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第三十話

 それは、湿った夜の風が港町を吹き抜けた晩だった。


 海のそばに佇む一軒の古い灯台。そのふもとの砂浜に、一人の女性が座っていた。

 顔を伏せ、か細い声で呟くその唇からは、風にも掻き消されそうな祈りの言葉が流れていた。


「……あの人を、返してください……」


 白いワンピースの裾が潮風になびく。

 波は静かに打ち寄せては引き、しかし、彼女の背後にはもう誰もいないはずだった。


 けれどその夜――


 灯台の頂から、誰かがこちらを見下ろしていた。


 白い影。

 濡れた髪。

 口のない顔。


 まるで祈りそのものが化け物になったような姿だった。


 次の瞬間、灯台の光が一瞬だけ闇に飲まれた。


 その夜、彼女は消えた。


 海には、名前のない祈りだけが残されていた。



「……これが、今朝届いた封書だ」


 蓮司は机の上に置かれた異様な封筒を見つめていた。


 厚手の和紙に墨染めの封蝋、そこには波を模した不思議な印が刻まれている。

 差出人の名前は無い。ただ中には、短い手紙と一枚の写真。


 海辺の女性と、背後の灯台――

 そして、その空に浮かぶ何か。


「……これは、写真の加工なんかじゃない」


 里沙が呟いた。指先で霊力を滑らせながら、写真の気配をなぞる。


「濃いわ。これは、漂着霊の気配ね。しかも……かなり昔から続いている」


「――場所は?」


風乃浦かぜのうら……潮の流れが逆巻くって、土地の人は呼ぶらしいわ」


 蓮司は静かに立ち上がる。


「……じゃあ、行くぞ。海に呑まれた祈りを、拾い上げに」



 深夜、雨上がりの潮風が、駅のロータリーに独特の湿気を残していた。


 地方都市の風乃浦。かつては漁業と観光で栄えたこの港町も、いまや観光地の灯は細り、古びたホテルとサビの浮いた看板が、過去の栄光を物語っている。


 改札を抜けた鬼塚蓮司と本間里沙は、駅舎の外に立つ一人の若い女性に気づいた。


 白いレインコート。肩までの髪は濡れており、スーツの裾が潮気を吸って重たげだ。

 どこか世間離れした雰囲気を纏いながら、しかし視線は迷いなく、蓮司たちの姿を捉える。


「……鬼塚さん、ですか?」


 そう尋ねた彼女の声は、どこか硬く、揺れていた。


「香月理緒です。妹の美海が……あの灯台で、消えました」



 依頼人――香月理緒は、都内の企業に勤める会社員。今回の帰郷は、突然の家族の異変がきっかけだったという。


「妹は、灯台のことを神さまがいるって言ってたんです。子供のころから……ずっと」


「子供のころから、って?」


 里沙が問い返す。


「……昔、あのあたりで、漁船の事故があったんです。家の近所の子が死んで。妹も、事故のあった日に灯台の近くで見つかって……そのときからです。なにかを祀るようになったのは」


 理緒の視線が逸れる。彼女自身も、妹の変化にうまく向き合えなかったのだろう。


「神さまに祈れば、死んだ人が帰ってくるって……妹は、本気で信じてました。私が、止めなきゃいけなかったのに」



 灯台は高台にそびえていた。海風にさらされ、窓は幾度も打ち直されたように板で塞がれている。

 灯台のすぐ下にある、香月家の旧宅はすでに使われておらず、理緒は東京から戻ってきたばかりだという。


「妹は……最後に、この家に泊まっていたんです」


 理緒の手元には、妹・美海の残した日記の一部があった。

 そこには、こう記されている。


《夜の灯台には、声がある。

 海の底から聞こえるみたいに、すごく、静かに。

 誰かが私の祈りを聞いてくれる気がするの》


 蓮司が手帳を閉じた。


「祈りの霊性は、ときに形になる。……波のように、人をさらう」


「ねえ蓮司。この家、すでに何かに踏み込まれてるわ。屋内結界の破れ方が自然じゃない」


 里沙の霊視が警告を告げる。


 灯台の向こうから吹き下ろす風は、すでに生者だけを撫でるものではなかった。



 香月家の旧宅は、潮気と埃に沈む静寂の家だった。


 数年放置されていたとはいえ、家具の配置は生活感を残しており、妹・美海が直前まで生活していた痕跡がそのまま残っている。


 蓮司は一歩ずつ、足音を立てずに室内を進んでいく。畳が一部湿気を含み、わずかに浮いていた。


「妙な気の流れだな……時間が、巻き戻されているような……」


「過去に残された想念が、固定されているのよ」


 里沙が壁際に手を当て、目を閉じる。


「ここで――誰かが泣いてた。懇願するような、悲しい祈り。でもそれは……誰かに教えられた祈り」


「誰に?」


「……海の底の声よ」


 そう言ったときだった。ふと、ふたりの背後で、廊下を濡れた素足が走るような音がした。


 ――パシャ。


 蓮司が振り向く。だがそこには、誰もいない。ただ、床に小さな水滴が点々と――玄関の方へ続いていた。


「霊的介入、始まってるな」


 蓮司はおもむろに懐から霊符を数枚抜き取った。


「念のため、簡易結界を張っておく。里沙――灯台だ。あっちにも足跡は続いてる」



 灯台のふもと。波の音だけが響く、高台の小広場。


 そこに、ささやかな祈りの場があった。


 ――積まれた小石。貝殻の並ぶ祠。風化しかけた花。


 そしてその中央には、折られた千羽鶴の山と、封筒に入ったメモ。


《みんなが還ってきますように。神さま、もう一度だけ……話を聞いてください》


「これは……慰霊じゃない。呼び戻しの呪術的構成だ」


 蓮司が言い、霊視の構えに入る。


「繋がってるわ。海の底に」


 里沙の声は低く、硬かった。


「灯台が……口になってる。海の底の霊域と、この世を繋ぐ開口――」


 その時だった。灯台の扉が、きぃ……と勝手に開いた。


 中から、潮と、誰かの呼吸音のような重い空気が流れ出る。


「ようこそ、還ってきてくれたね――香月、美海」


 どこか、深い、沈んだ声が、灯台の奥から聞こえた。



 潮風が肌に張り付き、あたりの空気が異様に湿りはじめていた。


 灯台の入り口は開かれたまま、奥からじわじわと冷気が這い出している。蓮司は一歩、また一歩と中へ踏み込んだ。足音が、石造りの床に吸い込まれるように響く。


「……ここ、霊界と現界が――重なってる」


 里沙もあとに続く。灯台の内部は、ただ昏いだけのはずだった。だがその奥には、存在するはずのない階段が、海底へ向かうように下っていた。


「この下……霊の海だ」


 蓮司は低く呟き、懐から霊符を抜いた。それを一枚、壁に貼り付けると、青白い光が空間を包み込み、結界を簡易展開した。


「里沙。霊力、探れるか?」


「ええ。複数。……でもみんな名もなき声ばかり。ただひとつだけ――明瞭にこちらを見てる存在がいる」


 美海の祈りが呼び起こした何か――それは、彼女の記憶ではなく、灯台そのものに宿っていた。潮と風の古い記憶。事故死した子供たちの念。そしてもうひとつ――深く、静かで、誰にも気づかれぬまま、海底から這い上がってきたもの。



 ありえないはずの構造物。灯台の下に海へと続く螺旋階段があることなど、誰も知らない。


 下るにつれて、空間は少しずつ変質していった。階段の壁は苔むし、空気は水を孕むように濡れていた。やがて、階段は尽きる。


 ――石の祠。


 その奥、岩肌に囲まれた空間の中央に、ひとつの祭壇があった。


「ここ……は……」


 祭壇のまわりには、小さな木札がずらりと並べられていた。すべて、亡くなった子供たちの名前。海難事故で亡くなった、はずの――


「……違う。これは祈りで沈められた名だ」


 里沙の声が震える。


「香月美海……彼女は、ここで儀式を完成させようとしていた」


 その瞬間。


 祭壇の奥、闇の中から顔のない存在が現れた。



「美海は、還ってこない」


 その声は、幾重にも重なりながら、湿った岩間から響いてきた。


「祈りは、叶った。だが祈られた者たちは――いまやこの海の一部」


 蓮司と里沙は、同時に霊的術式を構える。


「話が通じるなら、交渉する。でも――」


「魂を喰らう存在なら、斬るしかないわ」


 顔なき者は、にたりと笑ったように見えた。顔はないはずなのに――。


「ならば……その眼で見よ。美海が、何を願ったかを」


 海水が吹き上がるようにして、空間が反転した。


 ――霊界と現界の狭間。灯台の下、祈りの底にて、戦いが始まる。



 湿った岩壁に囲まれた祭壇の間。空間は静まり返っていた。だがその静けさの裏に、どす黒い海霊の気配が満ちている。


 顔なき者――それはこの地に沈められた幾多の名もなき死者の集合体。名を喪い、記憶を封じられ、誰にも想われることのない存在たちが、ひとつに混じり合い、生まれた祟りの塊。


「香月美海の祈りが……お前たちを呼び覚ましたのか」


 蓮司の声は低く、しかしはっきりと響いた。


 顔なき者は、静かに揺れた。その輪郭は霧のように曖昧で、だが確かな意志が宿っている。


「名を呼ばれたのは、久方ぶりだ。されど名を喪った者は、もはや名に応じぬ。我らはただ……還りたい。深く、静かな場所へ。名なき祈りと共に……」


「ならば、魂を返して」


 里沙の霊符が、静かに手の中で震えた。


「この地に縛られた子供たちの名を返して。あなたたちがそれを抱えたままでは、誰も前に進めないわ」


「……祈りは、供物。我らを呼び、封じるための。おまえたちは、それを引き裂きに来た。ならば、応じよう――断ち切る者たちよ」


 地が鳴った。岩盤がきしみ、周囲の霊気が一斉に凶暴化する。


 顔なき者が、姿を変えた。


 幾重にも重なった人影、影絵のようにずれた輪郭。手も足も顔も、そのいずれもが誰かの残像だった。忘れられ、語られず、ただ存在だけが堆積していった霊たちの総体――



「来るわよ!」


 里沙が素早く結界を展開し、霊体の波を押し返す。宙を裂いて飛んできたのは、記憶の断片そのもの。子供の笑い声、老人の咳、女のすすり泣き――それらが一斉に襲いかかってくる。


 蓮司は仕込んだ破魔紋を展開。符を起点に、霊的な光の刃が周囲を切り裂いた。


「――魂喰いか。中途半端に祈られ、忘れられた者ほど、怨念に化けやすい」


「でも、まだ間に合うわ。中心に核がある。あれを断てば……!」


 怒涛のような霊の奔流を抜けて、ふたりは中心へと向かっていく。



 その中心、祠の奥にはひとつの浮かぶ影があった。


 ――香月美海の姿。


 しかしその顔はなく、名も発せられず、ただ両腕を広げて空を仰いでいた。


「……これは、祈りの残骸」


「違う。彼女の意志の名残よ。核が、まだそこにある!」


 蓮司が符を掲げ、術式を展開する。


「《帰還の式:結》──!」


 祈りの中心を貫くように、霊式が放たれる。


 だが、その瞬間、顔なき者が咆哮した。


「――祈りを、断つな!」


 濁流のような霊力がふたりを呑み込む。激しい衝撃。だが蓮司は微動だにせず、ただその目で相手を見据えていた。


「……ならば、最後まで祈りきれ」


「祈りを捧げて、彼女たちを救い出せ。そうすれば、あんたたちは、もう彷徨わなくて済む」


 再び、祈りの式が解かれ、蓮司と里沙の霊力が共鳴する。


「――いくわよ、蓮司」


「……ああ」


 ふたりの手が重なり、祭壇の中心に向けて、最後の式が発動する。



 祠の中心に浮かぶ核――香月美海の姿を模した影。それは、もはや本人ではなかった。祈りと記憶の残滓、願いと恐れが混ざり合って形作られた、顔なき存在の象徴。


 だが、その中に、確かに声があった。


 ──たすけて


 蓮司と里沙の式は、核の周囲に展開された怨念の外殻を少しずつ切り崩していった。


「聞こえるか? お前の祈りは……確かに届いていたんだよ」


 蓮司の声に呼応するように、影の中心が微かに揺れた。


「君は、誰かの名を呼ぼうとしていた。忘れられた、でも消えなかった、誰かのことを……」


「あなたがいたから、顔なき者は形を得たの。あなたの想いが、核を作った」


 里沙が静かに手を伸ばした。肌にふれる冷たい霊気の中に、かすかに人間の体温が混じっているような錯覚。


「だから、いま名を呼ぶわ。あなたの名を――香月、美海」


 その瞬間、影の中心が割れた。


 光が溢れ、音もなく弾けるように――怨霊の本体、顔なき者が絶叫した。


「──その名は……!」


 それは、叫びであると同時に、感嘆にも似たものだった。


 長い間、誰にも呼ばれなかった名。喪われた存在が、再び名前を与えられたとき――その魂はようやく、存在として認められる。


 影が崩れ、無数の声が祠の中を吹き抜ける。


「……たすけてくれて、ありがとう……」

 

「……わたしたちのことを、思い出してくれて……」


 かつてこの地に封じられ、忘れられたまま沈んでいた名もなき死者たちが、解放されていった。風のように、波のように、静かに、穏やかに。



 蓮司たちが外に出ると、海霧は晴れていた。


 香月理緒が、祠の前に立っていた。


「……終わったんですね」


「ええ。妹さんの祈り、ちゃんと届いていたわ。あなたがそれを信じていたから、ここまで来られたのよ」


 理緒はそっと胸元で手を組み、祠に一礼した。


「……ありがとう、蓮司さん、里沙さん。妹が名を取り戻せたなら、それだけで、報われます」


 蓮司は黙ってうなずいた。灯台の残響が、静かに消えていくようだった。



 日が昇り始めた海沿いの道を、蓮司と里沙は歩いていた。


「今回は、霊との対話ってよりも……名を探す旅だった気がするわ」


「そうだな。祈りの本質は、忘れないことだ。名前を呼ぶっていうのは……存在を認めることだからな」


「でも、あの子の名前を呼んだとき……ちょっと、泣きそうになったわ」


「……知ってる」


 里沙が少し笑った。


「事務所戻ったら、ちゃんと休んで。あんた、また無理してたでしょう」


「……お前もな」


 海の風が、背中を押すように吹いた。静かで、温かな風だった。


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