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第三十五話

 八月の終わり、空にはまだ夏の熱気が残っていたが、夕暮れの風にはかすかに秋の気配が混じっていた。

 鬼塚探偵事務所の古びた窓からは、商店街の灯りが揺れ、提灯の赤い光が夜の訪れを告げている。


 その夜、事務所の扉をノックする音がした。

「どうぞ」と蓮司が声をかけると、ドアを開けて入ってきたのは、スーツ姿の中年男性だった。

 眼鏡の奥の瞳には疲れが滲み、書類を詰め込んだ鞄を固く握りしめている。


「……初めまして。私は山科やましな 健一けんいちと申します」

 男は深々と頭を下げ、応接机の前に腰を下ろした。

 その動きはどこかぎこちなく、呼吸も浅い。


 里沙が湯呑を差し出すと、彼は震える手で受け取り、ひと口だけ喉を潤した。


「実は……私の職場で、妙なことが続いておりまして」

 山科は言葉を探すように、一拍置いてから口を開いた。


「都内にある、古い資料館なのですが……閉館後の夜、展示室に誰かがいると、複数の職員が証言しているんです。人の気配、足音、そして……『笑い声』まで」


 蓮司の目が細くなる。

「資料館……?」


「ええ。戦前から続く建物で、空襲をくぐり抜けた記録が残っています。ですが……問題は、それだけではなくて」


 山科の声がわずかに震えた。

「一か月前、その館で働いていた同僚が、展示室で倒れて亡くなったんです。死因は急性心不全……ですが、その夜、彼が『誰かと話している声を聞いた』という証言が残っていて……」


 里沙が眉を寄せる。

「死んだのは、本当に病気だったのかどうか……」


 山科は強く頷いた。

「どうか調べていただけないでしょうか。あの館に……何かがいるのだとしたら……私たちではどうにもできません」


 外から風鈴の音が鳴り、薄暗い部屋の空気がひやりと揺れた。

 蓮司と里沙は視線を交わし、静かに頷いた。


 新たな調査の幕が、音もなく上がった。



 事務所の空気が一瞬だけ静まり、掛け時計の針の音がやけに大きく響いた。

 蓮司は煙草の火を落とし、ゆっくりと問いかける。


「亡くなった同僚……詳しく聞かせてもらえますか」


 山科は眼鏡を押し上げ、息を整えた。

「……名前は、片倉かたくらという三十代の男性です。真面目で、夜勤の見回りをよく引き受けていました。ですが――」


 そこで一拍置き、彼は声を低めた。

「亡くなる前の晩、彼は同僚にこう言ったんです。『展示室に、子どもの声がする。古い人形が笑っているようだ』と」


 里沙がわずかに身を乗り出す。

「子どもの声……人形?」


「はい。館の一角には、戦前に寄贈された古い市松人形が展示されています。寄贈者は空襲で亡くなった家族だそうで……その由来も含め、ずっと特別展示の扱いを受けてきました」


 山科の手が机の上で強張った。

「片倉は、その人形の前でよく何かと話している声を聞かれたそうです。その夜も、同じように展示室で声をかけていた……らしいのですが……」


 蓮司は低く呟いた。

「そして急死、か」


「ええ。警察の記録では心不全とされていますが、発見した警備員の証言では、彼の顔は恐怖で引きつっていた……まるで何かに怯えて逃げようとしていた、と」


 山科は苦く息を吐いた。

「それ以来、閉館後の見回りは誰も引き受けたがらなくなりました。私も……正直、夜の資料館に入るのは怖いのです」


 里沙が静かに頷いた。

「分かりました。まずは、その人形を含め、展示室の様子を確かめる必要がありますね」


 蓮司は視線を山科に向ける。

「……案内してもらえますか。夜、現地を」


 山科は硬く喉を鳴らし、しかし力強く頷いた。

「……はい。どうか、あの館に眠る何かを暴いてください」


 外の風鈴が再び鳴り、夜の訪れが静かに迫っていた。



 夜九時。

 都心のビル群の一角に佇む資料館は、昼間の喧騒をよそに、ひっそりと沈黙に包まれていた。

 戦前から残る赤煉瓦の外壁は街灯に照らされ、まるで過去の亡霊がそこに佇んでいるようだった。


 山科が震える手で鍵を差し込み、重い扉を開けると、古びた木の匂いと湿った空気が押し寄せた。

「……ここです。普段は閉館後、誰も入らないのですが……」


 蓮司と里沙は無言で中へ足を踏み入れる。

 高い天井、並ぶガラスケース、そして壁に掛けられた古い写真。

 光を絞った懐中電灯の明かりが揺れるたび、展示物の影が不気味に伸びていく。


「空気が重いですね……」

 里沙が小声で呟いた。


 展示室を進むと、やがて一角に、異様な存在感を放つ展示ケースが現れた。

 そこに収められているのは、一体の古い市松人形――白い顔には微笑が刻まれているが、その瞳だけは妙に濡れたような光を帯び、今にもこちらを見返しているかのようだった。


 山科が小さく息を呑む。

「……片倉が最後に立っていたのは、あの前です」


 その瞬間――

 コツン、とガラスを叩くような音が響いた。


 誰も触れていないのに、人形の瞳が光を反射し、口元がわずかに動いたように見えた。


「……蓮司さん」

 里沙が身構える。


 蓮司は無言で懐中電灯を下げ、代わりに懐から護符を取り出した。

「始まったな」


 静まり返った資料館に、確かに――子どもの笑い声がこだました。



 子どもの笑い声が消え、重苦しい沈黙が戻った。

 蓮司は静かに護符を握り直し、視線を山科に向ける。


「……山科さん。この人形に、何か覚えはありますか」


 問いかけに、山科はびくりと肩を震わせた。

「……え?」


「片倉さんの話だけではない。あなた自身、この人形に……どこか心当たりがあるのではないですか」


 沈黙。

 やがて山科は眼鏡の奥の目を伏せ、苦しげに口を開いた。


「……実は、あの人形は……私の母方の家が寄贈したものなんです」


 里沙の目が鋭く細まる。

「寄贈した……?」


「ええ。戦時中、私の祖母の妹――つまり大叔母が、空襲で幼い子を亡くしまして……。その子が生前大事にしていたのが、この人形でした」


 山科は乾いた喉を潤すように唾を飲み込んだ。

「遺品として残されたそれを、後に慰霊の意味で館に寄付したのです。当時の記録には『安らかに眠れるように』と書かれていました……だが、祖母は生前、こうも言っていたんです」


 彼の声が震える。

「――あの子は人形に魂を移した。だから、決して目を合わせるなと」


 場の空気がさらに冷え込んだ。

 ガラスケースの向こうで、市松人形の黒い瞳が一瞬きらめいたように見えた。


 里沙が低く呟く。

「……やっぱり。寄贈という形で、この場所に封じたのね」


 蓮司は黙したまま、煙草を唇にくわえたが、火を点けることはなかった。

「つまり……お前の家系とこの人形は、切っても切れない因縁を持っている」


 山科は深くうなだれた。

「……はい。だからこそ、片倉が亡くなったと聞いた時……まただと、直感したのです」


 その瞬間、資料館の奥から再び、子どもの笑い声が転がった。

 今度ははっきりと、誰かが囁くような声が続く。


 ――かえして。

 ――ここじゃない……。


 蓮司と里沙は即座に視線を交わした。



 展示室の空気が、一層冷たくなった。

 ガラスケースの中の市松人形が、まるで息をしているかのように、わずかに胸を上下させている。

 子どもの笑い声は囁きに変わり、はっきりと耳に届いた。


 ――かえして……。

 ――ここは、いや……。


 里沙が護符を指に挟み、そっと前へ出る。

「……あなたの声、聞こえてるわ。私たちに伝えて。何を返してほしいの?」


 人形の瞳が、かすかに濡れたように光を帯びた。

 次の瞬間、ガラスの内側に白い手形が浮かび上がる。小さな子どもの手の形。


 ――おうちに、かえして。

 ――おかあさんと……いっしょに。


 その声は震えていた。

 蓮司が低く唸るように口を開く。

「母親……まだ向こう側に囚われているのか」


 山科が慌てて割り込む。

「母親……? それは……大叔母の子……?」


 しかし答えるように、人形の唇がかすかに動いた。

「……おかあさん、ひとりにしないで……」


 その瞬間、照明が一斉に明滅し、展示室の壁に黒い影が伸び広がった。

 子どもの声に混じって、別の低い声が重なる。


 ――まだ……封じられている……。

 ――あの夜のまま……。


 里沙は護符を握りしめ、蓮司と視線を交わした。

「……どうやら、母親の魂も一緒に縛られているみたいね」


 蓮司は頷き、煙草を指先で転がした。

「となれば、この館のどこかに扉がある。母子を閉じ込めたままの……封印だ」


 再び子どもの声が響く。

 ――あけて。

 ――おかあさんに、あわせて……。


 ガラスケースが震え、ひび割れが走る。

 今にも封じられた魂が、こちらへと手を伸ばそうとしていた。



 展示室の蛍光灯が一斉に消え、懐中電灯の光だけが闇を切り裂いた。

 ひび割れたガラスケースの中で、市松人形は静かに首を傾け、奥の廊下へ視線を向けているように見えた。


 ――あけて……そこに……。


 囁き声に導かれるように、蓮司は懐中電灯を向ける。

 展示室の奥に続く廊下、その突き当たりには古びた書架が並んでいた。

 一見すると資料の保管棚だが、里沙は即座に違和感に気づく。


「……霊気が濃い。この棚の奥に、何かある」


 近づいてみると、木製の書架の裏に微かな隙間があり、そこから冷気が漏れ出していた。

 山科が顔を青ざめさせる。

「……そんな場所、資料館の図面には載っていないはずですが……」


 蓮司は無言で懐から護符を一枚取り出し、棚の隙間へ差し込んだ。

 途端に、墨を流したような黒い紋様が浮かび上がり、棚全体が呻くような音を立てる。


「……やはり隠し扉だな」


 里沙が息を整え、両手で印を結ぶ。

「結界が仕掛けられてる……。でも弱ってる、今ならこじ開けられる!」


 蓮司は頷き、書架に肩をぶつけるように力を込めた。

 ギギギ……と木の擦れる音が響き、重たい棚がゆっくりと横へずれる。


 その奥に現れたのは――石造りの狭い扉。

 表面には古びた梵字と血のように赤黒い染みが刻まれていた。


「これが……」

 里沙が顔をしかめる。

「母子を封じた扉……」


 扉の隙間から、かすかに声が漏れてきた。

 ――おかあさん……。

 ――まだ……ここにいる……。


 蓮司は低く唸り、護符を扉に貼り付ける。

「行くぞ……ここを開けなきゃ、何も始まらねぇ」


 護符が眩しく燃え上がり、扉に刻まれた紋様が軋むように崩れていく。

 最後の封印が砕けると同時に、石の扉が重々しく開いた。


 奥から吹き出したのは、ひどく冷たい風と共に――母親のものと思しき女の嗚咽。



 扉の向こうは、狭い石室だった。

 薄暗い空間に、積み重なった古い木箱や朽ちかけた布団が散乱している。その中央――ぼんやりと白い影が膝を抱えて座り込んでいた。


 女性の姿。

 長い黒髪が乱れ、薄い浴衣姿のまま、顔を両手で覆って嗚咽している。


 ――ひぐっ……ごめんね……ごめんね……。


 声は幼い子を宥めるようであり、自分を責めるようでもあった。

 蓮司は一歩踏み出し、低く声をかける。


「……あんたが、子どもの母親か」


 その声に影がわずかに揺れ、女はゆっくりと顔を上げた。

 痩せこけた頬、涙で濡れた瞳。けれどその奥には、まだ人の温もりを残した光が見えた。


「……わたしは……美和……悠真の、母です」


 名を告げた瞬間、展示室から聞こえていた子どもの声が一層はっきりと響いた。

 ――おかあさん……!


 女は胸を締めつけられたように顔を歪め、石室の奥を見上げる。

「……ごめんなさい……あの日、わたしが……守れなかった……」


 里沙が膝をつき、穏やかな声で問いかける。

「美和さん……どうして、あなたはここに封じられているの? 事故の真相を、教えてください」


 女の影は震え、長い沈黙の後、絞り出すように語り始めた。


「……病院の火事。あの日、私は息子と一緒に逃げようとした……。でも、煙で視界が真っ黒になって……。悠真の手を掴んでいたはずなのに、いつの間にか、あの子だけが向こうに――」


 声が嗚咽に途切れる。

 蓮司は静かに促した。

「……続けろ。まだ隠してるだろう」


 美和は唇を震わせ、苦渋の表情で言った。

「……私が……扉を閉めたんです」


「……扉を?」

 里沙が息を呑む。


「炎が迫って……周囲の子たちを守るために、扉を閉めなきゃならなかった……! あの子の声が、まだ後ろから聞こえていたのに……。私は……自分の手で、あの子を閉じ込めてしまったんです……!」


 石室全体が震え、冷気が渦を巻いた。

 美和の叫びは、封印に残された罪の告白だった。


 ――おかあさん……おこってないよ……。

 ――でも、ここから……だして……。


 悠真の声が重なり、美和は涙を流しながら手を伸ばす。

「……あの子を……どうか、あの子だけでも、助けて……」


 蓮司は唇を引き結び、深く息を吐いた。

「助けるかどうかじゃない。……二人まとめて、ここから解き放つ」


 石室の冷気が一気に濃くなり、影が壁一面に広がる。

 母子の後悔と怨嗟が渦巻き、祟りの姿へと変わりつつあった。



 石室の空気は冷え切っていたが、その中心に立つ美和の瞳には、人間らしい温かさがまだ微かに揺れていた。


 ――おかあさん。


 悠真の声が再び響く。だが今度は、先ほどまでの恨みや怒りではなく、どこか懐かしむような響きが混じっていた。


「……悠真……」

 美和の震える声が、闇に吸い込まれていく。


「ごめんね……あの日、私がもっと強かったら……あなたを置いて行かなかったのに。母親失格よ……」


 ――ちがう。おかあさんは、ぼくを守ってくれた。みんなを、守ったんだ。


 小さな声は、石室の奥からではなく、美和の胸の内から湧いてくるようだった。

 涙で視界を滲ませた美和は、両手を前に差し出し、必死にその声を掴もうとする。


「守ったなんて言わないで……! 私は、あの扉を閉めた。あんたの顔を見ないまま、声を振り切った……。母親なのに、あんたを最後まで抱きしめられなかった……!」


 声が震え、膝が崩れそうになる。

 その背を、里沙が支えるように手を添えた。


「美和さん……あの子は怒っていない。今もあなたを呼んでいる。それが真実でしょう?」


 美和は里沙の手にすがるように頷き、声を絞り出した。

「……会いたい。もう一度……あの子を抱きしめたい……」


 ――ぼくも。


 短い返答に、母の嗚咽が一層強く響く。


 そのとき蓮司が低い声で口を開いた。

「美和……このままじゃ二人とも祟りになる。会いたい気持ちも、後悔も、全部呪いに呑まれちまう」


「……っ!」

 美和の顔が苦しげに歪む。


 蓮司は静かに言葉を重ねた。

「だからこそ、ここで全部吐き出せ。後悔も罪も、全部な。そうすりゃ、最後にあの子と向き合える」


 ――おかあさん。ぼくは、さみしかった。でも、うらんでない。だから……いっしょに、でよう。


 悠真の声が、石室いっぱいに広がった。

 それは悲しみと願いを混ぜた、純粋な子の声だった。


 美和の涙が頬を伝い落ちる。

「……悠真……。ごめんね……そして、ありがとう……」


 母子の声が重なったその瞬間、石室を覆っていた冷気が一層強まり、影が蠢き出した。

 心の奥に残された後悔が形を変え、祟りの姿となって噴き出そうとしていた。



 母と子の声が重なった瞬間、石室の空気が急激に変わった。

 温もりを帯びたはずの声が、逆に怨嗟の渦を呼び覚ます。


 床の石畳に黒いひびが走り、そこから濃霧のような闇が溢れ出す。

 母美和の影が大きく歪み、悠真の声が重なり合って増幅される。


 ――でよう……いっしょに……でも、みんなも……ひきずりこむ……!


 優しさと怨念が混じり合い、影は膨張して巨大な形を取った。

 母の腕と子の小さな手が幾重にも絡まり、鎖のような塊となって天井まで伸び上がる。

 顔のない母子の巨影が石室いっぱいに広がり、耳を裂く悲鳴を上げた。


「……ついに来やがったな」

 蓮司が低く呟き、数珠を握りしめる。


「美和さん、悠真くん……もう戻れないの?」

 里沙は震えながらも声を届けようとする。

 しかし返ってきたのは、母子の叫びに変じた声だった。


 ――いっしょにいて……うばわれたくない……。

 ――ここからでるなら……みんな、おなじに……!


 その瞬間、影の巨腕が振り下ろされ、石室の床が抉れた。

 破片が飛び散り、冷気が渦巻く。


「里沙! 結界を張れ!」

「はいっ!」


 里沙が札を走らせると、黄金の光が盾のように展開し、影の衝撃を防ぐ。

 だが圧は強大で、床に走る光陣がじりじりと削られていく。


「この怨念……母の罪と子の孤独が重なって、止められねえ力になってる……!」

 蓮司は舌打ちし、掌に霊力を集める。


「けどな、俺たちがここで断ち切る!」


 彼の全身を白い焔のようなオーラが包み、石室の闇を押し返す。

 里沙もまた立ち上がり、印を結ぶと呪符が矢のように浮かび上がった。


「……あなたたちを救うために! そして、これ以上の犠牲を出さないために!」


 二人の霊力が合わさり、光と闇が激突する。

 母子の影は咆哮を上げ、千の声が重なったような音が石室を揺らした。


 ――でていきたい……でも、ゆるせない……!


 怨嗟と愛情がないまぜになった最後の叫び。

 蓮司はそれを聞き逃さず、怒声をぶつけた。


「なら――俺たちが終わらせる!」


 白光が槍となり、影の胸へと突き立つ。



 光の槍が突き刺さった瞬間、母子の巨影は耳を裂くような咆哮を上げた。

 ――いやだ……まだ……まだ、ここに……!


 黒い靄が吹き荒れ、石室の壁を削る。影の腕が無数に伸び、蓮司と里沙に絡みつこうとする。


「くっ……まだ抵抗してやがる!」

 蓮司が数珠を強く握りしめ、霊力を迸らせる。


「里沙!」

「はい!」


 二人の光陣が交わり、結界はさらに強固になった。

 だが、影は母と子の声を重ねながら叫ぶ。


 ――離れたくない……! おかあさんと……いっしょに……!

 ――まだ……ぼくを置いていかないで……!


 その声に、里沙の胸が締めつけられた。

「……こんなに互いを想っているのに……どうして呪いになってしまうの……」


 蓮司は低く呟いた。

「だからこそ……本当の言葉を届けてやらねえと、こいつらは解けねえ」


 彼は札を取り出し、美和の影に向けて叩きつける。

「お前は最後まで抱けなかったと悔やんでる。けどな――」


 里沙が続けた。

「悠真くんは、母のことを怨んでなんかない! 本当に欲しかったのは、ずっと一緒にいたいって気持ちだけ!」


 その言葉に、影の動きが一瞬止まった。

 揺らめく黒靄の中に、幼い少年の姿と、涙を流す母の面影が重なって浮かぶ。


 ――ほんとうに……?


 里沙は札を掲げ、祈りを込める。

「……許してあげて。あなたのお母さんは、最後まであなたを愛してた」


 ――……ぼくも……おかあさんが……だいすきだよ。


 母子の声が重なり、影の巨体に亀裂が走った。

 黒い靄が砕け散り、白い光がその隙間から溢れ出す。


 蓮司は全身の霊力を解き放ち、最後の一撃を叩き込んだ。

「――昇華ッ!」


 石室を覆っていた闇が爆ぜるように消え、残されたのは柔らかな光の粒。

 その中で母子は寄り添い、微笑んでいた。


『……ありがとう……』

 声は囁きのように消え、白光の粒は天井を突き抜け、夜空へと昇っていった。


 石室に残ったのは静寂と、ほんのわずかな温もりだけだった。


 蓮司は深く息を吐き、数珠を握り直す。

「……終わったな」


 里沙は涙を拭い、かすかに微笑んだ。

「ええ……母と子は、やっと一緒に行けたんだわ」



 翌日。

 真夏の陽射しは相変わらず強烈だったが、鬼塚探偵事務所の中は扇風機の風と冷たい麦茶で、ひとときの安らぎを取り戻していた。


 デスクの向かいに座るのは、依頼人の山科。

 昨日の恐怖をまだ引きずっているのか、その顔色には疲労の影が残っていた。


「……あれから夢を見ていません。夜中に呼ばれるような声も。……本当に、終わったんですね」

 山科の声はかすかに震えていた。


 蓮司は煙草に火をつけ、短く煙を吐く。

「ああ。母と子は、互いの思いを確かめて昇華した。もう、この世に未練を残してはいない」


「……そうですか」

 山科は胸を撫で下ろすように、深く息をついた。

「私の同僚を苦しめていたのは……きっと、あの扉の向こうに縛られていた二人だったんですね」


 里沙が柔らかく頷く。

「でも、同僚さんの魂も、もう巻き込まれることはありません。記憶や声が残っているとしたら……それはきっと、最後のありがとうの気配です」


 山科の目にうっすら涙が浮かぶ。

「……報告できるんでしょうか。彼の家族に……本当のことを」


 蓮司は静かに答える。

「真実を伝えるかどうかはあんたの判断だ。ただ――俺たちの役目は霊を鎮めること。その結果を背負うのは、生きている者だ」


 その言葉に山科は深く頭を下げた。

「……ありがとうございます。本当に。もし私一人だったら、あの声に呑まれていたと思います」


 事務所を後にする彼の背は、まだ重荷を抱えているように見えたが、その歩みは確かに軽くなっていた。


 静けさが戻ると、里沙が小さくつぶやく。

「……母と子の愛情が、あんな風に呪いに変わるなんて」


 蓮司は窓の外、白く照りつける空を眺めながら煙を吐いた。

「愛情も執念も、境目なんてねえさ。強すぎれば、どっちにでも転ぶ。ただ……最後に昇華できたなら、それで救いだろう」


 扇風機の羽音が回り続ける中、二人はしばし無言で麦茶を啜った。

 夏はまだ続いている――だが、ひとつの因縁は確かに終わりを迎えたのだった。


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