりと細まり、唇の端がわずかに歪む。
「やはり“あの女”か。七つ目は……器としては充分すぎる」
机上の計測器が急に警告音を鳴らした。
六つ目の核が、再度激しく脈打ったのだ。
男はその振動の波形を読み取り、小さく笑う。
「奴ら……古社へ向かうつもりだな。面白い」
彼は立ち上がり、黒い手帳を開いた。
そこには古い印章と、いくつかの“封じられた名”が記されている。
「七つ目が覚醒すれば――“計画”は最終段階へ入る。あとは……誘導してやればよい」
スーツの男は軽く指を鳴らした。
すると、室内の影が凝集し、黒い風のようなものが男の背後に現れる。
「先回りするぞ。“影連の古社”はまだ完全には目覚めていない。だが――七つ目を刺激するには十分だ」
影は音もなく消え、男は外套を羽織って部屋を出る。
足音は静かだったが、その歩みが向かう先は、ただ一つ。
七つ目を揺り動かす“起源の地”――影連の古社。
そして彼は、
蓮司と里沙がその地へ向かうことすら、計画のうちに収めていた。
朝霧がまだ薄く漂う山里。
木々の枝先に残った露が光を反射し、静かで、どこか張りつめた空気が場を支配していた。
蓮司と里沙は、静真の家の前で荷を整えていた。
荷といっても、蓮司の術具の箱と里沙の護符、それに静真が用意した最低限の携行薬だけだ。
「……本当に、同行しないんですね」
里沙が言う。
声には、昨夜の恐怖とは違う種類の不安がわずかに混じっていた。
静真は腕を組み、淡々と答える。
「俺が行けば、お前の“影”は本来の覚醒に届かん。封じる側の力が近くにいすぎると、意識層が歪む」
里沙は黙って頷いた。
蓮司は静真の目をまっすぐに見つめる。
「……師匠。俺は……七つ目を止められますか」
「止めるかどうかは、お前の意志次第だ。術式でも才能でもない」
静真は言葉を区切り、蓮司の肩に軽く手を置いた。
「だが、“従わせる”ことは……お前にしかできん」
その言葉の重さが、蓮司の胸に深く沈んだ。
静真は懐から二つの小さな札を取り出した。
「これは、道中で使え。二人の霊気を一時的に遮断する。敵が追跡を仕掛けてきても、しばらくは持つ」
「ありがとうございます」
「礼はいい。どうせ、お前たちが戻って来れなければ……里ごと潰れるんでな」
静真のそれは冗談のようで、しかし目は本気だった。
里沙は少し緊張した面持ちで静真に頭を下げる。
「静真さん。昨夜……助けていただいて、本当に――」
「礼はいらん。お前はまだ“器”だ。器が割れちまえば、七つ目が暴れすぎて面倒なだけだからな」
口調は辛辣だが、その奥に薄い情のようなものが見えた。
蓮司が歩き出そうとしたとき、静真が最後に口を開いた。
「蓮司」
「はい」
「――里沙を見失うな。七つ目は、目を離した瞬間に“呼吸を変える”」
蓮司の胸が強くうずいた。
「わかっています」
「そして里沙」
静真の声に、里沙が小さく背筋を伸ばす。
「お前の“恐れ”は……武器にも、凶器にもなる。自分を責めるな。脈動が強くなったら蓮司に言え」
「……はい」
静真は二人から視線をそらし、朝霧の向こうを静かに眺めた。
「行け。影連の古社は……眠ったままじゃない。呼んでるぞ」
その声は、静かだが確実に背中を押す響きを持っていた。
蓮司と里沙は深く頭を下げ、静真の家をあとにする。
山道へ踏み出す二人を見送るように、木々の影がわずかに揺れた。
里を離れ、古社へ向かう山道の入り口へ差しかかる頃だった。朝霧はまだ払いきれず、杉立ちの影が路面に薄い縞を刻んでいる。ふたりの足音だけが、静真の里から遠ざかるリズムとして続いていた。
しばらく歩いたのち、蓮司が小さく息を吐く。
「……昨夜のこと、覚えてるか?」
問いは慎重だった。里沙の肩越しに光が揺れ、彼女は一歩だけ遅れて歩を止めた。
「全部じゃないけど……断片は、あるの。影の気配に飲まれて、でも……どこかで“見ていた”ような、そんな感じ」
その声に宿る微かな震えは、体調よりも恐れの名残だった。
蓮司は彼女の横顔を見つめながら、言葉を探す。
「静真さんが言ってた。“七つ目”はもう、ただの憑依じゃない。――お前の内側に“隣席”を持って座りはじめてる、って」
「うん。分かる気がする。昨日、あれに触れた瞬間……『ここに帰る』って声がした。私の声でも、誰かの声でもないのに、すごく自然に響いてきて……」
里沙は胸元を押さえた。
その仕草は自分の心臓ではなく、もっと深い部分――影の座す場所を気にしているようだった。
蓮司は眉を寄せ、そっと彼女の手元に目線を落とす。
「それでも……戻ってこれた。静真さんの封術だけじゃなく、お前自身が踏みとどまったんだろ」
「そう、なのかな……。蓮司が呼んだ声だけは、ちゃんと届いてた気がする。ひどく遠く感じたけど……途切れずに」
里沙はそう言うと、小さく笑った。
不安の中に、わずかな救いが浮かぶような笑みだった。
蓮司は歩きながら、言葉を低く継ぐ。
「七つ目のこと……怖いのか?」
少しの沈黙。
やがて、里沙は正直に。
「……うん。怖い。自分が自分じゃなくなるって、こんなに怖いことなんだって思った。でも、一番怖いのは――」
「?」
「蓮司に迷惑かけること。あれが完全に覚醒したら、きっと私は、自分を止められない。そのとき……蓮司を傷つけるかもしれない」
蓮司は、即座に首を横に振った。
「それは違う。俺は、お前を守るためにここにいる。影に触れられる代償を抱えてても……選んだのは俺だ。だから、お前が俺の心配なんかする必要はない」
里沙はその言葉を聞き、少しだけ目を伏せた。
「……強いね、蓮司は」
「強くない。昨日、お前の声が聞こえなくなるかと思って、心臓が潰れそうだった」
思わず零れた本音に、里沙の顔が驚き、すぐに柔らかいものへ溶ける。
「……そっか。ありがとう」
山道を吹き抜ける風が、ふたりの間にひと呼吸の間を置いた。
影の気配はまだ遠いが、確実に近づいている。
それでも、並んで歩く二人の距離は、昨夜よりもわずかに近かった。
山道は、里の境を越えたあたりから急に“息づき”を変えた。
霧がまだ晴れきらぬ午前の空気。その奥で、何かが、脈打っている。
蓮司は足を止め、わずかに眉を寄せた。
「……聞こえるか?」
「うん……。この音……影の波、だよね」
里沙は無意識に胸元を押さえた。封術で鎖された七つ目は沈黙しているはずなのに、外から響く影の鼓動が、その封の表面を叩くように触れてくる。
蓮司は山道の先――黒々とした杉木立の狭間を見つめた。
ひゅう、と風が吹く。
その動きの中に、冷気では説明できない“異質な欠片”が混じった。
里沙が小さく震える。
「……今、風の中に“何か”いた。見えなかったけど、視界の端をかすめた気配が……」
「俺にも感じた。影連の古社が近いせいか……いや、違うな」
蓮司はしゃがみ込み、地面に触れた。
湿り気のある土。だが、表層に妙な“裂け”がある。
幅は髪の毛ほど、しかし、霊的視界で覗けば――それは黒い筋として深く沈んでいた。
「これは……」
「霊的裂け目。昨日のスーツの男が残したのと似てる。でも、もっと……荒い。半ば暴発したみたいな跡」
里沙が小さく息を呑む。
「暴発……誰が?」
蓮司は周囲を見回す。
風は止まり、森は沈黙する。
不自然なほどの、静寂。
「……“あいつ”じゃない。スーツの男の気配じゃない。これは……もっと小さく、雑で……それでいて、異様に濃い」
蓮司は立ち上がり、結界の残滓に指先をかざした。
瞬間――
ぱん、と見えない火花が弾ける。
影の瘴気が、針の束のような痛みとして蓮司の皮膚を刺し、里沙も肩を震わせた。
「蓮司っ!」
「大丈夫だ。軽い触れ返しだ……けど確定した」
蓮司は短く息を整えたのち、低く言い放つ。
「――影連の古社へ向かってるのは、俺たちだけじゃない」
里沙の顔色がさらに険しく変わる。
「スーツの男……じゃないなら、誰?」
「分からない。ただ――」
蓮司は再び地を見下ろした。
細い裂け目は、黒い糸のようにうねりながら、山道の奥へ続いている。
それはまるで、“誘導”しているかのように。
「古社の結界が弱ってる。影に耐えきれず、どこかで破れ始めてる可能性がある」
「破れたら……?」
「影連の“封じられていたもの”が外へ出る。――七つ目の影とは別筋の、“古き影”だ」
里沙は息を呑み、蓮司の袖をそっと掴んだ。
「早く行かなきゃだね」
「ああ。でも……慎重に進む」
ふたりは裂け目の先へ歩みを進める。
森は深く、影は濃く、まるで“目覚めかけた何か”の呼吸音が、木々の間を漂い始めていた。
山道は急に途切れ、開けた空間へと変わった。
そこには、古代の陰祠のような――いや、もっと原始的で、
“祈りよりも畏れを刻みつけた”造りの社がひっそりと佇んでいた。
屋根は苔むし、柱は歪み、注連縄はところどころ黒く焦げている。
だが、その荒廃とは裏腹に、周囲の空気は異様に張りつめていた。
「……ここが、“影連の古社”……」
里沙の声は震えていた。
恐怖ではなく、影の濃度に肉体が圧されている。
蓮司は一歩踏み出し、周囲を見渡した。
まず目に飛び込んでくるのは――
社を包むように広がる薄い膜。
かすかな光を帯びて揺らめき、呼吸するように脈打っている。
しかし。
「……ひどい歪みだな」
結界は、まるで何かに内側から食い破られたように、部分的に凹み、裂け、波紋のような乱れを何重にも広げている。
触れずとも分かる。
これは“自然の劣化”ではない。
誰かが、意図的にこじ開けた痕跡だ。
里沙も気付いたように、目を細めた。
「……この感じ、蓮司が影食を使った後の“逆流”と似てる。でも、もっと荒くて、強引で……」
「影を扱える奴が、無理やりこじ開けたんだろうな。ただ……このタッチはスーツの男じゃない」
「え……じゃあ、誰?」
蓮司は結界膜の裂け目に近づき、指先をかざす。
瞬間――
ビキッ!
と空気が砕けるような感触が走り、影の瘴気が噴き出した。
「っ……!」
里沙が息を呑む。
蓮司は歯を食いしばり、半歩下がった。
「……間違いない。これは人間じゃない。もっと……根の深い存在だ。古社の中に封じられてる“古き影”の一部が、外へ触れた跡だ」
里沙の背筋を冷たいものが走る。
「つまり……封印そのものが壊れ始めてるってこと?」
「まだ完全じゃない。ただ――」
蓮司は空を見上げた。
風が止まり、空気が硬質になる。
木々の影が微妙に歪み、輪郭が滲む。
まるで“外界そのもの”が社に引きずられるように。
「――結界は、もつのにあと数時間ってところだな」
「そんな……!」
里沙が思わず蓮司の袖をつかむ。
蓮司は息をつき、結界の裂け目を詳しく探る。
「だが、もっと気になるのはこれだ」
裂け目の端。
そこに、ごく淡いが――人の“踏み跡”があった。
「……誰かが、中に入った?」
「そうだ。そして、影に触れた。その結果……自分の影が引きずられた形跡がある」
「影……? 誰の?」
蓮司は社の闇へ向け、静かに告げた。
「――スーツの男だ。奴は、古社の最奥に踏み込んでる」
里沙は息を呑んだ。
結界は壊れかけ、内部では“古き影”が蠢き、そしてスーツの男が先に干渉している。
すべてが――最悪のタイミングで重なり始めていた。
古社の内部は、外から見た朽ちた印象とはまるで異なっていた。
石床はひび割れ、至る所から“影の霧”が細く立ち昇っている。
しかし、空間は不自然に澄みきっており、まるで腐敗と浄化が同時に進んでいる異様な気配が漂っていた。
スーツの男は、ゆっくりと歩を進める。
靴の底が影の膜を踏むたびに、ジュ……と音が立つ。
「……やはり、ここだったか」
声は静かだが、明確な確信が含まれていた。
男が辿り着いた最奥には――古代の“祭壇”があった。
石を削り出した粗野な台座。
その中央に刻まれた球状の窪み。
周囲には、風化した祈祷の文様。
しかし男の視線は、別のものに向けられていた。
――祭壇の中心で、“何か”が脈打っている。
黒い殻のようなものに覆われた球体。
まるで胎児のように丸まり、その内部で蠢く影が微弱な光を放っている。
影核――六つ目とは異なる、もっと古い何か。
男は膝をつき、影核に手を伸ばす。
その瞬間。
周囲の影霧が一斉に男へ向かって逆巻いた。
ごうっ……!
影霧の渦が男の身体へ吸い込まれる。
しかし男は眉一つ動かさない。
「抵抗か。だが――お前たちは、もう枷を外されるしか道がない」
影核に触れる指先から、薄く銀色の光がにじむ。
男が纏う術式は、影を拒むのではない。
むしろ――影を“読んでいる”。
影核が震えた。
キィ……ン――。
まるで古い鎖が緩むような音が社全体に響く。
男は静かに告げた。
「……なるほど。“七つ目”は、ここに収まっていたわけではないのか。ならば――宿主が必要だった理由も腑に落ちる」
影核の内部で、淡い形が揺れた。
人影のような、影の“胎児”とも呼ぶべき存在。
男はその変化を見て、口元をわずかに歪める。
「――里沙。やはりお前が“器”として選ばれたか」
影核が急に震え、影霧が噴き出す。
男は後ろに吹き飛ばされ――
しかし、壁に衝突する寸前で姿がふっと揺らぎ、影の中に溶けるように着地した。
「暴れるな。まだ覚醒を許す段階ではない」
男は影核に掌をかざし、低く呟く。
「――“主”よ。残る封印を壊すために、私は器の完成を急がせねばならない」
影核が収縮し、内部の影が一瞬、赤く光った。
男は、まるで答えを聞いたかのように目を細める。
「……ああ。蓮司はいずれここに来る。七つ目を抱え、代償に蝕まれながらな」
そして男は立ち上がり、祭壇から身を翻した。
背後で影核が脈動を強める。
古社全体が、何か巨大なものの“目覚めの呼吸”と同期し始めていた。
「では準備に取りかかるとしよう。――終幕の舞台を整えるために」
スーツの男の影が、祭壇の闇へと静かに溶けていった。
修復術式の光が静かに収まり、結界膜の歪みが一時的に整えられた。
それでも完全に戻ったわけではなく、修復痕は今も脈打ち、“内側から押し広げようとする力”が絶え間なく襲いかかってくる。
蓮司は汗を拭い、荒い息を整えた。
「……持って三十分。中にいる奴が本気で暴れたら、十五分もたないだろうな」
里沙が不安そうに顔を上げる。
「蓮司さん……例の“代償”、今どれくらい?」
「平気だ。影食の反動は抑え込んでる。……まだ動ける」
口ではそう言うが、里沙には分かる。
蓮司の影は時折ちらつき、呼吸の合間、身体が微妙に揺らぐ。
それでも蓮司は、迷いなく結界の裂け目へ向かった。
「行くぞ。中に“誰か”が先に入った痕跡があった。放っとけば、封印そのものが終わる」
「……うん」
里沙も後に続く。
結界膜を押し分けた瞬間――
空気の質が変わった。
息を吸うだけで影が肺を撫で、背筋がぞわりと逆立つような不快な気配。
「……外より濃い……!」
里沙はとっさに護符を展開し、胸元に結界の小陣を刻む。
蓮司は即座に指を鳴らし、低く呟いた。
「《影踏み・第一式》……」
彼の足影が地面に張り付き、周囲の濃霧の影響を相殺するように薄い膜が広がる。
「この社……外からは朽ちて見えたけど……中はまるで……」
「影の胃袋に入ったようなもんだ。飲み込まれる前に行くぞ」
二人は薄暗い通路を進む。
かつて柱だったものは黒ずみ、
彫られた文様は影のように浮き沈みしている。
その奥――
風もないのに、影が揺れた。
蓮司は立ち止まり、手を上げる。
「……待て」
里沙も息を呑んだ。
通路の先――闇が“脈打った”。
いや。
脈打っているのではない。
呼吸している。
「何かいる……!」
「“誰か”だ」
蓮司の言葉に、里沙の心臓が跳ねた。
通路の奥、祭壇へ続く方向。
人の影が、ふっと揺れた。
立っているのは一人。
背広姿――スラリとした輪郭。
そして、こちらを振り返る気配もなく、祭壇へ向かって歩き続けている。
「……蓮司さん。あれ……」
「ああ。間違いない。奴だ」
影に喰われてもなお歩き続ける、
スーツの男――“外道の術師”。
社の奥へ向かう背中は、まるで影そのものを踏みしめて前に進んでいるようだった。
里沙の鼓動が速くなる。
「追うの?」
「追う。あいつが何をしようとしてるかは知らねえが……六つ目の封印に先に触られたら取り返しがつかない」
蓮司が影を纏わせた足で地面を踏むと、影の薄膜が波紋のように広がり、進路を切り拓いた。
「里沙、気を張れ。奴は必ず罠を仕掛けてくる」
「……わかってる。でも、もう逃げないよ。私――七つ目と向き合わなきゃいけないんだから」
その言葉に、蓮司は一瞬だけ目を細めたが、すぐに前を向き直った。
「行くぞ」
二人は闇の呼吸する社の奥へ向けて、スーツの男の残した足跡――影の痕を追って駆けた。
スーツの男の背を追い、薄暗い通路を進むほどに、影霧は濃く、重く、粘りつくように変質していった。
足元の石畳はぐにゃりと歪み、壁に刻まれた古文様が脈動するように明滅する。
里沙は護符を握り直す。
「……なんか、息がしづらい……」
「影の密度が上がってる。ここを通った“誰か”が、わざと仕掛けていったんだろう」
蓮司がそう言い終えるより早く、通路全体が低く、地鳴りのように唸った。
ゴ……ォォオオオオ……。
「っ! 何……?」
里沙が振り向いた瞬間――
闇が“形”をとった。
通路の奥から、黒い霧が渦を巻き、それがやがて人型へと凝固していく。
人型だが人ではない。
細長い四肢。
関節の角度がおかしい。
腹部には穴のような空洞があき、そこから影霧が吸い込み、また吐き出されていた。
その胸元には、古社で使われる封印札の破片が突き刺さっている。
「……“守り手”か」
蓮司の声が低く響く。
「守り手って……影が、勝手に社を守ってるの……?」
「違ぇよ。“本来の守り手”が、影に喰われた跡だ」
里沙が息を呑む。
影の守り手が、ギギ……と軋むような音を立てて首を傾け、二人を“見る”。
目はなかったが、確かに見ていた。
そして――
ズガァッ!!
影の守り手が壁を蹴り飛ばし、まるで四足獣のような速度で二人へ飛び込んできた。
「来る……!」
里沙が後ろへ跳ぶと同時に、蓮司が瞬間的に影を踏み込む。
「《影踏み・第二式 裂波》!!」
蓮司の影が地を走り、鋭い刃の波となって守り手の身体を切り裂く――はずだった。
だが。
ザラ……ッ。
刃が触れた瞬間、守り手の身体は“砂の影”のようにほどけ、次の瞬間、蓮司の背後へ再凝固した。
「ちっ、分身タイプか!」
「蓮司さん、右っ!」
里沙の叫びとほぼ同時に、守り手の爪が振り下ろされる。
蓮司はギリギリで身を翻したが、腕に浅い裂傷が走った。
「……! 速い……!」
守り手は二人の動きを観察するように距離を取り、左腕を伸ばした。
腕の穴から影霧が吸い込まれたかと思うと――
通路の柱が一斉に軋み、黒い文様がにじみ出た。
古社の罠――
本来は侵入者を退けるための術式が、影に汚染され、異形に変質している。
文様が床に流れ落ちると――
ズズズ……ッ。
床の石が溶け、黒い“深み”が現れた。
「……影底!?」
蓮司が里沙の腕をつかみ、引き寄せる。
「跳べ!!」
二人は影底に吸い込まれる直前で飛び越える。
しかし守り手は、その影底の上を平然と移動していた。
影同化――
通常の術師では不可能な領域。
蓮司は奥歯を噛む。
「……あいつ、スーツの男の術式を取り込んでやがる」
影の守り手が、ゆっくりと姿勢を低くした。
まるで影底を泳ぐ獣のように。
里沙の手が震える。
「蓮司さん、これ……今の私の力じゃ……!」
「大丈夫だ。あれは“殺しに来てる”動きじゃねぇ。俺たちを通さないのが目的だ。なら――突破口はひとつだ」
蓮司は左手に術式の暗紋を刻んだ。
「里沙、合図したら前を照らせ。影を裂く光が必要だ」
「……わかった!」
守り手が影底の奥で、
獣のように跳躍の姿勢を取る。
襲撃の予兆。
蓮司は短く息を吐き――
「来るぞ!!」
影守り手が二人へと突進した。
古社最奥へ至るための“最初の関門”が、
ついに牙を剥いた――。
古社の奥へ続く通路は、外界の光をすべて拒むかのように沈黙し、湿った闇の匂いだけが充満していた。
伊勢白木の古い柱に刻まれた呪紋が、近づく蓮司と里沙の存在へ反応するように、じりじりと燐光を帯び始める。
その瞬間――
ずるり、と影が立ち上がった。
人の形を模しているようでいて、明らかに“ひと”ではない。
四肢の輪郭は常に揺れ、焦点の合わない黒い眼窩が、二人をじっと見据えた。
「……来たか。影連が遺した《守り手》の一体だな。」
蓮司が低く呟く。
里沙は緊張で息を呑みつつ、右手に霊符を構える。
守り手は声を持たないはずだった。
だが――次の瞬間、その影が「ざらり」と空間を擦るような音とともに、何かをつぶやいた。
──“入り口の者たち……七つの鼓動……欠けたもの……”
里沙の肩が震えた。
蓮司が一瞬だけ彼女を見る。七つ目への不安を揺さぶる言葉だった。
「言わせておけばキリがない。里沙、来るぞ!」
影の守り手が両腕を振り払った。
漆黒の爪痕が空気ごと裂け、通路に衝撃波が奔る。
二人は左右に跳び、地面に転がりながら回避。
その直後、爪が叩きつけた石壁は、まるで紙のように抉れた。
「攻撃が速い……霊的強度も高い……!」
「ここは“封の間”の前だ。守りが薄いわけがねぇ!」
蓮司は影刀を抜き、影をまとうように刃が暗闇を燃やす。
一瞬で踏み込み――
守り手の胸へ斬撃を叩きつける。
しかし、刃が触れた瞬間、影は裂けるどころか、逆に蓮司の影を吸い込もうと絡みついた。
「くっ……!」
「蓮司さん!」
里沙が即座に霊符を投げる。
符は空中で青白い火を生み、影の腕を焼き払った。
蓮司は一歩後退し、歯を噛みしめる。
「……影の質が、外の“影獣”とは別物だ。これは《影連そのものの守護術》だ。」
守り手は再び異様に長い腕を伸ばす。
通路全体がその腕で覆われ、逃げ場がない。
「蓮司さん、上です!!」
里沙の叫びに反応し、蓮司は跳躍。
次の瞬間、床が丸ごと抉れていた。
着地した蓮司は一瞬で判断する。
「押し切るしかねぇ! 里沙、合わせろ!」
「はい……! “抑魂符・連結”!」
里沙が五枚の符を舞わせ、空中で連結させる。
その瞬間、守り手の動きがわずかに鈍る。
蓮司は影刀を逆手に構え、その影に自分の気配を重ねた。
「《影穿・羅刹突き》!!」
影刀の刃が一瞬で三倍に伸び、螺旋状の衝撃を伴って守り手の胸を貫く。
影が大きく歪み、悲鳴とも風音とも判別できない声が爆ぜた。
だが、まだ終わらない。
守り手は胸を裂かれつつも、蓮司の腕を掴んだ。
“七つ目……開く前に……戻れ……”
「黙ってろ……もうてめぇの相手は終わりだ!」
里沙が最後の符を起動させる。
「《封焼流》!!」
符が強烈な白焔を発し、守り手の身体全体を焼き閉じるように包む。
影は痙攣し、やがて音もなく崩れた。
闇の粒が霧のように消えていくと、通路は静寂を取り戻す。
里沙は胸に手を当て、息を整えた。
「……蓮司さん、大丈夫?」
「問題ねぇ。……だが、あいつの言葉が気になるな。」
蓮司は消えていった影の残滓を睨みながら呟く。
“七つ目……開く前に……戻れ……”
あれは警告か、それとも……別の意図か。
二人は無言のまま、古社のさらに奥――
“封の間”へ続く石扉の前へと歩を進めた。
二人が古社の奥へ歩を進めるたび、空気はより重く、濃密な霊気に支配されていった。
壁に刻まれた古代の結界紋は、かすかな光を放ちながら、二人の存在を認めるように脈動している。
やがて、道は突如として開け、広い石の間へ出た。
中央に据えられたのは――想像を絶する異形の塊。
漆黒の核は、まるで闇そのものを凝縮したかのように回転しており、無数の影が蠢いている。
その中で、薄紅色に光る断片が規則的に脈打っていた。
蓮司の目がそれを捉える。
「……これが……六つ目の核か……いや、それだけじゃない……」
里沙は息を詰め、手に持った霊符が震えるのを感じた。
その脈動は――彼女自身の力と同期しているかのように、微細に反応していた。
「……見てください、蓮司さん……」
里沙の声は震え、体の奥から何かがざわめいている。
「……あの核……私の力に……影響している……」
蓮司は霊刀を握り直し、深呼吸した。
中心核から発せられる熱と霊圧は、既知の六つ目の異変を遥かに超える強さだった。
「……やはり、七つ目は……里沙のことに繋がってるな」
蓮司は静かに呟いた。
核の周囲には、かつて守り手たちが守ろうとした痕跡が、いまだ影のように蠢く。
そのひとつひとつが、蓮司や里沙の存在に反応し、わずかに空間を歪めた。
里沙は核に近づく一歩ごとに、体内の“影の脈動”を感じ、心臓が早鐘のように打つ。
「……これ……止められるのかな……?」
自問する声が、ほとんど囁きにしか聞こえない。
蓮司は彼女の肩に手を置き、低く言った。
「大丈夫だ。俺たちはここまで来た。……何があろうと、食い止める」
二人の視線は、核の中心で微かに揺れる薄紅の光――
それはまるで、生きた血のように脈打ち、同時に“七つ目の影”としての里沙自身の意識の輪郭を映しているかのようだった。
その瞬間、微かな声が響く。
「目覚め……は近い……」
里沙の身体が小さく震える。
蓮司は影刀を強く握り、核を睨みつけた。
「……来るなら……来やがれ。俺たちの前に立つなら、全力でぶつかるだけだ!」
古社の封の間は、二人を中心にして異様な圧力に包まれた。
影の脈動は次第に速まり、まるで彼らの心拍に同調しているかのようだ。
闇の中心で、六つ目・七つ目に関わる“核心”が、確かに生きていた。
そして、それは今――覚醒の一歩手前で、二人を待ち受けている。
石の間を支配していた静寂が、突如として裂けた。
中心核が、薄紅の脈動をさらに速め、影が渦巻く闇の塊が一気に膨張を始める。
「……くっ……!」
蓮司は霊刀を構え、刃先から影の力を溢れさせた。
しかし、その力でも押さえきれないほど、核の暴走は凄まじかった。
壁に刻まれた古代結界紋が、一斉に光を増す。
光は反響し、影の渦に触れるたびに、鋭い衝撃波が二人を押し返す。
「里沙……距離を保て!」
蓮司の声が響く。
しかし里沙は、その揺らめく薄紅の光に目を奪われ、身体が微かに浮き上がるかのように震えた。
核の中から、六つ目の影が現れた。
漆黒の体躯は人型を成しているが、輪郭は不定形で、時折霧のように消え、再び現れる。
その眼は深紅で、二人を射抜くように光る。
「……これが……最後の力……」
蓮司は心の奥で呟き、全身の霊力を影刀に集中させる。
六つ目の影は、核と一体化しながら、ついに形を定めたまま全力を解き放つ。
その瞬間、石間の空気が震え、影の触手が四方八方に飛び散る。
「うっ……!」
影の触手が蓮司の足元を捕らえ、身体を押し込もうとする。
里沙もまた、薄紅の脈動に吸い込まれそうになり、かろうじて術札で自身を支える。
「……ここで引くわけには……!」
蓮司は叫び、影刀を振り下ろした。
刃は闇に食い込み、触手を切り裂き、衝撃で石の床に亀裂が走る。
だが、六つ目の影は一層巨大化し、触手の数を増やして反撃を繰り返す。
核の暴走は、単なる霊力の暴発ではなく、まるで意思を持った生体反応のように、二人の行動を読み、即座に対抗してくる。
里沙は恐怖と戦慄の中で、心の奥に潜む“影の力”を引き上げる。
薄紅の光が自身の手のひらに集まり、影の触手とぶつかる瞬間――
「蓮司さん、いきます……!」
二人の力が同期し、衝撃は光と影が交錯する閃光となって封の間を満たした。
影の渦が一瞬だけ波打ち、六つ目の影の輪郭が揺らぐ。
しかし、中心核はまだ生きており、その脈動は二人の鼓動と同調して、さらなる暴走の兆しを見せていた。
蓮司は深く息をつき、里沙を守るように手を差し伸べる。
「まだ……終わらせられねぇ……けど、あの力……なんとかするしかない」
封の間は、まるで生き物のようにうなり、二人を取り巻く影の奔流が次第に激化していく。
六つ目の影――中心核――そして七つ目へ繋がる何か。
全てが、この狭い空間で、最終局面に向けて凝縮されつつあった。
影の渦は、ついに石間全体を支配した。
六つ目の影が全力を解き放ち、中心核の脈動は鼓動のように轟く。
床に走る亀裂から霊気が漏れ、結界紋は断続的に光を消し、再び点滅する。
「蓮司さん……!」
里沙は必死に術札で自身を支えつつ、核の暴走に耐える。
薄紅の光は、今や彼女の内部で強く共鳴し、暴走のエネルギーと拮抗している。
蓮司は影刀を握りしめ、呼吸を整えた。
「……これ以上は……耐えられねぇ……でも、止めるしかねぇ!」
中心核から放たれる圧力は、二人の意識を試すかのように強烈だ。
霊気の奔流が回転し、壁や柱を破壊しながら、封の間を揺らす。
天井からは瓦片が崩れ落ち、冷たい風と埃が舞い上がった。
「……このままじゃ……結界が……!」
里沙の声が震える。
蓮司は彼女の肩を掴み、強く支えた。
「大丈夫だ。俺たちで押さえ込む――里沙、力を貸せ!」
二人の霊力が衝突し、中心核の暴走に挑む。
瞬間、核の周囲の影が一瞬揺らぎ、渦の形が乱れた。
薄紅の光が里沙の力と共鳴し、中心核の脈動に“亀裂”が入る。
だが、その反動は強烈で、床が大きく崩れ、空間が歪み始める。
封の間の結界は、限界に近づいていた。
影の渦は最後の抵抗として暴れまわり、二人を引き込もうとする。
「……蓮司さん、これ……どうする……?」
里沙は恐怖と不安に揺れる心を抑え、蓮司の目を見る。
「……行くしかねぇ……最後までぶつかるんだ!」
蓮司は影刀を中心核へ振り下ろし、里沙の力と同期させる。
一瞬、封の間全体が光と闇の奔流に飲み込まれ――
中心核に、決定的な衝撃が走る。
影の暴走は最高潮を迎え、結界は崩壊寸前。
しかし、同時に里沙の“七つ目としての意識”が微かに覚醒し、核と共鳴し始めていた。
封の間は今――
最終局面の入り口に立ち、二人の決断を待っている。
封の間の結界は、もはや脆く崩れかけていた。
石の床が砕け、壁は亀裂を走り、影の渦はその裂け目を通して奔流となり暴れまわる。
霊的圧力は凄まじく、空気は重くねばりつくように渦巻いた。
その中心で、里沙の身体が光を帯び始める。
薄紅の脈動が急速に加速し、周囲の影を吸い込むように震える。
瞳の色は深紅に変わり、輪郭が影のように揺らぎながら、完全な七つ目の形態へ変貌していく。
「……里沙……?」
蓮司は叫びつつも、警戒を緩められなかった。
そこにいるのは確かに彼女だが、同時に――かつての影、七つ目の化身でもあった。
「……ここに……いるの……」
里沙の声は、彼女自身のものではあるが、どこか重く、響き渡るように空間を揺らす。
声の奥には、中心核と共鳴する“影の意識”が混ざり込み、冷たい力を帯びていた。
中心核の暴走は、七つ目の覚醒と同時に極点へ達する。
影の触手が里沙の身体から溢れ出し、封の間全体を圧倒する勢いで伸びる。
その力は、蓮司でさえも容易には抑えられない。
「里沙……目を覚ませ! 本当の自分を失うな!」
蓮司は叫び、影刀を振るい、迫りくる触手を切り裂く。
だが、触手はただの霊的障壁ではなく、意志を持つように動き、蓮司を押し返す。
里沙は自らの意識を必死に保ちながら、薄紅の光で暴走する影と対峙する。
全身から霊力が迸り、中心核と自分の影を結ぶ回路の中で、彼女自身の“心”が揺れ動く。
「……怖い……でも……私は……!」
その瞬間、彼女の意識の奥底で、七つ目の影としての力と“里沙自身の心”がぶつかり合う。
影の暴走が一瞬止まり、空間が静寂に包まれたように錯覚する。
蓮司は息を整え、影刀を胸前に構え、里沙の名を呼ぶ。
「里沙! 俺はお前を信じる! 一緒に……止めるんだ!」
里沙の光が、中心核の脈動と共鳴し、暴走の力を内側から押さえ込む。
震える手のひらから、影と光が交錯し、強烈な衝撃波が封の間を震わせた。
これが、七つ目としての里沙と、核心の六つ目の影との初めての“共鳴の衝突”だった。
周囲の結界は限界寸前。
だが、その瞬間――里沙自身の意思が、七つ目の影としての力を完全に掌握しつつあった。
封の間は、今、全ての力の収束点となり、最終決戦への扉が開かれようとしている。
封の間の中心核は、里沙の意思によりなんとか制御下に置かれたものの、反動は容赦なく二人を襲った。
石壁は轟音を立てて崩れ、天井の梁がひび割れ、灰色の粉塵が空気を満たす。
足元の床も揺れ、割れ目が一瞬ごとに広がっていく。
「蓮司、気をつけて!」
里沙は光を帯びた掌を前に差し出し、迫り来る破片を押さえつけながら声を張る。
しかし、影の残滓がまだ動き、触手のように二人の周囲を覆う。
「分かってる! お前を置いては行かねぇ!」
蓮司は影刀を振るい、崩れる瓦礫を払いのけつつ、里沙に手を伸ばす。
瞬間、地面が大きく陥没した。
二人は互いの手を握り合い、ほとんど引きずられるようにして床の割れ目を飛び越える。
「……もうすぐ出口……!」
里沙の声に力がこもる。光の脈動が中心核の力を押し返すように、暴走の影を制御している。
瓦礫の嵐の中で、蓮司は冷静に判断する。
「右だ、里沙! そこの柱の影を伝って――一気に行く!」
二人は瞬間的な呼吸の合わせで、瓦礫と崩落の隙間を縫い、崩壊しつつある封の間からの脱出口を目指す。
影の残滓が手を伸ばすが、里沙の掌から迸る光がそれを抑え、蓮司の刀が最後の抵抗を切り裂いた。
――ドンッ――
天井の一部が落ちる。
二人は砂煙の中、必死に前進する。
呼吸は荒く、全身の力を振り絞る。
だが、互いの存在が心の支えになっていた。
やがて、光と影の渦を抜け、二人は崩れかけた石扉の向こうに姿を現す。
外の空気は生暖かく、霊的圧力は減退していた。
封の間は完全に崩壊し、中心核の力は里沙によって抑えられたままだ。
「……はぁ……はぁ……やっと、外だな」
蓮司は息を整えながら、里沙を振り返る。
「はい……でも、これで完全に終わったわけじゃない……」
里沙は疲れ切った表情の中に、決意の光を宿している。
目の奥に微かに、七つ目の影としての力の残滓が揺れていた。
二人は互いに頷き合い、崩壊した古社の廃墟を後にする。
外の空には、まだ霧が立ち込め、南の異変の余波を感じさせた。
しかし、今はただ――生き延びた安堵と、次への覚悟だけが二人を包んでいた。
南の古社での異変が一段落したころ、都市の片隅では黒いスーツを纏った男が、静かに動きを見せていた。
窓越しに夜明け前の街を見下ろす姿は、冷徹で計算された静けさを湛える。
「……古社の中心核は、想定通りの反応を示したか」
彼は手元の端末を操作し、古社周辺の霊的振動を詳細に解析する。
波形は不規則ながら、明らかに“影連”の活動によるものだと特定される。
画面には、複数の結界痕跡と未解析の霊脈が表示されていた。
「六つ目の影は制御不能状態だったようだな……だが、七つ目……いや、そちらは予想通りだ」
彼の声には微かな含みがあり、計画の輪郭が浮かぶ。
影連は単なる封印の収集や力の増幅を目的としているわけではない。
最終的には、七つ目の影、すなわち里沙の力を“直接的な触媒”として利用する算段があるらしい。
端末の地図には、全国に散らばる古社・霊的遺跡がマーキングされている。
「次の標的は北東の拠点か……影連の“眼”はすでにそこに向いている」
男はスーツの胸ポケットから小型の封印符を取り出し、光を帯びた霊的解析を開始する。
それは古社の中心核とは別の、まだ“未覚醒”の影を追跡するための装置だった。
「すべては計画通り……いや、微調整は必要だ」
彼は微かに笑みを浮かべ、冷たい視線を街の空に投げる。
遠く離れた地で、影連の古社に潜む次の標的の気配が、確実に反応しているのを感じ取った。
その背後で、暗い霧のような気配が動き、未だ人知れぬ影たちが静かに待機していた。
影連の影は、すでに次の局面へと動き始めている。
薄曇りの夕刻、鬼塚探偵事務所に二人は帰還した。
古社での戦闘の痕跡は、体と心に深く刻まれている。
里沙は足早にキッチンへ向かい、深呼吸をしながら冷たい水を口に含んだ。
「……はぁ……やっぱり古社の中心核は、予想以上に危険でしたね」
蓮司は机の上に装備や札を置きながら、重々しい表情で頷く。
「俺も……あの結界の歪み、核の暴走、そして七つ目の力……手ごわかった」
二人は戦闘で得た情報を整理しつつ、解析用の霊具や端末を取り出す。
古社の中心核から検出された霊的痕跡、結界崩壊のパターン、そして里沙の力の反応──。
すべてを突き合わせることで、次の行動の手がかりを見つけるのが狙いだ。
里沙が蓮司の横で指を動かす。
「……この核、やっぱり単独の霊体じゃないですね。複数の影が交錯している」
蓮司は額に手を当て、眉を寄せる。
「だろうな……六つ目の影は完全に暴走、七つ目の里沙は半覚醒状態だった。
もし、影連の計画通りに動けば、次は北東の拠点か……」
机の上には古社から持ち帰った断片的な封印札も並べられ、それぞれに微細なひび割れや霊的な振動の跡が見える。
「札の反応も以前より活発になっている……何かが迫っている」
里沙が顔を上げ、蓮司を見つめる。
「蓮司さん……私、あの力、完全には制御できてません。七つ目の影としての反応が急に強くなるんです」
蓮司は静かに息をつき、手のひらを里沙の肩に置いた。
「わかってる。お前だけじゃない、俺も代償を背負ってる。でも、これからは二人で支え合えば……きっと乗り越えられる」
里沙は小さく頷き、資料の一つを取り上げる。
「次の行動は……どうしますか?」
蓮司は窓の外に目をやる。
夕闇に沈む街並みの中で、風がそよぎ、どこか不穏な気配を帯びている。
「まずは古社のデータを完全に解析する。それから、北東の拠点の情報を集める。次の影に備えるには、それが最善策だ」
二人は短い沈黙のあと、互いに決意を確認するように目を合わせた。
事務所の静けさは、嵐の前の静寂のように張り詰めている。
そして──
再び立ち上がるとき、鬼塚蓮司と本間里沙は、
次の影との衝突に向け、ゆっくりと準備を始めた。
夜も更け、事務所の照明だけが机上を照らす。
二人は資料と端末を広げ、古社での戦闘データを照合していた。
里沙がマップを指でなぞる。
「北東のこの区域……複数の霊的異常が連動している形跡があります。古社の核の痕跡と、同じ波動が観測される」
蓮司は眉をひそめ、端末の解析結果を睨む。
「ここに現れた六つ目の影の残滓も、連鎖的に北東の拠点に流れてる。
奴らは“次の場”を選んでるってわけか」
里沙は資料を並べ替えながら、静かに呟く。
「……もし、ここが次の影の核なら、私の力も暴走する可能性があります」
蓮司はそれを聞き、真剣な眼差しで里沙を見る。
「お前のことは心配してる。でも、今度は一人じゃない。
二人で封じるしかない」
机の上には、古社で損傷した封印札の修復作業も並行して進められていた。
里沙が札を手に取り、微細な霊力でひびを閉じる。
「……これで、最低限の補強はできました」
蓮司もまた、自身の霊具や武器を点検しながら頷く。
「準備は整った。後は出発するだけだな」
二人は事務所を出る前に、簡単な食事を取り、装備を整える。
外は薄暗い霧に包まれ、街灯が揺らめく。
不穏な気配が、道行く風や建物の陰に潜む。
里沙は深呼吸をし、背中の鞄をしっかりと肩にかける。
「……蓮司さん、北東の拠点、行きましょう」
蓮司は鞄を肩にかけ、扉を開く。
「……ああ。次の影との戦いが待ってる」
事務所の静寂を抜け、二人は夜の街へと踏み出す。
霧に混じる冷たい風が、これから向かう北東の拠点の異常を告げるかのように、背後でざわめいた。
そして、二人の影は、夜の街に溶け込むように静かに伸びていった。




