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第二十五話

 薄曇りの午後、鬼塚探偵事務所の扉が控えめにノックされた。

 応じたのは、応接席で新聞を眺めていた蓮司。半眼のまま扉へ目をやると、事務所の奥にいた里沙が軽く頷き、扉を開けた。


「ご足労いただき、ありがとうございます。……水島典孝さんで、お間違いありませんね?」


 黒縁の眼鏡をかけた男が、浅く頭を下げた。

 四十代半ば、グレーのスーツの袖口を何度も指でなぞっているのが印象的だった。


「ええ、水島です。今日は……その……どうか、よろしくお願いします」


「どうぞ座って下さい。話を伺いましょう」

 里沙が椅子を勧め、蓮司は無言のまま書類をひとつ引き寄せた。記入済みの依頼申請書。依頼内容の欄には一言、


『閉鎖病棟における怪現象の調査』


 とだけ記されている。


「まずは、事情を聞かせていただきましょう」

 蓮司が低く、淡々とした口調で口を開く。


「はい……あの、私の勤め先は《大泉総合医療センター》という病院でして。そこの……現在は使われていない、地下の精神科病棟で……どうにも、説明のつかないことが続いているんです」


 水島の声は震えていた。理事長代理という肩書に似つかわしくない、何かに追われるような眼差しだった。


「説明のつかないこと?」


 里沙が優しく訊ねると、水島は唇を噛んだ。


「先週……夜勤の看護師が倒れました。病棟の定時巡回中に、使われていないはずの端末が鳴ったと……」


「場所は?」


「……地下B棟、301号室。そこは……二十年前に封鎖された、精神科の個室です。事故のために閉鎖されたということになってはいるんですが……記録が……ほとんど残っていないんです」


「封鎖された病室からのナースコール、か」

 蓮司がメモをとる手を止めた。


「それだけじゃありません。警備員が、誰もいない廊下でナースシューズの足音を聞いたとか、閉鎖扉の前に、誰かが供えたような花束が置かれていたこともありました。カメラには何も映っていません。……なのに、確かにそこに誰かがいた形跡だけが、残っているんです」


 室内に、一瞬の沈黙が落ちた。

 外では風の音が窓を叩いている。


「誰かを――呼んでいるような気が、してならないんです」


「それは、何かではなく、誰かだと?」


「……はい。まるで、自分がそこにいることを忘れられた誰かが、助けを求めているような……」


 言葉が途切れた。


「分かりました」

 蓮司が立ち上がった。


「地下B棟、調べさせてもらいます。必要な許可証、構内図、過去の記録……すべてご用意を。

そして――誰が最期にあの病室を使っていたのか。分かる範囲でいい、名前をください」


「……分かりました」

 水島はわずかに震えたまま、頷いた。



 水島が帰ったあと、事務所にはしばらく沈黙が流れていた。

 壁掛け時計の針が一つ進む音だけが、空気を割っている。


「……病院か。封鎖された精神科病棟なんて、ろくなもんじゃない」

 蓮司が重たい息を吐くように言った。右手で霊眼の縁をなぞりながら、虚空を睨むように目を細める。


 その横顔を見ながら、里沙が言った。


「ナースコールに、足音、供えられた花束……。物理的な干渉が起きて。霊障の中でも、かなり深くこの世に執着してる存在か……もしくは、結界内に囚われた霊体ね」


「……二十年前となると、記録も残っていないだろう。カルテも破棄されているだろうしな。ここは現地調査が鍵が」


 蓮司の言葉に、里沙は小さく頷いた。


「でも、妙ね。あれだけの現象が出てるのに、誰も表沙汰にしようとしない。理事会の連中も、あれを『単なる怪談』で通そうとしてる節があるわ。水島さん一人が、危機感を抱えて走り回ってる」


 蓮司は黙って机の上に視線を落とした。そこには、依頼書と共にコピーされた簡易構内図が置かれている。


「301号室。地下B棟の最奥。出入口は今、鉄扉で封鎖済み。カメラが動いていない死角。セキュリティ履歴にも開閉記録なし。……なのに、ナースコールが鳴った」


「霊的存在の接触が疑われるわね」

 里沙は神棚の下にある霊符と御守り袋をいくつか整理し始めた。


 蓮司は目を閉じた。

 視界に現れるのは、過去に潜ったいくつもの闇。

 叫び、泣き、消えていった無数の影たち。


 病院――

 それは、癒しと回復の場であると同時に、

 死と絶望、未練が残る場所でもある。


「……明日、行くぞ。昼のうちに病院に入り、夜は封鎖区画に潜る。その方が、奴らは……顔を出す」


「了解。準備は万端よ。蓮司、あんまり感情移入しないでよね? 今回は特に、強く引っ張られそうな気がする」


「分かってる」

 蓮司の声は低く、決意に満ちていた。


「……俺たちがそこを覗くのは、明日だ」



 午前十時、曇天の下。

 鬼塚探偵事務所の二人は、《大泉総合医療センター》の古びた正面玄関に降り立った。


 外観は一見、普通の総合病院だ。だが、どこか空気が沈んでいる。

 正面ロビーに足を踏み入れた瞬間、湿った匂いと、乾いた無音が彼らを迎えた。


「いらっしゃいませ。こちらです」

 待っていた水島が、緊張を隠すように笑顔を貼り付けていた。

 彼の手には許可証と鍵が数本、揺れている。


「案内は任せる」

 蓮司が短く言った。


 廊下を進む三人。

 途中ですれ違う看護師たちが、一瞬、蓮司と里沙に目を留めた後、何事もなかったかのように視線を逸らす。

 だが、その目の奥には、ほんのわずかな安堵と恐れが見え隠れしていた。


 やがて、エレベーターで地下へ。

 地下階のフロアに降りると、空気が変わる。ひんやりと重く、時間が止まったような空間。


 水島が立ち止まり、低く告げた。


「……ここから先が、封鎖された旧精神科病棟です」


 立ち入り禁止の張り紙と、古びた鉄扉。

 扉の表面には、かつて誰かが爪で引っ掻いたような痕跡。

 その奥に、静かに沈む301号室がある。


「……夜に異変が起こるのは、いつもこのフロアのどこか。とくに、301号室からは……人の話し声、ベッドの軋み、窓ガラスを叩く音が……」


 水島の手がわずかに震える。


 里沙がポケットから霊符を取り出し、鉄扉に指先をかざす。

 指先から淡く白光が走り――小さく、音を立てて火花が散った。


「……確かに、結界の傷があるわね。霊的な強い圧力を受けて壊れかけてる。内部には、高位の存在が留まってる」


「入るぞ」

 蓮司が鍵を受け取り、扉を開く。


 ギイ、と鉄の軋む音。

 扉の向こうから、冷気と共に、遠く微かな――呼吸のような音が流れてきた。


 誰もいないはずの病棟に、確かに誰かがいる。



 蓮司が扉を押し開けると、静寂の廊下が続いていた。

 照明は落ちており、非常灯のわずかな光が、青白く床を照らしている。


 壁のクロスは所々で剥がれ、時間が止まったような空気が、重く、まとわりついていた。

 足音を立てるたび、床のタイルがわずかに軋む。

 蓮司と里沙は無言のまま、ゆっくりと歩を進める。


「……こっち」

 里沙が感知した気配に導かれるように、突き当たりの扉に向かう。


 301号室――かつて、閉鎖寸前まで入院患者がいたとされる部屋。

 ドアノブには未だ「入室厳禁」の札がぶら下がっていた。


 蓮司がノブに手をかけると、まるで中から誰かが押し返すように、わずかに重さを感じた。

 それでも力を込めて開けば、きぃ……という音と共に扉はわずかに開き、冷たい闇が顔を覗かせる。


「蓮司、これは……」


 部屋の中は、まるで使われたまま時が止まったようだった。

 ベッド、机、古い棚、カーテン……すべてが埃に覆われ、だが整然と並んでいる。

 窓は内側からガムテープで目張りされており、わずかな光も差し込まない。


 その中央――ベッドの脇の床に、何かが這ったような黒い痕跡が残っていた。


「……血か?」

 蓮司が目を細める。


 だが、血ではなかった。

 それは霊的な痕跡、瘴気のようなものが濃く染みついていた。


 そのときだった。

 窓の向こうで、コン、コンと、明らかに何かがガラスを叩いた。


「……っ!」


 蓮司が反射的に魔符を展開する。

 里沙も小さく呪文を唱え、室内に防護の結界を張る。


 次の瞬間、誰かの囁き声が部屋中に広がった。


「――わたしを、みつけて……わたしは、ここに……まだ……いるのに……」


 それは少女の声だった。

 だが、声に重なるように、別の存在が嗤う気配がした。


 ざり……ざり……と、部屋の隅で、何かが壁を引っ掻くような音。

 天井の角から、黒い手がにゅっと生える。

 不気味に長く、骨だけの指先が、ベッドをゆっくりと這ってくる。


「出るぞ!」

 蓮司の声と共に、彼の掌に霊刀が現れる。淡い白炎を纏い、黒い手を断ち切る。

 同時に里沙が霊符を投げ、壁の呪痕を封じる。


 呻くような影が揺れ、部屋全体が一瞬、歪んだかのように見えた。


 影は引いた。

 だが、何かを言い残すように――最後に、またあの声が響いた。


「……あのひとが、わたしを、ここに置いていったの……」


 部屋が静けさを取り戻す。


 蓮司と里沙は互いに視線を交わした。

 この部屋にはまだ何かがいる。

 そして、それは単なる未練ではなく――強い怒りと裏切りが封じ込められている。



 301号室での激しい霊的反応を受けて、蓮司たちは同フロアにある記録室へと足を向けていた。

 鍵は壊れており、重たい扉を押し開けると、埃とカビの混じった空気が鼻を突く。


 棚の一角に、病棟での患者記録が年代順に保管されていた。

 その中に、ひときわ古びたフォルダがある。


「こいつは……神代……いた。『神代 梓』、入院期間は……平成二年、三月から。退院記録なし」


 ファイルに挟まれていたのは、退色した入院申込書と、定期観察の記録。

 だが驚くべきは、その観察記録が十三回目を境に途切れていたことだった。


「この年の三月……ちょうど職員が一斉退職したっていう噂が流れた年だな」

 蓮司が唇を引き結ぶ。


 さらにページを捲ると、そこには異常な報告が並ぶ。


【第十一観察記録】

患者、梓は依然として沈黙状態。夜間に誰かと話す様子あり。だが監視映像には対象不在。

部屋に現れる複数の影を看護師が目撃。全員一致して口元が無い顔と証言。

医師の命により部屋のレイアウトを一部変更。


【第十三観察記録】

患者の様子が安定。だが影が消えない。医師、藤宮から「この子は閉じ込められているのではない」と発言。

翌週から、記録担当の職員が出勤拒否。


「……やっぱり、あの影、顔のない者は昔からいた」

 里沙が呟く。


 そして――記録の末尾には、こう書かれていた。


【備考】

本件、神代梓に関する入院記録の一部は、藤宮医師の私蔵書庫にて封印保管中。

特別処理案件につき、以後の関係者閲覧を禁ず。


「藤宮……あの病棟長の名前だな」

「彼が何かを知っている。もしくは、知りすぎていた……」


【藤宮の私室跡地:残された証拠】

 その夜、ふたりは病棟の奥、院長専用室――藤宮医師の私室とされる一室に踏み込んだ。

 重く閉ざされた扉の奥は、他の部屋とは異なる張りつめた気配が漂っている。


 机の引き出しを開けると、中から古びた日記が出てきた。

 そして、その最後のページに、あの存在の正体を示すような記述が残されていた。


【藤宮の手記より】

あの子は霊媒なのだ。外から連れてきたのではない。病棟の中に入ってきたのでもない。

彼女自身が、あの顔のない者を最初に見つけたのだ。

…もしかすると――

あれは彼女の願いが形をとったものではないか?

消えたい誰にも見つからずにいたいという、静かな、だが深い願望が……


「……自分の存在を、世界から消したかった……」

 里沙が呟く。


「じゃあ、あの霊、顔のない者は……梓の一部、なのかもしれない」

 蓮司はゆっくりと目を閉じた。


 この事件の核には、「消えたがっていた少女」と、「彼女の記憶を捨てた周囲の世界」があった。

 そして――今でも301号室に取り残されている少女の霊は、たしかに何かを訴えていた。



 薄闇に包まれた病室。かすかに揺れるカーテンが、夜風の通り道を示している。


 蓮司が一歩踏み出すと、空気がふっと重くなった。


「……来てるな。気配が違う」

「うん。はっきりここにいる……」

 里沙が頷き、胸元に携えた札を手に取る。


 次の瞬間――

 病室の奥、ベッドの上に影がふっと現れた。小柄な少女のシルエット。

 その顔はやはり空白だった。だが、どこか――悲しみに沈んでいた。


 里沙が、そっと語りかける。


「……あなたは、神代梓さん?」


 影が微かに動く。まるで頷くように。

 そして、病室全体が淡く滲むように揺れた。



 ふたりの視界が歪む。

 次の瞬間、彼らはまるで夢の中のような空間に立っていた。

 そこは――301号室を模した、白く、何もない空間。


 ただ、一つだけベッドに座る少女がいる。

 顔は見えない。だが、その肩は震えている。


「誰も、私を見てくれなかった」

「お母さんは、病室に来るたびに泣いてばかりで」

「お医者さんは、あの子はもう戻らないって言った」

「……だから、私は、いないことにした」


 静かな、幼い声だった。

 心を凍らせるような――それでいて、切実な願いだった。


「顔を消したのは、私」

「名前を忘れてもらったのも、私」

「でも……ずっと、ここにいた」


 彼女は自分を忘れてくれた世界から目を逸らすように、両手で顔を覆った。



「神代梓……君の影は、願いを形にして、ここに残り続けてるんだな」


 蓮司の言葉に、少女は小さく頷く。


 里沙がそっと歩み寄り、少女の肩に触れた。


「でも、もう大丈夫。蓮司と私が、あなたのことを思い出す」

「あなたはいた。ここにいた。それだけで、いいんだよ」


 少女の姿が少しずつ、光に包まれていく。

 空白だった顔に、微かに輪郭が浮かぶ。


 涙の跡も、微笑みの痕跡も、そこにあった。



 元の病室へと意識が戻る。

 蓮司と里沙の前に、ただ一枚の紙人形が落ちていた。


 そこには、かすれた筆跡でこう書かれていた。


「ありがとう。わたしは、いた。」


 里沙がそっとそれを拾い、胸元にしまった。


「やっと、彼女は名前を取り戻したんだね」

「……ああ。誰にも見つけてもらえなかった魂が、最後に光を選んだ」


 ふたりは静かに301号室を後にする。

 カーテンの隙間から差し込む月明かりが、もう何もないベッドを照らしていた。



 鬼塚探偵事務所。

 午後の陽光が窓から差し込み、書類の積まれた机に穏やかな影を落とす。


 蓮司は椅子に深く腰を下ろし、手元の報告書に目を通していた。

 それは、今回の事件――存在を失った少女の記録をまとめたものだ。


 隣では里沙が静かに筆を走らせている。

 彼女が書いていたのは、少女・神代梓のための記憶記録。


 紙にはこう綴られていた。


「この部屋に、ひとりの少女がいた。彼女は世界に忘れられ、自らを空白にした。けれど、確かにここに生きていた。だから私は、忘れない。神代梓という、ひとりの少女の存在を」


 蓮司が静かに言う。


「……誰かの記憶に在るってのは、何より強い証だな」


 里沙は小さく微笑む。


「ええ。例え多くが忘れてしまっても、誰かが語り継がれるっていうこと。それが、魂を浄める唯一の術だと思う」


 ふたりはしばし黙っていた。

 やがて、蓮司が机の端にあった白い紙人形を手に取る。

 あの夜、301号室に残されていたもの。


「ありがとう。わたしは、いた。か……」

「きっと、あれが彼女の最後の力だったんでしょうね」


 紙人形を見つめながら、蓮司は窓の外に視線を向ける。

 遠くで、子どもたちの笑い声が響いていた。



 数日後――


 里沙は再び、あの病院の前を訪れた。

 建物の裏手、小さな慰霊碑の前に立ち、静かに祈りを捧げる。


「どうか安らかに。次に生まれる時は、誰にも忘れられない、幸せな人生でありますように」


 手向けられた花の間に、小さな紙人形がそっと置かれていた。

 風が吹き、花びらと共に舞い上がったその姿が、一瞬、笑っているように見えた。


 蓮司と里沙は、再び依頼の電話を受けて、次の事件へと歩み出す。

 けれど、ふたりの記憶には、確かにあの少女がいた。


 それは、名もなき者が名前を取り戻した、ささやかで大切な物語だった。

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