第四十二話
薄曇りの朝だった。
鉄骨造りの雑居ビルの三階にある「御影調査事務所」は、
早朝の静けさを吸い込んだように、しんと落ち着いている。
蓮司は、古いソファからゆっくりと身を起こした。
昨夜は帰還後の後処理と報告書で遅くなり、
いつの間にか寝落ちしていたらしい。
肩と背中に疲労がこびりついている。
「……ふぅ。久しぶりに全身が筋肉痛ってやつだ」
呟きながら立ち上がると、奥の小さなキッチンからコト、と音が聞こえた。
里沙が湯を沸かしている。
パーカー姿に髪をラフにまとめ、まだ寝起きの表情のまま、マグカップを二つ用意していた。
「おはようございます、蓮司さん。……すごい顔です」
「お前もな。目の下にクマできてるぞ」
「そりゃそうです。北狐戦、あれは……ちょっとキツかったです」
里沙は苦笑し、蓮司の前にコーヒーを置いた。
ほのかな香りが、張り詰めていた空気を少しだけ柔らかくする。
蓮司はマグを手に取り、一口すすった。
「それにしても……五つ目が片付いたか。
やっと半分越えたわけだが……」
「全然“終盤感”ありませんね」
「だよな」
会話は穏やかだが、
二人の胸の奥に、拭えないざらつきが残っている。
――北狐の暴走。
――“主”の声のようなもの。
――里沙の力の正体が七つ目に関わるという事実。
特に里沙は、
自分の力の底にある“何か”が昨夜の戦いで触れられた感触を忘れられずにいた。
ふと、里沙が気配に気づくように顔を上げた。
「……蓮司さん、空気、わかります?」
「……ああ。朝から妙に重いな」
事務所の窓の外の空が、
曇っているはずなのに、灰色よりさらに濃い影をまとって見える。
風が吹いていないのに、
なぜか木々がざわりと揺れたように思えた。
不自然な、湿った気配。
蓮司は窓へ近づき、外をかすかに覗いた。
「……霊障の前触れ、か?」
「私もそれ思いました。まだ何も起きてないのに、『どこかから呼ばれてる』ような……」
里沙の声が小さく震えた。
蓮司はコーヒーを置き、机の上に置いていた調査用スマホを手に取る。
その瞬間――
机の隣に置かれた古い木箱が、
コトリ、と音を立てた。
二人が同時に振り返る。
調査事務所に保管されている、
“封印された危険札”を収納してある木箱。
通常は蓮司の術で封鎖されているはずの箱が、
まるで中から叩かれたかのように揺れていた。
里沙が息を呑む。
「……嘘でしょ。あれ……反応しちゃってます?」
「らしいな。まだ何も依頼も報告も来てないのに……向こうが勝手に騒ぎ始めてる」
蓮司は木箱に近づき、札の封印の揺らぎを確かめる。
その皺のような揺れ方は――
「……南だ。南の“風”が荒れ始めてる」
里沙が眉を寄せた。
「六つ目……ですか?」
「ああ。五つ目が片付いた途端にこれだ。嫌なタイミングだな」
窓の外で、突然、風もないのに木の枝だけが揺れた。
――ザザッ……。
木箱がまた小さく震えた。
蓮司は深く息を吐き、コーヒーを飲み干してから上着に手を伸ばした。
「……行くぞ、里沙。どうせ俺たちの休息なんて、長くは続かねぇ」
里沙は、ほんの一瞬だけ目を閉じ、強く頷いた。
「はい。次の“影”……迎え撃ちましょう」
事務所の朝は、
嵐の前の静けさに似ていた。
そして、六つ目の影は――すでに動き始めていた。
鬼塚探偵事務所の扉を押し開いた瞬間、蓮司と里沙の頬を、乾いたはずの朝風が“逆向き”に撫でた。
――ビルの谷間で、風の向きが反転する。
常識では起こりえない空気の流れだ。
蓮司は思わず目を細める。
「……南からじゃない。下から吹き上げてるな、これ」
「はい……地脈が逆流している感覚です。影の前兆特有の……でも、今までより強い」
二人が階段を降り、建物の外へ出た瞬間。
――ざらっ……
アスファルトの地面に、
淡い“砂紋”のような形が浮かびあがった。
風で砂が流れた――
ように見えるが、砂は無い。
風紋だけが“地面に刻まれて”いた。
里沙が凍りついた声で言う。
「蓮司さん……これ、“風そのものが通った跡”です」
蓮司はしゃがみ込み、指で触れた。
感触はただの地面のまま。
だが、見えない何かが地表を削ったように滑った痕が残っている。
「六つ目、もう暴れ始めてるな。まだ封印が割れてなくても、力が漏れ始めてる」
里沙が大きく頷いた。
そのとき――
上空から、鳥の悲鳴のような声が聞こえた。
見上げれば、何十羽ものカラスが南の空を避けるように大きく円を描いて飛んでいる。
旋回は不自然に乱れ、風に押し流されるように形を崩す。
「……鳥が“風に負けてる”?」
「違います。“風に巻かれている”んだと思います」
ざぁっ!!
ビルの隙間を、縦に切り裂くように一筋の突風が走り抜けた。
里沙が咄嗟に腕で目元を覆う。
蓮司は一歩も動かず、ただ風の通り道を凝視した。
「……見たか、里沙」
「はい……風が、線になって走りました」
普通の風は流れる。
だが今の風は流れではない。
まるで生き物のように一本の“尾”となって駆け抜けた。
六つ目の影――
風の尾。
その特徴と一致していた。
蓮司は肩の鞄を締め直し、車へ向かって歩き出す。
「急ぐぞ。こいつはただの風害じゃねぇ。影が起きたら……町ごと消し飛ぶ」
里沙も必死で歩を合わせながら、
「蓮司さん……!」
「なんだ」
「風の尾って……本来は“守りの影”のはずです。里の境界を護る役目だったって……古文書にはそう書いてありました」
「守りの影、ねぇ……だったら、何で暴れてる」
里沙は唇をかむ。
ビルの角を曲がった瞬間、二人の目の前に、“風の渦痕”が残る電柱があった。
まるで巨大な爪で削られたように、電柱の表面が螺旋状に抉れている。
生々しい風の爪痕。
里沙が震える声で答えた。
「……“守り”の影が暴走する理由なんてひとつです。守るべき“里”が、すでに壊されかけている」
蓮司の足が一瞬止まった。
「――誰かが、封印を“先に”触ったってことか」
里沙が顔を上げ、蓮司と目を合わせる。
「昨夜のスーツの男……あれがまた動いてるんじゃないかって、私は……」
蓮司は短く答えた。
「だろうな。敵の目的が見えてきた気がする」
風が、ひゅう、と二人の間を抜けた。
まるで背中を押すように南の空へ向かっていく。
蓮司は助手席の里沙を振り返り、
「――行くぞ、南丘。六つ目が完全に起きる前に、止める」
車のエンジンが唸りを上げ、
逆巻く風の中心へ向かって走り出した。
南域に入った瞬間から、風の質が変わっていた。
ただ吹き荒れるのではない。空気そのものが裂け、無数の細い刃となって大地を削り取っていく。
蓮司は外套の裾を押さえながら、暴風の中心へ視線を向けた。
「……見えてきたな。あれが“六つ目”の封印地点らしい」
地平の先、白砂の台地が盛り上がり、まるで巨大な渦のような空間が穿たれていた。
砂は巻き上げられ、石は粉砕され、風が風そのものを削り続ける――
自壊を孕んだ嵐の核。
里沙は眉を寄せ、指先に力を込めた。
彼女だけが感じ取れる、七つ目に由来する“反響”が、その中心から弱く――しかし確かに――震えていた。
「……ここ、ただの暴走じゃない。誰かが触った痕跡がある。ひどく歪んでる」
「スーツの男の仕業か?」
「たぶん。風の封印を“こじ開けた”感じ……封印を壊すんじゃなく、無理やり呼吸をさせたみたいな……」
暴風の中心には、縦に裂けた光の柱のような亀裂が立ち上っていた。
本来あるはずの封印機構は砕け、代わりにその“亀裂”が脈動している。
風が吸い込まれ、爆ぜ、また吸い込まれる。
まるで巨大な肺が、狂った拍動で空気を飲み込み、世界を飲み干そうとしているかのようだった。
蓮司は一歩前に出て、目を細めた。
「……どう動く? 近づくほど強風で体が持っていかれる。俺が盾になるにしても限界があるぞ」
「でも、封印機構の“再起動”を狙うなら、中心のあの亀裂に触れなきゃいけない。蓮司さんを巻き込むわけには――」
「巻き込んでいい。相棒だろ」
不意に言われた言葉に、里沙は一瞬だけ暴風を忘れて息を呑んだ。
だが、すぐに目を伏せ、微かに笑う。
「……うん。じゃあ、頼りにする」
そのとき――
“風の核”が一際大きく脈打った。
空気が裂け、地表がめくれ上がり、周囲の山影すら形を変えるほどの衝撃が走る。
蓮司の背筋に嫌な感覚が走った。
「里沙、来るぞ……!」
風の中心の亀裂が、まるで生き物のように開いた。
次の瞬間――
亀裂の奥から、何かが“顔”を出した。
風でできた獣のような輪郭。
しかし目だけが、明らかに“影の色”を帯びている。
六つ目の影の“実体化”――
封印が壊れかけたときだけ現れる、最悪の兆候だった。
「……やばい。本来の段階より二段階は早い……!」
「押し返すしかねぇな。六つ目の影、相手してやろうじゃねぇか」
嵐が、二人の方へ咆哮する。
風そのものが「形」を取りはじめた。
それは獣とも、鳥とも、龍ともつかない。
嵐の中で輪郭が千変万化し、触れれば肉体が存在ごと削ぎ落とされる“風刃”が
いくつも尾を引いていた。
六つ目の影――
《風ヶ咢》。
蓮司が踏み込むより早く、影の咆哮が空間を震わせた。
「ッ――来るぞ!」
瞬間、周囲の空気が抜け落ちた。
“無風”――だが、次の一息の間に、それは爆ぜる。
風刃が連なり、巨大な斬光の奔流が
二人を飲み込もうと迫った。
蓮司は即座に前へ出て、自らの影を長く引き延ばした。
「《影装・両断圏》――ッ!」
影が分厚い盾のごとく形を変え、迫る風刃にぶつかる。
しかし――
「……っぐ、重っ……!?」
風刃はただの斬撃ではない。
“大気の圧”そのものが刃になっているため、影を削りながら押しつぶすように襲いかかってきた。
蓮司は踏ん張り、足元の砂が抉れながらも、なんとかその奔流を受け止める。
だが、耐えきれない。
盾を破壊されれば即死の圧だ。
「蓮司さん、下がって!」
里沙が片腕を突き出した。
彼女の影の“核心”が胸元で脈打つ。
――七つ目に繋がる、あの鈍色の光。
風が、揺らいだ。
六つ目の影がわずかに動きを止める。
「《反響》……!」
里沙の影が音もなく広がり、風の構造を“逆なでる”ように干渉する。
風の勢いがわずかに乱れ、蓮司への圧が軽くなった。
「助かった……! 一気に行く!」
蓮司は影を斜めに伸ばし、巨大な槍の形状へ変化させて突き出した。
《影穿・断風槍》。
風の獣の胴体を貫く――
はずだった。
「……ッ!? 抜けた!」
槍は確かに命中した。
だが、手応えがない。
影が貫いた箇所は一瞬で“風に戻り”、すぐに別の形を再形成した。
六つ目の影は風の構造を瞬時に組み替え、致命を与えられる“点”を作らせない性質を持っている。
そして、反撃が来た。
風の獣が大きく身をよじり、六つの尾のような旋風を一斉に解き放つ。
その軌道は不規則で、まるで風そのものが意思を持って追尾してくるかのようだ。
「うそ……避けきれない!」
「避ける必要ねぇ――ッ!!」
蓮司は影を地面へ叩きつけ、爆ぜるように濃度を高めて“影壁”を六枚、瞬時に展開した。
だが、一枚、二枚……風刃が触れた瞬間に粉砕されていく。
三枚目が砕けたところで、蓮司が歯を食いしばった。
(間に合わねぇ――!)
四枚目の影壁に風の尾が迫る。
そのとき――
「蓮司さん、上!」
里沙が声を張り上げると同時に、彼女の足元から不可思議な振動が走った。
風が、止まる。
いや、“止まったように見える”。
世界の一部だけが、急に音を失ったかのような領域――
里沙の《反響野》が展開した。
そこで初めて、蓮司は見た。
風が、音のない壁に衝突し、その勢いを削がれている。
「……助かった。相性、抜群だな、お前」
「そういうの後で! まだ終わってないから!」
六つ目の影は封じられた動きを嫌うように歪み、暴風をさらに強めていく。
嵐は牙を研ぎ、“本性”をむき出しにし始めていた。
六つ目の影《風ヶ咢》は、里沙の《反響野》によって動きを制限されながらも、なお暴風の密度を高めていた。
その中心で、影の核に相当する“風の渦”が異様な光を帯びはじめた。
「……まずい、“本能進化”の前兆だ」
蓮司が口の端を噛む。
影は七つの封印に対応する“主”の意志に触れれば触れるほど、自律的に進化し、強度が跳ね上がる。
ここで進化されれば――
この地帯一帯が吹き飛ぶ。
蓮司が構え直した瞬間、風ヶ咢の咆哮が爆ぜた。
「――――――ッッ!!」
空気がひしゃげる。
風の渦が破裂し、里沙の《反響野》が一瞬だけ押し戻される。
「っ……蓮司さん! 受けきれません!」
その隙を逃さず、風が襲う。
六つの風刃尾が、蓮司の胸元めがけて収束した。
――この速度は、避けてもかすって死ぬ。
蓮司の身体が、反応より先に悟った。
だからこそ、“封じていた手”が勝手に動いた。
蓮司の影が、地面へと沈みこむように震え――
その中心に、黒い“紋”が浮かび上がった。
「……っ、やめろ……! まだ使う気は……!」
蓮司が叫ぶより早く、紋は脈動した。
里沙が息を呑む。
「蓮司さん、それ……まさか――」
蓮司が長年封じていた秘技。
影を扱う者にとって禁忌に近い技。
《影食》
本来は影術師の生命力そのものを代償に、影に“別格の質量”を与える、危険な融合技。
封印の影と相対するときだけ発動を許される、蓮司の最深部の術。
しかし蓮司自身がまだ制御しきれていないため、本来なら使うべきではなかった。
黒い紋が開き、蓮司の影が“牙”のように隆起する。
影が揺れ、形を変え、渦を巻きながら巨大化し――
蓮司の背後に、もう一つの“影の腕”が生まれた。
「……く……っそ、勝手に出やがって!」
抑えきれない。
発動条件を満たした以上、影が自律する。
影の腕は、襲い来る風刃の束をわしづかみにし――握り潰した。
風が悲鳴を上げるように乱れる。
蓮司の顔色は明らかに悪い。
影食の代償で、すでに血の気が引いている。
「蓮司さん! 無茶です、これ以上は――!」
「わかってる……! だが、ここで押し返せねぇと……“南”が全部持ってかれる!」
影の腕は脈打ち、蓮司の影と同調するように動く。
六つ目の影《風ヶ咢》も、その異常な質量に気づき、初めて後退した。
風の核が揺らぎ、次の一手を探るように渦が歪む。
蓮司が低く呟いた。
「――これが最後の一撃だ。長くは保たねぇ。里沙、お前の《反響》で風を“縫い止めろ”」
里沙は迷いなく頷く。
「……はい。蓮司さん、合わせます」
二人は同時に動いた。
里沙の影が風の渦を固定し、風ヶ咢の“核”が露出する。
蓮司の影腕が、その一点に照準を合わせて――
「《影食・崩風》――ッ!!」
地を揺るがす衝撃が走った。
影の腕が核を貫き、風の渦を内部から“噛み砕く”。
六つ目の影が悲鳴を上げるように震え、周囲の暴風が一気にほどけていく。
しかし――
核は砕けたが、完全には封じられていない。
影は霧散せず、形を変えて遠方へ逃れようとしていた。
蓮司は膝をつく。
「っ……くそ……追撃が……できねぇ……!」
影食の反動で視界が霞んでいた。
そのとき――
遠くの丘の上。
黒いスーツの男が、淡く輝く“風の紋章”を手に立っていた。
彼が、核の欠片を引き寄せている。
「……また、あの男……!」
里沙の声が震える。
六つ目の核心は、彼の手へ吸い込まれていった。
スーツの男は、冷ややかな眼差しで蓮司たちを見下ろし――
風の中へ消えた。
風ヶ咢の核を噛み砕いた影腕は、勝手に生まれたときと同じように、蓮司の制御を無視して消えはじめた。
黒い質量が、もとの“影”へと溶けていく。
蓮司は片膝をつき、荒く息を吐いた。
「……っは、……くそ……やっぱ、まだ……制御しきれてねぇ……」
呼吸が浅い。
顔面から血の気が消えていく。
影食は生命力を直で削る術だ――
本来、使えば一日では回復しない。
里沙はすぐそばに駆け寄り、蓮司の肩を支えた。
「蓮司さん、立てます? 無理しないで!」
「……大丈夫だ。ちょっと……“吸われただけ”だ……」
「大丈夫じゃないです、これ……!」
里沙の手のひらに、蓮司の体温が異様なほど低く感じられる。
影が霊力の芯を無理やり持っていった直後の症状だ。
蓮司は荒い呼吸のまま、ゆっくりと影が戻っていく地面を見つめた。
その目は、戦いの疲れとは別の、深い後悔を帯びていた。
「……本当は……まだ使うつもりじゃ、なかったんだがな……」
「なんで止めてくれなかった、って言いたいんですか?」
里沙の声に、痛みが滲んでいた。
蓮司は首を横に振る。
「……いや。あのままじゃ……お前が持たなかった。だから……まあ……打つしかなかった」
「……っ」
里沙は唇を噛む。
風ヶ咢の進化は本当に危険だった。
あの瞬間に蓮司が技を使わなければ、里沙の結界は吹き飛ばされ、二人ともただでは済まなかった。
それでも。
「……蓮司さん、本当に、その技……身体削れるんですよね?」
「削れるどころじゃねぇよ。間違えりゃ……影に喰われて終わる」
「そんなの……っ。そんなの、もっと前に言ってくださいよ……!」
里沙の声が震えている。
怒りではなく、恐怖に近い震え。
だが蓮司は、ひどく弱い笑みを浮かべた。
「……言ったら……お前が止めるだろ」
「止めますよ!! 当たり前でしょう!」
抑えこんでいた里沙の感情が噴き出した。
涙こそ落ちないが、その声は明らかに震えている。
「蓮司さんが……影になんか喰われたら……私……どうすればいいんですか……」
蓮司の眼差しがかすかに揺れる。
彼は息を整えながら、里沙の手にそっと自分の手を重ねた。
「……悪い。でも……今回は……あれ以外に、道がなかった」
里沙は、その手を離せなかった。
蓮司の手は冷たく、握りしめるほど影が震える。
「……歩けますか?」
「……ああ。少しならな」
「じゃあ、もう少し寄りかかってください。無理して立とうとしないで」
蓮司は、素直に里沙の肩に体重を預けた。
ぐらり、と身体が揺れる。
「……重いですけど……死ぬよりマシです」
「言い方……鬼かよ……」
「はい。鬼塚さんですから」
「……俺の名字をそう使うな……」
弱い笑いが二人のあいだに生まれた。
それはほんの僅かだが、影の気配を晴らすほどの温度を持っていた。
だが――
風が止んだはずの空気の奥で、“ひとつだけ別の気配”がかすかに蠢いた。
七つ目の影とは違う。
もっと、人工的で不吉なもの。
蓮司は気づかない。
反動で感覚が鈍っている。
里沙だけが、
ひりつくような嫌なざわめきに首を向けた。
「……蓮司さん……?」
「どうした」
「……いえ……気のせい……かもしれません」
だが、それは“気のせい”ではなかった。
六つ目の封印は確かに弱らせた。
だが核心は奪われ――
次へと連なる“連鎖”が始まっていた。
事務所に戻った頃には、
蓮司の顔色はほとんど紙のように白くなっていた。
外傷はない。
だが影食の“内側の損耗”は、
見た目以上に重い。
里沙は鍵を開け、蓮司を支えながら中へ入った。
「――ほら、ソファ。座ってください」
「……ソファを見ると、寝落ちの記憶しかねぇな……」
「今日は寝落ちじゃなくて“沈没”しますよ。動くと悪化しますから」
反論する気力もないのか、蓮司は素直にソファへ倒れ込んだ。
里沙はすぐに隣の棚から黒檀の箱を取り出す。
蓮司の影の乱れを補正するための事務所専用の“影具”が収められた箱だ。
その中の、手のひらほどの影符を取り出し――
「……はい、蓮司さん。胸に貼りますよ」
「……お前、容赦ねぇな……もう少し言い方……」
「はいはい、動かない動かない。……よし、貼りますっ」
「冷てぇっ!」
「我慢してください。影の芯、揺れてるんですから」
影符が貼られると、黒い紋がゆるやかに蓮司の胸へ溶け込んでいく。
苦しげだった呼吸がわずかに整い、蓮司の影がようやく落ち着きはじめた。
「……助かる。影食の反動、ここまで重いとは……」
「“まだ使う気はなかった”って言いましたよね。じゃあ練習も調整も、してないんですよね?」
「……耳が痛いな」
「言ってるの、私だけじゃないですよ。蓮司さんの影、私にも怒ってました。“扱い雑すぎ”って」
「そんな翻訳いらねぇよ……」
里沙はため息をつきながら、卓上のノートパソコンを開いた。
「さて……六つ目の影《風ヶ咢》のデータ、整理します。蓮司さんは寝ててください」
「寝ない……報告ぐらい、俺も――」
「横になりながら喋るなら許可します」
「お前ほんと……」
蓮司は文句を言いながらも、ソファに体を預けたまま喋り始めた。
里沙は昨夜の戦闘記録をまとめ、蓮司の証言と照合する。
「まず……六つ目。“封印核”は破壊しかけたのに、完全に浄化はできなかった……」
「核が砕ける直前……変な引き寄せの感覚があった。あれは、間違いなく“外部の術”だ」
「やっぱり……スーツの男、ですね」
「あいつ……六つ目の核の欠片、そのまま回収してった」
里沙は項目に書き込んでいく。
・六つ目核は“第三者の術式”によって回収
・核欠片は影そのものとは違う流れで吸収
・男の手の紋章 → 風の紋に類似、だが形状は“人工”
「……人工。やっぱりそこなんですよね」
里沙は画面を見つめながら声を落とした。
「蓮司さん。影の核を“回収する”術……自然由来じゃ説明できません」
「ああ。あれは……“作られた器”だ。影を集めるためだけの」
蓮司が目を閉じたまま続ける。
「……里沙。お前が帰り道で感じた“人工の気配”。たぶん、あの男の背後にいる奴のもんだ」
「……じゃあ、やっぱり――」
「影を集めて……別の“影”を作ろうとしてやがる」
事務所の空気が冷たくなる。
――七つの影をもとに、“八つ目”を創る。
それがもし事実なら、封印の歴史そのものを覆す禁忌だ。
里沙は小さく息を呑む。
「……蓮司さん。いまは休んでください。この続きは、体力戻ってからで」
「……ああ。悪い。ちょっと……眠くなってきた……」
「影符が効いてる証拠です。寝ていいですよ。見てますから」
「……お前が横にいると……影……おとなしいな……」
「……それは褒め言葉と受け取ります」
蓮司はそのまま目を閉じ、深く静かな呼吸へ落ちていった。
里沙は彼を見守りながら、ノートに最後の一文を書き加えた。
“六つ目の核――外部回収。
七つ目の胎動とは無関係。
だが、目的は……『八つ目』の創造か?”
そして、里沙は静かな決意でペンを置いた。
「……蓮司さん。絶対、守りますから」
――黒い電灯だけが点る、地下研究区画。
重油の匂いと薬品の金属臭が混ざり、空気は冷えきっていた。
スーツの男――星賀は、鋼鉄台の上に固定された“六つ目の核片”を見下ろしていた。
風の暴走を生んだ中心物質。封印される直前に、影そのものが残していった微細な“名の断片”。
その欠片から、淡い翠光が立ち上る。
脈動――鼓動にも似た震え。
星賀は手袋越しに表面へ触れ、低く呟いた。
「……やはり、反応している。『七つ目』に向けて、確実に」
隣のガラス越し、観測室で白衣の研究員たちが忙しなくモニターを操作する。
「主任、数値が上昇しています! “共鳴周波数”が先日の北狐核の三倍、封印強度の許容量を超過――」
「構わん。そのまま続けろ」
星賀の声は冷たいが、奥底では確かな昂揚が揺れていた。
七つの影――
その“根”となるものは一つ。
影たちが追い求め、そして恐れている存在。
それこそが計画の最終段階を形作る鍵。
「……鬼塚蓮司。お前が六つ目の暴走を止めたことで、ようやく“入口”が開いた」
星賀の眼差しは、核片を超えた遠い一点を見据えていた。
「七つ目――“主”への回廊だ。封印を修復する者がいればこそ、こちらも正確に位置を割り出せる。お前たちは実に――便利だよ」
翠光が一瞬、爆ぜるように明滅した。
研究員が震え声で報告する。
「主任! 核片が……影の“意思波”らしきパターンを形成しています! これは……呼んでいる? 何かを……!」
星賀は静かに微笑した。
その笑みは氷のようで、しかし狂気の火を宿していた。
「七つ目が目覚めつつある。こちらの干渉に気づき始めたのだろう。よい……」
男は背後の黒いスクリーンに手をかざす。
そこには巨大な設計図が映し出されていた。
封印陣。
転位構造。
そして中央には――“影の王門”。
「計画は最終局面へ移行する。六つ目の影は倒された。だが、それで十分だ。次は……“七つ目”を降ろす」
スクリーンが低い電子音を立てながら更新される。
《最終段階:影王顕現プロトコル》
《進捗:62%》
星賀は静かに言葉を落とした。
「世界を“影の相”へ反転させる。そのための王の器――鬼塚蓮司。君には、まだ働いてもらう」
翠光が再び脈打つ。
核片が震え、まるで何者かの呼吸のように。
「――始まる。ここからが本番だ」
そして男は、闇の奥へ歩き去った。
七つ目が目覚める前に、最後の準備を整えるために。
夜が明けて間もない事務所は、まだひんやりと静まり返っていた。
風の暴走との死闘を終えて間もない蓮司は、ソファに横たわり、微弱な影の痛みに顔をしかめている。
里沙は湯気の立つ黒豆茶を机に置き、蓮司の額に手を当てた。
「……熱、まだ下がってない。無理したんだよ」
蓮司は乾いた息を吐き、視線をわずかに逸らした。
「影食の“代償”だ。慣れてるさ……ただ、六つ目の奴は……ちょっと特殊だった」
里沙の瞳が、ほんのわずか揺れる。
影の暴走の中心で感じた“圧力”。
あれは影というより――何かもっと根源的なもの。
そして何より。
六つ目と対峙した時、“なぜか彼女だけが強い眩暈を覚えた”こと。
六つ目が放つ風の渦が里沙の周囲だけ不自然に触れず、まるで避けるように流れていったこと。
(……あれは、偶然じゃない)
そんな不安を押し込めていたその時だった。
机上に置かれた里沙のスマホが、突然ビリ、と震えた。
同時に部屋の照明が一瞬だけ明滅する。
「……え?」
照明の光が、里沙の影を床に長く引き伸ばす。
その影は、人の形をしているはずなのに――
輪郭の一部が揺らぎ、ほんの瞬きの間だけ、別の“形”を作った。
蓮司の表情が凍りつく。
「今の……見えたか?」
里沙も青ざめてうなずく。
「あの影……私じゃ、なかった。まるで――」
蓮司はゆっくりと身を起こし、彼女の影に視線を落とす。
「ああ。まるで“別の意志”が混ざってるようだった」
沈黙。
里沙の喉がひく、と鳴る。
蓮司は続ける。
「里沙……お前、六つ目の暴走中に何か感じなかったか? 声とか、引かれるような感覚とか」
里沙は唇を噛む。
「……“呼ばれた”。そんな気がした。誰かに、じゃなくて……何か“上位の存在”に」
蓮司は目を細める。
それはかつて、スーツの男が調査資料の中で暗に示していた言葉。
“七つ目は呼ぶ。自らの欠片を”――。
里沙は恐る恐る続けた。
「蓮司さん……私、“七つ目の影”と関係があるの?」
蓮司は即答しなかった。
言葉を選ぶより早く、部屋の空気がふっと重くなる。
次の瞬間、里沙の影が――
一瞬だけ、人ではない『獣のような形』へと変形した。
蓮司が息を呑む。
「……やっぱり、始まったか」
里沙は震える声で叫ぶ。
「蓮司さん! 私、まさか……!」
蓮司はその肩を掴み、強く、しかし優しく言う。
「落ち着け。まだ断定は出来ない。だが――七つ目の影は“人に寄生”する形だと古文書にはあった。里沙、お前の中の“何か”が目覚めつつある」
里沙は顔色を失い、背を震わせる。
蓮司は続ける。
「だが勘違いするな。影が憑いているなら――俺が必ず斬る。お前を失わないために」
その言葉に、里沙の瞳がわずかに潤む。
だがその直後。
――ビシッ!
事務所の窓ガラスに亀裂が走った。
まるで“外側”から叩かれたように。
蓮司は即座に立ち上がり、影を呼び起こす。
里沙は口元を押さえた。
「蓮司さん……七つ目が……来る……」
蓮司は静かに頷いた。
「分かってる。お前の中に“合図”を送ったんだ」
里沙の影が揺らぐ。
外では風が渦巻き、遠くで獣のような咆哮が響いた。
七つ目――
それは「里沙自身」にまつわる何か。
そして今、確実に近づいてきている。
事務所の空気が、ひゅう、と細く吸い込まれるように冷えた。
風ではない。
霊障とも違う――もっと静かで、もっと深い何か。
蓮司は里沙の肩を支え、窓の亀裂へ目を向けた。
「七つ目が……外にいるのか?」
里沙は首を横に振る。
「違う……外じゃない。“内側”から呼ばれてる。胸の奥が……ずっと深いところが、ざわざわして……」
言葉にならない感覚に怯えながら、彼女はゆっくり胸元を押さえた。
――ドクッ……。
鼓動とは違う“影の脈動”が、里沙の身体の中心から響く。
蓮司は即座に影視を発動し、
里沙の身体に潜む影を視界に浮かび上がらせた。
その瞬間、蓮司の表情が固まる。
「……おい。これは……」
里沙の影は確かに“人型”をしている。
だが、その“腹部の奥”に――
別の影の核 が存在していた。
しかもそれは五つ目、六つ目にあったような獣型や属性型の影ではない。
もっと形が曖昧で、もっと“人に近い”、しかし“人ではない”輪郭。
蓮司は呟く。
「……影じゃねぇ。“胎”だ。――七つ目の《胎影》」
里沙が震える声で問う。
「胎……? それって……私の中に“生まれかけてる”って……?」
蓮司は言葉に詰まる。
“七つ目は生まれるもの”
“器を得て成長するもの”
“七つ目は“影であり、人であり、人ならざる存在””
古文書の断片が脳裏をよぎる。
蓮司は苦く息を吐いた。
「七つ目は……“人に寄生して育つ影”らしい。お前の中に……すでに核がある。しかも、ずっと昔からな」
“ずっと昔から”。
その言葉に、里沙の眉がかすかに跳ねた。
「昔って……いつからですか? 私……そんな大それたこと、何も……」
蓮司は視線を床へ落とした。
「分からねぇ。お前が影を感知できる異常な体質なのは知ってた。だが“影への免疫が強すぎる”こと……五つ目に触れても精神汚染がゼロだったこと……全部、説明がつかなかった」
里沙は俯き、震える声を搾り出す。
「私……人間じゃないんですか?」
蓮司は無言で、しかし強く首を振る。
その眼差しは厳しく、しかし迷いはなかった。
「里沙、お前は人間だ。ただ――“七つ目の器”なんだよ」
里沙は胸元を握りしめる。
その瞬間、部屋の灯りがふっと落ちた。
闇が一瞬だけ支配する。
暗闇の中で、里沙の影だけが――ゆっくりと“二重”になった。
ひとつは里沙自身の影。
もうひとつは、背後に寄り添うように生まれた“第二の影”。
蓮司だけに、それが見える。
その輪郭は――
人型。
だが、目の位置に闇の穴が二つ。
口の部分が、かすかに裂けている。
そして、蓮司のほうを見ている。
蓮司は息を呑んだ。
「……七つ目。“里沙の影”を真似ている……」
里沙は涙をこぼしながら呟く。
「蓮司さん……こわい……私の中で……誰かが笑った……」
蓮司は毅然と彼女の肩を抱いた。
「大丈夫だ。お前の影は――俺が斬る。お前を守るためなら、何度でも」
だがその言葉を遮るように――
里沙の影の奥から、微かな声が漏れた。
……リ……サ……
……ウ、ツレ……
……アト、ひとツ……デ……
蓮司と里沙の背筋が凍りつく。
七つ目はまだ“完全ではない”。
だが確実に形を取り始めている。
そして、“あと一つで完成する”と告げている。
里沙は震える唇で蓮司に寄りかかった。
「蓮司さん……七つ目って……私から“生まれる”んじゃ……?」
蓮司は彼女を支えながら、
低く、しかし覚悟を決めた声で告げる。
「――その前に、俺たちが止める。お前の影が“怪物”になる前にな」
事務所の窓の外で、
再び風が荒れ狂うように吠えた。
七つ目が、確実に近づいている。
里沙をソファに座らせた直後だった。
――ピシ……ッ。
事務所の床に、髪の毛ほどの細い亀裂が走った。
何かが落ちたわけではない。
足音も、揺れもなかった。
ただ、里沙の影がほんの一瞬だけ“五倍ほどに伸びた”。
その瞬間、床板の一部が耐えきれずにひび割れたのだ。
蓮司は反射的に振り向く。
「……里沙、お前……意識して影を動かしたか?」
彼女は怯えた瞳で必死に首を横に振った。
「い、いえっ……! 私、ちょっと座っただけで……!」
だが、その座っている彼女の足元では――影が“ざわざわと濃度を変えていた”。
蓮司の影視がそれをとらえる。
【揺れ】
【脈動】
【二重化の前兆】
蓮司は眉を寄せ、低く叫んだ。
「影、勝手に脈打ってる……! 里沙、動くな!」
「う、動きませんっ……!」
彼が一歩近づいた瞬間――
――ドクン。
里沙の影が、蓮司のほうへ“這うように伸びた”。
蓮司はすぐさま札を構え、影の先端を焼く。
紙が閃光のように光り、影が“縮むように”引き戻された。
里沙は顔を歪め、胸元を押さえる。
「っ……! 痛っ……心臓じゃない……影の奥が……熱い……」
蓮司は近づき、膝をついて彼女の顔をのぞき込んだ。
「呼吸を合わせろ。吸って……吐け。影の奥――“胎影”が動き出してる。無理に抑え込むな」
「でも……これ、私じゃ止められません……っ」
その言葉と同時、影が突然“口の形”になった。
影が口だ。
平面のはずの影が、深みを持った“穴”として開く。
そして――
……リサ……オキロ……
……ツギ、イクゾ……
……ナナツ、トジルナ……
声だ。
影の穴の奥から“声”が流れ出す。
里沙自身の声に似ているが、濁っていて、幼くも聞こえ、しかし老人のようでもある。
蓮司は即座に札を三枚展開し、影を押し返すように床へ叩きつけた。
「……っく。七つ目、もう喋れるのか……!」
影は焼かれ、穴は塞がっていく。
しかし“声の余韻”だけが里沙の耳裏に残った。
里沙は震える指をこめかみに当て、怯えを隠せないまま呟く。
「……蓮司さん……影の声、聞こえました……? “次へ行く”って……“七つを閉じるな”って……」
蓮司は深く息を吐き、彼女の肩を両手で掴む。
「落ち着け。これは暴走の一歩手前だ。まだ“里沙の意識”が勝ってる。制御不能じゃねぇ」
しかしその声とは裏腹に、彼の額に汗が滲んでいる。
七つ目は――
もう意志を持ちはじめている。
その証拠として――
里沙の影が、“里沙の知らないタイミングで動く”。
そのたびに、里沙は胸の奥に“他人の感情”のようなものを感じ始めていた。
喜びでも、怒りでも、悲しみでもない。
ただ――生まれようとする胎動。
彼女は震える声で呟いた。
「これ……もう“私”だけじゃ止められないですよね……?」
蓮司は視線を奥に潜らせ、静かに言った。
「止める。だがこれは……俺とお前だけじゃ無理だ。“誰か”の力を借りることになる」
里沙が不安そうに顔を上げる。
蓮司は冷静に告げる。
「里沙の中の七つ目は、影だけじゃなく“名”も繋がってる。だから――専門家の“名術師”が必要だ」
里沙は唇を噛んだ。
「……誰に、会いに行くんですか?」
蓮司は、目を細めて答える。
「……俺の“師匠”だ。影斬りの元祖。七つ目を唯一封じたことのある――あの人間だ」
事務所の空気が、重く沈む。
里沙の影が静かに揺れた。
まるで“次の展開”を、影自身が楽しみにしているかのように。
昼下がりの陽は弱く、
雲の薄膜に覆われて“白い影”のように差し込んでいた。
鬼塚探偵事務所を出た蓮司と里沙は、
南方面へ続く古い街道を歩いていた。
舗装こそされているが、道路の脇には昭和の名残のような電柱と、使われなくなった商店のシャッターが連なっている。
だが――その景色の奥に“薄灰色の揺らぎ”が漂っていた。
里沙は歩きながら胸を押さえる。
「……影が、さっきからざわざわして……蓮司さん、師匠ってどんな人なんですか?」
蓮司は眉を片側だけ上げた。
「説明が難しいが……一言で言えば、“怪物を斬ってきた化け物”だ」
「えぇ……」
「師匠の技がなきゃ、俺は影斬りになれなかった。七つ目の封印が可能な奴なんざ、日本で一人しかいない。――烏丸静真。そいつのところに行く」
里沙はその名前を聞いた瞬間、胸の奥で“影の胎動”がわずかに強くなった。
……シズ……マ……
……コナイデ……
微かな声のさざめきが耳裏で揺れ、里沙は足を止めそうになる。
蓮司が即座に気づく。
「里沙。今、声、聞こえたか?」
「う……ん……っ。“来るな”って……誰かが……」
蓮司は舌打ちをし、周囲の気配の揺らぎを手で払うように確認した。
そのときだった。
周囲の空気が一瞬、冷たく震えた。
木々が揺れたのではない。
風が吹いたのでもない。
――影が“逃げた”のだ。
蓮司は目を細めた。
「……七つ目が、烏丸を恐れてる?」
里沙は怯えたように蓮司の袖をつかむ。
「じゃあ……行ったら、私の中の影……どうなっちゃうんですか?」
蓮司は短く息を吐く。
「どうなるか分からねぇ。だが、今行かなきゃもっと悪い。烏丸は、胎影の成長を止められる唯一の術師だ」
里沙は不安を抑えながら頷く。
ふと――
道路の先、古い鳥居が一つ立っていた。
赤いはずの木材は風雨にさらされて褪せ、
まるで血が抜けた骨のような色になっている。
蓮司は言う。
「烏丸の家は、あの山の奥だ。“影斬りの里”の唯一の生き残り。影の通り道を知ってるのは、あいつだけだ」
鳥居の下をくぐった瞬間、世界が少しだけ“重く沈んだ”。
影の音が濃くなる。
里沙の影がまた、足元でざわりと揺れた。
だが今回は――
“里沙の身体とは別に動く”のではなく、
影が、蓮司のほうへ寄り添うように伸びた。
まるで助けを求める子供のように。
蓮司が驚いて立ち止まる。
「……これは……?」
里沙は目を丸くした。
「うそ……! 私、動かしてない……!」
蓮司は影視を発動する。
すると――
影の中心、胎影の“核”が、怯えたように震えている。
七つ目は、烏丸に対して“恐怖”の感情を持っている。
蓮司は低く呟いた。
「……影が恐れるほどの術師。やっぱり、あいつのところに行くしかねぇな」
里沙は蓮司の背を見つめ、不安と期待が入り混じる声を漏らす。
「……蓮司さん、あなたの師匠なら……七つ目の影……止められますよね?」
蓮司は振り返らないまま答えた。
「止められるかどうかは分からねぇ。だが――“斬る”ことはできる」
里沙は息を呑む。
蓮司は続けた。
「お前を守るために、影ごと全部斬り落とす可能性もあるって話だ」
里沙の胸の奥が冷えた。
影が“痛がるように”震えた。
だが蓮司は、その冷えを振り払うように言葉を重ねた。
「……でもな。烏丸が斬る前に、絶対に何とかする。影を殺さずに、お前を守る道を探す。だから――行こう。覚悟を決めてな」
里沙は震えながらも頷いた。
そして二人は、“鳥居の奥へ進む山道”へ歩を踏み入れた。
風もないのに木々がざわつき、
どこか遠くで、影の声がくぐもった悲鳴を上げた。
七つ目は、確実に覚醒へ向かっている。
そしてその行く先で――
蓮司の師、烏丸静真が待っている。
――山脈の皺を深く刻んだような峻険の谷を抜け、蓮司と里沙は、かつて“影狩り”たちが隠れ住んだ 旧結界の里 へと足を踏み入れた。
道を覆う杉の巨木は、まるで外界を拒むように枝を絡め、その下を通る二人の足音だけが、濡れた土に淡く沈む。
里沙が、急に息を呑んだ。
「……蓮司さん。これ、圧が……すごい。空気が、重い……?」
蓮司は頷く。
この場所に近づくほど、肌に触れる気配は鋼のように冷たくなっていく。
――そう。これが、師・烏丸静真 の“呼吸圏”。
ただそこにいるだけで、領域が生まれる男。
人の身でありながら、影より深く、炎より苛烈な“圧”を纏う男。
蓮司の表情が、無意識に引き締まる。
「師匠は……変わってねえな。近づくだけで、肺が縮む」
「蓮司さんがそう言うってどういう……」
言葉を終える前に。
霧の向こうから、ゆらり、と黒い衣が翻る気配が現れた。
次の瞬間には、二人の前に“立っていた”。
足音も、気配の揺らぎもなかった。
まるで影そのものが人の形を取ったかのように。
「……相変わらず、来るなり門を叩かず進み込む。――蓮司」
低く、岩肌を擦るような声。
烏丸静真。
黒衣は風すら裂かず、ただ静止しているだけなのに圧が強い。
その眼差しは刀の刃のように細く鋭いが、底には年輪のような深さが潜む。
蓮司は一歩進んで頭を下げた。
「久しぶりです、師匠。……力を借りに来ました」
「わかっている。――その娘の“波動”が教えてくれた」
静真の視線が、里沙の胸奥――暴走しかけている“影の核”へとすっと向く。
里沙は思わず背筋を凍らせた。
ただ見られただけで、心の奥に隠した傷に触れられたような感覚。
「あなたの中で“何か”が目覚めかけている。蓮司、お前にも気づけているはずだ」
蓮司は無言で頷いた。
里沙の中の“七つ目”の影。
その核が揺れ、暴れ始めている。
静真は、二人を手招きした。
「来い。話すべきことは山ほどある。――特に、お前の《代償》について、蓮司」
蓮司の背が、わずかに強張る。
影食の反動。
あの時、里沙が繋ぎ止めた“黒い脈動”。
静真はそれを、すでに見抜いている。
山里の奥へ向かう三人。
風が止み、空気だけが張り詰めていく。
七つ目の影の真実へ――
ゆっくり、しかし確実に歩が進み始めた。
――旧結界の里の奥、岩壁に穿たれた古い祠堂。
灯された炎は静かに揺らぎ、影が壁面を縦に流れ落ちるように歪んでいた。
蓮司は正座し、静真はその後ろに立つ。
里沙は少し離れ、祠堂の空気の緊張に息を潜めていた。
静真は蓮司の背に掌を置いた。
次の瞬間、音も光もないのに“衝撃”が走った。
「ッ……!」
蓮司は喉を押し殺しながらも、肩を震わせる。
里沙が思わず駆け寄りかけたが、静真が片手で制する。
「動くな。本気で潰すぞ」
声音は無感情だったが、そこに“本当に危険だ”という静謐な説得力があった。
静真の掌から、低い波紋のようなものが蓮司の体へ――
いや、蓮司の“影の層”へ と侵入していく。
「……これは、想像以上だな」
静真が呟く。
「蓮司。お前、六つ目の封印で《影食》を“外側”からではなく、自分の核心で直接噛み砕いたな?」
蓮司は歯を食いしばったまま答える。
「あのままじゃ……里沙が……死ぬと思ったんで……」
「思考は正しい。だが――技としては最低だ」
静真の掌がさらに深く押し込まれた。
蓮司の影がぐらりと揺れる。
里沙は息を呑む。
「蓮司さんの中……こんなに荒れて……?」
静真が淡々と言う。
「六つ目の“風の核”の余波が、蓮司の《影層》に噛みついて離れていない。影を喰うはずのお前が、逆に喰われかけている状態だ」
蓮司の呼吸が荒くなる。
「……じゃあ、俺は……どれくらい持つ……?」
静真は、平然と残酷な事実を告げる。
「最悪、次の戦闘で――影が反転し、お前自身が“八つ目”を生む」
祠堂の空気そのものが凍りついた。
里沙の瞳が大きく開く。
「蓮司さんが……影に……?」
静真は蓮司の背から手を離し、横に座った。
「《影食》という技を軽いものだと思うな。本来あれは、“影狩りの家系”が総力を挙げた禁術だ」
「禁術……?」
里沙が呟くと、静真は短く頷く。
「影を喰うという行為は、影狩りが影を支配するという意味ではない。喰った分だけ、喰った者も影に近づく。力は増すが、人としての境界は薄れ、自我は影へ引きずられる」
静真の視線が蓮司へ落ちる。
「蓮司は血筋が強い。だからこそ扱える。だが今回のように“無理やり喰い破る形”で使い続ければ――心臓より深いところにある“核”を影に齧られる」
蓮司の眉が僅かに動く。
「……それでも、使うしかなかった」
「そうだ。だから叱っているわけではない。だが事実は事実だ。お前の《代償》は現在進行形で進んでいる」
静真は淡々と続けた。
「蓮司、いまのお前は――里沙の中の“七つ目”より危うい。放置すれば、お前が先に壊れる」
里沙は蓮司の肩に触れた。
指が震えていた。
「蓮司さん……そんな状態で……六つ目と戦ってたの……?」
蓮司は彼女を安心させるように微笑んだが、
その笑みはどこか影が差していた。
静真は立ち上がり、祠堂の出口へ向かう。
「まだ死なせるつもりはない。この里で封じる方法と、代償の進行を抑える術を教える」
そして振り返る。
「だが――蓮司。次に“影食”を無理に使えば、確実に破綻する。七つ目に至る前に、お前が墜ちる」
炎の光が静真の眼を照らし、影が深く揺れた。
里沙は唇を噛みしめながら、蓮司の手を握った。
蓮司はその温もりを確かめるように返す。
決断の時は迫っていた。
――祠堂の灯火が、わずかに色を変えた。
赤でも橙でもない、不自然な“影の揺らぎ”が混ざり込む。
静真が、ゆっくりと里沙のほうに視線を向けた。
蓮司が反射的に口を開く。
「師匠。里沙には……負担が大きすぎるんじゃ……」
「黙れ、蓮司。お前の《影層》が荒れている今、判断力は信用できん」
その一言で蓮司は口を閉ざした。
里沙の瞳がかすかに揺れるが、怯えよりも決意が勝っていた。
「……静真さん。私の“中身”、ちゃんと見てください。不安なままでいるほうが……もっと怖いですから」
静真は――ほんの一瞬だけ、興味を示すように目を細めた。
「言うようになったな。よかろう。蓮司、そこから動くな。お前の影が里沙に干渉すると診断が乱れる」
蓮司は歯を食いしばって従った。
静真は里沙に近づき、掌を胸元から数センチ浮かせた位置にすっとかざす。
触れてもいないのに、里沙の長い髪が静電気のようにふわりと揺れた。
――ぱん、と耳鳴りが弾けるような音がした。
祠堂の灯火が弱まり、影だけが強く濃く膨らみ始める。
里沙の呼吸が浅くなる。
蓮司が身を乗り出しかけた瞬間――
「動くなと言ったはずだ」
静真の声が影に溶け、空間そのものを縛った。
里沙の周囲に、黒い波紋のような“層”がふくらむ。
それは影なのに光を遮らず、逆に“存在そのもの”を薄くしていく奇妙な波。
静真が静かに告げる。
「……これは《影層》ではないな。影の副産物でも、霊質の濁りでもない」
蓮司の息が止まった。
里沙は怯えるどころか、むしろ“ようやく触れられた”ような顔をしていた。
静真が続ける。
「里沙。お前の内側にあるのは――影ですらない。もっと“根源寄り”の、別系統の力だ」
「根源……?」
静真は肯定も否定もせず、ただ観察を続けた。
「七つ目の影とされている存在は、本来“影狩り”の技体系にはまったく属していない。蓮司の影食と同じ土俵にすら立っていない」
燭火が揺れ、里沙の影が円環状に広がった。
その輪がゆっくり締まるように収束していく。
静真が声の調子を落とす。
「これは……影が生まれる以前の《始原の層》に由来する力だ」
蓮司の胸に戦慄が走る。
「そんなものが……人に宿るわけが……」
「本来はな。だが里沙――お前、気づいていたはずだ」
静真は淡々と問う。
「影に触れられても、殆ど曇らないだろう? 札が焼けても、お前自身は焦げない。影を祓うのに、“祓っている”という感覚すら薄い」
里沙の表情に、隠していた戸惑いがにじむ。
「……はい。ずっと……おかしいとは思ってました」
静真は手を離し、深く息をついた。
「七つ目の影――それは“影の王”でも、“巨大な怪異”でもない。七つ目は“個”ではなく、“器”だ。影の体系外にある力を受け取るための、特異な容れ物のことだ」
蓮司が息を呑む。
「七つ目って……影じゃなくて、里沙という“器”そのものなのか?」
静真はゆっくり頷いた。
「正確には、里沙の内に眠る“始原の層”が、七つ目に繋がる鍵だ。だが――」
静真の眼が、炎の光を吸って冷たく光った。
「もしその層が完全に目覚めれば、里沙は人としての境界を保てなくなる。影より危険な“根の力”が暴走する」
里沙の指先が震える。
蓮司は思わず彼女の名を呼んだ。
「里沙……」
静真は最後にこう告げた。
「お前は“七つ目の影”ではない。だが――七つ目を“呼び起こす核”を宿している。放置すれば、蓮司より早く崩壊する」
祠堂を満たす静寂が、現実より重かった。
二人は、影どころではない“始原”の危機に片足を踏み入れていた。
――旧結界の里の外縁。
霧が夜風に乗って流れ、木々の影が何かを警戒するようにざわついていた。
そこに、黒いスーツの男は“いつの間にか”立っていた。
足音も、気配もない。
まるで景色の一部が、ある瞬間だけ人の形に変わっただけのような存在感。
男は、静かに周囲の結界を眺めた。
「……さすがだな。烏丸静真の結界。簡単には踏み荒らせん」
霧の中で淡い光粒が弾かれ、男の肩に触れた途端に弾ける。
男は小さく笑う。
「だが――“匂い”は隠し切れん」
ポケットから小さく黒い端末を取り出すと、
表面に薄い波紋のような霊的反応が表示された。
そこに刻まれた数値は、
六つ目の核のデータよりも桁違いに濃密で、不安定で、そして――根源的だった。
「やはり動き始めたか。七つ目……いや、“器”そのものの覚醒反応」
男は端末を閉じ、空を見上げた。
里を覆う結界の膜の奥――
蓮司と静真、そして里沙がいる祠堂の方向。
霊的反応は、そこを中心に重く脈打っていた。
「影の体系では説明がつかん。これが“始原層”の反応……。計画は軌道に乗ったな」
男は手袋を外し、右手の甲を静かに露出させる。
そこには――
焼印のように黒く刻まれた“紋”が浮かんでいた。
六つ目の影とは異なる、
もっと禍々しく、もっと整然とした“構造の印”。
彼はその紋を軽く撫でる。
「七つ目の“核”を呼び起こす条件は、あとは――里沙という器が“揺らぐ”だけ」
風が止み、森の影が深まった。
「蓮司の代償が進めば、彼女は揺らぎやすくなる。影食の暴走と、器の覚醒が同時に起これば……“扉”は開く。私の目的は、その先にある」
男の足元で、草が影の方向へ沈むように倒れた。
彼が踏み出すたび、地面がほんのわずかに暗く変色していく。
「さて、烏丸静真。君の里と弟子たちに……どれほど耐性があるか試させてもらおう」
その瞬間――
男の姿は霧の中に溶け、痕跡すら残さず消えた。
ただ、結界の外側に“微細な亀裂”が走り、
森の空気がわずかに歪んでいた。
――深夜。
旧結界の里を包む森は、風ひとつなく静まり返っていた。
だがその静寂は、
“何かが息を潜めて見ている”ような、不穏な静けさだった。
祠堂の奥では、蓮司が静真と向かい合って座っていた。
診断を終えたばかりの里沙は奥の部屋で休んでいる。
蓮司の《影層》はまだざらついており、深部で黒い波動が燻っている。
静真は焚いていた護摩木を一本取り出し、そっと折った。
――ミシリ。
その音の直後だった。
祠堂の外、結界の外縁の“気”が、一瞬だけ 歪んだ。
蓮司は反射的に身構えた。
「……今の、なんだ?」
静真は目を閉じ、指先で空気の流れを読み取るように絞り込む。
次の瞬間、祠堂の灯火が揺らぎ、影が内側へと吸い込まれるように歪んだ。
「結界の外側が……削れた」
「削れた……? 破られたんじゃなくて?」
「そうだ。破壊ではなく“侵食”。……あれは、影でも、霊でもない。もっと構造的な……」
静真はそこで言葉を切り、蓮司の方へ視線を寄越す。
「蓮司。外に出るぞ」
「確かめに行くってことか」
「この里に来られるような者は限られている。――嫌な予感がしている」
二人は同時に立ち上がった。
祠堂の扉を開くと、森の空気がわずかに揺れていた。
風でも霊圧でもない。
触れると“ざらつく”気配。
六つ目の影が暴走したときに近いが、もっと人工的だ。
蓮司は森を睨む。
「……どこかで見た気配だ。六つ目の封印地でも、似た波動を感じた」
静真は頷く。
「だろうな。これは“影の産物”とは違う。人間が意図的に作った“裂け目”だ」
蓮司の目が細くなる。
「……奴か。スーツの男」
「恐らくはな。この痕跡の残り方は、烏丸式の結界術を“学習して上書きした”痕だ」
「術を……学習……?」
静真は険しい表情を見せた。
「本来、人の身にそんなことは不可能だ。結界は術者の“霊脈”が形を取ったもの。他者が解析しても手出しはできん。だが――」
静真の視線が、森の奥の黒へ向けられた。
「今回の裂け目は、人が“解析して模倣した”痕跡だ。しかも、ほんの数秒でな」
蓮司は息を呑む。
「そんな芸当できる奴、影でも祓い師でもねぇ。……じゃあ一体何者だ?」
静真は静かに答える。
「七つ目を欲する者。影の体系外から来た“構造の異物”。――蓮司、お前たちはすでに巻き込まれている」
蓮司は拳を握りしめ、森の裂け目へと睨みを据えた。
「……里沙も狙われるってことか」
静真は短く頷く。
「始原の層を宿す者なら当然だ」
その言葉を聞いた瞬間――
風もないのに、森の奥で“コツン”と乾いた音がした。
まるで誰かが結界の残滓を指で叩いたような、あまりに人為的な音。
蓮司の背筋がぞくりと粟立つ。
静真も、一瞬だけ表情を険しくした。
「来るぞ。まだ姿は見せんが、奴は完全にこの里を“把握”した」
森の影が揺れ、裂け目がじわりと広がる。
蓮司の《影層》がざわりと逆立つ。
――“奴”が近づいている。
次の瞬間、静真が低く告げた。
「蓮司。……七つ目の覚醒を誘う気配だ」
祠堂の奥で眠る里沙の影が、薄く脈打った。
夕闇が里の結界を紫に染めはじめた頃、
蓮司と静真が霊的裂け目の痕跡を追っていたその同時刻――
本間里沙の与えられた客間では、静かなはずの空気がひそやかに震えはじめていた。
最初は、誰にも気づけないほど微かな“揺らぎ”だった。
畳の目が音もなく歪み、部屋の隅に置かれた灯籠の影がわずかに“遅れて”動く。
――コツ、コツ……。
心臓の鼓動ではない。
しかし確かに、何かが“生きて拍動している”音が室内に満ちていく。
里沙は布団の上で膝を抱えたまま、息を詰めた。
「……また、来てる……」
胸の奥に潜む黒い冷気が、二度、三度と膨らみ、まるで生きもののように彼女の肋骨を内側から押し広げる。
その瞬間、部屋の壁に走った影が“逆流”した。
灯の落ちた水面の波紋が遡るように――
影は、里沙の足元へと収束していく。
呼吸が荒くなる。
体温が急激に下がり、視界の端が暗い色で塗りつぶされる。
「やだ……蓮司さん……」
名を呼ぼうとしても、声にならない。
かすれた息だけが震え、空気の中へ溶けていく。
床下で何かが“這った”。
影だ。
この世界に存在しないはずの“七つ目”の胎動。
静真が確かめた“核の形”が、ついに意志を持って里沙の身体を叩き始めたのだ。
指先が青白く痺れ、視界の色が一枚、また一枚と剥がれ落ちていく。
――ドンッ。
背骨の中心で、何かが脈を打つ。
あまりの痛みに、里沙は声を押し殺した。
だが押し殺した声とは裏腹に、彼女の足元の影は勝手に伸び、床板を覆い、壁を伝い、天井へと逆さに広がり始めていた。
それは――
封じられた“七つ目の影”が、宿主を乗り越えようとする、生の顕現だった。
彼女の額に黒い紋が滲み、その形は、人の理解から外れた“古い言語”のように歪んで脈打つ。
里沙は震える指で紋を抑えようとした。
だが触れた瞬間――
影は、彼女の意思を嘲笑うように、脊髄へ、そして頭蓋の中へと侵食を早めた。
「だめ……でて、こないで……!」
嗚咽じみた声が漏れたそのとき。
窓の外で、結界の結び目がかすかな破裂音を立てた。
誰もまだ気づいていない。
蓮司も、静真も、
そして里に潜んだスーツの男すらも――
この瞬間、“七つ目”が本格的に覚醒へと向かい始めたことを。
里沙の影は、ついに形を変え、床を割るような黒い“腕”の輪郭を現し始めていた。
影裂けの痕跡を辿り、蓮司と静真は古い社の前に立ち止まっていた。
風はほとんど吹いていない。
だが木々の枝は、一定のリズムで“内側”へ曲がっては戻り、
まるで目に見えない力が脈動し、空間そのものが呼吸しているようだった。
「……この波長、妙だな」
静真の声は低いが、明確に緊張を帯びていた。
蓮司もそれを感じ取る。
胸の奥がざらつく。
魂の裏側を爪でひっかかれているような感覚――
封印地点で六つ目と対峙したときにも似ているが、もっと“近く、個人的”だ。
「師匠、これ……裂け目の残滓じゃない。もっと……」
言葉にしようとした瞬間――
ドンッ。
地面が重く叩かれたような音が、山の静寂を破った。
蓮司は反射で振り向く。
結界の中央、里の中心方向から黒い靄が瞬間的に噴き上がったように見えた。
ほんの一秒。
だが、その一秒で全身を冷たい汗が駆け抜ける。
「……里沙……?」
呼んだ名が、白い息になって消える。
次の瞬間、空気の層が“裂けた”。
バチッ、と耳の奥を引き裂く音。
周囲の木々が同時に“影を落とす”。
しかし太陽光は変わっていない。
影だけが、独立した意思のように揺れた。
静真は目を細めた。
「……これは《七つ目》だ。里沙嬢の影が、意図せず“目を開き始めた”のだ」
蓮司の胸が一気に凍りつく。
「ちょっと待て……里沙が? 今、ここで……!」
問いを最後まで言い切るより早く、里の方向から鈍い震動が走った。
社の屋根瓦がわずかに揺れ、山鳥が驚いて一斉に飛び立つ。
静真は眉間に深い皺を刻む。
「蓮司。お前は感じているはずだ。――あれは六つ目の暴走とは質が違う。」
「……ああ。あれは……俺を呼ぶみたいに、真っ直ぐ刺さってくる。」
胸の奥の影食が疼いた。
五臓の影がゆっくりと逆流を始め、脊髄の奥で黒い火花が弾ける。
静真が蓮司の肩に手を置いた。
「急ぐぞ。あの脈動は……主を喰らう前兆だ。」
蓮司は息を呑む。
足元の影がわずかに暴れ、彼の焦りを映すように波打った。
「……里沙……!」
叫ぶより早く、蓮司は地を蹴った。
静真もその背を追う。
――その刹那。
里の中心部、里沙の部屋の方向から、“破裂音”とも“泣き声”ともつかない
黒い衝撃が、空間を震わせた。
蓮司の心臓が跳ねる。
間に合うか――
それすら確信できないまま、二人は影の脈動へと駆け込んでいった。
山間の通路を駆け抜ける蓮司の耳に、風の音は届かない。
ただ、自分の心臓と――
里沙の影が発する脈動だけが響いている。
影食が、勝手に暴れ出していた。
主である蓮司の意思を捻じ曲げ、“ある一点”へ向かおうと焦がれ続けるように。
(くそ……! この感じ……六つ目でも、五つ目でもなかった。もっと……“俺の近く”にあるやつだ)
息を切らしながら山道を登る。
普段なら緩やかな坂だ。
だが今は、空気そのものが重く、冷たく、背後へ引き戻そうと圧をかけてくる。
蓮司の背後から静真の声が飛ぶ。
「蓮司、気を抜くな。影食が暴走しかけている。呼応しているのだ!」
「……わかってる!」
蓮司は奥歯を噛み締めた。
胸の奥で黒い波が跳ねる。
あれは里沙の影の呼吸。それに応じて自分の影も応じてしまう。
(だったら……抑えこんででも行くしかねぇだろ)
木々を抜けた瞬間、里沙が一時的に滞在している庵屋が視界に入る。
――だが。
庵屋の入口が、歪んでいた。
木戸の影が生き物のようにねじれ、黒い紋様が地面に広がっている。
まるで“内側から引き摺り出そうとしている手”が、何度も何度も戸を押した跡のように。
「里沙ッ!」
叫ぶと同時に、戸に貼られていた静真の結界札がビキッと音を立てて裂けた。
瞬間、室内から冷気が噴き出した。
冷たさではない――
影そのものの圧だ。
静真が隣で息を呑む。
「これは……人間の器が耐えられる域を越えている……!」
蓮司はためらいもせず、一歩踏み込んだ。
入り口をまたぐと、空気が一変する。
重い。
暗い。
濃い。
室内は、蝋燭の火が歪むほど影に浸されていた。
影は壁を這い、天井で渦を巻き、部屋の中央――畳の上に座り込んだ里沙へとすべてが収束している。
肩が震え、長い髪が影に溶けて黒い波のように揺れ、目は伏せられているが――
瞼の裏で何かが“開こうとしている”気配。
蓮司の喉がひりついた。
「……里沙……!」
その名を呼んだ瞬間、部屋中の影が一斉に“反応”した。
空気が震えた。
影がざわめいた。
そして、
里沙の影が、蓮司の方へ振り向いた。
本人は動いていないのに。
影だけが、意思を持つように。
蓮司は足を止める。
直感で理解した。
――一歩でも踏み込めば、七つ目が“覚醒”してしまう。
静真が低く警告する。
「蓮司……まだ早い。七つ目は今、境界にいる。“主か敵か”――判断を下そうとしている。」
その瞬間、影の渦がゆっくり、ゆっくりと蓮司の足元へ伸びてきた。
まるで、触れれば決着だと言わんばかりに。
蓮司は拳を握った。
息が白く震えた。
「……だったら……俺が行くしかねぇだろうが。」
その一歩を踏み出す前――
里沙の本体が、小さく息を吸った。
空気が凍りつく。
七つ目が――
蓮司に“気づいた”。
部屋の空気が、人の住む空間ではなくなった。
畳は泣くように軋み、天井の木材は黒く染まり、影は壁から壁へ、まるで獣の息づかいのように波打っている。
その中心で、本間里沙は――半分だけ、こちらを見ていた。
瞼は閉じている。
なのに、“影の目”だけが蓮司を射抜くように向けられている。
七つ目の影は、まだ完全には宿っていない。
だが――境界は壊れ始めていた。
蓮司が名を呼ぼうとした瞬間。
先に、声が生まれた。
里沙の唇が、ゆっくり開いた。
息でもなく、呻きでもなく――
言葉だった。
「……れん……じ……さん……?」
蓮司の背筋が、一瞬だけ安堵で震えた。
が、その直後。
影が里沙の声を“なぞり直した”。
同じ音のはずなのに、耳の奥でひしゃげ、歪んだ響きとなって薙ぎ払う。
――レンジ……。
――レン……ジ。
蓮司はすぐに悟った。
(……これ、里沙の声じゃねぇ。里沙“だけ”の声じゃない……)
静真が背後で低く呻く。
「来たか……“影の声”だ……! 七つ目が、器の外へ手を伸ばし始めた……!」
部屋の空気が震える。
里沙の細い肩が、何かに引かれるように痙攣した。
そして。
――影が喋った。
「……ト……ド……ケ……」
声だった。
だが、どこの世界の音でもなかった。
蓮司の胸で影食が荒れ狂う。
蓮司は息を詰め、奥歯を噛む。
(……七つ目は……“求めてる”……? 誰に? 何を? まさか……俺か?)
影が再びざわりと揺れた。
今度ははっきりと、人の言葉として。
「――“かえして”」
里沙の声だった。
しかし、温度がない。
人の感情が欠片も含まれていない。
蓮司の顔から血の気が引く。
「……返す? 何を……?」
影が、微かに笑った気がした。
光の屈折が、人の表情の形を作っただけ――
なのに、はっきりと“笑い”がそこにあった。
「……“われ”の……もの……返して……レンジ」
蓮司は心臓を掴まれたように動けなくなる。
(“われのもの”? 七つ目が……俺から何かを……? いや、違う――“俺が持ってるもの”だと……?)
影はさらに揺れる。
その触手のような揺らぎが、畳へ、壁へ、天井へ。
そして――
蓮司の足元に触れようと伸びてきた。
静真が咄嗟に結界術式を放つ。
「触れるなッ!! 蓮司!! 七つ目は“主”を選びかけている……誤れば即座に――器を奪われるぞ!!」
影の先端が、蓮司の足すれすれで止まる。
空間が震えた。
そして――
里沙の唇が、もう一度だけ動いた。
七つ目の影と里沙の声が重なって。
「……レンジさん……こないで……」
影が暴れる。
影が求める。
里沙が拒む。
七つ目が呼ぶ。
――まさに臨界。
蓮司は動けない。
里沙は影に呑まれつつある。
七つ目は、覚醒の寸前で“選ぼうとしている”。
七つ目の影が蓮司へ伸びる。
ゆっくり、しかし確実に――
意思をもって触れようと迫ってくる。
部屋全体が黒い呼吸を始め、畳が波紋のように沈み、影の水面が生き物のように揺れた。
里沙の瞼は閉じたままだが、その影だけが蓮司に向けて笑っていた。
――“われのものを返せ”。
その声が再び、空気を切り裂こうとした瞬間。
静真が動いた。
まるで時間が巻き戻ったかのような俊敏さで、彼は里沙と蓮司の間に滑り込み、袖の中から短い黒札を十数枚ばら撒いた。
「下がれ、蓮司!! 今、お前が触れれば――器が逆転する!!!」
蓮司は息を呑み、影から一歩退いた。
影はそれを見て、わずかに嘲るように揺れる。
静真は深く息を吸い、言葉を紡ぐ。
「……《強制封術・黒環》――返しノ式、展開する!」
瞬間、床に散らされた黒札がバチッ! と火花のように光り、互いを結ぶ黒い糸を放った。
糸は円を描き、里沙を中心に“環”を形作る。
――ギィィィ……
空間が軋むほどの圧。
七つ目の影が、怒ったようにざわついた。
壁が震え、畳がめくれ上がり、室内の温度が一気に下がる。
影の声が重なる。
「…………やめろ…………」
「……ふさぐ、な……」
「……レン……ジ……」
静真の顔に血の気が引き、汗が噴き出す。
「……ッく……! 七つ目……やはり“格”が違う……!」
影が静真に向かって牙を剥くように形を変え、風のような刃を放った。
蓮司が咄嗟に踏み込む。
「静真さんッ!」
影刃が迫る――
だが静真は片手で結界を張り、ギリギリで防ぐ。
「来るな蓮司! これを維持できるのは……私だけだ……!」
「でも――!」
「代償を受けているお前が入れば、七つ目は“お前を選ぶ”。今はまだ、それだけは避けねばならん!!」
蓮司は拳を握る。
だが動けない。
七つ目が確かに蓮司を“主”として見ようとしている気配がある。
静真の周囲で黒環が回転し始めた。
影を吸い込み、押し返し、里沙の影を“里沙の器の内側”へ押し戻そうと圧力をかける。
「――返れ!!
ここはお前の居場所ではないッ!!」
叫びと共に、黒環が収縮した。
影が悲鳴のように振動する。
――ィィィィィィィィッ!
壁が震え、蝋燭の火が弾けた。
部屋に一瞬、真っ黒な閃光が走る。
そして――
影が里沙の身体の奥へ、押し戻された。
まるで深い井戸に沈み込むように。
空気が一気に軽くなった。
影の渦が収まり、部屋を覆っていた圧が消える。
里沙が、糸が切れたように前へ倒れかける。
「里沙!!」
蓮司が駆け寄り、抱きとめた。
静真は息を荒げ、片膝をつき、黒環の札はひとつずつ燃え尽きるように消えていく。
里沙の呼吸は浅く、弱い。
しかし――確かに生きている。
静真はかすれた声で言った。
「……押し戻した。だが、これは“一時的”だ……七つ目は……もう気づいてしまった。里沙の中に“自分がいる”ことを。そして――蓮司、お前が鍵であることも……な。」
蓮司は唇を噛む。
抱きしめた里沙の胸元で、微かな影の脈動が残っていた。
七つ目は眠っただけ。
終わってはいない。
封術が終わった部屋には、まだ焦げたような霊圧の残滓が漂っていた。
静真の指先には薄く黒灰がこびりつき、蓮司は呼吸を整えながら、半ば意識を失った里沙を抱きかかえている。
結界師の長老である静真でさえ、額に細い汗が浮かんでいた。
やがて老いた師は、深い深い溜息を吐き、まるで“これ以上隠しておけぬ”と覚悟を決めたように、口を開いた。
静真の声音は、どんな封術より重たかった。
部屋の空気が沈んだ井戸底のように濃くなる。
「七つ目……あれは“異質な影”ではない。お前たちが今まで遭遇してきた六つの影《通常の影位》とは構造が違う。そもそも“ここに存在してはならぬもの”だ」
蓮司は無意識に喉を鳴らす。
「存在してはならない……? でも、影は人間の潜在領域――」
「違う」
静真は蓮司の言葉を切り捨てた。
「影は本来、人の精神が持ち得る『七層構造』によって形成される。だがな――」
静真は指を一本立て、まるで“世界の裏側を示す”ように空をなぞった。
「七番目の層は、人間という器には本来、割り当てられておらぬ。古の時代から“封じられた層”として扱われてきた。その層に宿る影が、今ここに現れている。」
蓮司の背筋が凍りつく。
静真は続ける。
「七つ目は“影”という名を借りてはいるが、あれは“影”の史において別格だ。本来、影は宿主の精神深層から生じる。しかし七つ目は逆だ。宿主の精神に“入り込む”ことで生まれる。――つまり、『外側から来る影』だ」
蓮司は大きく息を呑む。
「外側……? じゃあ誰の心からも生まれていないのか?」
「そうだ。七つ目だけは、“起源を持たない”。影の世界の深淵に漂い、“宿主を得た瞬間に形を変じる寄生の構造”をもつ」
「そんな……そんなものが里沙に?」
「──ああ。」
静真の目には、長年の結界師でしか背負えない重みがあった。
静真は蓮司の胸元を指す。
蓮司がこれまで影との戦闘で負ってきた“代償”の痕が、淡く痛む。
「蓮司。お前が抱えている《代償》は、本来“影位の干渉を受けた痕跡”のはずだった。だが……今の七つ目の反応を見て確信した」
静真の声が低く、鋭くなる。
「お前の代償は、最初から“七つ目に反応する体質”へと変質していた。」
「俺が……七つ目に?」
「七つ目は、宿主以外の存在に“触れた者”の精神を辿る。お前がこれまで無意識に苦しんでいた発作――あれは七つ目の気配を察知したために起きていたものだ」
蓮司の胸が締めつけられる。
「じゃあ……俺が苦しんでいたのは、里沙に七つ目が入り込んだ時から?」
「正確に言うと、“宿主として選ばれた瞬間”からだ」
「七つ目は覚醒の段階が上がると、宿主を侵食する。影が“人格を飲み込む”わけではない。宿主の深層にある未定義領域を接収し、自分の満たされない“起源”を補おうとする」
静真の表情が険しくなる。
「つまり、七つ目は里沙の心を依り代として“自分の正体を完成させようとしている”のだ」
「……正体を完成させる?」
蓮司は言葉を呑みながら問う。
「そうだ。七つ目は、本来“名のない影”。影は名前と深層を持って初めて姿を持つ。だが七つ目は逆で――宿主の心と記憶を使って“名前を得る”」
蓮司は息をのんだ。
「つまり里沙が……七つ目の“名前の核”に?」
「そういうことだ。今回、強制封術で一時的に沈めたが……あれは応急処置にすぎん」静真は厳しい声で続ける。「七つ目の覚醒は、宿主と《代償体質》を持つ者が近くにいるほど速まる」
「……俺が、引き金に?」
「悪いが、そういうことになる。」
蓮司は拳を震わせる。
「だったら俺が離れれば――」
「離れようと関係ない。すでに七つ目は“お前を知っている”。宿主と反応する存在を同時に付与されたことで、七つ目は完全覚醒のルートに入った。」
静真が蓮司の目をまっすぐに見る。
「蓮司。この世界で七つ目を止められるのは、――お前一人だ。」
蓮司の心臓が大きく跳ねた。
「影に喰われかけている里沙を救えるのも、七つ目の正体を断ち切れるのも、結局は“七つ目に選ばれた者”だけだ」
静真の声が静かに、しかし絶対の重みを帯びる。
「お前が背負ってきた代償は、すべて今日のための準備だったのかもしれん」
沈黙――
蓮司は拳を握り、深く呼吸し、眠る里沙の手をそっと握る。
「……師匠。俺は……やる。必ず里沙を取り戻す。」
静真は目を伏せ、わずかに頷いた。
「――その覚悟が、七つ目の“名”を塗り潰す唯一の刃となる。」
長い説明を終えたあと、部屋には重い静けさが落ちていた。
七つ目の影の気配は封術で深く沈められ、里沙は安定した微かな寝息を立てている。
静真は二人の様子をしばらく見つめ、柔らかいがどこか寂しげな声音で言った。
「……今日はもう、何も考えるな。ここまで来るのに、お前たちは十分すぎるほど酷使された。まずは休め」
蓮司は反論しかけたが、師の顔に浮かぶ“これは命令だ”という色を見て、黙って頷くしかなかった。
静真の家は、山里の家屋の中でも古く静かな作りだった。
床は深く磨かれ、結界に用いる香草の淡い香りが漂っている。
障子を通る夜風が、張りつめていた神経を少しずつ緩ませていく。
「里沙は、奥の部屋に寝かせておけ。」
「……はい。」
蓮司は里沙を抱き上げ、静真が指し示した部屋にそっと運んだ。
畳の上に敷かれた布団は、想像以上に温かかった。
まるで、長年使われてきた家そのものが“見守る気配”を宿しているかのようだ。
里沙の額に残る薄い影の揺らぎを確認しながら、蓮司はゆっくり息を吐く。
「……大丈夫だからな。絶対に、戻ってこさせる」
里沙は答えない。
けれど、その寝顔はどこか以前より穏やかに見えた。
蓮司が部屋から戻ると、
静真は台所で薬湯のようなものを煮ていた。
「飲んでおけ。お前の《代償》は、今日は反応が強すぎた。身体を落ち着かせておかんと、次がもたん」
蓮司は黙って湯を受け取り、座って飲む。
苦いのに、妙に身体が温まった。
「師匠……俺、本当に……」
「言わんでいい」
静真は背を向けたまま短く言った。
「お前はよくやった。今日は、それだけで十分だ。」
その言葉は、不思議なほど蓮司に染みた。
外では風が梢を揺らし、小さな虫の声が遠くで響いている。
蓮司は与えられた客間に横になり、静真の家の静かな包囲に身を任せた。
重い思考が一つずつほどけていき、まるで山の深奥に沈むように意識が緩んでいく。
「……里沙……無事でいろよ……」
呟きは夜の静寂に吸い込まれた。
こうして――
激動の一日はようやく、静かな闇へと落ちていった。




