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第三十一話

 七月も終わり、夏蝉の声が絶え間なく響き渡る午後。


 アスファルトが陽炎に揺らぎ、街の空気は肌にまとわりつくような熱を孕んでいた。鬼塚探偵事務所の古びた扇風機が、きぃ、きぃ、と音を立てながら回っている。


「……暑いな」


 ソファに座る鬼塚蓮司は、冷めかけた麦茶の入ったグラスを眺めながら独り言のように呟いた。


 隣では、事務所のもうひとりの霊能者、本間里沙が新聞を読みながら汗を拭っていた。


 そんな折、控えめなノック音が響く。


「失礼します」


 現れたのは、白いブラウスと黒いスラックスに身を包んだ若い女性だった。肩までの髪を結い、整った顔立ちには、どこか張り詰めた気配がある。


 名を笠原 紗季かさはら・さき。都内の広告代理店に勤める会社員で、今日の依頼人だ。


 彼女は鞄から一枚の紙と、少し黄ばんだ古い封筒を取り出す。


「突然すみません……今日は、消えた女性のことで、ご相談があって」


「……消えた?」


「はい。四年前の夏、長野の山間で偶然出会った女性です。避暑地の取材で訪れたときのことで……」


 彼女が差し出した紙には、旅先で撮ったと思しき写真があった。青空と山を背景に、和装姿の女性が立っている。顔はうまく写っておらず、影の中だが――その存在は異様なほど強い印象を放っていた。


「彼女、名前も、住所も、何も言わなかったんです。でも――なぜか、最近になって夢に出てくるようになって……」


「夢に?」


「……私の名前を呼んで、迎えに行くよって」


 蓮司は沈黙のまま、写真を見つめた。夏の陽射しの中に立つ女、その異様な存在感。現実にいた人間とは思えないほどの、違和感。


「……それで、何が起きてると?」


「家の鏡が、夜中に濡れるんです。誰も触っていないのに……指でなぞった跡が残っていて、そこに、文字が浮かんでいました。思い出してって」


 事務所に、蝉の声が遠ざかるように響いた。


 里沙が静かに立ち上がる。


「これは……ただの夢や偶然じゃなさそうね。記憶と霊的な結びつきの、典型的な呼ばれ方だわ」


「つまり、過去に何かあった……あるいは、彼女との間に未完の契約があった可能性がある」


 蓮司がゆっくりと立ち上がる。


「……いいだろう。調べてみる。まずは、その出会いの場所を教えてくれ」


「はい……長野の、ある廃村です。夏川という名前の、地図からも消えた集落です」


 真夏の陽射しの中、消えた村と現れる女。

 過去に交わされた何かの記憶が、今、再び現実を侵食し始めていた。



 長野県中部。

 山間を縫うように続く県道を抜け、さらに未舗装の林道を進むこと数十分。深く生い茂る杉林の中、突然、視界が開けた。


「……ここです、夏川の跡地」


 助手席で地図を見ていた紗季が、わずかに震える声で言った。


 林を抜けた先には、小さな谷間がぽっかりと開けていた。朽ちかけた石畳の道と、草に覆われた家屋の残骸。あたりには人の気配も、生活の痕跡もまるでない。


 けれど、確かに何かが残っていた。


 それは風ではない。光でもない。言葉では表現できない、肌の下を這うような感覚。

 ――霊的残滓。


「……空気が重いな」


 蓮司が一歩踏み出すと、足元で乾いた石がパリ、と砕けた。


「夏なのに、ここだけ……風がない」

 里沙が呟き、懐から式符を取り出す。その紙片が、まるで水に濡れたように微かに波打った。


「場が、まだ生きてる。……ここ、閉じられてない」


「わたし……ここに来たの、四年前の夏なんです。あのときは、もう少し建物も残ってました。でも……」


 紗季が、草に覆われた廃屋のひとつを見上げる。その眼差しは、どこか遠くを見ていた。


「あの女の人に……この村で、出会ったんです」


 写真に写っていた、影の中の女。


「──ねぇ」


 そのとき。

 林の奥から、かすかに音がした。


 カラ……カラ……。


 何かが揺れる音だった。風鈴のような……だが、どこか違う。不規則で、不気味に滲むような音。


 蓮司は立ち止まり、耳を澄ます。


「今の音……風鈴?」


「いや……ちがう。音が……何か、呼んでる」


 次の瞬間、紗季が顔を上げる。


「……あのときと同じです。女の人が現れたのも、あの音の直後でした」


 彼女の目が、ある一点を見据えていた。


 谷の奥。かつて神社があったと思しき、石段の先。


 そこに、白い影が立っていた。

 人のようで、人でない。着物姿のように見えるが、顔はやはり見えない。

 その存在が、まるでここに帰ってきたことを歓迎するかのように、静かに手を差し伸べていた。


「来て。思い出して。私との約束を」


 幻聴のように、女の声が頭の奥に直接響いた。


 蓮司はその気配を正面から受け止めながら、静かに言った。


「……この依頼、やっぱり深いな。根がある。しかも……個人じゃない。村全体だ」


「紗季さん、ひとまず戻るか、このまま続ける?」


「……私は、向き合います。あの人が、何を望んでいるのか……それを知りたい」


 その言葉に、里沙が目を細める。


「いい覚悟ね。じゃあ、連れていきましょう。彼女の待つ場所まで」


 静まり返った廃村夏川。

 そこに残る消えた夏の記憶が、今、三人を深く飲み込もうとしていた。



 石段は苔むし、夏草に覆われていた。

 鳥居はすでに崩れ落ち、神社の建物も骨組みを残すばかりとなっていた。だが、それでもこの場所には、確かに場の重みが残っていた。


 蓮司は一歩ずつ、慎重に階を上る。


「この神社、廃村になる前は夏川明神を祀っていたって記録がある。けど……神主も神職も、誰も残っていない」


「それなのに、まだ何かがいる……ということね」

 里沙が懐から小さな鏡を取り出し、そっと空間に翳した。鏡面が一瞬、灰色の霧のように曇る。


「……視えてるわ。在るわよ、ここに」


 そのとき。


 風もないのに、林の奥からカラ……カラ……と、あの音が響いた。

 石段の上、拝殿跡の影から――女が現れた。


 それは、着物の女の形をしている。

 だが、顔はなかった。いや、あってはならないもののように、常に仄暗い霧のようなものに包まれ、目も口も輪郭も曖昧だった。


「また……来てくれたのね」

 声が響いた。口は動いていない。頭の奥に直接流れ込む、感情に満ちた音。


 紗季はその姿に目を見開いた。


「……あなた……私に贈り物をくれた人……」


「ええ。だって、約束したでしょう? いっしょに夏を過ごすって」


 里沙がすっと前に出る。


「貴女の名前を教えて。貴女は、何者?」


「私は……この村の約束」


「……契約霊?」


 蓮司が小さく唸るように言った。人の願いに応え、対価として何かを求める存在。それは時に神格に近く、時に呪詛霊にもなり得る。


 女は答えず、ただ静かに紗季を見ていた。


「紗季。貴女は何を求めてここに来たの?」


「……私は……思い出したいんです。あのとき、私がここで……何をしたのか。誰かと交わした約束を……」


 女は微かに首を傾げた。


「忘れたのね。私のことも……あなたが贈った言葉も」


「教えて、お願い。私が……あなたにしたことを」


 沈黙。風がないのに、拝殿跡の鈴がカラ……と揺れた。


 そして女は、静かに答えた。


「死んでくれる? って……あなたは、私に言ったのよ」


 時が止まったようだった。

 紗季の瞳が大きく見開かれ、蓮司と里沙も一瞬、息を呑んだ。


「そんな……わたしが……?」


「貴女は、そう言って去った。私は、それを誓いとして受け取った。だから、ここにいる」


 蓮司はすぐに状況を整理する。

 これは一種の縁結びだ。死霊が、生者の言葉を誓いとして受け取り、それに縛られる。


「……誓いを破れば、誓霊になる。けど、これは……逆だな。生者が、誓いを交わしたと見なされたパターンだ」


「つまり、紗季さんが自覚なく契約した。そしてその契約は、まだ有効」


 女の影がにじむ。足元から、黒い水のようなものが染み出していた。


「……私は、ただ約束を果たしたいだけ。いっしょに夏を過ごす……永遠に」


 その声は切なげだった。怒りも恨みも、まだ滲んではいない。

 だが、その執着の深さが――かえって恐ろしかった。


「……時間がないな」

 蓮司が静かに告げた。


「交渉の余地はある。でも、このままでは飲まれる。この村全体が、誓いの檻になる前に、どこかで線を引く必要がある」


「蓮司、どうする?」


「このまま、少し深くまで探る。何が誓いを固定化したのか、その核があるはずだ」


 紗季が、わずかに震える指で口元を覆う。


「私……ひとりにしてしまったのかも……あの人を」


 その夏に交わされた、彼女の約束。

 その言葉の重さが、命を、霊を、ひとつの村を縛っていた。



 神社跡を後にし、蓮司たちはかつての村の公民館跡――今はすでに崩れかけた木造平屋へと向かった。

 半ば自然に還りかけたその建物の奥、使われなくなった事務机の引き出しに、数冊の古びた記録簿が残されていた。


「廃村になる前の住民記録……だな。昭和五十年代の筆跡か」


 蓮司は埃を払いながら、一冊ずつめくっていく。

 そこには世帯ごとの住所、家族構成、年齢などが手書きで記されていた。


「……夏川、石上、船橋、香月……」


 その名に、紗季が少しだけ反応を示した。


「香月……私の祖母の実家、だったかもしれません。何度か、話に出たことがあって……」


「香月家の欄を見てみよう」


 蓮司が指でたどっていくと、そこに一行だけ――不自然な空白があった。


 香月アヤ(昭和36年生)

 香月ミツ(昭和60年生)

 香月 (死亡、氏名記録なし)


「これ……ミツの妹? けど、名前がない」


「死亡欄には……昭和62年8月・転落死とある」


 里沙が眉をひそめた。


「……名前が消されたというより、最初から記録されなかったみたい」


 紗季がかすれた声で言った。


「……祖母が、昔ぽつりと、もう一人いたけどねって言っていたのを、思い出しました……。そのあともう思い出さなくていいって……」


 蓮司はページを閉じた。


「この記録されなかったのが、顔のない女だな。おそらく……村の中でも存在を無視され続けてきた。家族でさえ……彼女の存在を、なかったことにした」


「……だから顔がないのね。私はここにいると叫びたくて、でも名前も、存在もなかった……」


 そのとき、古い木棚の奥から、焼け焦げた絵日記のようなノートが出てきた。


「あの日……あの人は会いに来てくれた……私は望んでもいなかったけれど、あの人は来てくれたのだ……」


 拙い文字。日にちも、名前もない。

 けれど、そこには、誰かが確かに生きていた痕跡があった。


「――これが、彼女のものかもしれない」

 蓮司は静かに言った。


「名も、顔も、忘れられた娘。彼女が縋ったのは、唯一覚えてくれた存在だった。それが……紗季、お前だったんだ」


「……わたし……」


 紗季の瞳に、ぽつりと涙が浮かぶ。


「私、彼女を……ひとりにしてしまった……」


 風が吹いた。遠く、神社跡の方角から、鈴の音が響いたような気がした。



 廃屋の奥にあった古文書の束――それは、かつて村の神社で行われていた供養の儀に関する記録だった。

 虫食いの激しい和紙の束を広げ、里沙が慎重に筆跡を読み解く。


「これ……戸帳供養とちょうくようって書かれてる。記録からこぼれた命を拾い上げ、此岸へと導く儀……らしい」


 蓮司が目を細めた。


「つまり、名前を持たぬ霊のための供養か。記録に残らず、誰からも認識されずに亡くなった魂を、存在として再認するための儀式だな」


「儀式の要点は三つ」

 里沙が指を折って示した。


「一、記録を残すこと。その人が確かにここにいたという記録を、この世に刻む。二、名を与えること。三、証人となる者が、誓いを立てること。この存在を忘れないと」


 蓮司が静かに頷いた。


「名もなき存在に名を与え、記録し、そして人として認める。そうすれば、存在してよいと魂に伝わる。……この儀式を施せば、顔のない彼女は、もう怨霊ではなくなれるかもしれない」


 そのとき、紗季が口を開いた。


「……私、名をつけてもいいですか? あの子に……私だけの、あの人の名前を」


 蓮司は少し驚いたように彼女を見たあと、ゆっくりと頷いた。


「……そのほうがいい。お前が証人になるんだ」


 紗季は両手を胸元で組み、短く祈るように目を閉じた。


「……日和ひより。あの子は、晴れた日によく笑ってたから。私だけが覚えてる、その笑顔に――名前をあげたい」


 静寂の中、ふいに、どこかから風鈴のような音がした。

 そして、廃屋の奥で風がひとつ渦を巻き、ゆっくりと散っていった。


「……届いたかもな」


 蓮司がそう呟いた瞬間、背後の木戸が軋んで音を立てた。

 そこに、黒い影が立っていた。


 日和――

 彼女は、名前を得て、現れた。

 だが、その瞳にはまだ安らぎが宿っていない。


 まだ、儀式は終わっていない。



 夜の神社跡――月の光が、石段と朽ちた鳥居を淡く照らしていた。

 灯りはなく、あたりを囲むのは沈黙と、湿った苔の匂い。


 蓮司と里沙、そして紗季の三人は、神社の中央にあった拝殿跡に立っていた。

 地面には、儀式の印が朱で描かれ、香の煙が細く立ちのぼる。


 やがて、空気が震えた。


 白い霧が神社の奥から立ちこめ、そして、そこに日和が現れた。


 姿はあいかわらず不明瞭で、顔は存在しないままだ。

 けれど、どこか――その輪郭に、感情のような揺らぎが見えた。


「……ここは、私の場所……わたしの、わたしの……」


 声はか細く、空気を震わせるだけのような囁きだった。

 だが、確かに聞こえた。


 紗季が一歩、踏み出す。


「日和……あなたは、ここでずっと……ずっと、ひとりだったの?」


 顔のない女は、答えなかった。

 けれど、その肩が小さく震えた。


「私は覚えてるよ。あなたが昼休みに図書室にいたことも、風が強い日によく髪を押さえてたことも。笑うと、目尻に小さなえくぼができたことも」


 里沙が静かに香炉の火をくべ、蓮司が結界の柱を一本ずつ手で撫でて確認する。

 場が整うにつれ、空気が変わっていく。どこか、温かく、懐かしい気配。


「あなたのことを、私は忘れてない。だから……ここから、行って。安心して。あなたのことは、私たちがちゃんと記録するから。もう、消えた存在じゃない」


 その瞬間、日和の輪郭が揺らぎ、まるで風に吹かれた布のように揺れた。


 蓮司が低く呟いた。


「……昇華の兆しが出てる。今なら、いける……!」


 そして、紗季が、胸に抱いていた一冊のノートを差し出した。

 それは、彼女が日和のことを覚えているかぎり、綴ってきた「思い出の記録帳」だった。


「ほら、ここにあるよ。あなたの名前も、好きだった本も、最後に交わした言葉も。全部、ここにある」


 日和がそっと、手を伸ばす――

 その手はもう、怨霊の黒ではなかった。透き通った、風のような銀の色。


 そして、その指先が記録帳に触れた瞬間――


 すうっと、夜の空に向かって風が吹いた。

 それはまるで、彼女が風となって旅立ったかのようだった。


 蓮司が目を細めて言った。


「……記録に、還ったな。もう、迷うことはない」


 里沙は、静かに合掌した。


「名を持たぬ魂に、記憶の場所を。私たちの仕事って、そういうものかもね」


 夜空は静かで、虫の声だけが、やさしく響いていた。



 神社跡での儀式の夜から数日が経った。


 蝉の声は相変わらずで、町を吹き抜ける風は暑かった。


 鬼塚探偵事務所――静けさの中、蓮司は窓際の椅子に座り、ゆっくりと煙草に火を点ける。里沙は机の上に積まれた報告書をまとめながら、ふと玄関の方に視線を向けた。


 ドアが控えめに叩かれる。


「……どうぞ」


 入ってきたのは、依頼人であった紗希だった。あの夜から、少しだけ表情が柔らかくなっていた。どこか穏やかで、それでいて、深い何かを背負っているような眼差しで。


「その節は……ありがとうございました」


 頭を下げる彼女の声は、静かに揺れていた。


 蓮司は黙って頷き、煙を吐き出す。里沙は柔らかな笑みを浮かべて応じた。


「もう、何かに呼ばれるような感覚は?」


「ええ……今はもう、あの声は聞こえません。ただ……」


 紗希は、ふと口を噤み、窓の外に目を向けた。夏の光が差し込むその先で、校舎のような建物が遠くに霞んで見えた。


「……私は覚えてるんです。あの人のことを。」


「あの人?」


 里沙が小さく問う。


「私は、この村で育ってない。なのに……どうしても、心に浮かぶんです。あの人が風の強い日に髪を押さえていた姿や、図書室の窓辺で頬杖をついていた姿が、鮮明に……」


 蓮司は静かに言葉を差し挟んだ。


「記憶の共鳴だな。強い想念を受けた者が、その欠片を心に留めてしまうことがある。……あんたの中に、彼女の想いが宿ってるんだろう。だからあの時彼女の記憶が蘇ったんだ」


「……怖くは、ありません。むしろ……うれしいんです。きっと、誰かが、思い出してくれることを願っていたのかもしれませんから」


 そう言って、紗希は小さな花束を取り出した。野の花ばかりを束ねた素朴なものだった。


「帰る前に、もう一度、あの神社跡に行ってきます。彼女に、伝えたいことがあるので」


 里沙はそっと頷いた。


「ええ、行ってあげて。ちゃんと、さよならを言えるうちにね」


 紗希は深く頭を下げて、事務所を後にした。扉が閉まる音のあと、少しの沈黙が室内に残る。


 蓮司は静かに呟いた。


「風に吹かれた、誰かの記憶ってやつだな……まるで夢みたいだ」


 里沙は窓の外を見つめながら、かすかに微笑む。


「夢だったとしても、誰かが覚えてくれていれば、それはもう、存在したってことになるのよ」


 風が、夏の終わりの香りを運んでくる。


 ――過去と現在、想いと想いが交差した一幕は、こうして幕を閉じた。


 だが、蓮司も里沙も知っていた。


 忘れられた記憶というものは、時に新たな扉を開くことがあると。


 そして今日もまた、事務所の扉が、静かに次の来訪者を待っていた――。

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