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第三十四話

 昼下がりの鬼塚探偵事務所。

 古い扇風機が首を振りながら部屋の空気をかき混ぜ、机の上では蓮司の吸いかけた煙草が灰皿の縁に置かれていた。

 里沙は書類を整理しながら、ぼそりと呟く。


「今日は静かね……」


 その言葉の直後、事務所のドアベルが小さく鳴った。

 扉の向こうに立っていたのは、長身の男性だった。黒のスーツに身を包んでいるが、ネクタイは緩められ、額にはうっすらと汗が浮かんでいる。


「……こちらが、鬼塚探偵事務所で間違いありませんか」


 声は落ち着いているが、その瞳には疲労と緊張が宿っていた。

 名刺を差し出すと、そこには 「寺内総合病院 事務局」 と印字されている。


寺内智弘てらうち ともひろと申します。実は――病院で説明のつかないことが続いておりまして」


 里沙が小首をかしげ、蓮司は煙草に火をつけながら短く促した。

「詳しく聞こうか」


 智弘は小さくうなずき、静かな声で語り始めた。


「ここ二週間ほど、夜間病棟で亡くなったはずの患者が目撃されているんです。廊下を歩いたり、病室を覗き込んだり……。看護師たちも怯えて、夜勤を嫌がる者が増えている」


「亡くなったはずの患者が……姿を現す?」

 里沙の声がわずかに低くなる。


 智弘は両手を膝の上で握りしめ、続けた。

「病院としては公にできない問題です。けれど……昨夜はとうとう、目撃した看護師が気を失って倒れてしまいました。彼女の証言によれば、誰かに名前を呼ばれたと……」


 室内の空気が一瞬で重くなった。

 蓮司は灰皿に煙草を押し付け、低く呟く。

「……病院での怪異、か」


 里沙が智弘に視線を向ける。

「その患者の名って分かりますか?」


 智弘はためらい、だがやがて小さく答えた。

「――三年前に亡くなった少年です。事故で運ばれてきた、まだ十歳にもならない子ども……。どういうわけか、夜な夜な名簿から消えた病室に姿を現しているそうです」


 蓮司と里沙は無言で視線を交わす。

 名簿から消えた病室――それは既に、ただの怪談では片付けられない異変を意味していた。



 麦茶の入ったグラスに手を添えながら、寺内智弘はしばし口を閉ざしていた。

 額の汗を拭う仕草は事務員というより、何かを背負う者のそれに見えた。


「……その少年のこと、少し詳しく聞かせてもらえますか」

 里沙が柔らかく切り出す。


 智弘はゆっくりとうなずいた。

「……三年前の夏でした。夜、交通事故で運ばれてきた少年がいました。名前は――新田悠真にった ゆうま。まだ十歳でした。すぐに緊急手術を行いました。手術は成功したと思われたのですが、術後に様態が急変……助けられなかった」


 言葉の端がわずかに震える。

 彼が単なる事務方ではなく、その場に居合わせた人間であることを示していた。


「亡くなったのは旧棟の三階、302号室。……ですが、不思議なことに翌日からその病室の記録が消えていたのです。電子カルテにも、備品管理簿にも、最初から存在しない部屋として扱われて」


「存在しない部屋……」

 里沙が眉を寄せる。


 蓮司は黙って煙草を灰皿に押し付けた。

「病室を隠そうとしたのは病院の判断か?」


 智弘は顔を曇らせた。

「はい……当時の院長の指示です。『不祥事として残すな。跡地は封鎖して倉庫にする』と。ですが、倉庫にしたはずの302号室から、夜な夜な足音が聞こえるという話が絶えなかった」


 彼は唇を噛み、声を潜める。

「――そして、数日前。夜勤の看護師が廊下で小さな声を聞いたそうです。『……お母さん、まだ?』と。振り返った瞬間、意識を失った」


 部屋に静寂が落ちる。

 扇風機の回転音だけが、やけに大きく耳に残った。


「新田悠真……三年前に亡くなった少年。そして、名簿から消された302号室」

 里沙が小さく繰り返すと、蓮司は静かに頷いた。


「まずは現場を見なきゃならんだろうな」

 低く言うその声音には、いつもの冷静な決意がこもっていた。



 夜十時過ぎ。

 寺内総合病院の旧棟は、外来の灯りからも離れ、ひどく静まり返っていた。廊下のライトは半分ほどが消灯され、薄暗い光が床に長い影を伸ばしている。


「……昼間と空気が違うわね」

 里沙が低く呟く。背中の鞄には、符札や御幣など必要な道具が収められている。


 蓮司は腕を組みながら周囲を見渡した。

「旧棟の三階、302号室だな。倉庫として封鎖されてるはずだ」


 寺内智弘が先導し、長い廊下を歩く。足音が反響し、やけに大きく響いた。

 時折、ナースステーションから夜勤の看護師が彼らを怪訝そうに見たが、智弘の説明にうなずいて再び持ち場に戻っていった。


 階段を上がると、三階の空気は一段と重くなった。湿り気を帯びた冷気が肌を撫で、里沙は思わず肩をすくめる。


「……ここだけ、病院の気配が薄い」

「消された部屋の残り香か」

 蓮司は無意識にポケットへ手をやり、煙草の箱を確かめた。


 やがて廊下の突き当たりに、他の病室とは違う扉が現れた。

 番号札は外され、ガラス窓には板が打ち付けられている。だが、木目の隙間からは微かな冷気が滲み出していた。


「ここが……302号室です」

 智弘の声は緊張でかすれていた。


 蓮司は懐から古びた懐中電灯を取り出し、扉の取っ手に手をかける。

 錆びついた金属がきしみ、重い音を立てて扉が開いた。



 部屋の中は、確かに倉庫だった。

 古いベッドフレームや壊れた点滴スタンド、段ボールの山が無造作に積まれている。だが、その上からは薄い埃が均一に積もっておらず、誰かが歩いた跡のように乱れている部分があった。


「……最近、ここに入った者がいる?」

 蓮司が低く問う。


「いいえ。鍵は私と管理課の人間しか持っていません」

 智弘が首を振る。


 里沙は足跡を目で追い、祈りのように小声で呟いた。

「……子どもの、小さな靴跡……」


 その言葉に、部屋の空気がふっと冷たく沈んだ。

 次の瞬間、ライトが一度点滅し、倉庫の奥でかすかな声が響いた。


 ――おかあさん……まだ?


 紗英がぞくりと背筋を震わせ、蓮司はすぐに懐から御札を取り出す。


「……出るぞ」


 埃の積もったベッドの影から、小さな人影が姿を現した。

 白い入院着を着た少年。顔ははっきり見えないが、虚ろな瞳がまっすぐこちらを見ていた。



 白い入院着の少年は、埃をまとったベッドの影から一歩ずつ現れた。

 裸足の足音は畳ではなく、冷たい水面を歩くように響き、耳にまとわりつく。


「……お母さん……まだ、来ないの?」


 細い声が、倉庫となった病室全体に広がった。

 その響きは哀しみとも、苛立ちともつかぬ調子で、里沙は胸の奥を締めつけられる感覚を覚える。


「――悠真くん、だね」

 里沙は小さく息を整え、子どもに話しかけるように柔らかい声を出した。


 少年の影がぴたりと止まる。虚ろな瞳が、じっと里沙を映す。


「……どうして、名前を……」


「君のことを知りたいから。寂しいんでしょう?」


 言葉を投げかけながら、里沙は無意識に符を指先でなぞった。緊張が全身を走るが、あえてそれを悟られぬように。


 蓮司は横で腕を組み、ただ黙って見ていた。その視線は、対話が続くか、それとも一瞬で崩れるかを見極めている。


 少年は首を傾げ、かすかな笑みを浮かべた。

「……ぼく、帰りたいだけなんだ。でも……扉が開かない」


「扉?」

 里沙が問い返す。


 少年は振り返り、倉庫の奥――壁に打ち付けられた板張りを指差した。

 そこは、図面上では存在しないはずの出入り口の位置だった。


「向こうに……お母さんがいるの。だけど、鍵がかかってる。ずっと、ずっと開かない」


 部屋の温度がさらに下がった。

 蓮司は目を細め、低く呟く。

「……倉庫にされる前、この部屋に隠された出入り口があったってことか」


 少年は近づき、今にも里沙の袖を掴もうとする。

「ねえ……開けてよ。早く……お母さんに、会わせてよ」


 その声は切実だ。だが同時に、室内の影がじわじわと長く伸び始める。

「――会わせなきゃ、出られないんだ。ぼくも、ここにいる人たちも」


 その言葉に、里沙と蓮司は同時に気づく。

 この少年の背後には、他にも囚われた存在がいる――。



 少年の指差す先――倉庫の奥の壁に、確かに妙な継ぎ目があった。

 板張りの一部が不自然に色あせ、周囲より新しい釘で留め直されている。

 そこだけが、年月の流れから切り取られたように異質だった。


「……この裏に扉があるのね」

 里沙が呟くと、少年はこくりと頷いた。


「そう……ぼくが死んだ夜も、あそこから声がしたんだ。お母さんの声で、『大丈夫、すぐ迎えに行く』って。でも……行けなかった。血がたくさん出て、目が真っ暗になって……」


 その言葉に、室内の空気がざわめいた。

 壁際の影が膨らみ、うっすらと女の姿が浮かび上がる。髪を振り乱し、顔の輪郭はぼやけているが、その口元だけがはっきりと動いた。


「悠真……待ってて」


 里沙は息を呑んだ。

「……やっぱり、母親の霊がここに縛られている」


 蓮司は壁に近づき、手で継ぎ目をなぞった。

「病院は事故死の痕跡を隠すために扉を塞いだ。だが、その向こうにまだ事件の真実が残っている。……少年も母親も、閉じ込められたままってわけだ」


 少年は泣きそうな声で訴えた。

「開けてよ……ずっと、暗くて……寒いんだ。お母さんも、向こうで泣いてるんだよ」


 影の中の女が、嗚咽のような声を漏らした。

「ごめんね……ごめんね……」


 その声には、母としての後悔と痛みが詰まっていた。

 だが同時に、その怨念が病院全体を蝕み始めているのも感じられる。


 里沙は膝をつき、少年の目線に合わせて静かに言った。

「悠真くん、あなたを迎えに来られなかったのは、きっと理由がある。……その真実を知るために、この扉を開けなきゃいけない」


 少年は涙をこらえるように唇を噛みしめ、震える声で返した。

「……開けて……ぼく、ずっと待ってるから」


 その瞬間、倉庫全体が軋むように鳴り、打ち付けられた板がひとりでに震え始めた。

 まるで中から叩かれているかのように。



 打ち付けられた板が小刻みに震え続ける。

 それはまるで、向こう側から必死に「開けろ」と訴えているかのようだった。


「……ここを開けるしかないな」

 蓮司は低く呟き、腰の道具袋から鉄製のバールを取り出した。


「待って、蓮司」

 里沙が符を広げて部屋の四隅に貼り付ける。

「これをやらないと……開いた瞬間に何か出てきたら危ない」


 四枚の符が薄い光を放ち、結界のように室内を覆った。

 準備を確認すると、蓮司は無言でうなずき、バールを板の隙間に差し込む。


 ――ギシィ……バキィンッ!


 釘が弾け、埃が舞い上がる。

 硬い木板が次々と剥がれ落ち、暗闇が口を開いていく。


「……ここが、本当の302号室か」

 蓮司がライトを差し込むと、そこには病院の倉庫らしからぬ光景が広がっていた。


 畳一枚ほどの狭い空間。

 壁には焦げ跡のような黒い染みが広がり、床には錆びついた手錠と血痕がこびりついている。

 そして奥の壁には、小さな祭壇のような台座があり、その上に折れた母子手帳が残されていた。


 里沙が慎重に近づき、手帳を拾い上げる。

 表紙は焦げ、ページの半分以上が焼け落ちていたが、かろうじて一行だけ文字が残っていた。


「悠真を、守る」


 里沙の喉がひくりと震えた。

「……やっぱり、ここで母親が……」


 その瞬間、壁の染みが揺らめき、人影を帯びて立ち上がる。

 それは髪を乱し、両手を血に染めた女の姿――少年の母親の霊だった。


「……ごめんね……ごめんね……守れなくて……」


 声は泣き叫ぶようでありながら、同時に自らを責め続ける響きを孕んでいた。


 悠真の霊が母の影を見つけ、震える声をあげる。

「お母さん……? やっと……やっと会えた……?」


 母の影が少年に手を伸ばす。

 だが、その背後には濃い闇が渦巻き、まるで別の何かが憑き従っているように蠢いていた。


 蓮司は咄嗟に札を構えた。

「……くそ、ただの母子の再会じゃねえな。怨念が絡んでやがる」



 母の影が震える手を差し伸べる。

 虚ろだった少年の瞳が、初めて確かな光を帯びた。


「……お母さん……本当に、来てくれたんだね」


 その声に、女の影は嗚咽を漏らした。

「ごめんね……悠真……ずっと、待たせてしまった」


 母と子の声が重なった瞬間、倉庫の冷気がわずかに和らぐ。

 だが同時に、壁に広がる黒い染みがざわりと蠢いた。

 母を縛りつける別の力が、言葉を拒もうとしているかのように。


 里沙が小さく息を整え、踏み込んだ。

「……あなたは、どうしてこの部屋に縛られたままなの? 悠真くんを守ると誓ったのに……」


 女の影は苦しげに顔を歪めた。

「……あの夜……私は病院に駆けつけたの。事故で運ばれたと聞いて……息子の名前を呼んだけれど、扉の向こうから返事はなくて……」


 震える声が続く。

「そして……院長に言われたの。『これ以上は騒ぐな。部屋は封鎖する。あなたもここで静かにしなさい』って」


「院長に……?」

 智弘が信じられないといった顔で呟く。


 女の影は目を伏せ、かすれ声で吐き出した。

「私は――口封じをされたの。真実を知ってしまったから」


 その言葉に室内が揺れる。

 壁に広がる黒い染みが一層濃くなり、怨念の渦が母の背を覆い始めた。


 蓮司が低く言い放つ。

「つまり……母親は病院の闇に殺され、子どもと同じ部屋に封じられたってことか」


 母の影は嗚咽を重ねながら、必死に言葉を紡いだ。

「でも……それでも……私は悠真に会いたかった……守りたかった……」


 少年は涙を浮かべ、母へと一歩近づいた。

「ぼく、待ってたよ……ずっと。暗くて、寒くて、でも……声だけは聞こえてたから……」


 母と子の想いが重なった瞬間、黒い染みが激しく脈打つ。

 まるで「真相を語ること」を阻むかのように、怨念が噴き出そうとしていた。



 黒い染みが壁一面に広がり、呻き声のような雑音が室内を満たしていく。

 それでも母の影は震える腕で悠真を抱き寄せるようにし、必死に声を絞り出した。


「……あの夜……本当は事故なんかじゃなかった……」


 里沙と蓮司の視線が鋭く彼女に注がれる。


「……病院が抱えていた医療過誤を……悠真が証人になってしまったの。本当は別の患者の薬を誤投与された……事故で傷ついた身体に、さらに負担をかけて……助からなかった」


 女の声は苦痛に歪みながらも続く。

「私は……カルテの改ざんを見た。院長たちは私を黙らせるために……この部屋に閉じ込め……息を止めた」


 智弘は言葉を失い、拳を固く握りしめた。

「……そんな……院長が、そこまで……」


 母は涙のように影を震わせた。

「でも……死んでも離れられなかった。悠真を一人にしたくなかったから……」


 少年の霊は母に顔を埋めるようにして小さく震え、掠れた声で言った。

「……ずっと……待ってたんだ。だから……やっと一緒にいられる……」


 里沙は一歩踏み込み、強い声で告げた。

「悠真くん……あなたのお母さんは、まだ縛られている。この病院の闇に」


 母の影もまた、苦しげに首を横に振る。

「そう……この病院に染みついた怨念が……私たちを閉じ込めている。……あの時、私たちを殺したのは人間だけど……今は、もっと別の何かになっている」


 その言葉と同時に、壁の黒い染みが裂けるように膨れ上がった。

 そこから無数の腕がのたうち、呻き声と悲鳴が重なり合う。


「……もう来るぞ」

 蓮司は札を抜き、低く吐き捨てた。


 母は最後に悠真を見つめ、哀切に告げた。

「……ごめんね……守れなかった……でも、もう一度……一緒に」


 その瞬間、母子の影が一斉に黒い渦に呑まれ、祟り神のような姿へと変貌した。

 病院の床が震え、天井のライトが次々と割れて火花を散らす。


「――出やがったな」

 蓮司は結界札を床に叩きつけた。


 漆黒の巨影が、廊下いっぱいに顕現する。

 それは母と子の無念と、病院が積み重ねた罪の集合体。


「……っ、来る!」

 里沙が御幣を握りしめ、光を走らせる。



 黒い渦が裂けるように広がり、病室の壁や天井を突き破った。

 ライトが一斉に割れ、火花が雨のように散る。闇の中から姿を現したのは、母と子の面影を歪めた巨大な影だった。


 無数の腕と顔が混ざり合い、呻きと泣き声が重なって響く。

「返せ……声を返せ……命を返せ……」


 その声は母の嘆きと子の叫び、そして病院に沈んだ無数の怨嗟が一つになったものだった。


「……完全に融合してやがる」

 蓮司は低く唸り、札を構えた。


 巨影の腕が床を叩き割り、床板がひしゃげて瓦礫が飛び散る。

 里沙は依頼人の智弘を背後へ押し下げ、すかさず符を投げ放った。

 白い光が矢のように飛び、闇の腕を裂く――だが、すぐに再生して迫りくる。


「きりがない……っ!」

 里沙が歯を食いしばる。


 蓮司は床に符を突き刺し、印を結んだ。

「結界、展開――ッ!」


 瞬間、光の円陣が床一面に広がり、祟り神の足元を縛り付ける。

 しかし巨影は呻き声と共に結界を軋ませ、黒炎を噴き上げた。


 その黒炎に触れかけた智弘が、顔を青ざめさせて叫ぶ。

「うわっ……! 声が……頭に響く……!」


「智弘さん、落ち着いて!」

 里沙が必死に叫ぶ。

「それは祟りの囁きです。あなたを取り込もうとしている!」


 巨影の顔の一つが智弘の方を向き、黒い口を開いた。

「――代わりに……お前が……」


 次の瞬間、黒い舌のような影が飛び出し、智弘へ襲いかかる。


「させるかッ!」

 蓮司が札を叩きつけ、光の刃で影を切り裂いた。


 火花のように散る霊力。だが巨影は怯むことなく、さらに腕を増やし、病室全体を覆い尽くそうとする。


「くそっ……このままじゃ病院ごと呑まれる!」

 蓮司が歯を食いしばる。


 里沙は御幣を高く掲げ、霊力を溢れさせた。

「蓮司さん、次は合わせて! 押し返さないと――!」



 祟り神は呻きと共に巨影をさらに膨張させ、廊下へと触手のような腕を伸ばした。

 その動きは生き物というより、病院全体を喰らい尽くそうとする怨念の渦そのものだった。


「里沙、全力で合わせるぞ!」

 蓮司の声が低く響く。


「はい!」

 里沙は御幣を両手に掲げ、符を宙へ放つ。紙片が舞いながら淡い光を宿し、やがて彼女の周囲に円環を形作った。


 蓮司は床へ両掌を叩きつける。

「――起動!」


 瞬間、白い紋様が床に広がり、里沙の円環と共鳴した。

 二つの陣が交わり、強烈な光が室内を満たす。


「……邪魔を……するな……!」

 祟り神が咆哮し、黒い腕を一斉に振り下ろす。

 だが光の鎖がその腕を絡め取り、次々と焼き切っていく。


 智弘は目を見開き、圧倒されながらも震える声で呟いた。

「……これが……二人の、本当の力……」


 里沙の声が重なる。

「封じてきた怨念よ、ここで終わりにする!」


 御幣から奔流のような霊光が走り、祟り神の胸を貫いた。

 同時に蓮司の札が矢のごとく飛び、巨影の中心に突き刺さる。


「――断ッ!!」


 爆ぜるような閃光。

 祟り神の巨体が軋み、呻き声が病院全体に木霊する。


「ぐぅぅぅ……まだ……終わらぬ……!」


 影はなおも黒炎を噴き、母と子の歪んだ声を重ねて響かせた。

「一緒に……いなきゃ……約束を……破ったら……」


 蓮司は息を荒げながらも目を逸らさない。

「……まだ核が残ってやがるな。最後の一撃で抜き出す!」


 里沙は頷き、御幣を握り直した。

 二人の霊力はさらに高まり、部屋の空気は光と闇のせめぎ合いで震える。



 祟り神の核が露わになり、母と悠真の影が闇の中心で抱き合っていた。

 その声が、智弘の胸を突き刺す。


「一緒に……いたい……」

「もう離れたくない……」


 智弘は思わず耳を塞ぎ、膝をついた。

「う……頭に直接響く……! でも……俺は、あの人たちの身内じゃない……どうして俺に……!」


 蓮司が短く言い放つ。

「お前は媒介だ。この病院に縁あって生き残った人間として、声が届いてるんだ。血筋じゃなくても関係ない。……だからこそ証人になれる」


 智弘は拳を震わせながら顔を上げた。

「……じゃあ、俺が伝える。二人の無念も、病院で起きたことも……全部」


 その言葉に、母と子の影がわずかに揺れた。

 里沙が頷き、御幣を掲げる。

「聞こえてるはずよ。あなたたちは忘れ去られない。だからもう、ここに縛られる必要はないの!」


 祟り神の叫びが一瞬だけ弱まり、母の影が震える声で囁いた。

「……ありがとう……」


 その瞬間を逃さず、蓮司が最後の札を投げ放つ。

「――浄化!」


 光の鎖が核を締め上げ、里沙の霊力が御幣を通して奔流となり、母と子を包み込む。

 闇が爆ぜ、黒炎が一斉に消えていった。


 最後に残ったのは、互いに抱き合い微笑む母と子の影。

 彼らは智弘に向かって、確かに言葉を残した。


「どうか、伝えて」


 そして白い光となり、夜空へ昇っていった。



 夏の陽は傾き、事務所の窓からは橙色の光が差し込んでいた。

 蝉の声が遠くにかすかに残り、代わりに夕暮れの涼しい風がカーテンを揺らす。


 智弘は応接机の前に座り、深く頭を下げた。

「……本当に、ありがとうございました。あの夜から、あの声はもう聞こえません」


 里沙は湯呑を差し出し、やわらかく微笑む。

「無理に忘れなくてもいいんですよ。あの人たちは、あなたに伝えてほしいって残したんですから」


 智弘は湯呑を両手で受け取り、少し視線を伏せた。

「……正直、俺なんかが伝える資格があるのか分からない。でも、確かに最後に俺に言ってました。『どうか伝えて』って……」


 蓮司はデスクの奥で煙草に火をつけ、静かに吐き出した。

「資格なんて後から付いてくるもんだ。聞いたことを忘れず、言葉にして残せば、それで役目は果たしたことになる」


 智弘は小さく頷き、少し笑みを浮かべた。

「……そうですね。俺にできることを、ちゃんとやります」


 短い沈黙。

 蝉の声が完全に途切れ、夕闇が街を包み始めていた。


 やがて智弘は立ち上がり、深々と頭を下げた。

「鬼塚さん、本間さん……本当にありがとうございました」


 彼が去ったあと、事務所にはしばし静寂が残った。


 里沙は湯呑を片付けながら、小さく呟く。

「……彼も、巻き込まれただけなのに、よく最後まで耐えましたね」


 蓮司は煙草を灰皿に押しつけ、わずかに目を細めた。

「巻き込まれたやつが証人になることもある。……霊ってのは、そういう相手を選ぶんだろうさ」


 外の空気はもう夜の匂いを帯びていた。

 次なる依頼の気配を孕みながらも、事務所の空間にはひとときの安堵が流れていた。

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