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第三十七話

 夏の終わり、午後の陽射しが傾き始める頃。

 鬼塚探偵事務所の窓からは、近くの商店街を渡る風鈴の音がかすかに聞こえていた。

 蓮司はデスクで古い事件資料に目を通し、里沙は帳簿を片付けていた。


 そのとき、ドアベルが鳴った。


 姿を見せたのは、顔色の悪い中年の男性だった。

 黒縁眼鏡にスーツ姿、肩から提げた鞄は乱雑に書類で膨れている。

 彼の名は――高瀬浩一たかせ こういち、都内のとある図書館の司書だという。


「……突然のお願いで、すみません」

 彼は深く頭を下げ、椅子に腰を下ろした。

 差し出された名刺には「区立南桜図書館」と記されている。


「最近、資料館で妙な現象が起きています。夜になると、古書の書庫から声がするんです。返せと……」


 その言葉に、里沙と蓮司は同時に顔を上げた。

 数か月前の依頼でも、似た言葉を聞いたばかりだった。


 高瀬は続ける。

「最初は職員の空耳かと思いました。ですが先週、夜間点検に入った同僚が……突然倒れて、意識を失ったんです。救急搬送されましたが、いまだ原因不明で――」


 彼は震える手で、一枚の紙を机に置いた。

 それは事故直前に同僚が書いたメモで、震える字でこう記されていた。


『影が……本を抱えて……こちらを見ていた』


 蓮司は煙草を取り出し、火をつけずに口に咥えた。

「……また影か」


 里沙は息を整えながらメモを見つめる。

「本を抱えて返せ……今までの依頼でも似たような言葉を繰り返す霊が多かった。でも、ここまで一致しているのは……」


 高瀬は額の汗を拭い、切実な声で言った。

「どうか……調べていただけませんか。図書館には数百年単位の古文書が収められています。もし呪いのようなものが封じられているのだとしたら……」


 部屋に沈黙が落ちた。

 ただ扇風機の回転音だけが響く。


 蓮司は煙草を指で弾き、低く告げた。

「分かりました。調べましょう。ただの残留思念じゃない。……もっと大きな何かが、動き出しているかもしれない」


 その声には、これまでの依頼では感じられなかった重みがあった。



 夜十時過ぎ。

 南桜図書館は既に閉館し、人気はない。街灯の明かりだけが入口をぼんやりと照らしていた。


 高瀬司書の案内で、蓮司と里沙は館内に足を踏み入れる。

 広い閲覧室は薄暗く、机や椅子は整然と並んでいるが、空気はどこか重く淀んでいた。


「声が聞こえるのは……この奥、古書の収蔵庫です」

 高瀬は小声で言い、鍵束を取り出して鉄扉を開けた。


 収蔵庫の中はひんやりと冷たく、無数の本棚が整然と立ち並んでいる。

 古い羊皮紙や和綴じの冊子、近世の古文書まで、多様な書物が整然と収められていた。

 だが、奥へ進むほど空気が澱み、霊的な冷気が肌を刺すように感じられる。


 里沙が低く呟く。

「……いるわね。はっきりとした気配」


 蓮司は煙草を耳に挟み、掌に霊符を忍ばせた。

「来るぞ。高瀬、絶対に俺たちから離れるな」


 その瞬間――。


 カタン、と奥の棚から本が落ちた。

 静寂に響くその音に、全員が身を固くする。


 懐中電灯の光が照らした先、本棚の隙間に――影が立っていた。

 それは十代半ばほどの少女の姿。黒いセーラー服を思わせる輪郭、両腕に抱えた古い和綴じの本。

 しかし顔は闇に塗りつぶされ、ただ虚ろな瞳だけが光を帯びていた。


「……返せ」


 掠れた声が、収蔵庫全体に響いた。

 本棚が微かに震え、背表紙が次々と落下して床を打つ。


 高瀬が青ざめて後ずさる。

「こ、これです……同僚が見たという……!」


 影は一歩前に出て、古書を抱え直した。

 その仕草は、まるで本を誰にも渡すまいとするかのようだ。


 里沙が懐中電灯を影に向け、声をかけた。

「……その本を返してと言うの? それとも――返してほしいの?」


 影は微かに首を傾げた。

 そして、抱えた古書の一頁がひとりでに開かれ、そこに記された奇怪な文字が、淡い赤光を放つ。


 蓮司は目を細め、低く呟いた。

「……これは、ただの霊じゃねえ。本そのものが媒介だ。……何か、もっと古い因縁が絡んでる」


 影の瞳が赤く光り、声が響いた。

「返せ――祭文さいもんを……」


 床一面に、黒い靄が広がり始める。



 赤く光る頁から、黒い靄が奔流のようにあふれ出した。

 本棚の影が歪み、床を這う靄が蛇のように伸びて三人に絡みつこうとする。


「下がれッ!」

 蓮司が霊符を叩きつけると、床に白光が走り、靄の一部を焼き払った。

 しかしすぐに別の靄が盛り上がり、まるで生き物のように彼の足元へ食らいつこうとする。


「……強い。普通の残留じゃないわ!」

 里沙は素早く印を結び、懐から護符を放つ。

 護符は鎖のように光を放ち、依頼人の高瀬を囲むように防御の結界を張った。


 高瀬は必死に声を震わせる。

「う、動けない……まるで、この部屋全体が……敵になったみたいだ……!」


 影の少女は本を抱きしめたまま、一歩前に進む。

 赤い瞳がぎらつき、声が収蔵庫全体に木霊する。


「……祭文を返せ……返さなければ……皆、呑み込む……!」


 その瞬間、本棚が一斉に揺れ、古文書が次々と床に落ちた。

 紙片が宙を舞い、まるで血の雨のように光を反射する。


 蓮司は腕で光を弾き返し、低く問いかけた。

「祭文……それが、お前をここに縛ってるのか? 本の中に、まだ何か封じられているんだな」


 影は呻くように答えた。

「……封印……奪われた……祭文は……ここにない……」


 里沙が鋭く反応する。

「じゃあ、あなたが守っているのは本物じゃない……? これは空の器?」


 その言葉に、影の動きが一瞬止まった。

 そして、呻きながら手にした本を強く抱きしめる。


「……祭文……かえせ……あれを、失えば……大祀おおまつりが……」


 突然、影が叫び声を上げ、赤い靄が渦を巻いて天井へ吹き上がった。

 灯りが一斉に落ち、収蔵庫は完全な闇に包まれる。


「――っ、来るぞ!」

 蓮司の声と同時に、黒い手が無数に伸び、三人へ襲いかかってきた。



 黒い手が三人を包もうとしたその瞬間、蓮司は懐から数珠を握り、床に叩きつけた。

「――破ッ!」


 轟音のように白光が弾け、黒い靄が一斉に吹き飛ぶ。

 収蔵庫の空気が震え、本棚がきしむ。


 里沙の護符が光の壁を広げ、伸びてきた影の腕を弾き返した。

「今のうちに!」


 影の少女は呻き声を上げながら後退し、抱えていた本をぎゅっと胸に抱いた。

「……祭文……返せ……」


 次の瞬間、彼女の姿は煙のように掻き消えた。

 残されたのは、赤い靄が渦を巻いた跡と、異様な冷気だけ。


 高瀬がへたり込み、荒い息をつく。

「……消えた……のか……?」


 蓮司は首を振り、収蔵庫の奥を睨む。

「いや、逃げただけだ。……まだここに痕跡がある」


 里沙が懐中電灯を掲げる。

 光が収蔵庫の最奥を照らしたとき――煤けた壁に、奇妙な文様が浮かび上がっていた。

 円環のような形に、古代文字めいた刻印。まるで血で書かれたかのように赤黒く染みついている。


「……呪紋?」

 里沙が声を潜める。

「でも、こんなの現代の図書館にはあるはずがない……」


 蓮司は壁をじっと見据え、低く呟いた。

「大祀……影が言った言葉と繋がる。これは古代の祭文を封じる印だ。……つまり、この図書館そのものが祭文に関わっている」


 高瀬の顔が青ざめる。

「……そんな……うちの図書館が……?」


 沈黙を破るように、床に落ちた紙束が風にめくれた。

 そこには震える筆跡でこう記されていた。


『大祀は未だ終わらず――七つの影をもって再び開かれる』


 蓮司と里沙は顔を見合わせた。

「七つの影……」

「……つまり、今までの依頼は全部、繋がっている」


 収蔵庫の奥で、かすかな囁きが最後に響いた。


「……次は……東のやしろ……」



 翌日の昼下がり。

 鬼塚探偵事務所の窓には強い日差しが差し込んでいた。

 机の上には、南桜図書館で拾った紙束と写し取った呪紋のスケッチが並べられている。


 高瀬は湯呑を前に、固く唇を結んでいた。

「……あの影、本当に祭文を求めていたんですね」


 蓮司は腕を組み、紙束の文言を指で叩いた。

「七つの影をもって再び開かれる。これは偶然の言葉じゃない。過去の依頼でも返せを繰り返す影がいたが、全部が同じ根に繋がっていた可能性が高い」


 里沙が補足する。

「例えば……篠原家の夏の客、廃病院の扉の影、成瀬女子高の炎の記憶。どれも返せ供物契りといった言葉を繰り返していた。まるで一連の儀式の断片みたいに」


 高瀬は顔を蒼白にし、震える声で尋ねる。

「じゃあ……南桜図書館の件も含めて……七つの影が揃えば、何かが起こると?」


 蓮司は短く頷いた。

「おそらく祭文と呼ばれる呪詛が完成する。……影たちは意志を持っているようでいて、結局は何者かに操られている」


 里沙は資料をまとめながら続ける。

「今回の影が最後に口にした東の社……そこが次の舞台になる可能性が高いわ。七つの影のうちのひとつが、そこに眠っている」


 高瀬は深く頭を下げた。

「ご迷惑をおかけしました……。でも、どうかこの祭文の真実を突き止めてください。あの影たちが救われるなら……」


 蓮司は彼の言葉を遮らず、ただ煙草を取り出して箱を軽く叩いた。

「……分かってる。放っておけば、もっとでかい災厄になる」


 窓から吹き込む夏の風が紙束をめくり、赤黒い文字が覗く。

『七つの影』――。


 里沙が静かに呟いた。

「もし本当に七つの影が揃うのなら……最後に現れるのは、主格かもしれない」


 事務所の空気が一層重くなった。

 蓮司は灰皿に煙草を置き、淡々と告げる。

「次は東の社だ。……真相に近づく」



 高瀬が去った後、事務所には静けさが戻った。

 窓の外では夕立が過ぎ去った後のような湿った風が吹き、商店街のざわめきが遠くに聞こえる。


 蓮司は机の端に腰を下ろし、収蔵庫から写し取った呪紋を見つめていた。

「……七つの影か。今までバラバラに現れていたものが、一本の線に繋がったな」


 里沙は湯呑を片付けながら、少し眉を寄せる。

「でも、全部が偶然じゃないってことよね。誰かが影を束ねて、意図的に祭文を完成させようとしている……」


「人か、あるいはもっと古い存在か」

 蓮司は煙草を取り出し、火をつけずに咥えた。

「……東の社はどうだ。お前、気配は読めるか?」


 里沙は目を閉じ、手を胸に当てて息を整える。

「……はっきりとは分からない。でも、呼ばれてる感じがする。あの影の囁きが……まだ耳に残ってるの」


 蓮司は短く息を吐き、机に置かれた灰皿を指先で弾いた。

「なら間違いなく、次はそこで何かが起きる」


 しばし沈黙が落ちる。

 里沙は窓の外を見つめながら、静かに呟いた。

「ねえ、蓮司。……これまでの依頼、全部繋がっていたとしたら……私たちがやってきたことは、もしかして祭文を完成させるための布石だったのかもしれない」


 蓮司は目を細め、煙草を指で転がす。

「……だからこそ、俺たちが断ち切るんだ。誰かが意図して仕組んでいたとしても、その筋書きに乗るつもりはない」


 その言葉に、里沙は小さく笑みを浮かべた。

「そういうところ、あなたらしい」


 蓮司は立ち上がり、ジャケットを羽織った。

「支度しろ。――東の社で、全ての答えが出る」



 翌日、鬼塚探偵事務所の二人は電車を乗り継ぎ、山間の小さな町に降り立った。

 人影はまばらで、駅前の商店街も昼間だというのに活気がない。

 案内を頼りに東の山へ向かうと、石段の入り口には苔むした鳥居がぽつんと立っていた。


「……ここが東の社か」

 蓮司は鳥居を見上げ、顎に手をやる。


 鳥居の注連縄はすでに千切れ、垂れた藁は黒ずんでいた。

 石段の両脇には崩れかけた石灯籠が並び、山の影に沈む参道はひどく冷たい気配を漂わせている。


 里沙は腕を組み、肌に感じる冷気にわずかに身をすくめた。

「人の気配が全くない……。参拝どころか、ここは長いこと放置されてる」


 蓮司は小さく頷き、石段を踏み出した。

「……この空気。ここに何かが封じられているのは間違いないな」


 二人は慎重に参道を登り始める。

 足元には折れた絵馬や朽ちた木札が散らばり、中には焦げたような黒い跡が残るものもあった。


「……焼かれた形跡? 火事?」

 里沙が拾い上げた木札を眺めながら呟く。

「いいえ……これは祓いじゃない。むしろ祀りを焼き潰そうとした跡ね」


 蓮司は険しい表情を浮かべ、石段の上を見据えた。

「つまり、誰かが意図的に東の社を潰した。……影の囁いた大祀と関わってる可能性が高いな」


 やがて、石段を登り切った先に、荒れ果てた神社の本殿が姿を現した。

 屋根は半ば崩れ、扉は壊れ、拝殿には黒ずんだ縄が絡みついている。

 だが、その奥からははっきりと霊気が吹き出していた。


「……感じる? 強い……」

 里沙の声が震える。


 蓮司は頷き、低く答えた。

「ここに、二つ目の影がいる」


 ちょうどそのとき、参道の風が止み、辺りのざわめきがふっと掻き消えた。

 静寂の中、崩れかけた拝殿の奥から、ゆっくりと――黒い影が立ち上がる。



 崩れた拝殿の奥、黒い影はゆらりと立ち上がった。

 形は人のようだが、顔はなく、頭上には注連縄の破片が絡みつき、手には古びた木簡のようなものを抱えている。

 その口から、掠れた声が漏れた。


「……祭文を……奪ったのは……誰だ……」


 里沙が一歩前に進み、声をかける。

「あなたも祭文を探しているのね。……あの図書館で出会った影と同じように」


 影は顔を揺らし、呻き声を重ねた。

「……祭文は七つ……欠ければ、大祀は……終わらぬ……」


 蓮司は眉を寄せ、低く問いかけた。

「大祀とは何だ。……お前たちを縛っているものの正体を教えろ」


 影は一瞬沈黙し、やがて地を這うような声で告げた。

「……大祀とは、千年の契り……七つの影をもって門を開く……。影は生贄……声は供物……血は鍵……」


 言葉が途切れると、拝殿の奥で床板が軋み、複数の囁きが重なった。

「返せ……返せ……」

 声は次第に大きくなり、まるで何人もの人間が同時に叫んでいるように響く。


 里沙の表情が険しくなる。

「……この声……ここには一人の影だけじゃない。複数の怨念が束ねられてる」


 影は頭上の注連縄を振り乱し、叫ぶ。

「……七つが揃えば……門が開き……主が還る……」


 その言葉に、蓮司は目を細めた。

「やっぱりか……。影はただの残留じゃない。誰かが意図的に祭文を繋いでる」


 影は両手の木簡を差し出し、震える声で続ける。

「……返せ……東の祭文を……。奪ったのは……お前たちか……」


 床を這っていた冷気が一層強まり、石畳に霜が走る。

 里沙は素早く護符を構えた。

「……これ以上は、ただの対話じゃ終わらない」


 蓮司は影を真っ直ぐに見据え、短く告げた。

「聞きたいことは聞いた。――次は、力で語り合う番だな」


 その瞬間、拝殿全体が揺れ、影が吠えるように叫んだ。

「祭文を返せェェェ――!」



 影の咆哮と共に、拝殿の奥から黒煙が奔流のように吹き出した。

 天井の梁は一気に崩れ、舞い散る木片が闇に呑まれていく。

 冷気とともに幾重もの黒い腕が伸び、蓮司と里沙に襲いかかった。


「来るぞ!」

 蓮司は霊符を投げ放ち、両掌を合わせて気を叩き込む。

 白光が奔り、迫る腕を弾き飛ばすが――すぐに再生した影が押し寄せる。


「数が……多すぎる!」

 里沙は素早く印を結び、護符を十数枚宙に散らした。

 光の輪が広がり、結界が張られる。しかし影はその上を這い回り、壁や床から次々と這い出てくる。


「……こいつ、社そのものを依り代にしてやがるな」

 蓮司は舌打ちし、背後の高瀬を守るように立つ。

「ここで抑え込まなきゃ、町全体に広がるぞ!」


 影の中心に立つ東の影は木簡を掲げ、その頁がひとりでに開く。

 赤黒い光の文字が宙を舞い、呪詛のように降り注いだ。


「――祭文は奪われた……ならば血で繋ぐ……!」


 里沙は呪符を束ねて光の鎖を編み出す。

「――蓮司、合わせて!」


 蓮司は頷き、掌を突き出す。

 二人の霊力が交錯し、鎖の光は龍のようにうねりながら影の本体へと突き進んだ。


「鎮魂連鎖陣――!」

 里沙の声と共に、鎖は東の影を縛りつけ、木簡を抱える腕を締め上げた。


 影は絶叫し、拝殿全体を揺るがす。

「……祭文……返せ……七つが揃わねば……主は……還らぬ……!」


 その声は哀しみとも狂気ともつかない響きを持っていた。



 光の鎖に縛られた影は、木簡を抱えたままのたうち回った。

 その身体は煙のように揺らぎながらも必死に抵抗し、拝殿の柱を揺らすほどの力を放っている。


「……まだ抑え込めるか!」

 蓮司が鎖に力を込めると、光が一層強まり、影の輪郭が軋む音を立てた。


 里沙も護符を追加して声を張り上げる。

「木簡を――そこに祭文が!」


 影の両腕が痙攣し、木簡の頁がひとりでに開かれる。

 その瞬間、赤黒い光が飛び散り、拝殿の床に文字が浮かび上がった。


『東の祭文 一つは影を招き、一つは門を守る』


 囁きが幾重にも重なり、まるで過去の声が蘇ったかのように響く。


「……招き……門を守る……」

 里沙はその文言をなぞりながら、眉を寄せる。

「この祭文、ただの呪いじゃないわ。影は元々封印の役割を果たしていたんじゃない?」


 影は苦しげに呻き、声を絞り出す。

「……我らは……生贄……門を守るため……七つの影……七つの血……」


 蓮司が睨み据える。

「だが、封印は歪んだ。だからお前たちは怨念に変わったんだろう」


「……そうだ……裏切りが……契りを……歪めた……」

 影の声は震え、木簡から光が漏れ続ける。

「……主は……還る……七つが揃えば……」


 光の鎖がさらに締め上げ、影は絶叫した。

 やがて木簡が砕けるようにひび割れ、最後の一節が宙に刻まれる。


『七つの影、揃う時――門は開かれ、主は現れる』


 その瞬間、拝殿の灯がすべて消え、残ったのは床に刻まれた赤黒い文言だけだった。


 影は力尽きるように溶け、黒い靄となって霧散していった。

 残されたのは、冷たい静寂と、祭文の断片という新たな手掛かり。


 里沙が深呼吸し、鎖を解いた。

「……やっぱり、七つの影は封印の要だった。でも、それを誰かが利用して、主を呼び戻そうとしている」


 蓮司は鎖の残滓を払い、静かに告げた。

「……ますます面倒になってきたな。次の影を探さなきゃならん」



 夜の東の社を後にした二人は、翌日、事務所の机に収穫した資料を並べていた。

 木簡の破片、写し取った呪紋、そして赤黒く刻まれた祭文の断片。

 扇風機が唸る室内で、二人の視線は紙束に釘付けになっていた。


 里沙が口を開く。

「……七つの影、揃う時――門は開かれ、主は現れる。この主って、一体何なの?」


 蓮司は煙草を弄びながら、低く答える。

「少なくとも、ただの怨霊や祟り神じゃねえ。影が封印の役割を持っていたのなら、主はそれを閉じ込める対象だったはずだ」


「つまり、影は生贄であり守護でもあった……」

 里沙は腕を組み、考え込む。

「主は人じゃない。……古代の儀式で封じられた、何か別の存在」


 蓮司は小さく頷き、机の上の断片を指先で叩いた。

「大祀って言葉が鍵だな。千年前、七つの影を差し出して門を閉じた。だが、その契りが歪んで、今は逆に主を呼び戻すために利用されてる」


 里沙は背筋を伸ばし、息を整えた。

「もし七つ全部が揃ったら……封印が解ける」


「そうだ。……主が何であれ、封じられていた理由がある。出てくれば、ただの人間じゃ太刀打ちできねえ」

 蓮司の声は重く、事務所に沈黙が落ちた。


 扇風機の羽音が響く中、里沙が静かに呟く。

「……今までの依頼、全部繋がっていたんだね。家の因縁も、病院の影も、学校の炎も。……全部、主に繋がる布石だった」


 蓮司は煙草に火をつけ、長く煙を吐いた。

「……その筋書きに、俺たちが利用されてた可能性もある」


 里沙は彼を見つめ、少しだけ微笑む。

「でも、最後に断ち切るのは私たち。……そうでしょ?」


 蓮司は短く頷き、机に肘をついた。

「次の影を追う。七つ揃う前に、こっちで仕留めるしかない」


 窓の外では、残暑の風がなびいていた。

 そのさざめきが、嵐の前触れのように聞こえてならなかった。



 夕暮れ。

 窓から射し込む橙の光が事務所の壁を照らし、机の上の紙束を赤く染めていた。

 昼間の暑さも和らぎ、扇風機が低い音を立てて回っている。


 蓮司は椅子に深く腰を下ろし、火をつけた煙草をじっと見つめていた。

 紫煙がゆらりと漂い、夕陽に溶ける。


「……主か。もし本当に出てきたら、俺たちだけでどうにかなる相手じゃないかもしれん」

 ぼそりと呟く声に、不安よりも覚悟の色が滲んでいた。


 里沙は机に肘をつき、じっと蓮司を見つめる。

「でも、やるしかないでしょ。これまでだって、どうにもならないと思った相手と向き合ってきた」


「……そうだな」

 蓮司は煙を吐き、わずかに目を細めた。

「ただ、これは今までみたいに依頼人ひとり救えば済む話じゃない。……町も、人も、全部巻き込む災厄になる」


 里沙は小さく笑みを浮かべた。

「そういう時のために、私たちがいるんじゃない。……あなた一人じゃないのよ、蓮司」


 短い沈黙の後、蓮司は煙草を灰皿に押し付け、立ち上がった。

「――七つの影が揃う前に、必ず断ち切る。それが俺たちの役目だ」


「うん」

 里沙も立ち上がり、窓の外の沈む夕陽を見つめた。

「私たちで、止めよう」


 事務所の中に、決意の空気が漂った。

 だがそれは、これから訪れる闇を告げる警鐘のようだった。

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