第四十一話
夜明け前の空気は冷たく澄んでいた。
崩れた拝殿の残骸に囲まれたまま、蓮司は懐中電灯の灯を落とす。
影は消えた。だが、空気の奥底にはまだ“揺れ”がある。
七つのうち三つが断たれた今、封印の均衡は明らかに崩れ始めていた。
「蓮司……感じる?」
里沙が自分の腕をさすりながら呟く。
蓮司は頷いた。
「感じる。東の影を断った時と違う……もっと遠い、けど強い。揺れてる。まるで――呼ばれてるみたいだ」
「呼ぶ? 誰が?」
蓮司は、瓦礫の中から拾い上げた木簡を見つめた。
そこに刻まれた古い文字は、かすかに震えているように見えた。
「次の影だ。たぶん……四つ目の“鎖”が」
里沙は息を飲む。
「どこに?」
「方向は――北だな」
その瞬間、里沙の表情が固まる。
「……北?」
「北って、あの……“山”の方?」
蓮司は鼻で短く笑った。
「そう。あの山には、今は使われていない旧参道がある。神社が移る前、古い社殿があった場所だ。影の配置から見ても、四つ目がそこに眠ってる可能性が高い」
里沙の指が震えた。
北の山は、地元でも“近づくな”と言われている区域だ。
崩落、遭難、奇怪な光……
迷信と噂の巣窟だが、それが今は疑いようもなく“真実の匂い”を持って迫ってきていた。
「……行くしかないんだね」
蓮司は木簡を懐に戻す。
「七つが揃う前に断つ。それしか道はない。――それに、あいつも動いてる」
「あいつ?」
「スーツの男だよ。懐中時計を鳴らすあいつ。東の影が消えた直後、北の山の方向で“反応”が一瞬だけ跳ねた。たぶん、あいつも気づいてる。四つ目の位置に」
里沙の眉が寄る。
「じゃあ……先に行かれる前に、私たちが動かないと」
蓮司は頷いた。
風がひときわ強く吹き抜ける。
まるで山の方から、何かが笑ったような、そんな気配まで混じって。
車のエンジンをかけ、荒れた参道を戻りながら、蓮司はハンドルを握り直す。
「四つ目は、“鎖の要”かもしれない」
「要?」
「ああ。七つのうち、四つ目が中心の軸になる形で並んでる。だからこそ、揺れ方も他と違う。もしここが断てれば、鎖はほぼ半壊する」
里沙の目が鋭くなる。
「逆に言うと……ここが揃うと、主は“半分目覚める”ってこと?」
「まあ、乱暴に言えばそうだな」
里沙は窓の外の闇を見つめた。
「じゃあ急がなきゃ。本当にまずい」
蓮司もまた、ミラー越しに空を見た。
星がかすむほど、遠くの山の頂が僅かに揺らいで見える。
「……四つ目は、俺たちを待ってる」
「蓮司、それ“待ってる”って……なんか嫌な言い方」
「まあ、嫌な予感しかしないからな」
里沙は苦笑し、頷いた。
だが、その笑みは長く続かない。
彼女もまた、胸の奥でざわつく気配をはっきりと感じていた。
影は弱っていない。
むしろ、どんどん“目覚めに近づいている”気配すらある。
事務所に入ろうとしたその時。
玄関の前に、誰かが立っていた。
里沙が息を呑む。
蓮司が僅かに身構える。
街灯に照らされていたのは――
白い着物を着た少女。
年の頃は十歳前後。
髪は濡れたように黒く、まっすぐ伸びている。
表情は無く、ただ蓮司たちをじっと見ている。
「……誰だ?」
少女は、小さな口を開いた。
「――四つ目が、起きるよ」
声は、まるで風が言葉を真似たように淡かった。
「え……?」里沙がかすかに驚いたよう。
少女は続ける。
「山が、泣いてる。
早く行かないと、間に合わないよ」
蓮司は目を細める。
「お前……人間じゃないな」
少女は首を横に振った。
「わたしは、“影の残り香”。東の影が残した、最後の声」
蓮司の瞳が揺れる。
東の影は確かに消えた。
だが、完全に消滅する前の“何か”を残していったのか。
少女は言う。
「主は……怒ってる。鎖が切られていくたびに」
風が強く吹き抜け、少女の輪郭が揺らぐ。
「四つ目は、もうすぐ壊れる。あなたたちが行かないなら――あの人が、全部持っていく」
「あの人?」
里沙が問う。
少女は静かに微笑んだ。
その笑みはなぜか、哀しみだけで出来ていた。
「懐中時計の人」
その名前を告げると、少女の姿は霧のようにほどけて消えた。
玄関前には、ただ冷たい風だけが残る。
蓮司は里沙を見る。
「急ぐぞ」
里沙は強く頷く。
「うん。四つ目が壊れる前に――行こう」
二人はすぐに準備を整え、北の山へ向けて再び車を走らせる。
七つの影の四つ目――
それは“最初に祀られ、最後まで残った鎖”。
もっとも古く、もっとも危険な影。
そして、そこにはすでに“敵”が動いていた。
山道に入ると、空気が一段冷たくなった。
秋の夜だというのに、ほとんど冬の気温だ。
ヘッドライトが照らす先には、濃霧が幾層にも重なり、視界を奪っていく。
里沙がシートベルトを握りしめたまま呟く。
「……ここまで霧が濃いなんて、聞いてないよ」
「普通じゃないな。山が“呼んでる”」
蓮司の言葉に、里沙は背筋を伸ばした。
旧参道に近づくにつれ、山の影がねじれたように歪んで見える。
樹木がまるで獣の背中のように盛り上がり、枝は鋭い指の群れのように空をつついていた。
まるで、山そのものが息をしているかのようだった。
やがて、車のライトが古びた石碑を照らした。
「旧参道 立入禁止」
赤錆びた鎖が無残に垂れ下がっている。
その鎖の一部が“焼けたように黒く焦げている”のに、里沙は気づいた。
「……これ、普通の壊れ方じゃないよね」
蓮司は鎖に触れもしないまま、近くの石畳を照らした。
「見ろ。焦げてるのは鎖だけじゃない」
石畳の表面に、まるで爪で引き裂いたような溝が走っている。
深く、鋭く、そして規則的。
まるで何かが“這いずりながら、引きずられながら”進んだようだった。
里沙の背筋に冷気が走る。
「ここを……四つ目の影が動いた?」
「いや。これはもっと“重い”ものだ。影の痕じゃない」
蓮司の声は低い。
「主の気配が入り込んでる。あのスーツの男が、わざと結界を破ったんだ」
里沙は唇を噛む。
「間に合うよね……?」
蓮司は頷いたが、その目だけは笑っていなかった。
懐中電灯を手に、二人は旧参道へ入る。
一歩踏み入れた瞬間、風は止み、霧が足首にまとわりついてくる。
道の両脇には苔むした石灯籠が続いている。
しかし――
「あれ……灯ってる……?」
里沙が指差した。
朽ちた灯籠のいくつかに、ぼんやりと淡い青い火が揺れている。
火種など残っているはずもない古さだ。
蓮司は足を止めた。
「……違う。火じゃない。あれは――“視てる”」
「視てる?」
「灯籠の中に、影が入り込んでる。残滓だ。東の影だけじゃなく……他の影の気配も混じってる」
里沙は息を飲んだ。
灯明のように揺れていた青白い光が、
二人が通り過ぎるたび、目のようにこちらを追ってくる。
足元の石段を踏むと、低く、湿った声が響く。
――カサ……カサ……
里沙は慌てて蓮司の袖を掴んだ。
「なに、今の……?」
「聞こえただろ。“這ってる音”だ」
蓮司は光を落とし、石段の隙間を照らした。
そこには――
人の指ではない、長く痩せた“節だらけの指”が
石の裏を這い、ゆっくりと引っ込んでいく姿があった。
「っ……!」
「出てこないだけマシだ。まだ“本体”じゃない」
二人は再び歩を進める。
だが、旧参道を登るほど、周囲の異様さは増していく。
風はなく、霧は濃く、
灯籠の火だけが不吉に明滅する。
そして――石段の途中で、異変が起きた。
里沙が足を止め、震える声で言った。
「……蓮司、これ……見覚えない?」
彼女が指差した石段は、さっきまで通ってきた段と“同じような模様”で、
まるでループしているようだった。
蓮司は、懐から小さな紙片を取り出す。
そこには印を描いておいた、さっきの段の模様がある。
照らして比べる。
同じだ。
「……結界が“ねじれてる”。参道が、閉じてる」
「閉じてるって……抜け出せないってこと?」
「四つ目の影は“道を繰り返す”性質を持つ。昔の記録にも残ってる。参道そのものを“迷わせる影”だ」
霧が濃くなると同時に、
背後から、あの湿った音が響く。
――カサ……カサ……カサ……
里沙の呼吸が浅くなる。
「蓮司……追ってきてる……?」
「来てるな。旧参道の“掃除屋”だ。影に近づくものを排除するための……古い守り」
蓮司は石段に向かって札を一枚叩きつけた。
紙片が淡く光り、霧を裂くように広がる。
「走れ、里沙!」
二人は霧を切り裂くように駆け上がった。
背後で、何か大きなものが石段を叩き割る音が響く。
――ドンッ……ドンッ……ドンッ!!
「なにあれ!? 影じゃないの?」
「影じゃないッ! 主の“分泌物”だ!」
「分泌物!?」
里沙の声は裏返ったが、蓮司は振り返らずに叫ぶ。
「影の領域を踏み込んだ奴を噛み砕くための“残骸”だ! 形はない! 意思もない! ただ嚙むだけの肉塊だ!!」
ドンッ、ドンッ、と石段を砕く音が近づいてくる。
「嘘でしょ……なんでそんなのが――」
「四つ目が近い証拠だ! 影が目覚める前に主の気配が漏れてきてるんだ!!」
霧が裂けた。
そこに――古い鳥居が現れる。
苔むし、朽ち、片方は折れかけている。
しかし、その奥には、確かな“影の気配”が渦巻いていた。
蓮司は息を呑む。
「ここだ……四つ目の影の領域」
その瞬間、背後の霧が爆ぜるように揺れ、
巨大な黒い影の“口”だけのようなものが迫ってきた。
里沙が叫ぶ。
「蓮司!!」
蓮司は札を一枚、空中に叩きつける。
「――ッ通すかよ!!」
札が光を放ち、迫る口を一瞬だけ押し返した。
その隙に、蓮司は里沙の手を掴んで鳥居をくぐり抜ける。
霧が一瞬だけ晴れ――
鳥居の向こう側の風景が、がらりと変わった。
その中心に、
人か獣か判別できない“影の核”が、うずくまっていた。
四つ目の影――
「ヨリツク影(憑寄の影)」
迷いと道を喰う影。
鳥居をくぐった瞬間、世界が裏返ったような感覚があった。
空気は急に乾き、霧は跡形もなく消える。
代わりに、耳鳴りに似た低い振動が辺り一面に響いていた。
里沙が蓮司の手を離し、震える声で呟く。
「ここ……山の中じゃない……」
蓮司は目を細めた。
「影の“内側”だ。四つ目は、外界と自分の領域を重ねる力が強い。本体に近づくほど、山は本来の形を失う」
鳥居の前に広がるのは、まるで“廃れた古社の幽霊”のような景色だった。
かつて社殿があったと思われる広場は、すべて黒い砂に覆われ、
建物の残骸は影だけを残して朽ちていた。
そして――
その中心に、“それ”はいた。
黒い土の上に、何かがうずくまっていた。
人のようで、動物のようで、骨のようで、煙のようでもある。
輪郭が定まらず、
見た角度によって違う形に見える。
里沙はそれを見て、吐息のような声を漏らした。
「これ……何……?」
蓮司は言った。
「“ヨリツク影”。道に宿り、迷いを喰い、進む者の“意思”を吸い取る影。ここまで姿が定まらないのは……まだ“目覚めていない”状態だからだ」
影はゆっくりと頭らしきものを持ち上げた。
その動きに、地面がわずかに軋む。
まるで、大地そのものが痛みに耐えているようだった。
蓮司が札を構える。
「……来るぞ」
影が、静かに“こちらを見た”。
目らしいものはない。
しかし確かに、それは二人を“見た”。
そして――
周囲の景色が、一気に揺らいだ。
里沙の視界が波紋のように歪み、
次の瞬間、足元の地面が石段へと変わっていた。
「え――ちょっと!? 参道にもどってる!?」
蓮司が怒鳴る。
「幻だ! 影の世界に引きずり込まれるな!!」
だが、参道はさっき通った時のものではなかった。
同じ場所がひたすら繰り返され、
同じ灯籠が左右を照らし、
同じ石段がループしている。
その中を――
ゆっくりと、四つ目の影が這うように近づいてくる。
里沙の背中が凍りつく。
「な、なんで……追ってくるの!? 影ってもっとこう……襲いかかるとか、一気に来るとかじゃ……」
蓮司は短く息を吐いた。
「“迷い”を喰う影は、獲物を怖がらせて弱らせるんだよ。焦り、恐怖、絶望……そういう“揺れ”を喰って強くなる」
影が一歩進むたび、幻の参道がねじれ、
同じ景色が無限に続くように広がっていく。
まるで本物の迷路だ。
里沙は息を荒くし、蓮司の腕を掴んだ。
「蓮司、どうすればいいの!? 走っても走っても同じ場所だよ!!」
「……走る必要はない」
蓮司は静かに言い、里沙の手を優しくほどいた。
そして、影に向き直る。
「四つ目――“ヨリツク影”。お前の力の源は、外界に迷いを撒くことじゃない。“迷う者を道に縛りつける”ことだ」
影の動きが止まる。
蓮司はさらに続ける。
「七つの影は主の鎖。その中でもお前は、迷いによって参道と社を結ぶ“接続点”。俺たちを迷わせているつもりだろうが……その力は逆に利用できる」
里沙が息を飲む。
蓮司は札を三枚、空中に舞わせた。
「――“道を返せ”」
札が白く発光し、周囲の景色が一瞬だけ揺らぐ。
すると、参道の幻が裂け、黒い砂の大地が姿を取り戻した。
影が嘶くような声を上げる。
声ではない。空気の振動そのものだ。
里沙は耳を押さえた。
「蓮司! 怒ってるよこれ!!」
「そりゃ怒るだろ。影の領域操作を無理やり剥がしたんだからな」
蓮司は影を見据え、言った。
「さあ――こっちに来い。“迷い”じゃなく、俺たちの意思を喰ってみろ」
影の気配が変わった。
うずくまっていた姿勢が伸び、輪郭が鋭く、形が人型に近づいていく。
黒い煙が集まり、
骨のような腕が生え、
顔らしきものがゆっくりと形を持ちはじめる。
その顔――
“蓮司によく似ていた。”
「……え……?」里沙は凍り付く。
蓮司の表情が一瞬だけ固まる。
「そうか……俺の迷いを読み取ったか。姿を“寄せる”……だからヨリツク影。分かりやすいじゃねえか」
影は蓮司の形をしたまま、声なき声で笑った。
里沙が震える。
「蓮司に……なってる……」
蓮司は札を握りしめ、
まるで“自分自身”と向き合うように影を睨んだ。
「来いよ。俺の迷いを喰いたいなら……全部暴いてみろ」
影は一歩、また一歩と近づく。
その度に、周囲の大地が黒く染まり、
空間が歪み、蓮司の背後に“別の形”の蓮司がうっすらと浮かんでいく。
まるで影が蓮司の“後悔”や“未練”をひとつずつ形にしているようだった。
里沙が叫ぶ。
「蓮司!! のまれちゃダメ!!」
蓮司は振り返らず答える。
「大丈夫だ。こいつに喰わせる迷いなんて、もう残っちゃいねぇよ」
影が蓮司の目前まで迫り――
その腕が蓮司の胸へ伸びかけた瞬間。
蓮司が札を一枚、影の形に叩きつけた。
「――縛れッ!!」
札が白光を放ち、影の体を縛り上げる。
影は蓮司の“形”を保ったまま、黒い霧を激しく撒き散らした。
蓮司が叫ぶ。
「里沙!! 今だ!! お前の声で“道”を切れ!!」
里沙は息を吸い込み――
震える声を、まっすぐ影へ向けた。
「――ここは道じゃない!! 迷いは、誰にも触らせない!! 私たちは進む!! あなたに縋らない!!」
その瞬間――
霧が裂け、影の形が大きく揺らいだ。
影は蓮司の顔を維持できず、
ぐずぐずと溶けるように形を失っていく。
蓮司は最後の札を影の中心に突きつけ、叫んだ。
「ヨリツク影――てめぇの道はここで終わりだ!!」
白い光が炸裂し、四つ目の影は悲鳴のような振動を残して――
一気に崩れ落ちた。
黒い砂が舞い、風が吹き抜ける。
影は、消えた。
その中心に、また一つ――
木簡が落ちていた。
蓮司はそれを拾い、深く息を吐く。
「……四つ目、完了だ」
里沙は膝に手をつき、肩で息をしながら笑う。
「蓮司……あなたの迷いって……」
「今は言うな。絶対言うな」
「……言わないけど……気になるんだけど……」
蓮司は咳払いし、無理やり話を戻した。
「次は五つ目だ。でも……その前に、あいつが来る」
里沙の目が鋭くなる。
「懐中時計の男……」
影が消えた空間の奥――
ひとつの影が、こちらを“見ていた”。
ポケットから懐中時計の鎖が揺れ、
カチリ、と不吉な音が山に響く。
五つ目の影の前に、
ついに“敵”が動き出す――。
四つ目の影が消え、黒い砂の風景が静寂を取り戻したその時。
カチ……
カチ、カチ、カチ……
乾いた金属音が、どこからともなく響きはじめた。
鳥居の残骸を抜けた先。
倒れた灯籠の陰から、一人の男が姿を現した。
スーツ姿。
だがそれは山道に似つかわしくなく、埃ひとつ付いていない。
胸元で揺れる銀の懐中時計が、不気味なリズムで開閉している。
男は笑うでもなく、怒るでもなく、ただ淡々とした声で言った。
「――四つ目を、切りましたか。ええ、実に興味深い」
里沙が一歩、蓮司の背後に下がる。
「あんた……何者?」
男は答えず、代わりに懐中時計を開いてみせる。
盤面には“針が存在しない”。
ただ黒い渦のような模様が、ゆっくりと回転している。
蓮司が言う。
「……その時計、ただの時計じゃないな」
「当然ですとも。これは“門の向こうの時間”を測るもの。あなた方の世界には存在しない概念ですから」
里沙の肌が粟立つ。
「門……?」
蓮司は短く息を吐く。
「主が来た場所か。そんなもんを測って何がしたい」
男はにこりともせず、淡々と言った。
「“目覚め”の時刻を知りたいだけです。あなた方も気付いているでしょう? 七つの影は、封印の鎖であり――供物です」
蓮司が目を細めた。
「その供物を全部集めて、主に喰わせるつもりか」
「もちろんです」
男の声は静かだった。
静かすぎて、逆に狂気が透けて見える。
「主は“世界を修正する存在”です。影はそのための鍵。鎖など必要ない。七つが揃えば、主の完全覚醒は必然……」
カチリ。
懐中時計の蓋が、ひときわ大きく閉まる。
男は蓮司を真っ直ぐ見据えた。
「なのにあなたは、鎖を切って回っている。実に――邪魔だ」
里沙が怒鳴る。
「邪魔って……人を喰う存在を解放しようとしてるあんたが……!」
男は黙って里沙を見る。
その視線は、まるで人を“構造物”として見ているようだった。
「あなたは……“影に触れた経験がある女性”ですね」
里沙が息を呑む。
蓮司が里沙をかばうように前へ出る。
「里沙に何かしたら承知しねぇぞ」
男は、まるで蓮司の言葉など最初から無かったかのように続ける。
「四つ目を切った今、封印は残り三つ。ですが――」
男が指を鳴らした。
その瞬間、周囲の風景がわずかに震える。
「……主の気配、感じませんか?」
蓮司は気づいた。
さっきまで穏やかだった空気が、
じりじりと肌を焼くような“圧”に変わっている。
里沙が青ざめた。
「なにこれ……息が……苦しい……」
男は淡々と言う。
「七つの鎖のうち四つが切れた。主は、半醒状態に入りました。封印が半壊したということです」
蓮司は奥歯を噛んだ。
「お前……何のためにこんなことを……」
男は初めて、微笑んだ。
「――“浄化”ですよ。あなた方の住むこの世界の」
「浄化……?」
「人は弱く、脆く、迷い、争う。主が顕現すれば、その全ては一度“白紙”になる」
蓮司の声が低くなる。
「世界の……リセットかよ」
「ええ。修復でも再生でもなく、“最適化”」
男は一歩近づく。
距離は五メートルもない。
懐中時計が勝手に開いた。
黒い渦が、呼吸しているように脈打つ。
蓮司は札を構えた。
「……俺たちがいる限り、お前の好きにはさせねぇよ」
男は首をかしげた。
「そうでしょうね。だからこそ――あなた方には“削れて”もらう」
里沙が蓮司の袖を掴む。
「蓮司……来るよ……!!」
男は静かに右手を上げた。
次の瞬間――
世界の空気が、裂けた。
地面から、壁から、空間の隙間から
“黒い筋”が一斉に走り出す。
影の断片――
いや、主の“触手の影”が無数に広がり、蓮司と里沙を包囲した。
蓮司が吠える。
「影を直接操るだと……っ!?」
男は微笑む。
「主の加護を受けた者には、触れることが許されるのですよ。では――始めましょう。あなた方の“排除”を」
影が牙を剥いた瞬間。
蓮司は札を十枚同時に構え、
里沙の手を引いて跳んだ。
「やばい……!! 本気で殺しにきてる!!」
男は微笑みながら呟いた。
「ええ。主の目覚めの前に、不要物は消しておかないと」
――そして、戦いが始まった。
影の触手が四方八方から迫る。
地面が、樹木が、空間そのものが揺らぎ、黒い“裂け目”が走った。
蓮司は札を一気に十枚、円を描くように投げ放つ。
「六方結界――展開!!」
札が空間で光を放ち、六角形の膜となって迫る影を弾き飛ばす。
しかし。
男は懐中時計を軽く弾いただけで、その六角結界に柔らかい歪みが走った。
「……っ!? 蓮司、押されてる!」
「主の時間に触れた存在に、人間の結界が耐えられると思いましたか?」
カチ、カチ、カチ……
時計の黒い渦が回転を速める。
結界に走るひびが音を立てた。
蓮司は歯を食いしばり、叫ぶ。
「里沙――やれ! 来るぞ!!」
里沙は息を吸い、手を広げた。
空気が一瞬、震える。
彼女の中に眠る“影に触れた者の力”が目覚め始めていた。
里沙の瞳が淡く光る。
「――“視る”!」
世界が反転する。
里沙には見えた。
影の触手の中に、一本だけ“白い筋”が混じっている。
そこだけが、主の力の本体に繋がる“根”。
「蓮司!! あそこ!!」
「……視えんのか! 助かる!」
蓮司は瞬時に印を結び、声を張り上げた。
「――震破!!」
地面が唸り、蓮司の足元から“霊衝波”が走る。
衝撃波が影を刈り取り、白い筋を露出させた。
男の眉が僅かに動く。
「ほう……影の“芯”を見抜くとは。女性、あなたの能力……まさか“渉りし者”の――」
言葉を終える前に、
里沙の掌から青白い火花が弾けた。
「喋ってる暇ないでしょうが!!」
――ドッ!!
霊力の光弾が一直線に飛ぶ。
影の芯に命中し、裂け目が大きく揺らぐ。
男が初めて、表情を曇らせた。
「……人間が、主の“筋”を撃ち抜くなど……」
蓮司も続けざまに飛び込む。
「まだだッ!!」
右手が赤く光る。
蓮司の霊力が直接、拳に宿る。
「霊拳・烈――ッ!!」
拳が影の芯に叩きつけられ、裂け目が爆ぜた。
黒煙が四散する。
影の触手が一瞬、動きを止める。
蓮司の身体に反動が走り、膝をつく。
「ぐっ……くそ……主の力はやっぱ重てぇ……!」
里沙が駆け寄り、霊力を流し込む。
「蓮司、治癒! 持って!」
蓮司の傷が温かく塞がり、呼吸が戻る。
男はゆっくりと歩を進める。
影が血のように滴り落ちながら彼の足元に集まる。
「……あなた方がここまで厄介だとは。封印の“半分”が壊れ、主の力が流れ込んでいる今ですら、これほど……」
里沙が蓮司の前に立つ。
「もう一度来る……! あの人、まだ本気じゃない!」
蓮司も立ち上がり、両腕に札を纏わせる。
「なら、こっちもそろそろ本気見せねぇとな。里沙、合わせるぞ」
「うん……!」
蓮司が印を結ぶ。
里沙が霊力を重ねる。
二人の声が響く。
「――結魂・双霊陣!!」
二人の霊力が重なり、足元に巨大な紋章が展開した。
空気が震え、山全体が唸る。
男の目が細くなる。
「ほう……連携術式を使えるとは。だが――」
懐中時計を開く。
黒い渦が、鼓動した。
「主の“時間”の前では、あらゆる術は遅れるのです」
渦が世界を歪ませる。
蓮司と里沙の動きが、わずかに遅れた。
「……スロー効果!? まずい、蓮司!!」
蓮司は歯を食いしばる。
「ぐ……っ……そう簡単に……遅れっぱなしで……たまるかよッ!!」
双霊陣の紋章が輝き、二人の身体が“逆流”するように時間を押し返す。
「時間操作を……力で押し返した……? ――人間の域では、ない」
男は初めて、ほんのわずかに後ろへ下がった。
蓮司の拳が燃える。
里沙の掌に雷光が集まる。
二人が同時に踏み込んだ。
「いっけぇええええッ!!」
「覚悟しなさいよ……!!」
二条の光が交差し、
男めがけて炸裂し――
爆光。
樹々が揺れ、地が割れ、
影が千々に飛び散った。
光が収まると――
男の姿は影の群れの向こうに立っていた。
服は少し焦げ、懐中時計がひび割れている。
男はゆっくりと時計を見下ろした。
「……ここまで、壊されるとは……。“七つ目”が起きる前に排除するべき存在ですね」
瞳が暗く光る。
そして――
彼の背後で、“門の影”がうごめいた。
蓮司の全身に悪寒が走る。
「やべぇ……次は本当に、殺しに来る……!!」
里沙も震える声で言う。
「蓮司……この人、さっきまで遊んでただけだ……」
山が唸る。
男が、歩き出す。
――戦いはここからが本番だった。
男が一歩、前へ踏み出しただけで
山の空気が――変わった。
重い。
重すぎる。
蓮司が咄嗟に札を構えるが、額から汗がこぼれ落ちた。
「……っ、なんだこの圧……四つ目の影なんて比じゃねぇ……!」
里沙も声にならない震えを喉に押し込みながら言う。
「空気が……潰れてる……!? 蓮司、息が――吸えない……!」
男の右手がゆっくり持ち上がる。
その掌の中心に、“門の渦”が小さく浮かび上がった。
「では、これで。あなた方の存在を一度“無かったこと”にしましょう」
瞬間――
空間が折れた。
音も光も、意味を失う。
そして、男の掌から放たれる。
――“虚喰”
黒でも白でもない。
色の概念を奪う“穴”。
それが刺すように飛来する。
「蓮司!!避け――」
里沙の叫びより早く、蓮司は横へ跳んだ。
しかし虚喰は地面をかすっただけで、
地形が……消えた。
抉れたのでも砕けたのでもない。
元からそこに存在しなかったかのように、
“地面そのものが欠落”した。
里沙が蒼白になる。
「うそ……これ……当たったら終わりじゃなくて……消える……?」
蓮司も言葉を失う。
「……時空間を喰ってんのかよ……こんなの人間相手に使う攻撃じゃねぇ……!!」
男は淡々と告げる。
「主の力の“余波”で十分なのです。本気と言っても、あなた方に合わせて弱めています」
――弱めて、これ。
里沙は膝が震えるのを止められなかった。
蓮司が札を投げる。
「六方結界――!!」
しかし。
結界が形を成す前に
虚喰が触れ、
結界が消えた。
跡形もなく。
里沙が悲鳴を上げる。
「結界が……消し飛んだ……っ!?」
男の足元で影が蠢き、
次の虚喰が展開を始める。
蓮司が叫ぶ。
「里沙、伏せろ!!」
蓮司は里沙を押し倒し、背中から霊力を爆発させる。
「霊衝壁――ッ!!」
光の壁が展開し、虚喰を受け止めた……が、
壁は一秒ともたず、
ずぶずぶと削られ、穴が空きはじめた。
「ダメ、蓮司! 壁が溶けてる!」
「わかってる……ッ!!」
押し返せない。
正面から受ける力じゃない。
虚喰は霊力でも物体でもなく、
“存在そのもの”を喰い潰す攻撃だ。
蓮司の背中が焼ける。
霊力が削がれていく。
男は歩みを止めず、静かに語る。
「あなた方は強い。影を四つも断ち切れた。だからこそ――ここで消す必要があるのです」
蓮司の膝が沈む。
「……っぐ……やべぇ、本当に……負ける……!」
里沙は震える手で蓮司の肩に触れた。
「蓮司……ごめん……私……何も……できない……っ」
「バカ……お前が“視て”くれなかったら……今頃、俺ら……」
言い終わる前に、虚喰が壁を貫いた。
――ッ!
蓮司と里沙の後方、木々が丸ごと“欠落”する。
白い空間が露出し、現実そのものに穴が空いた。
男は時計を開く。
蓋のひびが広がり、黒い渦が脈打つ。
「終わりです。主が、あなた方の存在時間を……」
その時。
里沙が立ち上がった。
膝が震え、呼吸も乱れ、涙を浮かべながら。
だが彼女の瞳は、強い光を宿していた。
「存在を……喰うなら……私だって……“視て”抗う……」
里沙の周囲に小さな光点が浮かぶ。
彼女の霊力が、暴走ではなく“覚醒”に変わった。
蓮司は驚愕する。
「里沙、お前……今の……!」
男の表情が、初めて変わった。
「その光……まさか……“七つ目の影”の――」
里沙を中心に、霊力の光が渦を巻き始める。
虚喰が一瞬だけ、進行を止めた。
蓮司がその隙を見逃すはずがない。
「今だぁあああッ!!」
蓮司が最後の霊力を拳に集め、
虚喰の核心へ殴り飛ばす。
光と闇が衝突し――
大気が逆流するほどの衝撃が走った。
虚喰が砕け散り、空間が元の色を取り戻す。
男は数歩後ろへ下がり、
ひび割れた懐中時計を握りしめる。
「……予想外、ですね。あなた方……ここまで成長するとは」
里沙は膝をつき、蓮司も全身を震わせながら立ったまま息を荒げている。
男は静かに言う。
「……今日は、ここまでにしておきましょう。主の目覚めが近づいている。次に会う時――あなた方は“間に合っていない”」
影が彼の足元を飲み込み、
男の姿は霧散した。
残されたのは、
荒れ果てた山。
地面に空いた欠落の跡。
そして――
里沙と蓮司の、震える呼吸だけだった。
山の静寂が戻る。
虚喰の余波で抉れた大地に風だけが通り抜ける。
里沙はまだ膝をついたまま、
震える手を胸に押し当てていた。
蓮司が駆け寄り、肩を支える。
「里沙、大丈夫か……!? さっきの光――あれ、お前……」
里沙は首を振る。
「わからない……私、あんな力……今まで一度も……」
その時だった。
――ザァ……
風ではない。
影のような波紋が足元に広がった。
二人は反射的に身構える。
だが、現れたのは敵ではなかった。
淡い白影。
人型をしているが、輪郭は水面の揺らぎのように崩れ続けている。
蓮司が目を細める。
「……影の……残滓?」
白影は震える声で囁いた。
『……封……の……欠片……』
里沙は息を呑む。
彼女の胸が、痛むように脈打った。
例の光が、わずかに滲み出す。
白影はゆっくりと彼女に手を伸ばす。
『……七つ……最後の鎖……“示す者”…』
「示す者……?」
白影は、里沙の胸の位置──心臓のあたりに触れるように手を伸ばした。
そして告げる。
『――あなたは、“七つ目の影”の欠片を持つ者』
里沙の全身が強張る。
蓮司も言葉を失う。
「っ……七つ目!? まさか……里沙が影だって言うのか?」
白影は首を横に振った。
『違う……影そのものでは……ない……だが……“七つ目の鎖”が、あなたの魂と結びついた……』
「魂と……結びついた……?」
『影は……本来、“七つ”で完成する……あなたは……七つ目の“器”……封印の……最後の依り代……』
依り代。
その言葉に、蓮司は寒気を覚えた。
「じゃあ……もし七つ全部が揃ったら、里沙は――」
白影は淡く揺れ、絞り出すように告げた。
『喰われる……』
その瞬間。
里沙の心臓が拒絶するように強く跳ねた。
「……っ!!」
白影は続ける。
『本来、七つ目の影は“中央の鎖”。主の顕現を“抑えるため”の鍵……だが……封印の儀で……器が欠け……本来の影は消滅した……』
消滅。
存在しないはずの影。
白影は里沙を見つめながら続ける。
『あなたの魂が……その“空白”を埋めた……無意識に……七つ目の鎖を……補完した……』
里沙の指が、震えながら蓮司の袖を掴む。
「私……そんなつもりじゃ……知らなかった……! なんで……私が……?」
白影は告げる。
『“視える者”だから……門の時間の……外側に触れられる……だから……選ばれた……』
選ばれた。
それは祝福ではなく、“呪い”の響きだった。
蓮司が怒鳴る。
「ふざけんな! 勝手に選んで……勝手に結びつけて……里沙を喰わせるための器にしたってのか!?」
白影は静かに首を振る。
『違う……器は喰われるためではなく……“主を閉じるため”の鎖……最後の鍵……だから――』
白影は里沙の胸元にそっと触れた。
その瞬間。
里沙の中にある光が、一瞬だけ形を持った。
――円環の紋。
中央に“逆さの印”を宿す、七つ目の紋章。
蓮司が息を呑む。
「里沙……お前……本当に“鍵”なんだな……」
里沙は震える唇で言う。
「じゃあ……私がいれば……封印を閉じられる……?」
白影は肯定も否定もしなかった。
代わりに、ただ一言だけ囁いた。
『――あなたが死ねば、封印は“完全に解ける”』
沈黙。
里沙の顔から血の気が引く。
蓮司の拳が震える。
白影はゆっくりと崩れながら告げる。
『あなたは……鍵……そして……狙われる……“主を起こしたい者”に……“主を閉じたい者”にも……』
「閉じたい……者……?」
白影は続ける。
『七つ目は……世界の両側から狙われる……どちらも……“鍵”を求めている……』
里沙の瞳が揺れる。
「じゃあ……私は……どうすれば……?」
白影は最後の力を振り絞り、言葉を落とす。
『蓮司と共に……“七つ”を揃えよ……ただし――揃った瞬間が……最も危うい……』
白影は崩れ落ち、光の粒となって消えた。
残された二人は、
静かな山の中でただ立ち尽くす。
里沙の手が、小さく蓮司に伸びた。
「蓮司……私……もう、普通の人間じゃないのかな……?」
蓮司は迷わず里沙の肩を抱いた。
「普通だよ。俺にとっては、ずっとな。影がどうとか鍵がどうとか……そんなもん関係ねぇ。お前はお前だ」
里沙の目に涙が滲む。
蓮司は強く言った。
「だから絶対守る。鍵がどうとか――七つ目がなんだろうが関係ねぇ。絶対に、守る」
里沙は小さく頷いた。
胸の光が静かに脈動している。
七つ目の影。
最も重要で、最も危険な鎖。
そしてそれが、
里沙自身だった。
何もかもがここで一段落かと思われた直後だった。
空気が、震えた。
蓮司は思わず鳥肌を立てる。
里沙は胸を押さえ、顔をしかめた。
「……っ」
「里沙!?」
里沙の視界が、一瞬ぐにゃりと歪む。
北の山に吹く夜風の気配とは違う――もっと、深く、重い“揺らぎ”。
蓮司だけでなく、周囲の空気そのものがざわめき始める。
森の影が、ざく……ざく……と形を持つように動いた。
いや、それだけではない。
大地がうめいている。
「……何だ、これ……?」
蓮司は地面に手を当てて固まった。
その瞬間。
――パアンッ!!
破裂音のような衝撃が、旧参道の奥から響き渡った。
木々が震動し、雪がざらざらと落ちていく。
里沙の肩が、びくりと跳ねた。
「第五の影……起きてる。まだ封印は割れてないのに……っ」
「おい、ちょっと待て。まだ四つ目を倒したばっかりだぞ!? 影ってのは順番に動くもんじゃねぇのか」
「順番なんてもともと無いよ。本当は……全部、同時に“鍵”として働いてるだけだから」
里沙の声には、はっきりと“焦り”が混ざっていた。
ざざっ……ざざざざっ……
旧参道の奥――闇だけだった穴のような空間から、冷気が吐き出される。
蓮司は気付く。
この冷たさは、影そのものの気配ではない。
“主”の圧だけが漏れ出している。
「これ……まさか、男がやったのか?」
「違う。あれとは別。――誰かが、鍵の一つをこじ開けようとしてる」
「誰か?」
「……人間じゃないかもしれない」
里沙の言葉に蓮司は無意識に拳を握る。
そのとき、参道の奥で――
どんっ……どんっ……どどどどど……!!
大地を叩くような鼓動が始まった。
呼応するように、里沙の胸もどくん、と跳ねる。
息が詰まるほどの痛みが走る。
「里沙!」
「……大丈夫、っ……でも――」
里沙は震える指で、旧参道の闇を指した。
「五つ目の影――“北狐”が、呼ばれてる……っ」
その言葉を皮切りに、
旧参道の奥から、四つ目とは比べ物にならないほど黒深い“影の尾”がぬるりと覗いた。
――封印など、もう関係ないと言わんばかりに。
蓮司は呟く。
「……やべぇな。完全に急展開だ」
里沙はうなずく。
「うん。……このままじゃ、五つ目は影じゃなくなる。“主”に飲まれて……別の何かに変わる」
「変わる!?」
里沙は強く頷いた。
「蓮司、すぐ動かなきゃ。五つ目の影が完全に“主側”に落ちる前に――」
参道の闇が、ぱくり、と
巨大な獣の口のように開いた。
――第五の影の覚醒は、もう始まっていた。
参道の奥で、獣の呻きのような風が吹いた。
ざ――あ……
影の尾が一本、また一本と地面をなめるように伸び、
その中心に――“形”が現れる。
四つ目までの影とは違う。
これは凍える闇そのものだった。
黒い毛皮が逆立ち、
狐のような輪郭をしているのに、目だけが燃えるような赤。
――いや、赤ではない。
朱のような光が渦を巻き、形を定めず、
見る者の精神を焦がす“禍の色”だった。
里沙は、はっ、と息を呑む。
「……北狐が……もう、影じゃなくなりかけてる……!」
蓮司は眉をひそめる。
「どういう意味だ?」
「影は本来、人の祈りを食べるだけ。でも、今の北狐は――“主”の瘴気を取り込んで、自分の形を壊し始めてる」
「壊す? 強くなるってことじゃなくてか?」
「違う。影としての役目が壊れて、“主の眷属”になろうとしてる。そうなると、封印を守るどころか、こっちに襲ってくる……!」
その言葉の直後。
――ぎぃ、ぎいぃぃぃぃぃ……
耳を裂くような甲高い鳴き声が山に響いた。
北狐の身体から、黒煙のような影が噴き出す。
毛並みがざりざりと逆向きに揺れ、
尾は四本、いや五本にも見えた。
蓮司は構えを取った。
「……こいつ、来るぞ!」
「蓮司、待って! そのまま行ったら喰われる!」
「わかってんだよッ!!」
北狐は一歩踏み出しただけで――
地面が裂けた。
まるで冬の土が砕けるように冷たく、乾いた音。
蓮司は札を構えながら、身をひねって避ける。
だが北狐の動きは“影そのもの”。
重さが無い。
足音も無い。
次の瞬間には、もう目の前にいた。
「ッッ――!!」
影の爪が蓮司の首元に迫る。
里沙が叫ぶ。
「“退け――!”」
ぱん、と空気が弾ける。
里沙の力が反射的に発動し、
北狐の爪が一瞬だけ弾かれた。
しかし――
北狐はまったく怯まない。
逆にその朱色の目が里沙に向き、ぎらりと光る。
「狙われてる!?」
「……うん。“主”に近いから……!」
里沙は一歩下がる。
北狐の目は完全に獲物を見る獣のそれ。
蓮司は前に出た。
「おい、来いよ……! 里沙には指一本触れさせねぇ!」
だが北狐は蓮司を無視し――
里沙だけを狙う。
ひゅっ――!
地を滑る影の速度は、今までの影とは別格だった。
里沙の頬に、冷たい爪がかすめる。
その瞬間、里沙の胸がどくん、と強く脈打った。
影の尾が、彼女の背後を取り囲む。
蓮司が叫ぶ。
「里沙ぁ――ッ!!」
北狐が跳んだ。
喰らいつくように――
まるで“七つ目”を知っているかのように。
里沙は息を呑む。
「……私を……狙ってる……七つ目の“鍵”として……!」
北狐の口が開いた。
黒い霜が空気を焼くように広がる。
蓮司は全力で踏み込んだ。
「させるかよッ!!」
――その瞬間。
北狐の身体が、ぐらり……と揺れた。
まるで何かに呼ばれるように、そちらへ首を向ける。
山の奥から、
低い低い声が響いた。
『……戻レ……五ツ目……』
蓮司と里沙は、凍りついた。
それは影の“主”の声だった。
『……戻レ……五ツ目……』
その声が響いた瞬間、
山の空気が“死んだ”。
風も、雪も、虫の鳴き声も、
すべてが押しつぶされたように静止する。
里沙の背中を、冷たい感覚が這い上がる。
「これ……っ、“主”が……直接、干渉してる……!」
蓮司は息を飲んだ。
「直接だと!? 今まで影を通してしか来なかったのに……!」
「四つの鎖が切れたから……ここまで近づいてきてる……!」
北狐の赤い瞳が、ゆらりと濁る。
朱色の光が、黒い渦に飲まれていく。
ぐ……ぐぐぐっ……
北狐が、身体を折り曲げた。
その輪郭が崩れ、毛皮が影に溶ける。
「蓮司、後ろ下がって!」
「お前こそだ!」
里沙は首を横に振る。
「ダメ……あれは私を“七つ目”として認識してる。私を捕らえれば、主は外に出られる……!」
蓮司の顔が引きつる。
「ふざけんな……里沙は“鍵”じゃねぇ……!」
「わかってる! でも……血が……呼んでる……!」
言葉と同時に、里沙の胸が強く脈打つ。
どくん――
どくん……ッ!
北狐が、その鼓動と同じリズムで動く。
いや、“主”が里沙の鼓動を通して北狐を操っている。
里沙の足元に、黒い影が伸びた。
――影縛り。
「里沙!!」
蓮司が踏み込んだ瞬間。
北狐が爆ぜた。
影の身体を弾けさせ、
四方に黒い刃を撒き散らす。
蓮司はとっさに札を投げた。
「“火裂ッ!”」
札が燃え、火線が広がる。
だが――
ばちん!!
火が凍った。
「……何?」
蓮司の炎術が、
凍りついて砕け散る。
里沙が震える声で叫んだ。
「もう……術式が通らない……! 影じゃなくて、“主の断片”になってる……!」
次の瞬間。
北狐が――“無音”で消えた。
「っ……!」
蓮司は反射で里沙を抱え、後ろに転がる。
直後、
二人が立っていた地面が、えぐれる。
まるで獣に巨大な爪で抉られたように。
蓮司は息を荒くしながら叫んだ。
「おい……どんだけ速ぇんだよ……ッ!」
「影じゃなくて、存在が変わってる……! あれは――“主の走狗”!」
北狐は崖上に現れ、
狂気の朱の目で里沙だけを見下ろす。
蓮司は息を整え、札を三枚指に挟んだ。
「いいぜ……来いよ。里沙を喰うなら、その前に俺を食いちぎってからにしろ。」
北狐が、かすかに首を傾け――
次の瞬間、影の尾を大地へ突き刺した。
大地が鳴動し、
黒い霜柱が参道中に伸びる。
一本、二本、十本、二十本――
蓮司が絶句する。
「おいおい……これ、避けらんねぇだろ……!」
影の霜柱が、一斉に蓮司と里沙へ殺到する。
里沙は胸に手を当て、目を閉じた。
「……蓮司、ごめん。私の力を使う。“七つ目”の一端を……!」
蓮司が目を見開く。
「おい、待て! 暴走したら――」
「しない! 私が、私を制御する……!」
北狐の影が目前に迫る。
里沙の足元に、光の紋章が浮かぶ。
胸の鼓動に呼応するように、
彼女の影が――“白く”燃え上がる。
北狐の攻撃が触れる寸前。
里沙が叫ぶ。
「――“鎮守の逆紋”!!」
光が爆ぜ、
北狐の影の霜柱が粉々に砕けた。
蓮司は言葉を失う。
「……お前、こんな力……」
里沙は震える声で答える。
「七つ目の影の……“対”。本来、影を守るための“光の鍵”……それが……私の力の正体……!」
そのとき、北狐が初めて動きを止めた。
朱の目が、明らかに“怯え”に揺れる。
“主”の声が、再び山を揺らした。
『……七ツ目……見ツケタ……』
里沙の顔が青ざめる。
蓮司は、里沙の前に立ちながら言った。
「……やっと見えたぜ。全部狙ってる理由がよ……」
北狐が再び構える。
今度は完全に“主”の顔で。
蓮司は唾を飲み込み、札を構えた。
「行くぞ里沙。――暴走影、今度こそ止めんぞ!」
里沙は強く頷く。
「うん……“主”の声すら、断ち切る!」
――暴走した五つ目との、
本気の激闘が始まる。
北狐は完全に“主”の走狗となり、
目に宿る朱の光はもう影のものではなかった。
山の闇がざらりと揺れ、
北狐の影が巨大な牙を形づくる。
里沙は胸元を押さえながら蓮司の隣へ出る。
「蓮司……合わせるよ」
「……ああ。里沙、お前の力を信じる」
北狐が一瞬、姿をかすませた。
次の瞬間――
蓮司の背後に、音もなく現れた。
「後ろだッ!!」
蓮司は振り返りざま、札を三枚叩きつけた。
「“火護・三裂ッ!!”」
三枚の札が炎をまとい、牙のように空を裂く。
しかし北狐は――
揺らめいた影の毛皮を通して炎を“すり抜けた”。
蓮司が舌打ちする。
「通らねぇかよ……!」
北狐の尾が蓮司の胸を貫こうと伸び――
里沙の光が、瞬時に割り込んだ。
「“逆紋――展開ッ!!”」
ぱん、と光が爆ぜる。
尾が弾かれ、北狐が二歩、後退した。
蓮司は荒く息をつきながら言い放つ。
「やっぱり里沙の光じゃねぇと止められねぇ……!」
里沙は頷く。
「影の力は、影を壊せない……でも、“七つ目の対”は違う。影の核そのものを封じられる……!」
北狐が咆哮した。
ぎゃあああああああ――ッッ!!
声は獣ではない。
“主の欠片”そのままの低い悲鳴だった。
北狐の身体が膨れ、
尾が七本にまで増える。
蓮司が青ざめる。
「おいおい……七本尾ってのは反則だろ……!」
「主が……無理矢理、形を増幅してる……!」
尾が一斉に振り下ろされた。
黒い風が山肌をえぐる。
蓮司は里沙を抱えて跳び退く。
爆発のように地面が吹き飛び、木々が雪煙に包まれる。
蓮司は里沙を庇いながら息を切らす。
「……限界だな。このままじゃ北狐は止められねぇ」
里沙は小さく首を振った。
「止められるよ……! 蓮司と、私の力なら……!」
「でも――」
「蓮司。私の力……たぶん、“影の根を切る”ためのものなんだよ」
蓮司は目を見開く。
「根を……?」
「影は七つで封印の鎖になる。でも、主はその鎖を逆手に取ってる。だから、影の根っこを断てば――“主との繋がり”が切れる……!」
北狐が、再び飛びかかった。
だが里沙は恐れない。
「蓮司、あれを引き剥がす!! 私が核を浮かせるから――あなたの札で、切って!!」
蓮司は一瞬だけ迷い、
そして頷いた。
「……任せろ!」
北狐が二人を呑み込まんと落ちてくる。
里沙は胸に手を当て、力を解き放った。
「――“逆紋・解陣ッ!!”」
眩い光が北狐の体を貫いた。
北狐の影の中から、黒く濁った“核”が浮上する。
まるで黒い心臓のように脈動している。
北狐が苦悶の声を上げる。
蓮司は札を逆手に握った。
「いくぞ……!! ――“断影・裂槍ッ!!”」
蓮司が札を投げ放つ。
札は光の槍に変わり、
北狐の核を真っ直ぐに貫いた。
黒い光が弾ける。
北狐の身体が、影の粒となって飛び散る。
参道を揺らしていた闇の力が消え、
山の空気が一気に軽くなる。
里沙は膝をつき、荒い呼吸を漏らした。
「……やっと……」
蓮司もその場に座り込んだ。
「やった……のか……?」
黒い影が風に乗って散り、
その中心に一枚の木簡が落ちてきた。
里沙は震える手でそれを拾う。
「五つ目……“北狐”の鎖……」
蓮司は静かに言った。
「……封じた、ってことでいいんだよな?」
里沙は弱く微笑み、うなずいた。
「うん……私たちで……ちゃんと守れたよ」
そのとき。
山の奥から、“主”の声は聞こえなかった。
――静寂だけが残った。
北狐との戦いは、決着した。
しかし二人は直感で理解していた。
主は、これで終わらない。
残る影は、あと二つ。
そして――七つ目。
そしてその七つ目が、
“里沙自身”であるという確信が
胸の奥で静かに芽生え始めていた。
夜明けが近いはずなのに、北の山の空気はまだ刺すように冷たかった。
北狐の影が完全に消えた後、蓮司と里沙はゆっくりと参道を下り、事務所へ戻る道を歩き始めた。
里沙は蓮司の肩に寄りかかるようにして歩く。
霊力の使い過ぎで、体の芯が抜け落ちたようにふらついている。
「無茶しすぎだっての……ほら、手、貸せ」
蓮司は文句を言いながらも歩幅を里沙に合わせ、
倒れないようにしっかり支えた。
里沙は疲れ切った声で微笑む。
「……ありがとう、蓮司。もうちょっとだけ、頼るね」
事務所に戻ったのは昼も近い時間だった。
古びた木製のドアを開けると、
いつも以上に静かな空気が迎えてくる。
「……帰ってきたな」
蓮司が小さく呟く。
里沙は座敷机の前に腰を下ろすと、深く息を吐いた。
「ただいま、って感じだね」
その一言が、張り詰めていた緊張をほぐすようだった。
蓮司は棚から薬箱を取り、
無言で里沙の腕やこめかみの擦り傷を手当てする。
里沙はくすっと笑う。
「慣れてきたね、蓮司。怪我の手当て」
「お前が怪我しなきゃ上達しねぇんだよ、こういうの」
軽口を叩きながらも、
その手つきはやさしい。
手当てが終わると、二人はしばし黙った。
そして里沙が、ぽつりと言葉を落とす。
「……北狐の時、ね。ちょっと怖いことがあったの」
蓮司が視線を向ける。
「怖いって?」
里沙は掌を見つめた。
「影の“主”の声が響いた瞬間……私の中でも、それと同じ波が震えたの。まるで……呼ばれたみたいに」
蓮司は息を飲む。
「……共鳴か。七つ目ってのが、お前の力の正体なら……」
「うん。“主の側に立つ力”として、反応したのかもしれない」
里沙は不安げに笑う。
「でもね、蓮司。私は、主なんかのために生まれたくないよ。私は……自分の意志で、みんなを守りたい」
蓮司はその言葉を聞き、
しばらく黙った後、静かに言った。
「……だったら俺が、お前を“そっち側に落ちないように”支える。七つ目だろうが、影の鍵だろうが関係ねぇ。里沙は里沙だ」
里沙はその言葉に、胸が温かくなった。
「蓮司……ありがとう」
静けさを破るように、事務所の電話が突然鳴り響く。
蓮司が眉を寄せる。
「……嫌なタイミングだな」
受話器を取り、声を落とす。
「はい、鬼塚探偵事務所です」
相手はその筋の情報屋だった。
だが、蓮司の表情がすぐに引き締まる。
「……六つ目が? 軋んでる……?」
里沙が息を呑む。
蓮司は短く返事をし、受話器を置いた。
「六つ目――“南風の影”の封印が、歪み始めてるらしい」
里沙は立ち上がろうとする――が、膝が揺れた。
蓮司がすぐ支える。
「おい、まだ体が……!」
「行くよ、蓮司。六つ目は、私が行かなきゃいけないところだよ」
蓮司は苦い顔をしながらも、
その意志の強さに折れるように吐息を漏らした。
「……わかった。でも無理はすんなよ。次の影は南だ。長旅になる」
里沙は静かに頷いた。
「うん。絶対に……終わらせよう」
蓮司は事務所の鍵を手に取る。
「行くか。六つ目を止めに」
「うん、一緒に」
二人は再び静かな事務所を後にし、
南の地――六つ目の影が蠢く場所へ向かう。
その背後で、
あのスーツの男が密かに次の影へと接近していることを、
まだ二人は知らなかった。
南の地。
潮風の匂いが漂う海沿いの町から、さらに奥。
山と谷に挟まれた古びた祠が、森の奥深くにひっそりと存在していた。
その祠の前に、
黒いスーツを着た“あの男”が立っていた。
無表情の横顔に、
風が吹いても一つも揺らぎを見せない。
男は祠を見つめたまま、口をわずかに開いた。
「――六つ目、“南風”の影。お前はまだ、目覚めきっていない」
祠の奥から、
砂をすったような風の音が返ってくる。
ざぁああ……と、死んだ風。
男はポケットから黒い薄札を取り出し、
それを祠の前にひらりと落とした。
札は地面に触れた瞬間、
影のように溶けて消える。
「主は、お前の鎖が弱るのを望んでいる。だが……“南風”には、少し刺激が必要だな」
男は歩みを進め、祠の前に立つ石の扉へ手を添えた。
その瞬間――
何かが内部で蠢き、
空気が不自然に熱を帯びる。
男の目が細くなる。
「蓮司と里沙の封印は、どれも想定以上に強固だ。五つ目まで揃った。このままでは主の殻は破れん」
祠の奥から、低い唸りが響く。
グルゥ……ウウウ……
まるで封じられた風が、生き物のように嘆いているかのようだ。
男は膝を折り、しゃがみ込み、
祠の石床にそっと手を置いた。
地面から影がじわり、と滲み出す。
「六つ目。お前は“南風”。影の中で最も気紛れで、危うく、扱いづらい」
影が男の手首を舐めるようにまとわりつく。
男はくすりとも笑わない。
「だからこそ……今、暴れさせる価値がある」
声が森に吸い込まれるほど静かに言う。
「蓮司と里沙に、“里沙の正体”を悟らせすぎるな。彼らが七つ目に辿り着くのは、まだ早い」
男は小さく息を吐き、
祠に触れていた手を引く。
すると――
祠全体が、風のように微かに震えた。
キィ……キイイ……
風が逆流し、
祠の内部から“呪いが混じった空気”が漏れ出す。
男はゆっくり立ち上がり、上着の埃を払う。
「十分だ。これで六つ目は“歪み”を始める」
木々がざわりと揺れた。
祠の奥で、低い風が渦を巻き始める。
――六つ目が、揺らぎだした。
男はふと空を見上げる。
「さて。お前たちはどう動く? 蓮司、そして――七つ目」
里沙の名は口にしない。
あえて避けるように、静かな声で。
「お前が主の“対”として生まれたその真価……そろそろ確かめてみたくなったよ」
靴音を静かに響かせ、男は森の奥へ消えていく。
祠の奥で、
六つ目の影が、目覚めようとしていた。
暴走とも覚醒ともつかない、
暗い風を孕みながら――。




