第二十九話
都心から少し外れた山間部。
雑木林を抜けた先に、苔むした石段と、蔦に覆われた鳥居があった。
その奥にあるのは、すでに廃絶された神社。
封鎖札が風に揺れ、破れかけた拝殿が雨に濡れたまま放置されている。だがその静けさのなか、ふと、何かが揺らいだ。
闇の如く黒い気が、拝殿の奥から――
まるで誰かを待っていたかのように、ゆっくりと這い出してくる。
「――依頼人の名前は?」
蓮司の問いに、里沙が手元のメモを確認する。
「南雲あやか、二十五歳。会社勤め。都内のデザイン事務所で働いてるって。今日、ここに直接来る予定よ」
鬼塚探偵事務所の扉が、静かにノックされた。
現れたのは、少し疲れた顔をした若い女性。整った顔立ちに、どこか気弱そうな印象がある。
「はじめまして……南雲あやかです。あの、変な話に聞こえるかもしれませんが――私の実家の神社が……いま、何かに呪われてるんです」
彼女が差し出したのは、一枚の写真だった。
そこには、朽ちた神社の鳥居、そしてその上に貼られた真っ赤な封札が写っていた。
「これ、数日前には無かったんです。でも、祖母の仏壇にお供えをしたあと……部屋の中にこれが、勝手に貼られていたんです。何もしてないのに」
蓮司は写真を見つめた。封札には墨で何かが書かれている。だが――それは判読できない。どの角度から見ても、読み取れないのだ。
「読めない札……これは、通常の陰陽術でも結界術でもないな。どこか、違う系統のものだ」
「調査をお願いできますか? 祖父の代で神社は閉めたって聞いてたけど……なんだか、何かが目覚めたような気がして……」
里沙が目を細めた。
「つまり、封じていたものが動いたってことね」
蓮司は静かに頷いた。
何かが、封印を破り、動き出した――それがどれほどの存在なのかは、まだ分からない。
だが、これは戦いになる予感があった。
蓮司と里沙は南雲あやかと共に、山中の廃神社へと足を運ぶ。
その途中、村人からある噂を耳にする。
「あそこはな、いけにえを封じた場所だって聞いたよ」
「赤い封札が現れたら、近寄っちゃならねぇ。祟りが出るぞ」
赤。血の色。封印の警告。
果たして、この神社には何が封じられていたのか?
そして南雲家に連なる血筋とは――。
廃神社へと続く山道は、想像以上に荒れていた。
樹々は密に茂り、差し込む光もほとんどなく、空気はひどく湿っている。足元に伸びた根が、踏み出す一歩ごとに絡みつく。
「……このあたり、子供のころ何度も来た場所なんですけど……今はまるで別の世界みたい」
南雲あやかの声には微かな震えがあった。
その眼前には、かつての実家の守り神――南雲家が代々奉じていたという祠が、静かに、しかし禍々しく待ち構えている。
鳥居の上には、確かに赤い封札が貼られていた。
墨色はどす黒く、文字は今も読めないまま。だが、そこから微かに霊的な唸りが漏れていた。
「……これは結界でも結び札でもない。封じ札の一種だが、意図が違う」
蓮司が言う。その目には確かに視えるものがある。
「これは……外に出るなじゃない。中に戻れって命令してる」
「戻れ?」
「つまり、札の意味は『封じ直し』。本来ならこの札の目的は、出てきた何かを、強制的に祠へ引き戻すための式だ」
南雲あやかが唇を噛んだ。
「じゃあ……何かがもう、出てきたってことですか?」
蓮司と里沙が同時に頷いた。
「間違いないわ。そして――この札を貼ったのは人間じゃない。印に使われた血が、普通じゃないの」
蓮司は拝殿の奥へと進む。
そこに、古びた絵巻が納められていた。木箱には南雲家の家紋。そして、厳重に施錠された錠が腐って落ちかけていた。
「……この箱、開けるぞ」
木蓋をゆっくりと外す。中には、半ば風化した紙束と、黒ずんだ神具――そして、一枚の封印図。
その図に描かれていたのは、まるで人間の姿をした黒いものだった。だが、その顔には、なにも描かれていない。まるで――
「顔がない。」
「これが、祠に封じられていたものなのか……?」
蓮司は小さく息を吸った。
「こいつは、顔を持たぬ霊だ。名前を奪われた存在。自我を忘れた霊的残滓……本来はただの怨念の塊。だが、何かに契りを結ばれていた可能性がある」
南雲あやかが小さく呻く。
「それって、私の家族……祖先が……?」
「可能性は高いわ。とくに、神社を潰した世代で、何かがあったのかもしれない」
拝殿の奥で、空気が動いた。
静寂が破られたわけではない。
ただ、そこに何かが立っていると、蓮司と里沙は確信した。
「……顔のない者だ」
それは、喋らなかった。
だが、心の奥に直接響くような問いが届いた。
「――なぜ、呼び覚ました」
「我を忘れたのは、貴様らの血だろう」
「その罪を、今も覚えているか?」
顔のない者が、契約を破棄された者として現れた。
南雲家の祖が何をしたのか、真相は未だ深い霧の中だ。
蓮司は静かに問うた。
「お前は――何を求めてこの世に戻った?」
返答は、血の匂いと共に、闇から滲む。
「我は……名を返されたい」
「誓いは果たされた。名を奪った代償として、家族の命をもらう」
「それが契りだった」
対話は続くか、あるいは――戦いの火蓋が切って落とされるか。
拝殿の奥に、確かにそれは立っていた。
人の形をしていながら、顔がない。輪郭も髪もあるのに、そこに表情という概念が存在しない。まるで、この世から個としての存在を抹消されたような……虚無の霊。
だが、蓮司と里沙には確かにそれの意志が伝わっていた。
「我は問う。南雲の血よ。誓いを忘れたか」
声ではなく、意識への直接の干渉。脳の深部に染みこむような、鈍く重い問いかけ。
南雲あやかは、一歩前に出た。
「わたしは……誓いなんて知らない。でも、あなたが苦しんでいるのは分かる。だから……ちゃんと、知りたい。何があったのか……教えてください」
「誓いとは、命の代償だ。かつて南雲家の長は、我に願った。名も力も持たぬ、災いを鎮める者を与えてくれと」
「我は応じた。我は顔を持ち、この土地に災いを鎮めた。名も持たず、ただ守り手として、百年を過ごした」
「だがある時、南雲家の者が誓いの破棄を望んだ。顔を持たぬ者など、もはや不要と」
蓮司が重く言葉を継ぐ。
「お前は契約によって奉仕し、しかし契りを破られ、祠に封じられた……裏切られた、ということか」
「誓いの終焉は、返礼を伴う。名を奪った家は、代償として血を差し出す。それが――契り」
里沙が一歩、前へ。
「なら、今のあやかさんにその責任を取らせるのは筋が違う。彼女は何も知らない。あなたの契りは――忘却によって断たれた。つまり、呪いはもう続ける意味を失ってるわ」
「否。忘れられた我は、在ることすら奪われた。ならば、全ての記憶にその名を刻むまで――血で、語らせてもらう」
空気が揺れた。
祠の奥、千切れた封札の残骸が虚空に舞い上がる。
南雲あやかが、怯えながらも叫んだ。
「じゃあ、私があなたに名を返せば……それで止まってくれるの?」
蓮司と里沙が同時に振り返った。
「……それは危険すぎる」
「でも、もう誰も死んでほしくないんです……私のせいで」
「名を与えよ。ならば、誓いは終わる」
その瞬間、蓮司は視た。
顔のない者の背後に、幾重にも重なった怨念の影。
それは一つではない。
契りを破った代償として、過去の南雲家の者たちが命を落としていった――その恨みの鎖を、この存在は喰らい、己の存在の支えにしていたのだ。
「……違うな。名を返せば終わるって言葉は本心じゃない。お前はもう、呪いに縋ってしかこの世に存在できない」
蓮司が声を低くした。
「この女の善意を利用して、お前はここに居座り続けるつもりだ。守り手なんかじゃない。呪いの残滓だ。お前は――祓われるべき存在だ」
霊の輪郭が、微かに軋んだ。
「貴様も、忘れる側か」
蓮司は静かに言い放った。
「忘れていない。だからこそ、終わらせる」
風が止まり、世界が一瞬だけ静止した。
次の瞬間、祠の内部が音を立てて裏返る。
「うっ……!」
蓮司はすぐにあやかを後方へ押しやり、己の霊符を口に咥えながら一歩前に出た。
木製の柱が歪み、天井に貼られていた護符が黒く焼け落ちていく。
まるで空間そのものが契りの記憶に飲まれていくかのように。
そして現れた。
顔のない霊は、その身体を黒衣のごとく引き裂き、幾重にも重なった顔なき者たちを生み出していた。
それは――
南雲家の歴代の契約と裏切り、そのたびに封じられ、忘れられ、葬られていった無名の使い手たち。
彼らがすべて、本体の下僕と化し、蓮司たちを取り囲んでいく。
「契約、破らるる時、代償は命。命を喰らいし者、これを誓霊と呼ぶ」
低い、共鳴するような音。
言葉にならない咆哮が、空間に怨念をばらまく。
「くるぞ、里沙!」
蓮司の義掌から青白い光が走る。
展開した霊式符が数秒で構築され、次の瞬間には結界式・斥拒輪陣が起動。
だが、誓霊の圧力はその式すら弾き飛ばす。
忘れ去られた存在たちが結界を噛み砕くように、次々と内側に侵入してきた。
「結界が……!」
「問題ない。動きが読める――!」
蓮司は腰の外套から念鎖封環を引き抜き、霊気で発火させた鎖を巻きつける。
一体の顔なき霊に突撃し、首元を絡めてねじ伏せる。
が、それすらも誓霊本体の影にすぎない。
一方、里沙は数歩下がり、掌を合わせた。
「罪を背負いし者よ、その血脈の怨を断ち切る……《滅封・天道界》!」
祈祷の言葉と共に、天井から降るような聖光。
霊力が形を取り、霊式障壁が祠内に再構築される。
光の柱が顔なき者たちを焼き尽くし、空間を整えた。
「奴の本体、祠の中心にいる。霊脈と融合してるな」
「ええ、でもそのまま放置すれば、霊的な爆発が起きるわ。止めるしかない」
その瞬間、誓霊が動いた。
祠の奥、空間が破れたように巨大な顔のない霊が顕現する。
あきらかに異質。
まるで名を持たない神――否、忘却された神格のような恐るべき存在。
それは言葉にならぬ声で、蓮司と里沙の記憶に干渉しようとした。
「――くるな!」
蓮司が吠える。
その眼が鈍く光を放ち、干渉を弾く。
「霊視、完了……構造が読める。奴の霊核、中心じゃない。他者の記憶に潜むぞ!」
「分かった、任せて!」
里沙は、あやかのもとへ走る。
「……お願い、教えて。あの祠の記憶、なにか思い出せる?」
あやかは怯えながらも首を振る。
「昔、おばあちゃんが……祠の名を口にしてはならないって……」
そのときだった。
あやかの胸元にあった、家伝の古い護符が紅く光を放つ。
そこに、かすかな名前が刻まれていた。
「日下部ノワン……?」
霊の名。忘れ去られた、最初の契りの霊の名。
蓮司が目を見開いた。
「――よし、それが鍵だ!」
「名を知ってしまったな、南雲の娘よ――」
低く響く声。
そして次の瞬間、誓霊は本性を露わにする。
――それは、形を持たぬ存在だった。
人の姿に似せた輪郭。だが顔はない。腕は人のものではなく、束ねられた影のように脈動し、幾重にも分岐して祠の壁面に根を張っていた。まるで祠そのものが、この存在を封じる殻であったかのように。
日下部ノワン。
江戸末期、南雲家の初代が交わした血の誓いによって生み出された霊的存在。
だが契約は果たされず、破られた。以来、ノワンは名を失ったまま幾世代にもわたってこの地に縛られていた。
「契約を破る者……血を絶やすまで赦さぬ……!」
祠がうめき、天井がひび割れる。
空間が反転し、封じられた空の記憶――忌まわしい契約の儀式の情景が投影される。
黒装束の南雲一族、赤子、血判の儀式、怯える若い巫女。
そのすべてを見届けてきたノワンの怒りが、今ここに溢れ出していた。
「……もう、十分だ」
蓮司が一歩、前に出る。霊力の籠もった黒符を右手に握りしめ、低く語りかける。
「お前は裏切られた。名も、形も、人としての尊厳もすべて奪われた。……だが、その報復が、どれだけ無関係の者たちを巻き込んだか、分かっているのか?」
顔なき誓霊は、微かに揺れる。
だが、すぐに空間全体が震え――
「赦さぬ。赦されぬ。私はただ、契りを果たしたいだけ……それが望みだと、誰が言った?」
――感情ではない。
それは、呪いそのものが意志を持った結果だった。
「蓮司、霊脈がねじれてる! このままじゃ祠ごと次元の狭間に呑まれるわ!」
里沙が叫び、すぐに印を切る。
「行くわよ! 《滅障・鏡面封陣》!」
結界陣が展開され、ノワンの腕を縫い止める。
同時に、蓮司が懐から取り出した呪式符を解放する。
「――霊核、露出確認。斬る!」
蓮司の右掌に、剣の形をした霊光が集約される。
刹那、彼は霊核に向かって突進する。
その途中、黒い腕の一撃が蓮司を薙ぐが――
「通さない……!」
咄嗟に跳び込んだ里沙が霊盾で弾き、蓮司の進路を切り拓く。
「今よ、蓮司!」
「――応!」
渾身の一撃。
剣の霊光が、ノワンの胸に突き刺さった。
次の瞬間、祠全体が激しく明滅する。
内側から蒼い光があふれ、ノワンの身体が記憶の断片と共に崩れはじめる。
「……私は……名を……呼ばれた……あの娘の口から……それだけで……」
消えゆく影が、声なき声でそう告げた。
蓮司も、里沙も、その手を止めなかった。
最後まで、彼女の意志は霊的な破壊として人を襲う可能性を捨てきれなかったからだ。
だから、彼らは見送った。
一度も人間として葬られなかった存在が、ようやく終わりを迎える瞬間を。
静寂が、祠の奥に戻ってきた。
床に転がった護符が一枚、そっと燃え尽きる。
「……どうやら、終わったか」
「ええ、ええ。祠の霊脈も収束してる。封印、成功よ」
外では、朝の光が差し始めていた。
鳥の声が、ようやく戻ってくる。
七月の終わり、夏本番も間近の午後。
山の緑は一段と濃く、降り注ぐ陽光が葉の裏まで照らし出していた。
遠くから聞こえる蝉の声に交じって、谷を流れる川のせせらぎが微かに響いている。
蓮司と里沙、それに依頼人の南雲あやかの三人は、静かにあの祠の前に立っていた。
かつて霊的災厄の源となった場所は、今はただの、ひとけのない石造りの古祠に戻っていた。
しかしそこには、何かが確かに祀られている気配があった。
あやかが、手にしていた花束をそっと供える。
白と薄紫の百合が、そよ風に揺れる。
「……私は、知らなかったんです。自分の家が、あんな過去を背負っていたなんて……。でも、あの霊の……ノワンさんの最後の声を聞いて……」
言葉が途切れ、彼女は小さく息をつく。
蓮司は黙って隣に立ち、手を合わせた。
「人は、時に罪を忘れたがる。でも、忘れてしまえば、誰も赦されることもない。あんたが、ここに来たってことが……その贖いの一歩だよ」
あやかは小さく頷いた。
「ノワン……あの霊が最後に見せた記憶、覚えてる?」
里沙の問いに、蓮司は静かに目を閉じた。
血判、誓約、裏切り――
巫女に名前を与えなかったこと。
それが、彼女の生を奪い、祟りへと変えた最初の罪だった。
「人として名を呼ばれず、ただ器として使われた存在……。だからこそ、最後に言葉を交わせたことが救いだったかもしれないわ」
日が傾きはじめ、祠の周囲に長い影が伸びていく。
あやかは祠に深く頭を下げた。
「ごめんなさい。そして……ありがとうございました」
静かな祈りは、風に溶けて森の奥へと流れていった。
鬼塚探偵事務所にて。
「……それで、これが調査報告書。依頼完了。依頼人の記憶も混乱なし。霊的影響、ゼロ」
里沙が資料をまとめながら、ソファに深く沈み込む。
その横で、蓮司は冷えた麦茶のコップを口に運んでいた。
「今回は早かったな。戦闘も割と短期決着だった」
「でも密度は濃かったわ。怨霊だけじゃなく、誓いの呪縛って、人の根に深く絡みつくのよ」
「……まあな」
テーブルの上には、あやかが手土産に置いていった和菓子が並んでいる。
「これは、呂乃香堂の季節限定。水無月羊羹ね。美味しいわよ」
「……食うか」
「ええ、いただきましょう」
二人は静かに、夏の午後を味わった。
その夜。
外では、雷の音が遠くに響いていた。
蓮司の机の上で、一本の封書が封を切られずに置かれている。
差出人不明、印は封蝋、そして不気味な一文――
「夜の海には、まだ名もなき祈りが沈んでいる」




