第三十六話
残暑の午後。
商店街を吹き抜ける熱気がアスファルトを揺らし、残暑とは思えぬ様相だった。
鬼塚探偵事務所の窓辺では、古びた扇風機が首を振りながら部屋の暑さをどうにか散らそうとしている。
ドアベルの軽い音が鳴り、事務所にひとりの男性が姿を現した。
白いワイシャツは汗に濡れ、ネクタイは緩められている。肩には黒いビジネスバッグ。三十代半ばほどの、どこにでもいるような会社員に見えた。
しかし、その顔色は蒼白で、瞳は何かに怯えるように落ち着きを欠いていた。
「……すみません、こちら……鬼塚探偵事務所で間違いありませんか」
低くかすれた声。
蓮司はデスクから視線を上げ、煙草を灰皿に押しつける。
「ええ。どうぞ、お掛けください」
男性は深く頭を下げ、椅子に腰を下ろした。
里沙が麦茶を差し出すと、彼は震える手でそれを受け取り、一息に喉を潤す。
「……私は、川島達也と申します」
彼は言葉を選ぶようにして続けた。
「正直、どう話せばいいのか……。でも、ここ数週間、私の周囲でおかしなことが続いていまして」
「おかしなこと?」と里沙が促す。
川島は視線を落とし、唇を噛んだ。
「夜になると、決まって声が聞こえるんです。自宅の廊下、駅のホーム、会社の会議室でさえ……。最初は空耳だと思っていたんですが……先週、とうとう、姿を見ました」
彼の声が震え、部屋の空気が少し重くなる。
「……制服姿の、見知らぬ女子高生が、私の前に立っていたんです。顔ははっきり見えませんでしたが……泣いていました。『返して』って……何度も」
川島の言葉に、蓮司は目を細める。
「返して……か」
川島は頷き、額の汗を拭った。
「ええ……。そして、どういうわけか、私の机の引き出しから古びた学生証が見つかったんです。名前は……相沢美月。調べても、そんな子は今の学校には在籍していませんでした」
里沙と蓮司は短く視線を交わした。
古びた学生証、泣き続ける女子高生の霊――返してという言葉。
これは、ただの幻ではない。
やがて、事務所に冷たい風が流れ込んだように、夏の暑さが一瞬だけ薄れた。
川島は汗を拭いながら、机の上に古びた学生証をそっと置いた。
表紙は擦り切れ、写真は色褪せている。それでも制服姿の少女が微笑んでいるのは分かった。
里沙がそっと手を伸ばし、光の下にかざす。
「……確かに相沢美月って名前がある。でも発行年月日……昭和?」
川島はこくりと頷いた。
「ええ、そこなんです。今の学校に確認しても、そんな記録は残っていませんでした。どう考えても、時代が合わない」
蓮司は煙草を取り出し、火をつけることなく指先で回した。
「……で、どうしてその学生証がお前の机から出てきた?」
「それが……本当に分からないんです。先週の金曜、残業を終えて机を片付けていたら、引き出しの奥に、ぽんと置かれていたんです。ロッカーや机は総務に管理されていて、勝手に他人が使えるはずもないのに……」
川島の顔が青ざめていく。
「しかも、その翌日から彼女が現れ始めたんです。最初は廊下の隅で立っているだけでしたが……日を追うごとに近づいてきて。三日前には、私の耳元で返してと囁きました」
里沙はメモを取りながら尋ねた。
「出てくるのは夜ばかりですか?」
「はい……。会社でも、自宅でも、決まって日が落ちてからです。ただ……時間は一定していません。深夜のこともあれば、夕方の帰宅途中に見たこともあります」
蓮司は黙って学生証を見つめる。写真の少女の目は笑っているのに、不思議と冷たさが漂っていた。
「……どうもモノが媒介になってるな。机に現れたのも偶然じゃねえ」
川島が震える声で続ける。
「……実は、一度だけ声がはっきり聞こえました。泣きながら、『私を見つけて』って……。あれは夢じゃありません。目が覚めたら、この学生証が枕元に置かれていたんです」
その場に冷気が落ち、扇風機の羽音がかすかに鈍く響いた。
里沙が蓮司を見やり、低く言う。
「……これはただの残留思念じゃない。彼女は探されることを望んでいる」
蓮司は煙草をくわえ、マッチを擦った。
「よし。まずは、この相沢美月って名前を掘る。彼女がどこで暮らし、何を失ったのかをな」
煙が静かに漂う中、学生証の少女が薄暗い光に浮かび上がって見える気がした。
翌日。
鬼塚探偵事務所の一角、古い地図や過去の新聞を広げた机に、蓮司と里沙が向かい合っていた。
依頼人・川島が持ち込んだ学生証をもとに、二人は記録を洗っていた。
「この発行年……昭和六十年。三十年以上前よね」
里沙が指で学生証の端を押さえながら呟く。
「今の学校に在籍記録はなかった。でも、統合や改称で消えた学校も多い。もしかしたら……」
蓮司は新聞記事の切り抜きを無造作にめくりながら口を挟んだ。
「……ほら見ろ。昭和六十一年、都内の女子高で火災事故。死者一名――女子生徒。名前は……」
里沙が身を乗り出す。
「……相沢、美月」
二人は顔を見合わせた。
記事にはこうある。
《旧都立・成瀬女子高等学校 理科準備室で火災。女子生徒一名が煙に巻かれ死亡。事故原因は不明。学校は翌年に閉校・統合》
「……やっぱり実在したのね」
里沙の声は低く沈んだ。
蓮司は腕を組む。
「死んだのは校舎の中。けど、事故で亡くなっただけなら返してなんて言葉は出ねえ。……こいつの死には、別の裏がある」
さらに調べを進めると、同じ新聞の社会面に小さな記事があった。
《火災当日、理科準備室から重要な実験器材が消失。盗難の可能性も》
里沙が記事をなぞる。
「……失われたモノ。もしかして、返してっていうのはそれ?」
蓮司は静かに首を振った。
「モノも確かに媒介だろうが……本命は記録だ。閉校と同時に事故はうやむやになり、彼女は歴史から消された。だからこそ――探されることを望んでる」
里沙の瞳が細められる。
「つまり、彼女は忘れられた存在として、川島さんに接触してきた?」
蓮司は煙草に火をつけた。
「……ああ。川島の机に現れた学生証は、その呼び声だ。――俺たちが次に行くべきは決まったな」
里沙は頷き、手元の地図に赤丸をつけた。
「旧・成瀬女子高。今は廃校になって廃墟同然……。でも、あの子の痕跡が残っているはず」
窓の外では、夏の空が鈍く曇り始めていた。
忘れられた少女が待つ場所へ――鬼塚探偵事務所の二人は向かう覚悟を固めていた。
夕刻、鬼塚探偵事務所の応接机。
川島は落ち着かない様子で麦茶を手にしながら、二人の言葉を待っていた。
蓮司は煙草を指先で転がしながら、切り出した。
「……調べはついた。相沢美月は実在した。昭和六十一年、旧・成瀬女子高の火災で亡くなった女子生徒だ」
川島の手が震え、コップの氷が小さく鳴った。
「……やっぱり、実在したんですか……。じゃあ、あの学生証は……」
「彼女の残した痕跡だろうな」
里沙が淡々と告げる。
「ただの残留思念じゃない。返して見つけてという声は、彼女の存在が忘れ去られてきたことに関係している。だからこそ、今も彷徨っている」
川島は視線を落とし、指先で学生証の縁をなぞった。
「……僕なんかに、なぜ……」
「お前の机に現れた時点で、もう縁が結ばれてるんだ」
蓮司が煙草を咥え、火を点けずに言った。
「俺たちはこれから旧校舎に入る。だが……依頼人としてお前に確認しておく。同行するか、それともここで待つか」
川島は一瞬、顔を上げた。
「……僕も行きます」
里沙の眉がわずかに動いた。
「危険よ。廃校の中で何が起きるか分からない。あなたを守りながらの調査は、正直、負担になる」
川島は唇を噛んだが、それでも言葉を返した。
「でも……僕の机から始まったんですよね。彼女は僕に訴えかけてきた。だったら、逃げるわけにはいかない」
短い沈黙。
蓮司は煙を吐かず、ただ吸い込んだまま川島を見つめた。
「……気持ちは分かった。だが条件がある。指示には絶対に従え。どんな声が聞こえても、勝手に動くな。それができるか?」
川島は震える手を膝に置き、深く頷いた。
「……はい」
里沙は小さく息をつき、微笑を見せた。
「なら決まりね。……でも約束を忘れないで。私たちは霊に向き合うのが仕事。あなたは彼女に呼ばれた証人として、そばにいてもらうの」
川島はうなずき、学生証を両手で握りしめた。
外の空はすでに茜色に染まり、蝉の声が遠ざかり始めていた。
廃校に眠る少女の声を確かめるため、三人は夜の調査に向けて動き出そうとしていた。
夜八時過ぎ。
川島の運転する車は、郊外の丘陵地にひっそりと建つ廃校舎の前に停まった。
かつては整然とした校門も、今は錆びついて半ば崩れ、雑草に覆われている。
フェンスには「立入禁止」の札が打ち付けられていたが、すでに色褪せ、誰も気に留めていない様子だった。
蝉の声は途絶え、代わりに草むらから夜虫の鳴き声が響く。
校舎の窓はほとんどが割れ、月明かりに照らされて空洞のように黒々と口を開けていた。
川島が息を呑んで言う。
「……ここが……」
「旧・成瀬女子高」
里沙が懐中電灯を掲げ、校舎を見上げる。
「事故で閉校になって、もう三十年以上……。けれど声はまだ残っている」
蓮司は校門を押し開け、靴で砂利を踏みしめた。
「行くぞ。……川島、忘れるな。どんな声が聞こえても、決して勝手に動くな」
川島は小さく頷き、震える手で学生証を握りしめた。
昏い校庭を進む。
雑草の間に崩れかけた遊具が影を落とし、夜風に揺れるたび軋んだ音を立てる。
運動場の片隅には火災の痕跡か、黒ずんだ跡がまだ残っていた。
「……理科準備室は、北校舎の二階だったはず」
里沙が地図を確認し、指差す。
「事故の火元。美月が亡くなった場所」
三人は校舎の玄関に足を踏み入れた。
床板は湿り、踏むたびにミシリと音を立てる。
廊下の壁には古い掲示物がまだ残っており、黄ばんだ紙に当時の行事予定がかすかに読めた。
川島が低く呟く。
「……人の気配がないのに、誰かがいるみたいだ」
その言葉に答えるように――廊下の奥で、カタン、と机の落ちる音がした。
三人は同時に足を止める。
蓮司はポケットから霊符を取り出し、薄闇の廊下に視線を凝らす。
「……いるな。こっちを見てやがる」
月明かりが窓から差し込み、廊下の奥にうっすらと影が揺れた。
女子高生のようなシルエット――長い髪、制服の輪郭。
だが、顔だけが黒く塗り潰されたように見えない。
川島の手が震える。
「……あれは……」
影はゆっくりと首を傾け、声を放った。
「……返して」
空気が一気に冷え込む。
里沙は霊符を構え、川島を庇うように立ち塞がった。
蓮司の声が低く響く。
「相沢美月……ここで死んだお前の声、確かに受け取った。だが、何を返せばいい?」
影は答えず、廊下の奥へとスッと消えていった。
その瞬間、廊下一面の蛍光灯が一斉に点滅し、割れたガラスの奥から冷気が吹き抜ける。
「……誘ってる」
里沙が小声で言った。
蓮司は短く頷き、影が消えた方向――北校舎の二階、理科準備室へと歩みを進めた。
廊下を進む足取りは、どこか時間の感覚を失わせるものだった。
校舎の奥へ進むにつれ、埃の匂いに混じって、焦げた木材の臭いが強まっていく。
「……火事の残り香」
里沙が眉を寄せた。
その時だった。
――カタンッ。
誰も触れていないはずのロッカーの扉が開き、中からノートが床へと滑り出た。
川島が思わず視線を向ける。
そこに立っていたのは――彼女の影。
制服姿の少女の輪郭が、闇の中に鮮やかに浮かび上がっている。
「……返して」
少女の声が、川島の耳元だけに届いた。
川島の目が見開かれる。
「っ……! 僕に……?」
次の瞬間、川島の腕を冷たいものが掴んだ。
見れば、影の手が床から伸び、彼の足首や腕に絡みついている。
「やめろッ!」
里沙が霊符を投げ、白光が弾ける。しかし影は怯むどころか川島を廊下の奥へと引きずろうとした。
「くそっ、こいつは依頼人を媒介にしようとしてやがる!」
蓮司は低く唸り、懐から数珠を握ると川島の足元へ叩きつけた。
「――破ッ!」
轟音のように符が爆ぜ、絡みついていた黒い手が一瞬で弾き飛ばされる。
川島は床に倒れ込み、荒い息をついた。
だが――影は廊下の先に立ち、首を傾げながらこちらを見つめていた。
その黒い顔の奥から、少女の声がもう一度漏れる。
「……机の中に、あったでしょう……。私のものを……返して……」
川島の震える手が、無意識にポケットへ伸びた。そこには学生証が入っている。
彼は唇を震わせて呟いた。
「……やっぱり……相沢、美月……」
影は答えず、ふっと揺らめくと再び廊下の闇へと溶けていった。
残されたのは、冷たい風と川島の荒い呼吸だけだった。
「……狙われてるのは、完全にあなたね」
里沙が川島の肩に手を置き、真剣な眼差しで言った。
「でも、それはあなたが媒介だからこそ、真実に辿り着ける可能性もある」
蓮司は立ち上がり、懐中電灯を構え直した。
「行くぞ。理科準備室で決着をつける。……美月が何を求めてるのか、そこで確かめるしかない」
北校舎の二階、理科準備室の扉は焼け焦げて黒ずみ、取っ手には錆が浮いていた。
蓮司が肩で押すと、重い音を立てて扉が開き、ひやりとした空気が溢れ出す。
室内はかつて火事に巻き込まれたまま時が止まったようだった。
黒く煤けた棚、半ば溶けたフラスコや試験管、崩れ落ちた机の残骸。
窓から差し込む月明かりが、煤に覆われた壁に青白く反射し、幽霊じみた影を作り出していた。
川島は懐中電灯を震える手で向け、声をかすかに漏らす。
「……ここで、美月は……」
里沙が部屋を歩き、棚や机に触れながら観察する。
「焦げ方が不自然……火元はこの部屋で間違いないけど、何か一点に集中している」
彼女の視線は、奥の棚の一角に止まった。
そこだけ焦げ跡が円形に濃く、まるで何かを隠すように燃やされた痕跡だった。
蓮司はしゃがみ込み、棚の下を手で探る。
指先に、硬い金属の感触があった。
「……鍵だな」
煤に覆われた小さな鍵が、埃と炭の中から現れた。
川島が息を呑む。
「鍵……でも、何の……?」
里沙が周囲を見回し、すぐに気づいた。
「……机の引き出し。ここだけ焼け残ってる」
三人は煤けた大きな木製の机に近づいた。
引き出しは焦げていたが、金属の鍵穴だけははっきりと残っている。
蓮司はキーピックを取り出すと開錠に取り掛かった。
カチリ、と音がして、引き出しが開いた。
中には――火にも焼かれず残っていた小さな木箱が一つ。
布に包まれ、その上には「相沢美月」と筆書きされた古い名札が置かれていた。
川島の喉が詰まる。
「……これが、返すべきもの……?」
布をめくると、中には手紙の束と、小さなロケットペンダントが収められていた。
ペンダントには学生服姿の少女と、別の女子生徒が笑顔で肩を寄せ合う写真が収められていた。
里沙は写真を見て、眉を寄せる。
「これ……友達? それとも……」
蓮司は木箱を見据え、低く呟いた。
「この部屋で死んだのは美月ひとり……だが、このペンダントの相手も、きっとここにいる」
その瞬間、部屋の空気がざわめき、棚の上のフラスコがひとりでに落下した。
ガシャン、と割れる音に続き――冷気の中から、少女の影が再び姿を現した。
今度は顔の輪郭が、かすかに――だが、はっきりと涙を流しているのが見えた。
「……それは……私の……」
煤けた理科準備室に、再び影が現れた。
黒い輪郭の中にかすかな少女の顔が浮かび、涙のような線が光を帯びていた。
「……それ……返して……」
掠れた声は震え、しかし確かな欲求を帯びている。
川島は手にした木箱を胸に抱え込み、視線を泳がせた。
「……これが、美月さんの……?」
影はわずかに頷くように揺れる。
「手紙……写真……全部……私の……」
里沙は一歩前に出て、柔らかい声をかけた。
「あなたが、これを求めて出てきたのね。……どうして、そこまで大事に?」
影はしばし沈黙した。
やがて、空気に滲むように言葉が広がる。
「……約束、だったの。……あの日、彼女と……ずっと一緒に卒業しようって……」
ペンダントに収められていた、もう一人の少女の姿。
笑顔の二人が並ぶ写真が、現実に重なって見える。
川島が、かすれた声を漏らした。
「でも……美月さんは火事で……」
「……置いてきたの。私のせい……。彼女を、守れなかった……」
影の声は次第に濃くなり、涙を流す顔がよりはっきりと浮かび上がる。
里沙は木箱の手紙を手に取り、ひとつを開いた。
そこには、美月が友人に宛てた拙い文字が並んでいた。
『また放課後、音楽室で練習しようね。いつか二人でステージに立とう』
「……あなたが残した約束ね」
里沙は優しく呟く。
蓮司が低く言葉を挟んだ。
「だが、美月。お前は今、川島を通じてこの世に縛られている。……そのままでは約束どころか、全部呪いになる」
影は苦しげに揺らいだ。
「……わかってる……でも、帰りたい……せめて、あの子に……」
川島が唇を噛み、意を決したようにペンダントを取り出す。
「……これを、返せばいいのか? 君の願いを、叶える手伝いをすれば……」
影はかすかに手を伸ばし、その黒い輪郭に淡い光が滲む。
「……返して……一緒に……」
そのとき――。
ペンダントの中のもう一人の少女の笑顔が、まるで別の視線を放つように輝いた。
そして、冷気が一層強く広がり、部屋の隅に新たな影が揺らぎ始めた。
ペンダントの中で笑っていた少女の顔が、淡い光を帯びたかと思うと――
理科準備室の隅に、別の影がふわりと立ち現れた。
それは美月の影と似ていながらも、輪郭はより鮮明で、長い髪を揺らす姿が別の存在であることを示していた。
「……美月……」
声は静かだった。だが、燃え残る部屋に響いたその響きは、どこか痛ましい余韻を孕んでいた。
美月の影が振り返るように震え、かすれ声を返す。
「……どうして……ここに……」
新たな影はゆっくりと歩み出る。
その足跡が煤けた床に淡い光を残すたび、部屋の空気がさらに冷たく張り詰めていく。
「……あの火事は、事故じゃなかった」
少女の影は、川島を見て、そして蓮司と里沙を見据えながら言葉を紡いだ。
「誰かが――わたしたちを閉じ込めたの」
川島が愕然と顔を上げる。
「……閉じ込めた……? でも、記録では……薬品庫の爆発が原因で……」
影は首を横に振る。
「確かに、薬品は燃えた。でも……引き金を引いたのは、人の手。あの夜、わたしたち二人はここで練習をしていた。……ドアは、外から鍵を掛けられたの」
美月の影が揺れる。
「……私たちを……閉じ込めたのは……誰……?」
少女の影は沈黙の後、震える声で告げた。
「……教師だった。化学の実験を管理していた人。――でも、理由は……隠すためだった」
里沙が一歩踏み出す。
「隠す……? 何を?」
少女の影は苦しげに俯き、声を絞り出す。
「薬品庫には……本来、置かれてはいけない劇薬が保管されていた。処分を怠った責任を恐れて……証拠ごと燃やそうとした」
蓮司の目が細く鋭くなる。
「つまり、お前たちは……証拠隠滅に巻き込まれた犠牲者、ってわけか」
川島が蒼白になり、唇を震わせた。
「……そんな……じゃあ、美月さんたちは……本当に……」
影は小さく頷いた。
「だから、美月は……ずっと返せって呼び続けた。約束も、時間も、未来も奪われたから……」
その言葉に、美月の影は嗚咽のような声を上げ、ペンダントへ手を伸ばす。
だがその動きと同時に、室内の空気が急激に歪み、黒い炎のような靄が床下から噴き出した。
蓮司は即座に身構え、低く吐き捨てる。
「……来やがったか。火事を起こした側の残滓まで……!」
次の瞬間、理科準備室の壁一面が黒煙に覆われ、その中から男の影がじわじわと浮かび上がってきた――。
黒煙の中から現れたのは、中年の男の影だった。
シルエットはスーツ姿を模しているが、胸元からは煤けた煙が絶え間なく漏れ出している。顔は黒く潰れ、目だけが血走ったように赤く光っていた。
「……まだ……ここに縛られるのか」
低い呻き声が理科準備室に響く。
川島は恐怖に肩をすくめる。
「……まさか、本当に……先生……」
美月の影が震えながら一歩前に出る。
「……どうして……あの日、私たちを……閉じ込めたの?」
男の影は顔を伏せるように揺れ、やがて、掠れた声を絞り出した。
「……お前たちが、そこにいるとは……知らなかった……。ただ、証拠を……消すために……」
里沙が鋭く言葉を挟む。
「証拠――やっぱり、劇薬の隠蔽ね。あなたは、自分の責任を恐れて……」
「恐れて……? 違う……守ろうとしたんだ……学校を……立場を……」
男の影は呻くように叫ぶ。
「もしあの薬品の存在が公になれば……学校は潰れる……生徒も、教師も……居場所を失う……」
蓮司は冷ややかな目で見据えた。
「だからって、生徒を焼き殺していい理由にはならんだろう」
その言葉に、影は呻き、頭を抱えるように揺れた。
「わかっている……! わかっている……! だが……あの日の火は……思った以上に早く……広がって……」
美月の影が嗚咽する。
「……じゃあ、私たちは……ただ……大人の保身のために……」
新たに現れた少女の影――美月の友人が、淡い声で続ける。
「だから……わたしたちは約束を果たせなかった。……夢も、未来も、ここで燃やされた」
男の影は苦しげに震え、声を荒げた。
「すまない……すまない……! 私は……償おうとして……ここに……」
蓮司は一瞬だけ目を細める。
「……つまり、お前は罪の意識に縛られて残滓になった。被害者の怨念に応えるように、ここに留まり続けているってわけだ」
影は顔を覆ったまま、苦悶の声を漏らした。
「……赦されることなど……ない……だが、せめて……燃やしたものを……返してやりたかった……」
その言葉に、川島は驚いてペンダントを見下ろす。
「……返す、って……先生、あなた……」
影はかすかに頷くように揺れた。
「それは……焼け跡から……私が拾った……せめてもの……償いだった……」
川島は絶句し、部屋の空気がさらに重く沈んだ。
煤けた影は、しばし沈黙したまま俯いていた。
やがて、揺らめく手を川島へと伸ばす。
その掌に、かすかに光を帯びたペンダントが握られていた。
「……これは、火事のあと……瓦礫の中で見つけた……。本当は……遺族に返すべきだった……だが……恐ろしくて、できなかった……」
声は震え、言葉の端々に悔恨が滲む。
美月の影が、そのペンダントを見つめる。
「……やっぱり……あの時、持っていってくれたんだ……」
もう一人の少女の影も、穏やかに呟く。
「……だから、わたしたちは……ここに留まれたのかもしれない」
教師の影は震える肩を揺らし、顔を覆った。
「……すまない……すまない……! お前たちの未来を奪い……自分の罪を隠した……私は……赦されなくていい。ただ……返すことで……少しでも……」
蓮司が低く言葉を添える。
「罪は消えない。だが、それを抱えたまま昇華することはできる。……お前の最後の意志を、見届けてやる」
里沙は川島の肩に手を置き、囁く。
「受け取って。これは、先生が残した最後の償いだから」
川島は唇を噛み、恐る恐る手を伸ばした。
冷たい影の手から、確かに重みを持ったペンダントが渡される。
次の瞬間、部屋に漂っていた黒煙がふっと軽くなり、教師の影が揺らいだ。
「……ありがとう……見届けて……くれて……」
最後の言葉と共に、男の影は淡い光に溶け、黒煙は消え去った。
残されたのは、涙を浮かべながらペンダントを抱く川島と、
その背後で安らぎの表情を浮かべ、光へと昇っていく二人の少女の霊影だった。
「……やっと、約束を返してもらえたね」
「うん……これで、もう大丈夫」
柔らかな笑みを残し、彼女たちもまた夜空へと消えていった。
――静寂。
理科準備室には、焼け跡の匂いとともに、確かな安堵が漂っていた。
数日後の午後。
夏の陽射しは和らぎ、窓から入る風にカーテンが静かに揺れていた。
鬼塚探偵事務所の応接机の前に、川島が座っていた。
手には、あの日受け取ったペンダントが握られている。
その表情はどこか柔らかく、初めて事務所に来たときの怯えた顔とは別人のようだった。
「……先生も、やっと……解放されたんですね」
川島の声はかすかに震えていたが、涙ではなく安堵を含んでいた。
蓮司は煙草を灰皿に押しつけながら、淡々と告げる。
「罪が消えることはない。だが最後まで返すと願った。それが、残滓を昇華させたんだ」
里沙が頷き、柔らかな声で続ける。
「彼も、あの子たちも……きっともう争うことはないわ。あなたがペンダントを受け取ってくれたことで、全部終わったの」
川島は深く息を吐き、胸に下げたペンダントを握りしめた。
「……あの日、同じ教室で笑い合っていた友達が……もう苦しまなくていいと思うと、少し救われます」
沈黙のあと、川島は二人を見て深々と頭を下げた。
「本当に……ありがとうございました。もしあのまま一人で抱えていたら、私はきっと壊れていたと思います」
里沙は微笑み、湯呑みに手を添えながら言う。
「あなたが勇気を出して来てくれたから、彼らもやっと昇華できたのよ」
川島は頷き、やがて立ち上がった。
「これからは……この子たちの分まで、前を向いて生きます」
見送ったあと、事務所には静けさが戻る。
蓮司は窓を開け放ち、外の光を一瞥すると呟いた。
「……人の業は重いな。だが、それを断ち切るのが俺たちの仕事か」
里沙は机に肘をつき、軽く笑みを浮かべる。
「まあ、そのためにここにいるんでしょう?」
二人の会話を乗せて、夏の風が部屋を抜けていった。
川島が去った後の事務所は、外のざわめきだけが風に乗って聞こえてくる。
扇風機の風がゆるやかに回り、灰皿に残された煙草の煙が細く漂う。
里沙は机に肘をつき、残りの麦茶を口に運んだ。
氷が溶けて薄まった味に、思わず小さく笑みを漏らす。
「……終わったね。けど、やっぱり重かったな」
蓮司は椅子に深く腰を沈め、目を閉じたまま答える。
「……人が作った因縁は、霊より厄介だ。清算に百年かかることもある」
「そうね。でも……最後は救われたんだと思う」
里沙は窓際に目をやる。陽射しは少し傾き、商店街の喧噪が遠くで混じっていた。
「教師も、生徒たちも。……そして依頼人も」
蓮司は煙草の箱を指先で弄びながら、低く呟いた。
「救われたかどうかを決めるのは、残された人間だ。……俺たちはきっかけを作っただけだ」
里沙は肩をすくめ、わざと軽口を返す。
「相変わらず、格好つけた言い方するんだから」
そう言いながらも、その横顔を見つめる視線はどこか柔らかかった。
「でも……蓮司。あなたがいなかったら、私は今ここにいない。だから――依頼人もきっと、同じ気持ちだと思う」
蓮司は目を開け、しばし黙って彼女を見返した。
やがて、短く鼻で笑う。
「……お前は甘いな」
「甘くていいじゃない。救えると信じられるなら」
里沙は茶碗を置き、立ち上がる。
「さ、次は買い出し行こう。麦茶ももう切れたし。あなた、また夜中まで資料漁るんでしょ?」
蓮司は小さく肩を竦め、立ち上がった。
「……分かったよ。ついでに煙草もな」
二人の会話はどこか日常的で、けれどその裏には互いを支える静かな絆が流れていた。
事務所を出ると、夏の夕暮れの風が心地よく二人を包んだ。




