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第二十八話

 その日、鬼塚探偵事務所には、昼下がりの光が斜めに差し込んでいた。

 外では蝉が鳴き、夏の気配もいよいよ濃くなってきていた。


「……すみません、予約もせずに……」


 静かに扉を開けて入ってきたのは、スーツ姿の若い女性だった。

 髪はきちんとまとめられているが、目の下には疲労の影があった。


「大丈夫です。どうぞ、おかけください」

 本間里沙が穏やかな声で促し、冷たい麦茶を差し出す。


 女性は深く息を吐き、胸元の社員証を胸に戻した。

 名前は、白石楓しらいし・かえで。都内のIT企業に勤める事務職員。26歳。


「実は……私、自分の名前が最近……消えかけている気がして……」

 そう言ったときの彼女の声音は、冗談めいていたが、瞳の奥は真剣だった。


「名前が消えるとは?」

 蓮司が言葉を選ぶように問い返す。


「名乗っても、聞いた人が忘れるんです。名札を見た同僚が、二度見するんです。あれ? こんな名前だった?って。SNSの名前も、何度更新しても空白になるし……自分でも、時々、自分の名前って、なんだっけ?ってなるんです……」


 蓮司と里沙は視線を交わす。

 霊的干渉の初期症状に近い。


「何か、心当たりは?」


「……一週間前、久しぶりに実家の近くにある小さな祠に立ち寄ったんです。昔、子供の頃によく遊んだ場所で……懐かしくて。でも、その晩から、名前がうまく出てこなくなって……」


 彼女の手元にあるスマホの画面には、確かに彼女のSNSアカウントが開かれていた。だが、そこに表示された名前欄は――「未設定」となっていた。


「実家の場所と、その祠の由来、分かる範囲で教えてもらえますか」


「はい……。祖父母の家の近くです。西多摩の山間の町なんですが……その祠、誰が祀ったのかは、地元でももう分からないって言われてて……でも、子供の頃、あそこで名乗り遊びをすると、願いが叶うって言われてて……」


 名を名乗る祠。

 名にまつわる霊的現象。

 失われた、あるいは封じられた名前。


 蓮司は静かに立ち上がり、コートの内ポケットから一枚の古い帳面を取り出した。

 霊的記録帳――霊的干渉が起こる地域の座標と、過去の事例が記されている。


「……その祠、十数年前にも記録があるな。名を返さぬ存在。地元では影名様と呼ばれていたらしい」


 彼の言葉に、楓は顔色を失う。


「……どうか……助けてください。私……このままだと、自分を失ってしまいそうで……」


 依頼は正式に受理された。


 そして、蓮司と里沙は、名前を奪われるという霊的構造に向き合うことになる。



 西多摩の山間にある、小さな集落。

 楓の祖父母の家があるという旧道沿いの町は、今では半ば廃れかけていた。人通りもまばらで、かつてのにぎわいはもう感じられない。


「……この辺りだな。目印は、この分かれ道の先にある赤い鳥居だ」


 蓮司は地元の古地図とGPSを照らし合わせながら、舗装されていない細道を歩く。里沙が後ろから続き、辺りの気配をそっと感じ取っていた。


「……霊的圧力、薄いけど歪んでる。人間の記憶を削るような……いや、ねじるような力。境界を歪ませてるのよ」


 やがて、鬱蒼とした林の奥に、古びた鳥居が姿を現した。

 朱色の塗装は剥げ落ち、上部には木の枝がかぶさっている。


「これが……影名様の祠か」


 鳥居の奥には、手入れのされていない石段が続いていた。段差は浅く、ところどころ崩れている。

 その先には、小さな石造りの社がある。石灯籠は倒れかけ、しめ縄も朽ちていた。


「……この祠、何か……封じてたのね」


 里沙が低く呟いた瞬間、周囲の空気が一変する。

 夏の陽射しが翳り、風が止まり、蝉の声が遠ざかる。


「来たな。歓迎されてないみたいだ」


 蓮司はゆっくりと手を上げ、祠に向かって問いかける。


「ここに名を封じ、名を奪ったものよ。

 我らはその因果を正すために来た。姿を見せろ――」


 その声に応じるように、祠の奥から――何かが現れた。


 それは人の姿に似ていた。

 白く、顔の無い仮面のような頭部に、ぼろぼろの白衣をまとい、手足は異様に長い。

 全身から名前のない霊が無数に漏れ出し、祠の周囲に漂っていた。


「……シ……ラ……イ……シ……」


 それは、失われた名を、探していた。


 里沙が小声で告げる。


「……あれは、名を呑んだ者。人ではない。憑きもの筋でも、祀られた神でもない。……でも、意志を持ってる。交渉の余地はあるわ」


 蓮司は頷いた。


「……だが、話が通じるのは、目的が明確な存在だけだ。こいつの目的が人の名前を集めることなら――それ自体が存在理由なら、説得は無理かもしれない」


 それは、ゆっくりと一歩、二歩と近づいてくる。


 白石楓が名を奪われかけた存在は、今なおこの祠に鎮座し、自分に名乗った者の記憶を喰らい、忘却の淵に沈めていたのだ。


「次の一手は、どうする?」と、里沙が蓮司を見る。


「……ひとまず呼びかけてみる。交渉の余地がなければ、そのときは――除霊する」


 霊と名の概念をめぐる対話と、最悪の事態への備えが、静かに始まる。



 影名様――名前を持たず、他者の名を喰らって存在を保つもの――は、祠の前に立ち尽くす蓮司たちを、無貌の顔で見下ろしていた。


 蓮司は、一歩前に出る。


「お前に名を奪われかけた娘がいる。白石楓……彼女の名を返してもらいたい。彼女の記憶も、存在も、まだ戻せるはずだ」


 影名様は、答えない。だがその周囲に漂う霊たちが、ざわりと風に乗って震えた。数百、いや、千にも及ぶ無名の霊たち。その名を喰われ、存在の境界を失った魂が、影名様の周囲を取り巻いている。


 蓮司が続ける。


「……俺たちは戦いに来たわけじゃない。名を還すことで、因果が解けるなら、それが望ましい」


 里沙もまた、視線を落とさずに口を開いた。


「名とは人の核。あなたが奪ってきたものは、ただの記号ではない。記憶、関係、感情……それを糧に生きてきたなら、今ここで終わりにして」


 その言葉に、影名様の身体が微かに揺れる。

 やがて、沈んだような、地の底から響くような声が返ってきた。


「名ヲ……求メル者ハ……名ヲ差シ出シタ……名ハ捧ゲ物……誓イ……贄……」


 影名様の声は、いくつもの霊の声が重なり合ったように聞こえた。


「名ヲ失ウ……代ワリニ……永遠ニ忘レラレル苦痛カラ逃レ……我ト在ルコトデ……安心スル者モ……イタ……」


 蓮司はその言葉を聞きながら、表情を一つも動かさない。


「お前が言ってるのは、ただの詭弁だ。望まれて奪った名なんてない。求められた存在じゃない。ただ、忘れさせ、名前を喰って自分を保ってきただけの存在だ」


 その瞬間、空気が張りつめた。


 影名様の周囲にいた無名の霊たちが、一斉に渦を巻くようにうねりはじめる。

 里沙が呟くように言った。


「……交渉は、ここまでね」



 影名様の身体が、黒い霊気をまとって膨張する。祠の屋根が一瞬で吹き飛び、空間が軋むように歪んだ。

 あたりは一気に夕闇のような深い陰に覆われる。


「……来るぞ!」


 蓮司が結界札を一枚投げる。札は空中で光を放ち、即座に防御結界を展開。

 だがその直後、名を喰われた霊たちが一斉に襲いかかってきた。


「ッ、あの数……全部、無名霊……!」


 里沙が両手を広げ、霊力を凝縮させる。彼女の背後に、淡く白金に輝く六芒星が浮かび上がる。


「《破封陣・輪月》──!」


 瞬時に霊障波が解き放たれ、襲いくる霊たちを焼き払う。だが、それは氷山の一角に過ぎなかった。


「名ヲ返セ……ナドト……オマエモ……我ノ名ニ……加ワレ……」


 影名様の腕が伸びる。

 霧のように広がったそれが、蓮司の足元から這い寄る。


「無名の底に引きずり込む気か……甘く見るなよ」


 蓮司の眼が青白く輝く。彼は左手を地面にかざすと、即座に符を組み上げ、力を解放した。


「《顕現式・八方結陣》」


 無数の結界線が地面に浮かび上がり、中心から高密度の霊力が炸裂する。

 影名様の本体が、はじめて呻いたようにのけ反った。


「蓮司……このまま押し切る?」


「否。こいつはまだ本気じゃない。ここからが本番だ……!」



 霧が裂ける。


 祠の跡地に立つ影名様の姿が、ゆっくりと変質を始めた。

 人の形を模していた輪郭が崩れ、代わりに現れたのは無数の顔──それぞれが、かつて誰かであったものの面影を宿していた。


 老人の顔、女の顔、幼子の顔。

 苦悶の表情、喜びの笑み、怒りに歪んだ仮面。

 それらすべてが、肉の塊のような存在の表面に浮かび上がっていた。


「――喰らいし名の器……!」


 里沙が震えるように呟いた。

 それは、民間伝承にもわずかに残る古い怪異の一種。

 人の名を奪い、その存在を自身の肉体として吸収し続ける、霊的寄生体。


 影名様の背後に、再び名を奪われた霊たちが集い始める。


「名ヲ……クレ……名ヲ……ナラバ……キサマノ全テヲ……記憶ヲ……過去ヲ……!」


 怒声のような重低音。

 影名様が、蓮司へと手を伸ばす――その瞬間、


「《零視眼・開放》」


 蓮司の右眼が、青白い真円の瞳に変わった。

 それはすべての霊的存在を視るための異能。彼が幼少期より持ち、制御を封じてきた力だった。


 空間が裂ける。霊的構造の中核が、網目のように露出する。


「こいつの中枢、結び目は三つ……そこを同時に断てば霊体構造が崩壊する」


「合図をお願い、連携する」


 里沙が右腕を掲げ、霊式の構築を始めた。空間に展開される三重円陣。霊式名《封禍陣・鏡宿》――対大型霊体への特化攻撃。


 蓮司は頷くと、呼吸を一つ。


「三、二、一――今だ!」


 里沙の霊力が空間を撃ち抜く。

 三重陣から放たれた祓の光が、影名様の三つの結び目へ同時に命中。


「《破呪・結滅》!」


 蓮司の掌から、鋭く刻まれた霊符が放たれる。

 爆ぜるような音とともに、影名様の体が一瞬、崩れかけた。


 しかし――


「ク……ハハハハ……返セナイ……名ハ……既ニ……我ノ血肉……!」


 影名様が叫ぶと、肉塊の表面から無数の手が現れた。

 それぞれが過去に喰われた霊たちの残滓を宿し、襲いかかってくる。


「抵抗するなら――俺たちのやり方で、終わらせるだけだ!」


 蓮司の体から蒼白い霊気があふれ出す。

 里沙の霊式がさらに拡張され、今度は蓮司の動きと連動していく。


「次が本命よ。蓮司、合わせて!」


「了解」


 二人の霊力が共鳴した瞬間――祠の跡地は、白き霊光と闇の霊圧がぶつかり合う激戦地となった。



 影名様の霊体はすでに崩れかけていた。

 しかし、なおもその中心に渦巻く核だけは、執念のように揺らぎを止めず、名を奪われた者たちの顔が悲痛な叫びとともに浮かび上がっては消えていく。


「ナヲ……カエセ……」


 その声はもはや、影名様自身のものではなかった。

 取り込まれ、忘れ去られ、無へと溶けかけた人々の声だった。


 蓮司が息を整える。右眼の異能の発動時間は限界に近く、視界はちらつき、霊気の流れも制御しきれなくなっていた。だが彼は、かすかに呟いた。


「……このまま祓っても、名は還らない。俺たちは敵を消したいんじゃない。奪われたものを、取り戻すんだ」


「やるの? あの術式……かなり重いわよ」


 里沙はすでに準備に入っていた。祓うのではなく、霊的に結ばれたままの名を外す儀式――その名も《還名かんめいの儀》。

 極めて危険で、失敗すれば術者の記憶すら代償となる。だが、二人は頷き合うだけで、言葉は不要だった。


 結界を張り直す。


 影名様の核の前で、蓮司が両掌を合わせた。

 里沙の呪詠が重なり、静かに、しかし深く術式が空間に浸透していく。


「ここにある名を還す。記憶の海より、声の欠片より、まだ残る呼びかけを辿って……」


 呪が発されるたびに、霧の中からぼんやりとした人影が浮かび上がっていく。

 かつて名を喰われた者たち。その記憶すら消えたはずの存在が、再びこの世に触れようとしていた。


「……母さん……?」


 最初に声を上げたのは、依頼人の若い女性だった。

 ぼやけた人影の一つが、彼女の方を向いて微笑んだ。


 その瞬間――影名様の核が、静かに崩れた。


「ナ……ナマエ……ナマエ……カエッ……」


 それは、祈りのような声だった。

 声なき霊たちが、ようやく名という居場所を取り戻し、浄化されていく。

 契りと怨嗟に満ちたこの土地に、静けさが戻る。


 全てが終わった。


 蓮司と里沙は、地に座り込んだまま、深く息を吐いた。


「これで……終わり、よね」


「……ああ。誰かの名が、ようやくこの世に還ってきた」


 そう呟いた蓮司の言葉は、祠の跡に立つ小さな風鈴に吸い込まれていった。風もなく、音もない。けれど、そこには確かな余韻が残っていた。



 数日後。


 蓮司と里沙のもとに、一通の手紙が届く。

 差出人は依頼人の女性――由良日菜子。


 彼女はあの祠の跡地に、小さな木碑を建てたという。そこにはただ一言、


 >「名前を、忘れない」


 と刻まれていた。


「忘れ去ることが、消すことになる……だから、誰かの名を呼び続けることって、大事なのよね」


 事務所の窓辺で、里沙がそう言った。

 蓮司は椅子の背にもたれ、手帳に記録を書き付けながら、わずかに頷いた。


「この仕事は、誰かを記録し続けることでもあるんだろうな」


 ふたりの言葉の上を、蝉の声がかすかに通り過ぎていった。

 夏は、もうすぐそこに来ていた。


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