第三十二話
真夏の陽射しが、商店街のアスファルトをじりじりと焦がしていた。遠くで蝉がけたたましく鳴き、熱気を孕んだ風が、蓮司の事務所の古い看板をかすかに揺らす。
扇風機の首振りがゆるやかに部屋の空気をかき混ぜていると、事務所の扉の向こうに一人の女性の影が立った。
ノックの音。
「どうぞ」と蓮司が声を掛けると、ドアが開き、白い半袖ブラウスに膝丈のスカートを身につけた若い女性が一歩踏み入れた。長い黒髪を後ろでまとめ、額には小さく汗が滲んでいる。年の頃は二十代半ばほどだろうか。
彼女は軽く会釈をし、少し躊躇うように口を開いた。
「……あの、こちら……鬼塚探偵事務所で間違いないでしょうか」
「ええ、間違いありません。どうぞ、お掛けください」
彼女は椅子に腰を下ろし、手にしていたトートバッグを膝に抱えたまま、視線を落とす。その指先がわずかに震えているのを、蓮司は見逃さなかった。
隣の席に座る里沙も、静かに水の入ったグラスを差し出す。女性は小さく礼を言い、喉を潤すと、深呼吸して話し始めた。
「私、篠原紗希といいます。普通の会社員なんですが……最近、実家のある村に帰ったときから、変な夢を見るようになって」
「夢?」と里沙。
「はい……。夢の中で、私は見知らぬ神社の前に立っているんです。風が強くて……髪を押さえて、鳥居の向こうを見ている。そこに……誰かの声が聞こえるんです。『……帰して』って」
紗希の声はわずかに掠れ、指先が膝の上で組まれる。
蓮司は腕を組み、彼女の表情を観察した。その夢が単なる偶然か、あるいは呼び声なのか――判断はまだ早い。
「それで、あなたはその場所を知っている?」
「……実は、知っているような気がするんです。でも、行ったことがないはずなのに……」
そう言う紗希の瞳には、説明しようのない確信が宿っていた。
篠原紗希が事務所を去った後も、室内には彼女が残していったほのかな香水の匂いが漂っていた。
蓮司は腕を組み、深く椅子に沈む。
「……神社跡と呼び声か」
呟く声は低いが、そこには長年の経験からくる緊張が滲んでいる。
里沙は机の上に置かれた依頼書を手に取り、指先でその紙の端を軽く叩いた。
「住所は山の外れ。今は村もほとんど人が残ってないみたいね」
そう言いながらも、彼女はふと窓の方に視線を向ける。
――依頼の最中、紗希の目がほんの一瞬、どこか遠くを見ていた気がする。まるで懐かしい景色を思い出すかのように。
「蓮司、この依頼人……少し変じゃない?」
「変?」
「だって、この村に来たのは最近だって言ってたのに……神社跡の地形や周りの家の並びまで、細かく説明してたのよ」
蓮司は短く鼻を鳴らし、煙草を一本くわえる。
「……現地に行きゃ分かるさ。少なくとも、普通の依頼じゃないな」
そう言うと彼は立ち上がり、壁際のロッカーから古びた地図と懐中電灯を取り出した。
「準備するぞ。日が落ちる前に神社跡まで行く」
事務所のドアが閉まり、古びた階段を下りる足音が響く。
外は蝉時雨が耳を圧するほど鳴き響き、アスファルトの上を熱気が揺らめいていた。
その中で、紗希が残していった視線の奥――ほんの僅かに震えた瞳が、蓮司と里沙の胸の奥に小さな引っかかりとして残っていた。
山あいの道を車で進むにつれ、景色は次第に色を失っていった。
舗装は途切れ、砂利道がタイヤの下でざらついた音を立てる。電柱の間隔は広がり、やがて小さな沢を越えると、古びた集落が見えてくる。
「……ここが、篠原さんが言ってた村か」
蓮司はハンドルから片手を離し、フロントガラス越しに神社の方角を探る。
社務所らしき建物はすでに崩れ、参道の石段は半ば苔に覆われていた。夏の湿気がまとわりつく中、鳥居だけが奇妙に形を保ち、奥の森を暗く切り取っている。
車を降りると、里沙はふと空気の重さに眉を寄せた。
「……ここ、普通じゃない。人の気配が消えすぎてる」
彼女の視線の先、鳥居の足元に誰かが立っていた。
紗希だ。依頼の後、一足先に来ていたらしい。
「待ってたんです」
汗で額を濡らしながらも、紗希の声はどこか静かだった。
蓮司が一歩近づくと、彼女は無意識のように鳥居の柱に手を添えた。指先が木目をなぞる仕草は、初めて触れるものではないかのように自然だ。
「ここに来るのは……初めて、ですよね?」
里沙が問いかけると、紗希は少し間を置いて笑った。
「ええ、初めて。でも……なんだか懐かしいんです。石段の数も、鳥居の傷も……知ってる気がして」
蓮司と里沙は目を合わせ、言葉を飲み込む。
蝉の声が一層強く響き、森の奥から湿った風が吹き抜けた。
その瞬間、鳥居の向こうに佇む影が一瞬だけ揺らぎ、蓮司は無言で懐中電灯を握り直した。
鳥居をくぐると、ひやりとした空気が肌を撫でた。
森の匂いが急に濃くなり、石段の苔がしっとりと足裏を奪う。
「参道……荒れてるな。十年以上は手入れされてない」
蓮司が足元を確かめながら呟く。
拝殿はほとんど原形を留めず、屋根の破片と柱だけが骨のように残っていた。
その奥、さらに石垣を越えた先に、わずかに形を保つ小さな祠がある。
紗希はそこを見つめたまま、ふらりと前に出た。
「……あそこ……あの人が眠ってる……」
口にした途端、自分でも驚いたように肩を震わせた。
「私……なんで、そんなこと……」
里沙はすぐに彼女の腕を掴み、低く囁く。
「紗希さん、今の……覚えてない?」
「……ええ、でも……胸が、苦しい」
その時、祠の扉がひとりでに軋んだ。
風はない。だが、古びた木が押し開かれる音が、はっきりと響いた。
次の瞬間、祠の奥から白い煙のような靄が溢れ出し、形を持つようにうねり始める。
その中に、ぼんやりと人影――いや、女の輪郭が浮かび上がった。
「――ッ!」
里沙が霊符を握りしめると同時に、蓮司は素早く位置を変え、祠と紗希の間に立った。
女の影は言葉にならぬ声を発し、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。
その足取りは地を踏まず、しかし確かにこの世界へ滲み出そうとしていた。
「……来るぞ」
蓮司の声が低く響き、場の空気が張り詰めた。
女の影は靄を纏い、祠の前に立ち止まった。
その顔は霞んで見えないのに、妙に冷たい視線だけが肌を突き刺す。
「…………」
紗希の唇がわずかに動いた。
その声は、本人も気づかぬほど小さい。
「……茜……?」
刹那、女の影がぴたりと動きを止めた。
靄がざわめくように揺れ、形を持った輪郭が一瞬だけ鮮明になる。
それは確かに、若い女性の顔――だが、目は真っ黒に塗り潰されたように深い闇だった。
「……なぜ、その名を……」
耳の奥で囁き声が弾ける。
里沙が顔を上げ、蓮司も一瞬だけ表情を変えた。
「紗希、今の……!」
「わ、私……そんな人、知らない……なのに……勝手に……」
紗希は自分の喉を押さえ、後ずさる。
だが、その名は祠に眠っていた存在の奥底を確かに揺さぶったらしい。
女の影はゆっくりと腕を伸ばし、紗希へと指先を向けた。
指差す先から、冷たい風が紗希の頬を撫でる。
同時に、地面の落ち葉が円を描くように舞い上がった。
「……呼ばれたから、来たの」
その声は、紗希の耳元でだけ響いた。
女の影が紗希へと一歩近づいた瞬間、里沙がすかさず前に出た。
彼女の足元で小さな光輪が浮かび、淡い金色の紋様が地面に刻まれる。
「――下がって!」
光輪から立ち上がった光の壁が、冷気を押し返す。
女の影は壁に触れた途端、じりじりと煙のように後ずさった。
紗希は背中から里沙に抱き込まれ、息を荒げていた。
「……ごめんなさい……私、あの名前、知らないはずなのに……」
里沙は彼女の肩をしっかりと押さえ、低く、しかしはっきりと告げた。
「紗希さん、それは記憶の継承よ。あなたは、その人――茜の記憶の一部を受け継いでいる」
「……記憶の……継承……?」
紗希の瞳が揺れる。
「自分のものじゃない記憶が、ふと頭をよぎることはなかった?」
紗希は数秒、考えるように視線を落とし――小さく頷いた。
「……夢で見た景色が、今日来た村と同じだったことが……」
その言葉に、女の影の背後の靄がざわめく。
蓮司はその変化を見逃さず、無言のまま懐からお札を取り出した。
蓮司は靄の揺れを見据えたまま、懐から一枚の札を引き抜いた。
白地に朱の線で描かれた護符は、手に握られた途端、じわりと熱を帯びる。
「里沙、紗希さんを離すな」
短く告げると、蓮司は地面にしゃがみ、札の端を指で弾いて空気に符文を刻む。
夜の冷気の中で、墨の匂いに似た霊気が広がった。
女の影は、まるでその動きを知っているかのように身を翻し、靄の奥へと下がろうとする。
しかし、足元を絡めるように地面から黒い鎖がせり上がり、その退路を塞いだ。
「――封鎖だ」
蓮司の低い声と同時に、札から伸びた光の線が鎖と絡み合い、影の動きを止める。
影はかすれた声で何事かを呟いたが、その言葉は風に溶けて聞き取れない。
「……まだ、完全には縛れない」
蓮司の眉間に皺が寄る。札の光はじりじりと弱まりつつあった。
その横で、里沙が紗希の耳元に囁く。
「怖がらないで。これはあなたが、あの人を覚えているからこそできる対話なの」
紗希は息を整えながら、影を見た。
影はじっと彼女を見返し、その瞳の奥に、どこか懐かしい色が宿っていた。
「……茜、なの……?」
その呼びかけに応えるように、影が一瞬、淡い光に滲んだ。
だが同時に、空気の緊張が一段と増し、背後の闇が膨らみ始める。
その名を呼んだ瞬間、境内に満ちていた靄が、ざわりと波立った。
影の輪郭はわずかに形を変え、女の姿がかすかに浮かび上がる。
長い黒髪、白い着物、そして胸元を染める紅――だが、その顔はまだ完全には見えない。
「……やっぱり、紗希さんの中に残ってる」
里沙の声は低く、しかし確信を帯びていた。
蓮司は影を封じた鎖の力が弱まりつつあるのを感じ取り、素早く次の札を取り出す。
「ここじゃ長く持たない。……移すぞ」
「移すって……どこに?」と紗希が不安げに問う。
「彼女と向き合うには、最初の場所が必要だ」
蓮司は一瞬だけ紗希の目を見た。「――神社跡だ」
月明かりに照らされた山道を、三人は急いで登った。
かつての参道は半ば崩れ、苔と枯葉に覆われている。
足を踏み入れるたび、夜の湿った空気が肌を撫で、どこか遠くで鹿の鳴く声が響いた。
やがて辿り着いたのは、土台だけが残る拝殿跡。
折れた鳥居の柱が傾き、苔むした石段の上に広がるのは、かつての祭祀の中心――
今はただの廃墟だが、夜気には異様な密度の霊力が漂っていた。
蓮司は背負ってきた木箱を開け、中から白布に包まれた古い祭具を取り出す。
「……これが、儀式をやり直すための道具?」と紗希。
「やり直すんじゃない。終わらせるんだ」
その瞬間、紗希の耳元で、微かな囁きが響いた。
――さき……もう、いいの……
思わず振り返った紗希を、里沙が素早く庇う。
「始まったわね。……これは記憶の継承の兆候よ」
里沙の手が、紗希の肩をしっかりと掴んだ。
風が止まり、拝殿跡の空気が重く沈んだ。
蓮司が祭具を並べると、古びた銅鏡が月光を受けて微かに光を返す。
その鏡面に、揺れる影が一つ――紗希の背後に重なるように現れた。
「……茜、出てきてくれ」
蓮司が低く呼びかけると、鏡の中の影が形を結び、ひとりの女の輪郭が浮かび上がる。
顔は半ば靄に覆われ、だが唇だけがわずかに動いた。
――どうして……今さら……。
紗希の身体が小さく震える。
「声が……頭の中に入ってくる……」
「抵抗しなくていいわ」
里沙が囁き、紗希の背に手を添える。その指先から、淡い霊光がじわりと広がった。
「茜さん、聞こえるか?」
蓮司の声が廃墟に響く。
「俺たちは、あの日あんたを縛った鎖を解きに来た。……でも、そのためには、あんたが全部を話してくれなきゃならない」
……全部……? 私の……?
鏡の中の影が、ゆっくりと紗希の方へ顔を向ける。
その瞬間、紗希の視界に鮮烈な情景が流れ込んだ。
祭礼の夜、焚かれる篝火、白装束の若い巫女――それは紛れもなく、茜の記憶だった。
「っ……!」
紗希がよろめいたのを、里沙が抱きとめる。
「これが記憶の継承……あなた、もう彼女の一部を抱えてるのよ」
蓮司は静かに頷き、銅鏡の前に座した。
「なら、続けるぞ。ここからが本番だ」
鏡の中の茜は、しばらく紗希を見つめたまま動かなかった。
やがて、その輪郭が淡く震え、声が明瞭になっていく。
――あの夜……私は逃げようとした。
――けれど、社の外には……もう帰る道はなかった。
映像が紗希の脳裏に流れ込む。
村を囲む黒い影、ざわめく祈祷の声、そして背後から迫る冷たい手。
茜は巫女としての務めを放棄し、幼い弟を連れて逃げようとした。しかし、境内の結界がそれを許さなかった。
「結界……? あの日、何が行われていたの?」
蓮司が問い詰める。
――鎮めの儀。
――村を守るために……ひとりが、代わりに向こう側へ行く儀式。
茜の声が途切れ、鏡面がひび割れるように揺れた。
紗希は胸の奥が締めつけられるのを感じる。自分の中に茜の恐怖が生々しく溢れ、息が浅くなる。
「……っ、怖い……寒い……」
「しっかりしなさい、紗希!」
里沙が強く抱きしめ、霊光を強めた。
――私は……嫌だった。
――でも……断れなかった。
茜の瞳が悲痛に歪む。
そして、最後の記憶が流れ込む――拝殿の奥、縄で縛られ、唱えられる祝詞と共に沈んでいく意識。
儀式が終わったとき、茜はすでにこちら側には戻れなかった。
「……それが、あんたをここに縛ってる鎖か」
蓮司は低く呟き、銅鏡に手をかざした。
「なら、それを断つ。紗希、お前も一緒にだ」
蓮司は銅鏡を正面に据えると、腰の符袋から数枚の古びた札を取り出した。
墨痕はまだ生きているかのように淡く脈動し、触れるたびに微かな霊力が走る。
「里沙、結界を二重に張れ。外から何か来ても、この場を乱させるな」
「分かってる」
里沙は頷き、両手を合わせると黄金色の霊光が迸った。空間が重く沈み、畳の上に淡い光の膜が幾重にも重なる。
紗希は呼吸を整えようとしたが、胸の奥に渦巻く茜の感情がそれを許さない。怒り、恐怖、悔しさ――それらが血のように混ざり合い、彼女の視界を霞ませる。
「……蓮司さん……このままだと、私……」
「飲まれるな。お前は受け継いだだけだ。全部お前のものじゃない」
蓮司は短く言い放ち、札を茜の像が映る銅鏡に貼り付けていった。
貼るたびに、茜の輪郭が崩れ、押し殺していた声が漏れ出す。
――いや……やめて……まだ……弟が……!
「……弟?」
里沙が一瞬手を止めた。
しかし蓮司はそのまま祝詞を唱え始める。低く重い節回しが室内の空気を震わせ、茜の影が鏡面から引きはがされていく。
紗希は無意識に両手を差し伸べた。
「茜さん……もういい……私が、あなたの痛みを……一緒に持っていくから……」
その瞬間、紗希の掌から淡い白光が溢れ、茜の輪郭を包み込む。
茜の表情が変わった。恐怖ではなく、安堵――そして涙。
――ありがとう……これで……やっと……
最後の言葉と共に、茜の姿は霧のように溶け、白い光の粒となって天井へと昇っていった。
結界の光が静かに薄れ、部屋には静寂が戻る。
蓮司は深く息を吐き、銅鏡を覆い布で包んだ。
「……終わった。だが、紗希、お前の中にはまだ残りがある。気を抜くな」
紗希は静かに頷いたが、その瞳には先ほどまでになかった強さが宿っていた。
外の風が、雨の匂いを含んで障子を揺らした。
里沙は結界を解きながら、まだ紗希の背に片手を添えている。
「……分かる? 今、あなたの中にあるそれ」
紗希は目を伏せ、胸の奥に沈む微かな熱を感じた。まるで他人の鼓動が、そこに寄り添っているようだった。
「……頭の中に、場所が浮かんでくる。見たことないのに、知ってる……」
「それが記憶の継承の残滓よ」
里沙の声は静かだが、確信を含んでいた。
蓮司は机の上に地図を広げる。
「言ってみろ。景色でも、建物でもいい」
紗希はゆっくりと語り始める。
「……赤茶色の瓦屋根……古い木造の廊下……窓の外には、川と……あ、橋がある。朱塗りで……」
蓮司の指先が、地図上の一点で止まった。
「……ここだ。天由瀬橋の近く、旧・菱沼邸。十年前に火事で廃屋になってる」
「茜が最後に行った場所……ってこと?」
紗希の問いに、蓮司は頷いた。
その時――
カタリ、と床の間の花瓶が揺れ、かすかな囁き声が部屋を撫でた。
――まだ……おわらない……
里沙の表情が一瞬で引き締まる。
「……霊的異変。残滓が動いてる」
紗希の肩を掴み、蓮司が鋭く言う。
「今夜のうちに行くぞ。残りが形になる前に」
夜の街は雨に滲み、信号の光が濡れたアスファルトを赤や緑に染めていた。
蓮司の車のワイパーが一定のリズムで雨粒を掃き、車内には低く唸るエンジン音だけが響く。
後部座席で毛布にくるまった紗希は、窓の外を見つめながらぽつりと呟いた。
「……あのとき、茜さんが……弟って言ったんです」
蓮司がルームミラー越しに視線を向ける。
「弟……? お前に弟は?」
「いません。でも……あの声、私に向けてじゃない気がして」
助手席の里沙が腕を組む。
「茜の記憶の断片が紗希の中で反応してる……その呼びかけの相手が、まだこの世にいる可能性がある」
「生きてるのか、あるいは……もう向こう側にいるのか」
蓮司の声には、含みがあった。
「……その弟が、旧・菱沼邸と関係あるんですか?」
紗希の問いに、里沙は窓の外の暗闇を見ながら答える。
「火事のあと、あの家に出入りしてた人物の記録は残ってない。でも、噂はある。火事の夜、子どもの泣き声が二つ聞こえたって」
紗希は息を呑む。自分の胸の奥で、あの鼓動がまた強くなるのを感じた。
蓮司がギアを落とし、赤信号で停車する。
「現場で確かめるしかないな。もし弟がまだそこに縛られてるなら……」
彼は短く息を吐き、前を見据えた。
「――二人まとめて、昇華させる」
車は市街の灯を離れ、やがて鬱蒼とした並木道を抜けた先で止まった。
そこに現れたのは、長らく人の手が入っていない洋館――旧・菱沼邸。
月明かりも届かぬ曇天の下、二階建ての外壁は黒ずみ、蔦が絡みついている。窓の多くは割れ、板で打ち付けられていたが、その隙間から湿った風が漏れ出し、鼻腔をかすかに焦げた匂いで満たす。
足元の敷石は苔に覆われ、踏みしめるたびにぬめりとした感触が靴底を汚した。
「……空気が重い」
里沙が息を潜める。
蓮司も同じ感覚を覚えていた。耳の奥に、遠くで響くようなすすり泣きがまとわりつく。
紗希は一歩引き、肩を震わせた。
「……あの声……昼間の夢と同じ……」
次の瞬間、館の二階の窓に影が走った。
それは人影に見えたが、輪郭が歪み、焦げ跡のような黒い煙をまとっていた。
かすかに「……おねえちゃん……」という囁きが雨音に溶ける。
途端に、屋敷の周囲を覆っていた静けさが弾けた。
玄関口の扉が軋み、風もないのに蔦が這いずるように動き出す。
地面を這う黒い靄が、彼らの足元へと伸びてきた。
蓮司は背負った木箱から御札を抜き、低く呟く。
「……出やがったな」
里沙が紗希を後ろに下げる。
「紗希、絶対に私から離れないで」
屋敷の奥から、再びあの声が響いた。
――おねえちゃん。
だがその声には、別の低い声が重なっていた。
――かえせ。
玄関前に漂う黒い靄は、呼吸するように脈動していた。
蓮司は御札を片手に、里沙と目を合わせる。
「行くぞ。中で何かが呼んでやがる」
「分かってる。……紗希、私の背中を見て」
里沙が先に一歩踏み込み、蓮司がその後を追った。
扉を押し開ける瞬間、靄が生き物のように逆流し、三人を呑み込もうと襲いかかる。
「破ッ!」
蓮司が御札を投げ放つと、紙片は白く発光し、靄を裂くように爆ぜた。焦げ臭さが一層濃くなる。
内部は薄暗く、廊下の奥にまで水気を帯びた空気が漂っている。
壁には焼け焦げた痕がまだ残り、その間を縫うように人影が滑る。
「……おねえちゃん」――その声が、また。
しかし今度ははっきりと、別の低い男の声が被さった。
「……返せ……俺の……」
その瞬間、廊下の奥から黒い手がいくつも伸び、床や壁を伝って襲いかかってきた。
「里沙、右!」
蓮司が叫ぶと同時に、里沙は霊符を刀のように振り抜き、手を切り裂く。
だが切断された霊の腕は灰となって散る前に、なお紗希の方へ伸びようと蠢いた。
「くっ……!」
里沙は紗希を抱き寄せ、背後に庇う。
「これ……記憶の継承の反応が強まってる……!」
紗希は震えながらも、息を切らして呟いた。
「……この声……知ってる……あの火事の夜に……」
黒い靄が天井から垂れ下がり、形を持ちはじめる。
それは少女の輪郭をした炎の影――そして、その背後に、焦げた顔の青年の霊が重なるように立っていた。
「……おねえちゃん……返せ……」
黒い靄が絡み合い、少女の輪郭を象った炎の影が、紗希を真っ直ぐに見据えていた。
その背後――焦げた顔の青年の霊が、濁った瞳で里沙と蓮司を交互に睨む。
「……あの夜……全部……お前らのせいだ……」
青年の声と同時に、廊下の床がうねり、焼け焦げた木片が飛び散った。
蓮司は咄嗟に腕を払って霊的障壁を展開する。
「ッ……こいつ、同調してやがる。二体で力を増幅させてる!」
「つまり……茜の弟ってこと……?」
里沙が低く呟くと、少女の影が僅かに揺れた。
「姉さんは……俺を置いて行った……」
青年の声は、怨嗟よりも深い喪失に沈んでいた。
次の瞬間、その足元から黒い焔が噴き上がり、廊下一面に広がる。
「紗希、下がれッ!」
里沙が紗希を抱き寄せ、後方へ滑り込むように退避させる。
その手のひらが触れた瞬間――紗希の脳裏に、見たことのない情景が流れ込んだ。
風の強い丘、桜の花びら、そして笑顔の少女と、その傍らに立つ少年。
「……っ、これ……私、知ってる……」
「継承の兆候だ」
蓮司が低く呟く。
「このまま引き剥がせば、お前の中に残ってる彼女の記憶ごと、魂も昇華できる」
青年霊は怒りを爆発させ、破れた障子を突き破って突進してくる。
蓮司は左手の数珠を強く握り、右の掌から霊光を走らせた。
「……行くぞ、里沙!」
「了解!」
次の瞬間、二人は同時に踏み込み、黒焔を切り裂くように突入した。
廊下は黒焔に包まれ、天井の梁さえ軋みを上げていた。
青年霊は人の形を保ちながらも、その輪郭が揺らぎ、背後から幾重もの影が尾のように伸びる。
その影が鞭のように唸り、蓮司と里沙に襲いかかる。
「はあッ!」
里沙は結界符を広げ、紙片が炎を撒くように空間へ散った。衝撃波が影を弾き飛ばす。
だが、その一瞬の隙に、紗希の胸の奥に再び映像が差し込んだ。
――夕暮れの土手、ひび割れたランドセル、泣き笑いの少年。
『ねえ、約束だよ。俺、大きくなったら――』
「……弟……?」紗希の唇から、無意識に言葉が零れた。
青年霊がギクリと動きを止める。
「……覚えているのか……」
声が低く震え、周囲の黒焔が一瞬だけ萎んだ。
その瞬間、蓮司は踏み込み、魔符を握った右手で青年の胸を突く。
「紗希、今の感覚を忘れるな。あいつが縛られている鎖はそこにある」
「……うん!」
だが青年霊は叫び声と共に霊力を爆発させ、屋敷全体が揺れる。
壁を突き破り、畳の部屋から庭へと飛び出す。夜気が吹き込み、黒焔がより鮮烈に燃え上がった。
夜の庭は、月明かりも届かぬほど黒焔に満たされていた。
砂利は焦げ、池の水面さえ熱で泡立っている。
青年霊は中央に立ち、片目だけが異様な赤で燃え、睨み据えていた。
「……返せ……」
その声は風より低く、しかし地鳴りのように響く。
「返せ……俺の、あの時の約束を……」
蓮司が半歩前へ出る。
「約束を奪ったのは誰だ? それとも……お前が握り潰したのか」
挑発とも探りともつかぬ声に、青年霊の肩が震える。
――その瞬間、紗希の視界が白く染まった。
土砂降りの夜、路地裏で肩を寄せ合う二人の子供。
小さな弟の手は冷えきっていて、彼はそれを必死に温めようとしていた。
遠くで怒号と足音が近づく。
『……姉ちゃんは、絶対逃げろ』
笑おうとした弟の口元が、雨粒と血で赤く染まっていた。
「やめて……」紗希は頭を抱える。
「これ以上、見たくない……でも、見なきゃ……」
青年霊が振り返った。赤い片目が微かに揺れる。
「……覚えているなら……俺を、置いて行くな……!」
その叫びと同時に、黒焔が爆発的に広がり、木々が燃え、瓦が飛ぶ。
蓮司は低く息を吐き、懐の符を指に挟んだ。
「……終わらせるぞ、里沙」
「分かってる!」
次の瞬間、二人は黒焔を切り裂くように左右から突っ込んだ――。
黒焔の渦の中、蓮司が符を投げ放つと、爆ぜるような光が一瞬、闇を裂いた。
その光の隙間から、弟霊の赤い片目が紗希をまっすぐに射抜く。
――次の瞬間、紗希の中に奔流のような映像が押し寄せた。
薄暗い倉庫。湿った木箱と油の匂い。
姉と弟は縄で縛られ、口を塞がれていた。
外では、金をやり取りする男たちの笑い声と、刃物を研ぐ嫌な音。
『……俺が引きつける』
小声でそう告げた弟は、縄を擦り切るために腕を痛めながら必死に動いた。
だが、その音に気づいた見張りが振り返る。
怒声と共に飛んできた鈍い光――鉄パイプ。
弟は咄嗟に姉の前へ出た。
乾いた衝撃音。
血が床に散り、弟はその場に崩れた。
視界が滲む中、彼は震える手で姉の縄を解き、微笑んだ。
『……姉ちゃんは、生きて……』
その言葉が途切れると同時に、瞳から光が消えた。
外で銃声が轟き、姉は叫びながら闇の中へ引きずり出された――二度と、弟の名を呼ぶことなく。
「……っ!」
紗希は現実に戻り、息を荒くした。
弟霊は憎悪と哀しみを同時に孕み、黒焔をさらに燃え上がらせる。
「返せ……俺の姉を……俺の、約束を!」
里沙が紗希の肩を抱き、低く告げる。
「……これが記憶の継承の極み。あなた、もう後戻りできないわ」
紗希は震える声で答えた。
「……でも、あの人を……このままにはできない」
蓮司が前に出る。
「なら――終わらせる。お前の痛みも、姉への想いも、全部昇華させる」
符と呪詛が交錯し、黒焔が唸りを上げる中、決戦の刻が訪れた。
蓮司は符束を逆手に握り直し、足元に円陣を刻むように動いた。白墨の線が闇の中で浮かび上がり、呪力が一気に満ちる。
「……里沙」
「分かってる!」
里沙は懐から白布の御幣を取り出し、両手で掲げた。御幣の紙垂が風もないのにざわめき、弟霊の黒焔を引き裂くように輝きを放つ。
その光が一瞬、紗希の頬を照らし、弟霊の視線と重なった。
「――俺は……守ったのに……」
その声は憎しみというより、嗚咽に近かった。
蓮司は短く息を吐き、呪文を走らせた。
「水天明浄、火天清浄――」
言葉が刻まれるたび、円陣から光の鎖が伸び、弟霊の腕を、胸を、そして背を縛っていく。
「離せぇぇぇぇ!!」
黒焔が荒れ狂う。しかし、里沙の御幣から放たれる白光がそれを押さえ込む。
「……弟くん」
紗希が震える声で呼びかけた。
「あなたのせいじゃない。あの時、私を……守ってくれたんだ」
弟霊の瞳が揺れる。黒と赤が入り混じり、やがて赤が淡く溶けていく。
蓮司が符を最後の一枚、弟霊の胸に叩きつけた。
「――昇華」
符が弾け、光が爆ぜる。黒焔は形を失い、淡い蒼光となって天へ舞い上がった。
そこに残ったのは、ほんのわずかな笑みを浮かべた少年の姿。
『……ありがと、姉ちゃん……』
その声と共に、姿は霧のように消えた。
静寂。風のない夜に、ひぐらしの鳴き声だけが遠くで響いていた。
翌日、鬼塚探偵事務所の応接机には、昨夜の戦いが嘘のような穏やかな空気が流れていた。
紗希は小さな菓子折りを抱えて、深々と頭を下げる。
「本当に……ありがとうございました」
彼女の顔色は、初めて訪ねてきたときとは別人のように明るい。
「……もう、大丈夫か?」と蓮司。
「はい。……あの子の声も、もう聞こえません。でも、不思議と寂しくはないんです」
里沙がやわらかく微笑んだ。
「きっと、安心して行けたんだよ」
紗希はうなずき、ふと視線を落とす。
「……あの時、弟がどうしてあんな必死で私を守ろうとしたのか、やっと分かりました。私を残して逝ったこと、ずっと悔やんでたんだと思います」
しばらく言葉が詰まり、彼女は小さく息を吐いた。
「これからは……私が、あの子の分まで前を向いて生きます」
見送ったあと、事務所に静けさが戻る。
里沙は湯呑みを手に、ぽつりと呟いた。
「……やっぱり、あの時の弟って言葉、気になるよね」
蓮司は煙草に火をつけながら、曖昧に笑った。
「まあな。あれは……今すぐ答えを出す話じゃない」
窓の外、薄曇りの空から夏の日差しが差し込んでいた。




