第二十二話
雨の午後だった。
鬼塚探偵事務所の窓硝子に、雨粒が無数の罅を走らせるように叩きつけていた。
街の喧騒は薄れ、部屋の中には、書類を捲る音とタバコの煙だけが漂っていた。
「今日は静かね」
里沙が呟き、パソコンの前で手を止めた。
蓮司は応えず、煙草の灰を落とす。
その時、重々しいノックの音が鳴った。
トン……トン……トン……と、
まるで昔の屋敷の玄関扉を叩くような、古めかしい音だった。
里沙が顔を上げ、
蓮司が一言だけ呟いた。
「……来たな」
ドアが開かれた時、
その場の空気が変わった。
湿気混じりの外気とは違う、凛とした冷気が足元から這い込んできた。
現れたのは――
漆黒の喪服を纏った、老齢の女性だった。
背筋は伸びている。
白髪をきちんと巻き上げ、黒い手袋をしている。
その立ち居振る舞いは、まさに貴族の肖像のようだった。
「失礼。私が、結城 環です」
「……結城?」
里沙が目を見開く。
この街でも知らぬ者はいない。
代々の資産を保有する旧家の女当主――
政治・財界への影響力も強いとされる、ある意味生きている伝説。
「本日は……ご依頼を?」
環は頷く。
その表情は、何かを見透かすように澄んでいた。
「鬼塚蓮司氏。あなたに、ひとつだけ力を使っていただきたい場があるのです」
「力を使う場ね……」
蓮司は煙をくゆらせたまま目を細めた。
「金の話なら、たぶん心配は要らねぇだろうが。依頼内容ってのは、聞いておく必要がある」
環は静かに一礼すると、
小さな紙包みを懐から取り出した。
そして、それをデスクの上に置く。
「……これは、私の家の食卓から昨夜、出てきたものです」
蓮司が紙を開くと、
そこには、古びた銀のナイフが一本、入っていた。
柄には、黒く煤けた指紋がこびりつき、
刃の先には、霊的な脂のようなものがべっとりと付着していた。
「これは……霊の気配じゃない。むしろ複数の死者の記憶が焼きついた痕だ」
「――彼らが、また食卓に戻ってこようとしているのです。数百年、我が家に仕えてきた者たち。死してなお、招かれることを望んでいる者たち」
「私一人では、椅子を用意しないことを告げられない。だからあなたに――力で、拒絶していただきたい」
午後五時。雨上がりの夕暮れ。
結城家は、白銀塚でも最も古い区域――
かつて武家屋敷が立ち並んでいた御影の丘に建つ石造の洋館だった。
門をくぐると、
樹齢百年を超える楠が静かに風に鳴る。
花壇には一輪たりとも咲いておらず、
まるで全ての色がこの家に吸い込まれているようだった。
「……まるで屋敷そのものが結界だな」
蓮司が低く呟いた。
「音の反響が変。霊的な厚みがある」
里沙も即座に察する。
出迎えに来たのは、黒いスーツに身を包んだ老執事。
彼の背筋もまた、時間そのものを背負ったかのようにまっすぐだった。
「ご足労、感謝いたします。ご案内いたします。地下へ」
絨毯敷きの広い階段を下り、
さらに鉄扉を二枚通ると、
そこにその空間はあった。
天井は低く、床は大理石。
だが中央に据えられた長大な晩餐のテーブルだけが異様に存在感を放っている。
十数脚の椅子が、誰もいないのに使用された痕跡を残していた。
皿、グラス、銀器――
そして、蓮司の霊視に映ったのは、
椅子に座ったまま首を垂れた影たちだった。
「……すでに、座ってやがる」
「霊体の残留じゃない。今もこの場に滞在してる……!」
里沙が即座に呪符を構える。
しかしその瞬間、
テーブルの最奥、主の席にあたる椅子が、きぃ……と音を立てて動いた。
そこに、影がひとつ、腰を下ろす。
テーブルの両側に、次々と霊が現れる。
喪服、燕尾服、使用人の帽子、
口元に黒布を巻いた女中――
すべて、かつてこの家に仕えていた者たちの霊だ。
そして、最奥に座った霊――
それは招かれぬ客を選ぶ者、執事長の霊だった。
彼は蓮司たちを見て、口を開く。
「……汝らは、招かれていない。この席に相応しきは、ただ我が主と、旧き奉仕者のみ……」
「されど、汝らが来たということは――我らの宴を、終わらせに来たのだな?」
蓮司は一歩前へ出て言った。
「――ああ、終わらせに来た。いつまでも冷えた料理を囲んでる場合じゃねぇ」
霊宴、崩壊の幕開け
執事長が手を鳴らした。
その瞬間、食卓の上の銀器が浮かび、
ナイフとフォークが鋭い軌道で蓮司へ向かって飛来する。
「来るぞ――!」
蓮司が霊刀を抜く。
銀器を一閃、切り払うと、金属が霊光に弾けた。
「準備しろ――囲まれる!」
周囲の霊たちが着席したまま立ち上がらずに、影を伸ばしてくる。
床から這い出す腕、壁を這う影法師、
霊気が空間を満たしていく。
「これは……招かれぬ者に対する自動防衛反応。ここは、すでに彼らの食卓!」
里沙は戦闘態勢に入る。
地下の晩餐の間。
空気は微かに金属の匂いを含み、沈黙が耳に張りつくようだった。
蓮司と里沙が踏み込んだその瞬間――
テーブルの両脇、十数脚の椅子に座っていた影が、静かに立ち上がった。
影はすべて、人の形をしていた。
それぞれ違う服装――執事、女中、料理人、門番、乳母。
それはこの家にかつて仕えていた者たちの霊だった。
だがその顔は、
皆一様に黒布で覆われていた。
眼も口も隠されたまま、
ただ、まるでプログラムされた儀式のように一斉に動き始めた。
「……やっぱり出てきやがったな」
蓮司が低く呟く。
「でも何かおかしい。彼ら、名前が剥がれてるような気配……」
里沙の声が硬い。
「名前も、役割も、過去の記憶も――全部奉仕という形に溶かされたまま、ただ仕えるだけの存在になってる」
「つまり、命令がなければ動かない?」
その瞬間、椅子がすべて倒れた。
それは命令が下った合図だった。
十数体の召使いたちが、
まるで舞踏会の開幕のように、同時に銀のナイフを手に現した。
そして無言のまま、
蓮司と里沙へ――突進してくる。
鬼塚蓮司、迎撃
「里沙、少し下がってろ」
蓮司が霊刀《逆紋・夜連》を抜く。
刃の根元に刻まれた逆紋が淡く発光し、
その光が床の影を切り裂くように伸びる。
前方、四体の召使いの影が襲いかかる。
全員が顔を覆ったまま、ナイフを振り下ろしてくる。
「――重いな」
蓮司の一閃。
シュバァン――!
斬撃が、まっすぐに空間を裂いた。
銀器と影の身体が断たれ、
床に血のない肉片のような影の欠片が落ちる。
が――倒れた霊体は、すぐに形を戻して立ち上がった。
「再生……!?」
「違う、影そのものが本体じゃない。この部屋が、彼らの原点になってる。床、壁、空気。どこからでも再構築できる!」
「了解。私がその座標を止める」
里沙が指を切り、数枚の呪符を宙に展開する。
それぞれの呪符には、結び目の印が刻まれていた。
「《影縫・断座式》、発動!」
呪符が床に向かって落ち、
召使いたちの足元に結界印が浮かび上がる。
その瞬間、数体の霊がまるで足を縫われたかのように、
その場にぐらりと崩れ落ちた。
「霊の立っている場が固定されてるから、その座標を封じれば、影は立てない!」
だが残る霊たちの中には、
明らかに知性を残した者がいた。
女中服の霊体が、
テーブルにあった銀の燭台を手に取る。
そして、炎をともしたまま、影の力で増幅し、
火の玉となって蓮司へ向けて投げつけてきた。
「……おい、燭台で火遁使ってくる霊があるか」
蓮司が苦笑まじりにかわすも、
爆ぜた炎がテーブルクロスを燃やす。
その炎がまるで血肉のように広がり、
周囲の霊気を不純物に変えていく。
「これ、放っておいたらこの部屋全体が霊気の炉になって再構築されるわ」
「だったら、根本から叩くしかねぇ」
蓮司が両手で刀を握り、構えを変える。
名を断ち、役目を消す――それが《逆紋・夜連》の本質。
「この刀は、人に刻まれたものを斬るためにある。奉仕という名の呪いごと、消えてもらおうか」
解放技――《縁斬り・血帳の式》
蓮司の足元に、淡く紅の式線が浮かぶ。
それは、切られた者の縁を断つ霊的な構文。
もともと斬られるべき過去の絆を切断するためのものだ。
「《縁斬り・血帳の式》――宿命より、主人を解く」
刀が振り下ろされた瞬間――
召使いたちの影が、すべて悲鳴を上げることなく崩れ落ちた。
銀器が一斉に床に落ち、
椅子がひとつ、またひとつと静かに元の位置へ戻っていく。
宴の最初の幕が――閉じた。
「……第一陣、制圧。でもこれは式典の開幕に過ぎない。まだ、主は出てきていない」
「誰かの食卓がある以上、主の席が空いてるってことだな」
蓮司は刀を収めながら、
最奥の椅子を見つめた。
そこにはまだ、誰も座っていない。
だが、そこには、確かに誰かの気配が漂っていた。
静けさが戻った晩餐の間。
倒された召使いたちの影は、
椅子に戻るようにして静かに空白となる。
そして、その時だった。
最奥の主の席の左手――
一脚だけ、誰も触れていなかった黒革の椅子が、ギィ……と音を立てて動いた。
その席に、いつの間にかひとりの男の霊が座っていた。
それは、背筋を正した老齢の男だった。
燕尾服を着ている。
立ち上がると、長身で細身の体に、白手袋の指がきつく握られていた。
その顔に表情はない。
あるのはただ、命令という意志のみ。
執事長。
名は、口にしなくても理解できた。
「式は、未だ終わっておりません。席が空いている以上、我らは客人を迎える務めがある」
「招かれるのを待ってるのは、客の方だろうが」
蓮司が刀を構えながら一歩前に出る。
「この宴、もう終いにしてやる。……この先に座る主なんざ、誰もいねぇ」
「ならば……あなたが代わりに座りますか?」
執事長の声が低く響いた。
瞬間、椅子が床を離れ、宙に浮いた。
記名術──存在の座標を奪う儀礼。
「――座標が反転します!」
里沙が叫んだ。
同時に、蓮司の足元に陰陽の印が浮かぶ。
それは、蓮司の存在をこの宴の構図に取り込もうとする術式だった。
「名前を記し、席を与えることで、客は宴の一部になる」
「……記名術か。懐かしいな」
蓮司が、片眉を吊り上げた。
「それで何人を縛ってきた?――悪いが、俺の名前はもう、誰にも渡さねぇよ」
執事長が一歩踏み出すと、
空気が紙のように折れ、空間が傾いた。
その足元に、霊的な階段のようなものが現れる。
「空間操作型……この霊、現世と幽界の座標を自由に踏んでる!」
「だったら――まとめて断つ!」
蓮司が刀を振るう。
刃が空間を裂き、斜めに浮かぶ階段と、影の脚を同時に斬る。
が――
「……かわされた?」
執事長の身体が、一度折り畳まれるように曲がり、
斬撃を斬形ごと回避していた。
「こいつ、霊術だけじゃねぇ。身体操作も異形だ」
「我は、役割であり、姿にあらず。執事長という座こそが、我である」
「役職の霊体化……なるほど、いい理屈だな」
里沙、術式で対抗
「じゃあ、座そのものを封じる!」
里沙が手を打つ。
「結界展開――《席次断界式》。儀式順列、再構築!」
部屋に浮かぶ座の印が崩れ始める。
それは、霊体としての執事長を支える式次第を壊す技。
「この結界の中であんたがどの位置にいるのか――書き換えさせてもらうわ」
執事長の動きが止まりかける。
だが、そのとき。
最奥の主の席が、音もなく揺れた。
「里沙、下がれ!」
執事長、第二形態《贄の席》
執事長の身体が、スーツのまま黒煙に包まれ変化する。
顔が消え、首の位置に封書のようなものが浮かび、
それがぱくりと開いた。
「名前の贄として、招き入れよう――」
封書が蓮司の名を呼びかける。
「……この名前で、俺を引きずり出せると思ってんのかよ」
蓮司が刀を振り上げる。
「だったら、その名前ごと折ってやる」
鬼塚蓮司、解放・第二段階
《霊刀・逆紋 夜連》――解放第二段階
刀身に浮かぶ刻印が反転する。
霊力の刃が、名を記された式紙そのものを斬るように放たれる。
「役割なんざ、刀の一振りでただの紙くずだ!」
――斬!
執事長の霊体が裂け、
名前を刻んだ封書が破れ、燃え上がるように消えた。
執事長は一歩、二歩と後退し、
そのまま音もなく、最奥の壁の中へ吸い込まれるように消えていった。
静けさのあとに
蓮司は刀を収め、呼吸を整える。
里沙も術符を納めながら、
最奥の空席を見つめる。
「蓮司さん……あそこ、もう誰かが座ってるんじゃないですか?」
蓮司は一度、肩をすくめた。
「……見えてる。でもまだ、完全に姿は現してねぇ。あれは主の姿じゃない。主を模した、何かだ」
「次が……最後ですね」
「ああ。本当の宴の主が姿を現す前に、叩くぞ。」
晩餐の間。
戦いの火はすべて終わったかに見えた。
だが――
静寂の底から、音が立ち上がってきた。
それは、振動とも呼吸とも違う、霊圧そのもののざわめき。
耳ではなく、骨で感じる音だった。
「……まだだ」
蓮司が口を開く。
「この家の本当の中心が……これから現れる」
テーブルの最奥、空席だった主の席が、
ぶぉん――と低く唸り、
まるで地鳴りのように空間を押し始める。
座っていたはずの誰もいないはずの存在が、
霊的な圧力となって空間全体に噴出し始めた。
「蓮司さん……この圧力、正体がない……!」
「違う。形にならなかっただけで、これは純然たる力だ。この宴を構成していた、死者全員の霊力が濃縮されてる」
周囲の空間が歪む。
天井が上下に波打ち、壁という壁が霊的な震えに泡立ちを見せる。
床を踏めば、質量のない踏み抜ける空気が広がっていく。
「……こいつは霊じゃない。霊力の核そのものだ」
蓮司が刀を構え直す。
「わたし、周囲の霊場を抑えます! ここを戦える舞台に固定する!」
里沙が叫び、床に陣符を次々と展開していく。
本間里沙・結界固定式展開。
「四方結界《符重・定場の式》! 霊圧乱流、圧縮! この部屋を現世準拠に再構築します!」
光が四隅から走り、空間を強制的に固定する。
ただの術ではない。
彼女の霊力の芯を削る命の契りに近い結界術だ。
「蓮司さん、今だけ、この空間は叩き切れる場になってます!」
鬼塚蓮司・霊刀《夜連》、最大解放。
蓮司の刀が呻くように鳴る。
柄から刀身へ、霊力が脈打つように流れ、
白銀の刀身が、赤黒い稲光を伴って変質を始める。
「――全開だ。行くぞ、《夜連》」
「霊断式・極域解放――《月喰》ッ!」
蓮司の刀が光を喰う。
部屋の中の明かりが一瞬すべて奪われ、
その刀身に空間ごと吸い込まれるような沈みが生じる。
次の瞬間、
霊力の核が、まるで本能的に反応したように――
爆ぜた。
空間が膨張と収縮を同時に繰り返す。
爆発のように霊力が波打ち、
床が裏返り、天井が水面のように歪む。
蓮司はその中央に飛び込んだ。
霊力の一点突破。
「――砕けろ」
蓮司の一太刀が振り抜かれた。
それは何も切らない。
対象も、形も、存在もない。
だが――霊力の中心点を、
意志と力だけで穿った。
斬撃は、音すら出さずに収束した。
爆風のような結果だけが数秒遅れて届き、
空間の歪みは逆流し、
すべての霊的構造が音もなく崩れ落ちた。
宴の座が、音もなく、灰となって消えた。
部屋には再び、
誰もいない長テーブルだけが残った。
銀器は整然と並び、
椅子はきっちりと押し込まれている。
「……終わった、の?」
「いや。終わらせた。この空間を、もう誰も座れない場所にした」
蓮司は刀を収め、息を吐いた。
本間里沙も呪符を収め、しばしその静けさに耳を傾けていた。
地上へ戻る階段を、一歩ずつ昇る。
靴の裏に残る地下の冷気は、まだ消えていなかったが、
空気はすでに春の匂いを取り戻していた。
白銀塚の古屋敷――結城家。
玄関ホールには、依頼人である結城 環が静かに立っていた。
彼女の背筋はまっすぐで、
老いた指は黒檀の杖を軽く握りしめている。
「……済みましたね」
彼女がそう口にしたのは、
蓮司の姿を見るより先だった。
まるで、気配の色で全てを理解していたかのように。
静かな報告
「すべて、終わりました」
里沙が言う。
「席は、空になりました」
蓮司の声もまた、低く静かだった。
環はわずかに瞼を伏せると、
長く張り詰めた呼吸を解くように、微かに息を吐いた。
「ありがとうございます。あの部屋は……わたくしの家の誇りであり、業でもありました。」
「わたくしの祖母は、かつて霊媒を雇い、死してなお仕える者たちを座に招いた。それを忠義と称した時代もありました。けれどそれは、死者の自由を奪った儀式だったのです」
蓮司は、何も言わなかった。
ただ、黙って彼女の言葉を受け止めていた。
環はゆっくりと続ける。
「わたくし自身、長い間あの部屋を維持してまいりました。封印と呼べば聞こえは良い。ですが本当は、罪の所在を見つめる勇気がなかっただけです」
環は短く吐息した。
「だから……この手で終わらせることができなかった。あなた方が来てくださったことが、わたくしにとっての贖いとなりました」
その日の夕刻、
環は蓮司と里沙を一室に招いた。
そこは、普段彼女が食事をとるための書斎横の小部屋。
小さな丸テーブルがあり、
白いクロスの上に、湯気の立つ紅茶と、焼きたてのビスケットが並べられていた。
「――これは、生きた者の食卓です。招かれた方に、座っていただく場。亡き者のためではなく、今ここにあるための席です」
「……いいですね」
里沙が微笑む。
「招くことと、囚えることは違う。それを忘れない限り、この家は大丈夫です」
蓮司は何も言わず、
ただ、紅茶に口をつけた。
砂糖は入れなかった。
だが、その苦味も――今は、心地よかった。
帰り際、環がふと背を向けたまま言った。
「鬼塚様……霊というのは、生者の未練によってこそ、呼び出されるものなのかもしれませんね。座ってほしかった誰かが、いつまでもその席を空けて待ち続けてしまう――それが、もっとも危うい式なのかもしれません」
蓮司は背を向けずに応えた。
「なら、空けておく覚悟がある限り、その席は安全だろうな」
環は笑った。
「……よい言葉です。今日のこのお茶も、少し美味しく感じました」
「それはそうと、依頼達成報酬の振り込みお願いします」
蓮司は言って軽く頭を下げた。里沙も慌ててお辞儀する。
環は微笑みを浮かべて二人を見やる。
「またお願いすることがあるかも知れませんね、鬼塚蓮司さん、本間里沙さん」
環の言葉に蓮司は肩をすくめた。
「そうならないことを祈ってます」
そうして、蓮司と里沙は結城邸を辞し、事務所への帰路へと着くのだった。




