第三十九話
午後。
事務所のドアベルが軽く鳴った。
入ってきたのは、痩せた顔に疲れの色を濃くした中年女性だった。
黒いカーディガンを羽織り、手には一冊のノートを抱えている。
「……突然すみません。こちらで、霊的な調査をされていると伺って……」
蓮司と里沙は互いに視線を交わす。
女性は椅子に腰を下ろすと、震える声で続けた。
「私、旧・南原火葬場の近くに住んでいるのですが……夜になると、建物の跡地から赤い火が上がるんです。あそこはもう使われていないはずなのに。……それに、最近は夢にまで焼けただれた顔の影が出てきて……」
里沙の表情が固くなる。
「……火……」
女性は抱えていたノートを差し出した。
それは古い町内会の記録帳で、焼け跡の由来が記されていた。
「二十年以上前、あの火葬場で火災事故があったんです。犠牲者も出て……でも、公式には詳しく公表されなかった。
最近になってから、夜ごとに赤い影が揺れるようになって……」
蓮司はノートをめくり、淡々と目を走らせる。
ページの隅には「供物」「祭火」「封じ」という文字が書き残されていた。
「……南原火葬場。ここが西の影=火か」
低く呟いた蓮司の声に、部屋の空気が冷え込む。
女性は必死に頭を下げる。
「どうか、どうか調べてください。このままでは……」
里沙は真剣な眼差しで頷いた。
「分かりました。放ってはおけません」
蓮司も静かに立ち上がり、窓の外を見やった。
「次は――火だ」
夕陽が沈みかける街を、赤黒い光がかすかに染めていた。
依頼人の女性が深々と頭を下げ、ノートを残して事務所を去った。
ドアが閉まると同時に、室内に静寂が戻る。
里沙はしばらくノートを見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……火。予感はしていたけど、本当に次はこれね」
蓮司は無言で煙草を取り出し、窓を少し開けて火をつけた。
紫煙がゆらりと立ち昇り、夕陽に溶けていく。
「……東の社で見たろ。七つは揃えば主が解き放たれる」
短く言い切る声には迷いがなかった。
里沙は机に肘をつき、じっと蓮司を見た。
「私たちで、本当に全部止められるのかな。
一つ一つの影だって、あれほど強い……。でも、止めるしかない」
蓮司は煙を吐き出し、視線を合わせる。
「里沙。怖れちゃいねぇだろ」
「……ええ。でも、心配はしてる。あんたの無茶をね」
里沙の口調は柔らかいが、瞳は真剣そのものだった。
蓮司はふっと笑い、煙草を灰皿に押し付けた。
「心配するなら、自分の身を心配しろ。
……俺はお前を死なせるつもりはない」
その言葉に、里沙はわずかに目を見開いた。
けれどすぐに口元を緩め、静かに頷いた。
「なら、信じる。……一緒に行くわ」
二人の間に言葉以上のものが交わされる。
窓の外、沈みかけた夕陽が街を血のように赤く染めていた。
夜。
街の外れ、人気の途絶えた道を二人の足音だけが響いていた。
街灯は途中で途切れ、あとは月明かりと懐中電灯の光だけが頼りだ。
「……ここから先は人通りもないわね」
里沙が言うと、蓮司は黙って頷いた。
旧・南原火葬場。
二十年以上前の火災事故で廃止され、今は放置されたままの建物。
近隣では「夜になると赤い影が立つ」と噂され、子供すら近寄らない。
やがて二人の視界に、黒い影が浮かび上がる。
それは大きな瓦屋根と煙突が半ば崩れた、暗いシルエットだった。
錆びた鉄柵が周囲を囲い、入口には「立入禁止」とかすれた赤文字の看板が残っている。
里沙は懐中電灯を構え、低く呟いた。
「……火の気配、するわね。まだ燃えているみたいに、空気が熱い」
蓮司は柵を跨ぎ、暗がりへと足を踏み入れる。
「行くぞ。ここが西の影の舞台だ」
その瞬間、ひときわ冷たい風が吹き抜け、二人の灯りを揺らした。
風の中に、かすかな声が混じる。
――「返せ……」
声は煙突の方角から、くぐもった呻きのように響いた。
柵を越え、二人は火葬場の敷地を静かに進んだ。
夜露に濡れた草が靴に絡みつき、ざわざわと不気味な音を立てる。
建物は沈黙しているが、どこか燃え残りの匂いが漂っていた。
里沙が足を止め、地面に光を当てる。
「見て。……これは」
土の上に黒く焦げた痕が、まだ新しい形で残されていた。
火はとっくに消えているはずなのに、触れると温もりを帯びている。
蓮司は腰をかがめ、指先で土をすくった。
「……煤じゃないな。灰に血が混ざってる」
「血……?」
里沙の声が強張る。
「まさか、誰か最近ここで――」
その時、風に乗って紙片がひらひらと舞い落ちた。
拾い上げると、それは焦げ跡のある古い火葬場の記録票だった。
焼却許可 未処理と赤字で書かれた欄が、そのまま残されている。
「未処理……」
里沙は唇を噛み、蓮司を見やる。
「誰かが……返されなかったまま眠ってるってこと?」
蓮司は建物の奥を睨む。煙突の根元から、かすかに赤い光が漏れていた。
「……その可能性が高い。だから影は火を纏って現れる」
周囲は静寂に包まれている。
だが、草のざわめきと共に、どこからともなく人の呻き声が混じって聞こえた。
「……蓮司」
里沙が不安げに名を呼ぶ。
蓮司は懐中電灯を強く握り、短く答えた。
「中に入るぞ。……準備はいいか」
錆びついた扉を押し開けると、長い時間を閉ざされていた空気が二人を包んだ。
焦げと埃が混ざり合った臭気。壁は黒く煤け、ひび割れた床板には灰が積もっている。
「……息が重い」
里沙が手で口元を覆い、懐中電灯を左右に振った。
狭い廊下の先、焼却炉へ続く鉄扉が見える。そこから赤黒い光が、わずかに漏れていた。
蓮司は足音を殺し、扉に近づく。
手を掛けた瞬間――
「……返せ……」
低く掠れた声が響いた。
同時に、空気が一気に熱を帯びる。壁際の影がぐにゃりと膨れ上がり、人影を象る。
「来たか……!」
蓮司が身を翻すと、影は火の粉のような赤い光を散らしながら腕を伸ばしてきた。
里沙はすかさず祈祷の言葉を紡ぎ、札を影に投げつける。
白い光が弾け、影の一部が裂けて火花のように散った。
だが、それは退くどころか呻き声を強める。
「焼け……消えぬ……燃やせ……」
蓮司は腰の護符を握りしめ、低く呟く。
「……火に縛られた怨念、か」
影はまだ完全な姿を見せず、廊下の奥へと後退していく。
その先にあるのは――焼却炉。
「……あそこが本丸だな」
蓮司の言葉に、里沙は頷きながら札を新しく取り出した。
「行きましょう。奥で、何かが待ってる」
二人は赤い光の揺れる方角へと、ゆっくりと進んでいった。
焼却炉へと続く暗い廊下。
二人の足音が灰を踏みしめ、微かな粉塵を舞い上げる。
里沙が灯りを壁際へ向けた。
「……蓮司、これ」
そこには古びた木箱が置かれていた。埃をかぶってはいたが、誰かが最近触れたように周囲だけが拭われている。
蓋を開けると、中には半ば燃えかけた線香の束と、ひしゃげた金属のペンダントが入っていた。
「供え物……?」
里沙は慎重にペンダントを取り出す。焦げ跡の下に、小さく名前が刻まれていた。
――《美緒》。
蓮司の眉がわずかに動く。
「火災の犠牲者か……」
さらに木箱の底には、黒ずんだ紙片が重ねられていた。
掠れた文字は読みにくいが、辛うじてこう記されている。
――焼かれることなく眠る者へ、火を絶やさぬように
里沙の手が止まる。
「……これ、供養じゃない。封印ね。火を絶やさぬようにって……つまり、燃やし続けることで影を縛ってた」
蓮司は低く吐き捨てた。
「供養じゃなく犠牲か……。火は祀られたんじゃない。閉じ込められて、燃え尽きることすら許されなかった」
ちょうどその時、焼却炉の方角から赤黒い光が強く脈動した。
廊下に立つ二人の影も、赤く揺らめき始める。
「……行こう」
里沙がペンダントを握り締める。
「彼女が求めているのは、返されること。その声を聞かないと……」
蓮司は頷き、護符を構えた。
「奥だ。待ってるぞ――西の影が」
廊下の奥に鎮座する巨大な焼却炉は、ひび割れた鉄扉の隙間から赤黒い光を吐き出していた。
蓮司と里沙が近づくと、空気はじりじりと肌を焼くように熱を帯び、耳の奥で小さな呻き声が幾重にも重なり始める。
「……返せ……燃やせ……まだ、終わらぬ……」
次の瞬間、炉口から赤い炎が噴き上がり、その中に女の影が形を取った。
焦げ跡に覆われ、片腕を失った姿。目は虚ろに揺らめき、火の粉が涙のように零れ落ちている。
里沙は一歩前へ出て、声をかけた。
「……あなたの名は、美緒? あの火事で……帰れなかった人?」
影は震える声で応じた。
「……呼ばれ……た……けれど……炎に……飲まれ……骨も……還らず……」
蓮司が手にした護符を構えながら、低く問う。
「供え物として閉じ込められたのか。火を絶やさぬように――縛られていたんだな」
影は苦しげに頷くように揺れ、焼却炉の炎が激しく波打つ。
「……燃え続けよ……そう命じられ……鎖とされ……七つのうち……わたしは火。……門を閉ざす鍵……そして……門を開く糧……」
里沙の胸が強く締めつけられる。
「あなたは、犠牲にされたのね……」
影の声は次第に掠れ、怒りと悲嘆をない交ぜにして響く。
「……返せ……わたしの夜を……返せ……燃やし尽くせ……!」
赤い炎が轟音と共に拡がり、天井を舐めた。
だが影の眼差しには、まだ人としての残滓が宿っていた。
蓮司は護符を握り直し、低く呟いた。
「まだ理性が残ってる……今なら、話を引き出せる」
焼却炉を揺らめく赤い炎が、影の体をかき乱すように包み込む。
それでも美緒は、どこか訴えるように顔を上げた。
「……あの夜……火は突然ではなかった……」
声は震え、だが確かな怒りを帯びていた。
「――あれは……故意。炉に仕掛けられた油……鍵を持つ者だけが入れる、準備室から……流された……」
里沙が目を見開く。
「つまり……放火だったの?」
影は頷くように、揺れた。
「……消したかったのだ……わたしの……声を。事故として葬り……焼却炉に縛り……七つの一つとして……祀るために……」
蓮司の眉間に皺が寄る。
「犠牲じゃなく、選ばれた……。お前は生贄にされたんだな」
美緒の影は苦しげに嗤った。
「……生贄……鍵……どちらでも同じ……わたしは焼かれ、閉じ込められた……。けれど……主はまだ待つ……門が開く、その時を……」
赤黒い炎がぐらりと立ち上り、天井に焼き跡を走らせる。
その熱の中で、美緒の声が最後に震えた。
「……わたしの夜を……返せ……!」
影の理性が、炎に呑まれていく。
炎は今や焼却炉から溢れ、床を舐め、廊下へと迫り出していた。
里沙が後ずさりながら叫ぶ。
「蓮司さん、もう抑えられない――!」
蓮司は静かに護符を握り締め、視線を影へ固定した。
「……ここからは、力で止めるしかない」
轟、と炎が爆ぜた。
焼却炉の鉄扉が内側から破裂し、赤黒い炎が奔流となって吹き荒れる。
その中心から現れたのは、焦げた女の影――だが先ほどの儚い人影ではない。
全身は炎に包まれ、複数の顔が皮膚の下から浮かび上がり、呻き声を重ねていた。
「燃やせ……燃やせ……まだ、終わらぬ!」
それは美緒が飲み込まれた姿。
彼女の怨念と火災に焼かれた他の犠牲者たちが、炎の祟り神へと変貌していた。
「来るぞ!」
蓮司が叫び、護符を展開する。白い光の盾が二人を覆い、迫る炎の腕を弾いた。
だが、祟り神は立ち止まらない。
炎の腕が次々と生まれ、床を割り、天井を突き抜け、狭い焼却場を灼熱の地獄へ変えていく。
「熱……っ! 普通の霊じゃない、ここまで強大だなんて……!」
里沙が必死に札を結び、炎に向けて放つ。
札は空中で光の鎖に変わり、炎の腕を縛りつけた。だがすぐに燃え尽き、灰となって散る。
「封じも追いつかねぇ……!」
蓮司は片膝をつき、両掌を床に叩きつけた。
焼却炉の周囲に白い陣が走り、火炎の奔流を押し返す。
しかし、その瞬間、祟り神の身体から女の声が漏れた。
「……助けて……燃えるのは……いや……」
「美緒……!」
里沙が叫ぶ。
「まだ残ってる、彼女の心が!」
だが祟り神はすぐに咆哮を上げた。
「違う……違う! わたしは燃やす者……滅ぼす者……門を開く火!」
炎の奔流が結界を叩き割り、蓮司と里沙の身体を弾き飛ばした。
背後の壁が崩れ落ち、鉄骨が赤く溶ける。
「――これ以上は時間を稼げない、全力で叩くしかない!」
蓮司の白いオーラが迸る。
「里沙、合わせろ!」
「はい!」
彼女は全身の霊力を札へ注ぎ込み、光の柱を呼び出す。
二人の力が交わった瞬間、赤黒い炎と白銀の光がぶつかり合った。
轟音が焼却場を揺るがし、炎と光の渦が夜の闇を切り裂いていく――!
光と炎の激突が一瞬、焼却場を覆い尽くした。
次の瞬間、世界が――ぐらりと揺れる。
「……!?」
里沙は目を瞬かせた。
足元の床は消え、気づけば周囲は業火に包まれた廊下へと変わっていた。
焦げた木材の臭い、煙で霞む視界、耳に飛び込むのは無数の悲鳴。
「これは……幻影……いや、記憶……!」
蓮司は周囲を見渡し、低く唸った。
「祟り神が、最後の夜を再現してるんだ」
炎の奥に、制服姿の少女たちが走り回る姿が見えた。
だがその顔は溶けた蝋人形のように崩れ、やがて炎と一体化して消えていく。
「やめて……! 助けて……!」
声が重なり、空間全体が怨嗟の渦に沈む。
「……わたしは、見捨てられた」
低い声が轟く。
炎の中心、美緒の影が立っていた。
「教師は扉を閉じ、私を焼却炉に押し込めた……鍵を持つ者は……私を供物にした」
里沙の顔が苦痛に歪む。
「やっぱり……放火だけじゃない。彼女は意図的に閉じ込められた……!」
蓮司は拳を握り、炎に向けて踏み出す。
「それでも……こんなやり方で、真実を訴えても誰も救われない!」
祟り神の炎がうねり、床を割って巨大な火柱が噴き出す。
その火柱が形を変え、焼却炉の鉄扉や校舎の梁が怪物のように組み合わさり、火災そのものが敵となって襲いかかってきた。
「……これが奴の力、記憶を武器に変えるのか!」
蓮司は歯を食いしばり、霊力を掌に込める。
里沙は札を広げ、震える声で叫んだ。
「蓮司さん……ここで倒れたら、彼女の魂も二度と昇華できません!」
炎の幻影が迫る中、二人の力が再び交わる。
幻の火災と現実の祟り神が重なり、最終局面への道が開かれようとしていた――。
幻影の炎が空間を揺らす中、美緒の影が悲鳴とも嘲笑ともつかぬ声を上げた。
「……燃える……燃える……だが……わたしは一つに過ぎぬ……」
炎の奔流に包まれたその姿は、もはや人の形を保っていなかった。
それでも声は明瞭に響く。
「……七つの影……七つ揃えば、門は開く……」
蓮司と里沙が同時に目を見開く。
「やはり……!」
「門……?」
祟り神は苦悶にのたうち、さらに吐き出した。
「……主は待つ……七つの供物と……七つの鍵……門を越え、戻るために……」
「戻る……? 一体、どこから……」
里沙の問いに答えるように、炎が一瞬だけ形を変える。
それは、無数の手が絡み合い、地の底から扉を押し広げようとする光景だった。
「……人ならざる者……地下の門……七つ揃え……主を呼ぶ……」
その声は次第に崩れ、炎の咆哮に呑まれていく。
蓮司は低く唸った。
「つまり七つの影は、ただの怨霊じゃない……主を呼び戻すための儀式の部品……!」
「けれど、本人たちは……皆犠牲者……」
里沙の声は震えた。
「縛られ、燃やされ、利用されてきた……」
祟り神の声が最後に絞り出された。
「……七つ……集えば……夜が来る……」
炎の巨影が唸り、幻影の世界そのものを崩壊させていく。
赤黒い火柱が奔流となって迫り、蓮司と里沙は同時に構えを取った。
「――ここからが本当の決着だ!」
蓮司の霊力が爆発し、白銀の光が闇を切り裂く。
「里沙、合わせろ!」
「はいっ!」
光と札が共鳴し、祟り神を包み込む結界が再び走る。
赤黒い炎が奔流となって押し寄せ、幻影と現実の境界を溶かし崩していく。
祟り神の姿は巨大な炎塊へと変わり、無数の顔と腕が渦の中から呻き声を上げた。
「……燃やせ……返せ……七つが揃えば……夜が……来る……!」
その叫びに、蓮司は構えを低く取り、白銀の霊力を両掌に収束させた。
「……これ以上は喋らせねぇ。今ここで終わらせる」
里沙はすでに札を両手に広げ、全身から溢れる霊力を注ぎ込んでいた。
札は宙に舞い、光の文様を描きながら蓮司の力と共鳴していく。
「――陣を繋ぎます!」
「よし、俺の斬りと合わせろ!」
二人の声が重なった瞬間、白銀の光が炎の渦を貫き、祟り神の身体を縛り上げる。
里沙の札が鎖となり、蓮司の霊力が刃となって編まれる。
「光縛――」
「――霊断!」
合わせた奥義が炸裂し、炎の巨体を縦横無尽に切り裂いた。
祟り神の咆哮が焼却場を震わせ、燃え盛る幻影が音を立てて崩れ落ちる。
最後に、炎の中から美緒の影が浮かび上がった。
もはや焦げ跡に覆われた祟りではなく、一人の若い女性の姿。
彼女は穏やかな表情で二人を見つめ、かすかに口を開いた。
「……ありがとう……燃える夜から……やっと……帰れる……」
その言葉とともに影は光の粒となり、赤黒い炎を押しのけて静かに消えていった。
焼却場には再び静寂が訪れ、焦げ跡だけを残して炎はすべて消え失せていた。
蓮司は深く息を吐き、護符を下ろした。
「……一人、解き放ったな」
里沙も札を胸に抱き締め、目を伏せた。
「でも……まだ七つのうちの二つ。残りも、同じように……」
蓮司は黙って頷く。
その視線は遠く、まだ見ぬ主の影を睨むように鋭かった。
炎が消え去った焼却場には、煤けた鉄骨と崩れかけた壁だけが残っていた。
焼け焦げた匂いはまだ濃く漂っているが、不思議と風が通い、先ほどまでの灼熱は跡形もない。
里沙は胸に手を当て、しばらく言葉を失っていた。
「……美緒さん、最後に少しでも笑えていたように見えましたね」
蓮司は振り返らず、ただ夜風に煙草へ火をつけた。
「昇華できたのは確かだ。だが――」
言葉を切り、森の闇を見据える。
夜風に揺れる枝葉の間から、確かに冷たい視線のようなものが突き刺さってくる。
「……まだ終わりじゃない。むしろ、ここからが始まりだ」
里沙も気づいたのか、背筋を震わせた。
森の奥、廃墟の陰影に、一瞬だけ黒い人影が立っていた。
それは美緒とは違う、さらに濃い闇――七つのうち別の影か、それとも主の手先か。
影は何もせず、ただ二人を見つめたのち、闇に溶けるように消えていった。
「……監視されてる」
里沙の声は低く硬い。
蓮司は短く煙を吐き、足を返した。
「いいさ。どうせ向こうからも仕掛けてくる。……全部、叩き潰すまでだ」
二人は夜の森を抜け、闇に沈む旧火葬場を背に歩き出した。
背後では、風に煽られた錆びた扉が、カタンと小さく鳴った。
それはまるで――まだ何かが生きていると告げる合図のように。
夜明け前の街はまだ眠りの中にあった。
鬼塚探偵事務所に戻った蓮司と里沙は、静まり返った室内でテーブルを挟み、並んで腰を下ろした。
机の上には、焼却場から持ち帰った煤けた資料の切れ端と、これまでの調査で得た記録が広げられている。
里沙が手帳にまとめながら口を開いた。
「これで、東の社と西の火――二つの影が確認されましたね」
蓮司は煙草に火をつけ、煙をゆっくり吐きながら頷く。
「どちらも、祭文や供物に縛られていた。共通していたのは……七つの影という言葉だ」
里沙が小さく頷き、思案するように目を伏せる。
「七つが揃えば、門が開く……。そして主が戻る。……つまり影たちは、ただの迷える霊じゃなく、儀式の部品として閉じ込められている」
蓮司は低く言った。
「利用されてるんだ。死んだ者たちの怨念が、誰かの仕組んだ鍵にされてる」
事務所の窓の外では、薄明が差し込み始めていた。
里沙は手帳を閉じ、真剣な表情で蓮司を見た。
「……次は、どこを探るべきでしょうか」
蓮司は少し黙ってから、資料の地図を指でなぞる。
「残る五つ――北、南、中央……まだ姿を現していない影がある。けど、噂が一つある。旧・御影病院。廃墟になって久しいが、夏になると必ず白い影が出るってな」
里沙は小さく息を呑んだ。
「……それが、次の影」
蓮司は煙草を揉み消し、決然と立ち上がる。
「行くぞ。放っておけば、七つは揃っちまう」
朝の光が差し込む中、二人の決意は静かに固められた。
次なる舞台――旧・御影病院へ。




