第四十話
秋の陽は傾き、街外れにひっそりと佇む「旧・御影病院」は、すでに長い眠りについているようだった。
取り壊しを免れたコンクリートの建物は苔に覆われ、割れた窓からは風が吹き抜けて鈍い音を響かせている。
病院の門柱には、かろうじて「御影総合病院」の文字が残っていたが、その下には落書きや紙片が無造作に貼られ、都市伝説めいた噂を物語っていた。
里沙は肩をすくめ、吐息を漏らした。
「……この場所、やっぱり雰囲気が違いますね。廃墟特有の荒廃っていうより……人が入っちゃいけない空気がある」
蓮司は静かに頷き、門を押し開けた。
錆びた蝶番が軋み、甲高い音が周囲に広がる。
「白い影が現れるって噂、十年以上前からだそうだ。病院が閉鎖された理由も火事でも倒産でもなく、曖昧なまま――。妙な話だ」
二人が歩を進めると、足元には古びたカルテや薬瓶の破片が散らばっていた。
どれも時間の埃をまとっているはずなのに、不思議と最近まで使われていたような気配を漂わせている。
里沙は眉を寄せ、指先で古いカルテを拾い上げた。
「……南棟隔離病室・患者番号07……? 名前が塗り潰されています」
その瞬間、病院内部から風が吹き抜け、扉が一斉にガタガタと揺れた。
廃墟全体が呻き声を上げるかのように響き、二人の耳に低い囁きが混じる。
「……かえして……わたしの……名を……」
里沙が息を呑み、蓮司は冷静に声を落とす。
「……いるな。ここが、南の影の眠る場所だ」
受付の自動ドアはとうに電源を落とし、ガラスはひび割れたまま放置されていた。
二人が足を踏み入れると、古びた消毒液の匂いが鼻を刺す。埃と湿気に混じり、それだけが妙に新鮮で、つい先ほどまで人が使っていたかのように漂っていた。
「……空気が、生きてるみたいですね」
里沙は声を潜め、懐中電灯を掲げた。
光が壁の張り紙を照らす――『面会は午後五時まで』『南棟隔離病室関係者以外立入禁止』。
時を止めたように残る文字列が、不気味さを倍増させていた。
受付カウンターの中には、山積みになったカルテや点滴袋の残骸が散乱している。
蓮司は手袋をはめ、引き出しを漁る。
「……記録が残ってるな。だが、不自然に一部が抜け落ちている」
里沙が身を寄せ、覗き込む。
「消されてる……患者の名前、入院期間……それに原因不明の発作って……」
さらに奥へ進むと、診療室が並んでいた。
白衣が椅子に掛けられたまま、机には聴診器や処方箋が置かれている。
まるで医師が次の患者を呼び込む直前で時間を止められたようだ。
突然、棚の奥から「カタ……」と薬瓶が転がり出た。
里沙は反射的に振り向き、霊力を込めた札を構える。
だが蓮司は落ち着いた様子で呟いた。
「……まだ本体じゃない。痕跡の誘いだ」
診療室の壁には黒ずんだ染みが広がっており、そこから微かな囁き声が滲み出ていた。
「……なまえ……かえして……」
里沙の背筋に冷気が走る。
「名前……やっぱり、ここでも……」
蓮司は眉を寄せ、懐中電灯を南棟へ続く廊下に向けた。
「行こう。隔離病室だ。――南の影は、そこにいる」
受付から伸びる廊下を進むと、行き止まりの壁にぶつかる。
だが、よく見るとそこには古い鉄扉があり、厚い錠前で固く閉ざされていた。
上部に取り付けられた札には、かすれて読みにくい文字が残っている。
『南棟隔離病室――許可なき立入を禁ず』
「……ここですね」
里沙が声を潜める。
扉の表面には焼け焦げた跡が残り、まるで内部から炎が噴き出したかのようだった。
蓮司は懐中電灯を鉄扉にかざし、低く唸った。
「ただの封鎖じゃねぇ……結界の残骸だ。誰かが意図的に、ここを閉じた」
里沙は足元に目を留める。
散乱したカルテの中に、一枚だけ新しい紙が混じっていた。
それは古い入院記録のコピーで、そこにはこう記されていた。
――患者番号07 性別:女性 年齢:17歳
――症状:幻聴、幻視、夜間発作
――備考:本人が名を失ったと繰り返すため、記録上は仮名で記載
「……名を失った……」
里沙の喉が震える。
「だから、さっきから名前を返してって……」
蓮司はコピーを手に取り、鋭い視線を鉄扉へ向けた。
「間違いない。……この奥に、南の影が眠っている」
その時、錠前がガタンと震え、内部から低い声が漏れ出した。
「……かえせ……わたしの……なまえを……」
扉の隙間から、冷気と共に白い手がすっと伸び出す。
その瞬間、廃病院全体が呻き声を上げるかのように軋んだ。
鉄扉の錠前が震え続け、白い手が隙間から揺れ出していた。
その指は骨のように細く、触れれば凍えるほど冷たい気配を放っている。
里沙は思わず後ずさったが、すぐに呼吸を整え、札を握りしめて前へ出た。
「……聞こえる? あなたの声、ちゃんと届いてる」
扉の隙間から、ひときわ鋭い囁きが返ってきた。
「……かえせ……わたしの……なまえ……」
蓮司が一歩進み、低く問いかける。
「お前は患者07か。……この病院で、名前を奪われた少女だな?」
手は震え、次の言葉を吐き出す。
「……そう……わたしは……ここで……番号にされた……。誰も……呼んでくれない……わたしを……」
里沙の胸が強く締めつけられる。
「番号で呼ばれ、名前を奪われた……だから、返してって……」
影は呻き声を上げ、鉄扉に爪を立てる。
「……母は……来なかった……先生も……閉じ込めた……。わたしは……焼かれ……忘れられた……」
蓮司は表情を硬くした。
「……火事の夜か」
影は、かすかに嗤うように声を震わせた。
「……七つ……七つのうち……南はわたし……門を閉じるため……供えられた……」
その言葉に、里沙が思わず問い返す。
「主に仕えるために……? あなたも、犠牲にされたの?」
沈黙ののち、影は苦しげに答えた。
「……主は……名を食らう……名を持たぬ者は……すべて影に……落ちる……」
扉全体が震え、低い唸り声が響いた。
「……かえせ……わたしの……なまえを……!」
焼け焦げた鉄扉が、内側から押し破られそうなほどに揺れ始める。
扉の隙間から伸びる白い手が、がりがりと鉄を削るように音を立てていた。
里沙は恐怖を押し殺し、一歩前へ進んだ。
「……名前を失うって、どういうことなの?」
震える声で問いかけると、隙間から息のような声が漏れる。
「……名は……鎖……名は……血……名は……影を繋ぐ……」
蓮司が眉をひそめ、低く呟いた。
「……つまり、名を失えば、誰とも結びつかない存在になる」
影は笑うように、かすれた声を響かせる。
「……わたしは……番号にされた。母は呼ばなかった。友も呼ばなかった。名を呼ぶ声が消えたとき……わたしは存在をなくした……。だから……影に堕ちた……」
その言葉に、里沙の目が潤む。
「……忘れられることが……死ぬよりも酷いことだったんだね」
白い手が、鉄扉の隙間からこちらへ伸びる。
「……名を失えば……主のもの……主は……食らう……。七つ……すべて……名を奪われ……供物に……」
蓮司は冷静な口調で問い返す。
「主は誰だ。お前を番号にしたのは……ただの病院の人間じゃないだろう」
影は沈黙ののち、苦しげに呻いた。
「……主は……門の向こうのもの……。人ではない……けれど……人が呼んだ……」
扉の奥で、響くような叫び声が上がる。
「――かえせ! わたしの名を!」
廃墟全体が振動し、天井から埃が降り注いだ。
影の怨嗟が、限界に近づいている。
鉄扉の奥から、轟くような声が響く。
「……かえせ……わたしの名を……!」
建物全体が震え、ひび割れた窓ガラスが一斉にビリビリと軋んだ。
里沙は札を握りしめながらも、目を閉じ、震える声で呟いた。
「……もし、あなたの本当の名前を呼んだら……少しでも、あなたは戻れるの?」
影は一瞬沈黙し、やがて囁くように答えた。
「……呼ばれたい……呼ばれたい……。だが……もう誰も覚えていない……」
里沙は蓮司を振り返る。
「蓮司さん、カルテ……! さっきの記録、仮名があったはずです」
蓮司は散乱した紙束から、一枚を拾い上げる。
そこには黒々と殴り書きされた文字――《南条 美月(仮)》とあった。
「……これか? だが仮名だぞ」
里沙は首を振り、紙を胸に抱きしめた。
「仮名でも、誰かがあなたをそう呼んだなら、それは繋がりになるはず!」
彼女は鉄扉に向かって声を張り上げた。
「――美月さん!」
白い手が一瞬ピクリと止まり、鉄扉の震えが弱まる。
「……み……づき……?」
里沙はさらに踏み込み、涙をにじませながら叫んだ。
「そう、あなたの名前は美月さん! 番号なんかじゃない、あなたは人なんです!」
扉の向こうで、低いうめき声が嗚咽のように変わった。
「……よばれた……。わたしを……わたしに……もどして……」
蓮司はその変化を見逃さず、札を構え直す。
「今だ、里沙。繋がりができた……!」
だが同時に、影の声は苦悶へと反転する。
「……だが……主が……奪う……! 名を持つ影は……門を開く鍵……!」
鉄扉が悲鳴のように裂け、炎のような黒い靄が噴き出した。
「……わたし……美月……」
扉の向こうから、か細い声が漏れる。
その瞬間、黒い靄は揺らぎ、少女の輪郭が淡く浮かび上がった。
焦げた制服、涙に濡れた顔――確かに人の姿を取り戻そうとしていた。
里沙の瞳が輝く。
「……戻れる……! 美月さん、もう大丈夫――」
だがその希望は、すぐに破られた。
少女の影の背後に、巨大な黒が重なる。
扉全体を覆うほどの圧倒的な闇――主の力が、彼女を呑み込んでいく。
「――駄目だ!」
蓮司が叫んだ。
美月の顔が苦悶に歪み、声がねじれる。
「……たすけて……いや……わたしは……門……!」
鉄扉が爆音を立てて吹き飛び、白い手は炎のような黒靄となって襲いかかってきた。
床も壁も焼け爛れるように崩れ、廃病院の廊下が地獄のような熱と闇に包まれる。
「来るぞ、里沙!」
蓮司は即座に札を放ち、光の壁を展開する。
しかし黒靄の腕は壁を容易く貫き、二人の眼前でうねりを上げる。
「……名を……奪う……名を……喰らう……!」
声はもはや美月のものではなかった。
だがその奥に、必死に叫ぶ少女の声が重なっていた。
「――わたしは……わたしは、美月……!」
理性と怨嗟が入り混じり、祟り神と化した南の影が暴走を始める。
里沙は札を掲げ、必死に声を張った。
「蓮司さん! 彼女を喰われる前に――!」
「分かってる!」
蓮司の霊力が白銀の炎となって溢れ出し、闇を真正面から迎え撃つ。
光と闇の奔流が、旧・御影病院の隔離棟を震わせ、廃墟全体が今にも崩れ落ちそうなほど揺さぶられた――。
黒靄がうねりを上げ、無数の腕となって二人へと襲いかかった。
廊下の壁が砕け、床板がめくれ上がる。崩れかけた病院全体が、まるで影の一部のように動いていた。
「――くっ!」
蓮司は咄嗟に護符を広げ、白い光の結界を張る。
だが衝撃はあまりに重く、結界がひび割れる。
「押し切られる……!」
里沙が叫び、札を投げ放つ。
札は炎のように輝き、闇の腕を焼き払ったが、すぐに新たな腕が湧き上がる。
「名を……喰らう……奪う……!」
影の咆哮が病院に響く。
闇の触手が窓の外へと伸び、街の灯りを覆い隠そうとする。
里沙は必死に声を張った。
「美月さん! あなたは番号なんかじゃない! ここに、あなたを呼ぶ人がいる!」
一瞬、影の動きが止まった。
黒靄の中に、少女の顔が浮かび上がり、涙を流すように揺れる。
「……わたし……は……」
蓮司がその隙を逃さず、両掌を合わせて霊力を集中させた。
「――思い出せ! お前は供物じゃない、喰われるために生きてたんじゃない!」
白銀の光が走り、黒靄を押し返す。
だが次の瞬間、闇が逆流のように反撃し、結界に亀裂が走る。
少女の顔が苦悶に歪み、再び咆哮が響いた。
「……いや……いやァァァ! わたしは……主の……もの……!」
病院全体が震動し、天井から崩れ落ちた鉄骨が火花を散らす。
理性と怨嗟のせめぎ合い――その綱引きの中で、二人は必死に声を届けようとしていた。
轟音と共に、黒炎が噴き上がった。
それはただの炎ではない――過去の火災の記憶が霊力によって再現されたものだった。
崩れかけた廊下が赤く染まり、二人の目の前に燃え盛る幻影の病院が重なって現れる。
「……これが、あの時の……!」
里沙は息を呑んだ。
幻の中で、患者たちが叫び、看護師や医師が逃げ惑う姿がちらつく。
その全てが黒い炎に呑まれ、影となって崩れ落ちていく。
祟り神の咆哮が響いた。
「――燃やせ……名も……命も……すべて灰に……!」
炎に包まれた幻影の廊下から、幾重もの黒腕が伸び、二人を掴もうと襲い掛かる。
蓮司は剣のように霊力を凝縮し、一閃で切り払った。
だが切り払った先からすぐに炎の影が蘇り、さらに数を増して迫る。
「数が……増えてる!」
里沙は札を両手に散らし、火柱を押し返す。
しかし炎は彼女の足元を舐め、白衣の裾を焦がした。
「……くっ!」
そのとき、炎の中に浮かぶ人影が見えた。
それは患者服を着た少女――美月だった。
彼女は炎に囲まれ、泣き叫んでいる。
「助けて……たすけて……!」
里沙の胸が締め付けられる。
「蓮司さん! あの幻影……彼女自身の記憶よ!」
蓮司は炎を払いながら唸った。
「記憶を利用して俺たちを惑わせてやがる……だが、逆に言えば突破口だ!」
炎の幻影は強さを増し、二人を呑み込もうと迫る。
祟り神の姿はその中心に現れ、業火を纏った巨大な影として吼えた。
「――名を持つ者は……灰に還れェェェ!」
病院全体が崩れ落ちるかのような轟音と共に、第二段階の戦いが幕を開けた。
業火のような黒炎が廊下を覆い尽くし、壁も床も幻の炎に包まれて軋みを上げていた。
祟り神はその中心に立ち、腕を広げて二人を焼き尽くそうとする。
「――燃やせ……燃やせ……すべての名を……!」
炎はまるで意志を持つかのように竜巻となり、蓮司と里沙を呑み込もうとした。
「下がれ!」
蓮司は即座に結界を張り、白銀の光を前方に押し出す。
炎と光がぶつかり合い、爆ぜるような音と衝撃波が走った。
だが光の壁はすぐに削られ、じりじりと後退を強いられる。
「くそっ、押し返しがきかねえ……!」
里沙は札を束ね、息を吸い込んだ。
「――《封火・清浄の符》!」
彼女の周囲に散った札が一斉に輝き、炎の奔流を一瞬だけ押し返す。
だが力は長く持たず、札は次々と燃え尽きていった。
「里沙!」
蓮司が彼女の肩を支える。
その瞬間、炎の幻影の奥に――制服姿の少女、美月が見えた。
彼女は廊下に膝をつき、炎に囲まれたまま泣き叫んでいる。
「……わたしは……ここで……置き去りにされた……」
里沙は震える声で呼びかける。
「美月さん! 私たちはあなたを助けに来たの! どうか……聞いて!」
祟り神の咆哮がそれをかき消すように響いた。
「名を呼ぶなァァ! その声は主の門を開ける!」
黒炎が荒れ狂い、竜の顎のような形となって二人を呑み込もうと迫る。
蓮司は歯を食いしばり、結界を強めながら吼えた。
「構わねえ、行け! お前の声は届いてる!」
里沙は蓮司の光に守られながら、炎の中へと踏み出した。
髪が焦げるほどの熱気の中、彼女は必死に美月へと手を伸ばす。
「……もう一度言うわ、美月さん! あなたの名前は、美月――!」
炎が渦を巻き、祟り神が絶叫する。
「黙れェェェェェッ!!!」
その圧倒的な猛攻の中、里沙の声だけが確かに幻影の少女の心へ届こうとしていた――。
里沙の叫びが届いたその刹那、廃墟全体を揺るがすような轟音が走った。
黒炎が渦を巻き、廊下も天井も幻影ごと崩壊するかのように砕け散る。
「――ッ!?」
蓮司が里沙の腕を引き、二人は後方へ飛び退いた。
炎は制御を失い、病院の隔離棟そのものを焼き尽くす勢いで暴走した。
その中心で、影の本体がうごめく。
黒炎の奥に浮かぶのは、心臓のように脈打つ塊――血のように赤黒く輝く核だった。
「……あれが……!」
里沙は息を呑む。
「影の核……!」
祟り神の声が、病院全体を震わせる。
「……奪われた名を……呑み込めば……わたしは主へ還れる……!」
炎は一層荒れ狂い、核を守るように幾重にも立ち上がる。
幻影の中の美月はその傍らで泣き叫んでいた。
「いや……いや……! そこに、わたしの全部がある……!」
蓮司は刀のように札を握り締め、低く唸った。
「なるほどな……核を潰せば、祟り神としての力は封じられる。だが同時に……少女の魂ごと砕きかねん」
里沙は首を振る。
「なら、砕くんじゃない……! 呼び戻すの。核を正しい名で包めば、影は昇華できるはず!」
炎が竜巻となって迫り、二人を呑み込もうとする。
蓮司は前へ踏み込み、札を大地に突き刺した。
「ならやるしかねえ! ――核を狙うぞ!」
光と闇が衝突し、旧・御影病院は崩落寸前の轟音に包まれる。
その中心で、影の核が不気味に脈動を続けていた――。
轟音と共に、黒炎が巨大な壁となって二人の前に立ちはだかった。
まるで核そのものを守護するかのように、炎は渦を巻き、龍の顎のように形を変えて吼え猛る。
「……近づけさせる気はねえってわけか」
蓮司は低く呟き、札を両手に構えた。
白銀の霊力が刀身のように迸り、彼の眼が鋭く光る。
「なら――力でこじ開ける!」
彼が一閃を放つと、白い刃が炎を切り裂いた。
だが炎は裂け目から再び膨れ上がり、複数の黒い腕となって蓮司を締め上げようとする。
「くっ……!」
結界で防ぎながらも、霊力の消耗は激しかった。
一方、里沙は後方で札を展開し、清浄の光を次々と放つ。
「――《浄焔符》!」
彼女の札が火花を散らし、炎を押し返して小さな突破口を作った。
その瞬間、蓮司が吼える。
「里沙、今だ! 声を届けろ!」
炎の竜巻の隙間から、核の赤黒い鼓動がわずかに見えた。
しかし同時に、影の咆哮が轟く。
「名を呼ぶなァァァ! ここは……主の領域だァ!」
黒炎がさらに暴走し、廃病院の床が大きく崩れ落ちる。
その裂け目の下は、底知れぬ闇。
ふたりは縁を踏みしめながら、必死に立ち続ける。
里沙は震える声を張った。
「――美月さん! 聞こえてるはずよ! あなたの名は、闇なんかに奪わせない!」
核が脈動を強め、黒炎が狂ったように荒れ狂う。
しかしその奥で、幻影の少女・美月が涙を流しながら振り向いた。
「……わたしは……美月……」
その声に応じるように、核の赤黒い輝きが一瞬だけ揺らいだ。
蓮司は全身の霊力を燃やし上げ、闇の壁へと突撃した。
「――今だ、決めるぞ!」
白と黒、二つの奔流が衝突し、隔離棟全体が爆ぜるような光に包まれた――。
白銀の刃と黒炎の奔流が衝突した瞬間――空気が裂けるような轟音が走り、核そのものが激しく脈打った。
赤黒い光が歪み、周囲の炎を吸い込みながら肥大化していく。
「……っ、やばい……!」
蓮司が舌打ちした。
次の瞬間、核は形を変えた。
肉塊と炎が絡み合い、巨大な怪物のような姿を取り始める。
赤黒い心臓が頭部に埋め込まれ、全身は黒炎の筋肉で覆われていた。
その口から漏れる声は、美月のものではなく――異様に歪んだ主の囁きだった。
「……鍵を……開けろ……。名を持つ影は……門を……」
轟音と共に、怪物の腕が振り下ろされる。
コンクリートの床が粉々に砕け、瓦礫が吹き飛んだ。
二人は身を翻し、紙一重で直撃を避ける。
「……もう完全に主の手が入ってやがる!」
蓮司は結界を張りながら吼えた。
「こいつを倒さねぇ限り、美月は戻らねぇ!」
里沙は震える札を握りしめ、必死に声を張る。
「でも……核を潰したら、美月さんの魂ごと消えてしまう……!」
怪物の咆哮が二人の声をかき消す。
炎を纏った触手が四方八方から伸び、壁も天井も崩しながら襲いかかる。
蓮司はそれを斬り払いながら、低く唸った。
「だったら、砕くんじゃなく鎮めるしかねぇ……! お前の声だ、里沙!」
美月の幻影が、怪物の胸――核の奥で必死に手を伸ばしていた。
「……たすけて……わたしを、呼んで……!」
炎と闇の怪物が雄叫びを上げ、最終の戦いが始まろうとしていた――。
怪物と化した核が、両腕を広げると同時に炎が爆発した。
廃墟の天井は一気に崩れ落ち、鉄骨と瓦礫が火花を散らして落下する。
蓮司は里沙を抱き寄せ、転がるようにかわした。
「……っ、こいつ……!」
黒炎の触手が再び伸び、結界を何度も叩き割ろうとする。
その度に霊力の火花が散り、空間は地獄のような光景と化した。
怪物の口が開き、歪んだ声が空気を裂いた。
「……七つ……七つの影は……主の門を囲む楔……」
「……鍵を壊さず、ただ名を与えよ……そうすれば……門は開く……」
里沙がはっと顔を上げた。
「……七つの影は……門の楔……? 全部を昇華したら……逆に……!」
怪物は咆哮を上げ、さらに続けた。
「……おまえらが……名を呼ぶ度に……楔は緩む……門は……近づく……!」
蓮司が目を細め、低く唸った。
「なるほどな……こいつらを救おうとすればするほど、主にとっては好都合ってわけか」
炎の触手が彼に襲いかかる。
蓮司は剣閃のように札を振るい、一閃でそれを断ち切った。
だが黒炎はすぐに蘇り、今度は二人を同時に包み込もうと迫る。
「……絶望を知れ……名は楔にして、同時に門を開く鍵……」
怪物の核が不気味に光り、鼓動が病院全体を震わせた。
里沙は必死に声を張る。
「じゃあ……どうすればいいの!? 救えば門が開き、砕けば魂が壊れる……!」
祟り神は嗤うように応じる。
「……答えは……おまえらの選択にある……」
次の瞬間、黒炎が竜巻となって二人を呑み込もうとした。
その咆哮は、まるで世界そのものを嘲笑しているかのようだった――。
黒炎の怪物が咆哮を上げた瞬間、炎が竜巻のように渦巻き、蓮司と里沙を呑み込んだ。
灼熱の中で、里沙の視界が一瞬、真っ暗に塗り潰される。
――そして次の瞬間、耳元に低い声が囁いた。
「……おまえは名を呼ぶ……弱き魂を救おうと……」
「だが……それこそが……我が望み……」
里沙は息を呑んだ。
身体は現実に立っているのに、意識は黒い水の底に引きずり込まれていく。
目の前に影の数々が浮かび上がり、名もなく呻く声が重なった。
「……救いたいのだろう……? ならば、呼べ……」
「名を与えよ……魂を結び直せ……そうすれば、七つの楔は解ける……門は開く……」
「……っ!」
里沙の心臓が強く脈打った。
その言葉は、彼女の内側に潜む迷いを抉り出す。
――影を昇華させることは、本当に救いなのか。
――それは主の望みに加担しているだけではないのか。
意識が揺らぐ里沙の前に、少女・美月の幻影が現れた。
「……おねえちゃん……わたしを呼んで……」
その声は救いを求める純粋な響きであると同時に、鎖のように心を絡め取る。
「やめろ!」
蓮司の声が遠くから轟き、現実に引き戻される。
結界が破れる音と共に、彼が必死に炎を押し返していた。
「里沙! 耳を貸すな! そいつは主だ……お前の迷いを利用してる!」
だが主の声はなおも囁く。
「……迷いを抱いたままでは……戦えぬ……」
「おまえの選択が……全てを決める……」
黒炎がさらに膨れ上がり、怪物は病院全体を覆う巨躯へと変貌していく。
もはや一刻の猶予もない。
黒炎の囁きが心を締め付ける。
「……呼べ……名を与えよ……そうすれば、門は……」
だが、里沙は唇を強く噛みしめ、震える両手を胸の前で組んだ。
「……私は……もう迷わない」
脳裏に浮かぶのは、美月の幻影――暗闇の中で小さく、必死に助けを求めていた少女の姿。
あれは主の道具なんかじゃない。
確かに生きて、確かに苦しんで、確かに亡くなったひとりの少女――ただそれだけの存在だ。
「あなたは影じゃない。あなたは――」
里沙は声を張り上げた。
「――成瀬 美月!」
その瞬間、廃墟を揺らしていた黒炎が轟音と共に軋み、怪物の巨体が痙攣した。
「……ああああァァァッ!」
裂け目の奥で、美月の幻影が光に包まれ、両手を広げてこちらに応える。
黒炎の触手が狂ったように暴れ、里沙を飲み込もうと迫る。
だが蓮司が前に躍り出て、白銀の霊力を全開にしてそれを斬り払った。
「今だ、里沙! 呼び続けろ!」
「――美月! あなたは名を持っている! もう二度と、闇なんかに縛られない!」
光が核へと流れ込み、黒炎は一気に崩れ始める。
祟り神は咆哮した。
「名を呼ぶなァァァッ! それは楔を……! 門を……!」
だがその声は次第に掻き消され、代わりに美月の穏やかな声が響いた。
「……ありがとう。やっと……思い出せた」
核が砕け散り、黒炎は昇華する光に包まれて消えていく。
廃墟を覆っていた異様な気配も、潮が引くように消え去った。
最後に残ったのは、少女の柔らかな微笑だけだった。
黒炎が消え去ると同時に、廃墟となった御影病院を満たしていた圧力はすっと引いていった。
焼け焦げた匂いが残る空間には、ただ夜の湿った空気が満ちている。
蓮司はゆっくりと息を吐き、手にした札を下ろした。
「……終わったな」
里沙も肩を押さえながら、深く息をついた。
「はい……。でも、主の言葉……忘れられません」
廃墟の中は静まり返っていた。崩れかけた診療室の窓から月光が差し込み、埃の粒が銀色に輝く。
二人の足元には、砕けた核の残骸のような黒い影がわずかに揺らめいていたが、それもやがて霧散して消えていった。
「……美月は救えた。名を呼んでやれた。それで十分だ」
蓮司の声はいつも通り低く静かだったが、その奥にわずかな安堵が滲んでいた。
里沙は小さく頷き、胸の奥でその言葉を反芻する。
「……ええ。少なくとも、あの子は影じゃなくて……美月として、眠れる」
しばし無言の時間が流れる。
外では風がざわめき、遠くで犬の鳴き声が聞こえるだけだった。
やがて蓮司が口を開く。
「だが、これで三つ目だ。東、西、そして南……。どれも主に繋がる手がかりを残している」
里沙の目に決意が宿る。
「……七つの影を追うのは、もう避けられないですね」
「そうだ」
蓮司は短く言い、背を向けた。
「……帰るぞ。整理するのは事務所でだ」
二人は崩れかけた廊下を並んで歩き、夜の闇へと戻っていった。
御影病院はただ沈黙し、まるで長い夢から覚めたかのように静かに佇んでいた。
夜更け。
薄暗い鬼塚探偵事務所の灯りの下、蓮司はデスクに資料を広げ、煙草の煙を漂わせていた。
里沙は隣で、手帳に細かくメモを取りながら整理を進めている。
「……これで三つ目だな」
蓮司が低く呟き、机に並んだメモ用紙を指で叩いた。
紙には走り書きのようにこう書かれている。
東の社:祭文と大祀に関わる影。
西の火葬場:火災と供物に関わる影。
南の病院:名前を失った患者たちの影。
里沙は眉を寄せながら記録を見直す。
「……どの場所でも、主に繋がる言葉が出てきましたね」
蓮司は煙を吐き出しながら頷く。
「東では祭文と大祀。西では七つの楔。南では名を呼ぶほど楔は緩む……」
「つまり、七つの影は全部門を守る役目を負わされていた……。でも昇華させると、その楔が外れていく……」
里沙は口を噛み、ペンを強く握った。
「じゃあ、私たちのしていることは……」
「――主の計画の一部を進めている可能性がある、ってことだ」
蓮司の声は冷ややかで、しかし迷いはなかった。
「……でも、放っておけば犠牲者が出続けます」
里沙は顔を上げ、強い瞳で言った。
「影を救わないわけにはいきません」
蓮司はしばし黙り、灰皿に煙草を押し付けた。
「……そうだな。救う。それが俺たちの仕事だ」
事務所の時計が深夜を告げる。
二人は残された四つの影の存在を胸に刻み、次の依頼に備えて静かに資料を閉じた。
資料を閉じた後、事務所は一層の静けさに包まれていた。
古びた蛍光灯の明かりがじりじりと唸り、外からは時折、車の走る音がかすかに聞こえてくるだけ。
里沙は机に頬杖をつき、しばし沈黙していた。
やがて、ぽつりと声を落とす。
「……正直に言いますね。怖いんです」
蓮司は目を細めて、彼女を見やった。
「何がだ?」
「主ですよ。影を救えば救うほど、その門が近づく……。私が名を呼ぶ度に、それが楔を外しているのかと思うと……」
里沙は拳を握り締めた。
「……私、利用されてるんじゃないかって」
蓮司は煙草に火をつけ、ゆっくりと煙を吐いた。
「利用されてるかもしれん。だが――」
灰を落としながら、言葉を続ける。
「救いを選ばずに放置すれば、ただ犠牲者が増えるだけだ」
「……分かってます」
里沙は小さく笑みを浮かべたが、その目は潤んでいた。
「でも、私は……人の名前を呼ぶことで救えるのが嬉しいんです。だからこそ怖い。嬉しさが主に仕組まれた罠なんじゃないかって」
蓮司はしばらく黙って彼女を見つめ、それから低く、短く言った。
「罠かどうかは関係ない」
「……え?」
「お前が救いたいと願った人間を、実際に救えてる。それが全てだ」
彼は視線を外し、窓の外の夜を見やった。
「主が何を企んでようがな……俺たちのやってることは、間違っちゃいない」
里沙の胸に、熱いものが込み上げてきた。
「……ありがとうございます、蓮司さん」
事務所の灯りが二人の姿を淡く照らす。
重苦しい影を背負いながらも、確かに前へと進むための覚悟が、そこにあった。




