表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
21/44

第二十一話

 午後の鬼塚探偵事務所。

 春の名残が窓の隙間から忍び込み、

 埃の混じった光が、部屋の中を斜めに切っていた。


 蓮司はデスクに肘をつき、

 煙草の煙をゆっくりと吐いている。


 静けさを破ったのは、控えめなノックの音だった。


「失礼します……」


 扉がわずかに開かれ、

 そこから姿を現したのは、一人の若い女性だった。


 黒髪を緩く束ね、

 地味なベージュのワンピースを着た彼女は、

 部屋の空気にすぐにはなじめないように、

 足元を何度か確かめるように踏みしめていた。


「こちら……鬼塚探偵事務所で、よろしいでしょうか?」


「そうです、ご依頼ですね。どうぞ席の方へ」

 蓮司がタバコの火を消して答える。


 本間里沙が笑顔で応対に立ち、

「初めまして、心配事ですか。でも大丈夫ですよ」とお茶を差し出した。


 女性は深く頭を下げると、

 両手を膝の上で握りしめるようにして言った。


「――母が、いなくなりました」



 彼女の名は柾木まさき 小夜子さよこ

 年齢は二十二歳。大学四年生。


 失踪したのは、彼女の母である柾木静しずか

 都内では少し名の知れた霊媒師で、

 長年、自宅で個人相談や除霊を行っていた人物だった。


 静は、四日前の夜、

 自宅の書斎に入ったのを最後に、

 そのまま姿を消した。


 鍵は内側からかかっており、

 窓も閉まっていた。


 部屋には誰の出入りの痕跡もない。


 だが翌朝――

 書斎の壁の奥に、見たこともないもうひとつの部屋が現れていた。


 消えた母、現れた部屋

「……私、子供の頃から、母が普通の仕事をしていないのは分かっていました。除霊とか、交霊とか……でも、私は一切関わっていなかったんです」


「それなのに、急にいなくなって。その夜、家の中に見たことのない間取りが増えてたんです」


「……扉が、ひとつ、増えてました。廊下の突き当たりに、なかったはずの扉が……」


 蓮司と里沙は顔を見合わせる。


「開けたのか?」


「……開けられませんでした。鍵はなかったけど、どうしてもドアノブが……触れないような感じで……」


「霊的拒絶の痕跡ですか」

 里沙が言った。


 蓮司は、既に判断を下していた。


「その部屋、見せてもらう。あんたの母親がそこにいるかは分からないが――消えた人間の残像ってのは、部屋に残るもんだ」



 翌日、午前十一時。

 白銀塚の住宅街。古びた木造二階建ての一軒家。


 柾木家は、築六十年を超える民家だった。

 だが、庭先には護符を収めた陶器の壺が並び、

 玄関脇の木柱には小さく刻まれた印がある。


 ――招かれざるもの、此処に留まらず

(※古式結界術に用いられる、拡張拒絶の印)


 里沙が、玄関前で軽く息を呑んだ。


「……想像以上に、本物ですね。この家、完全に霊的防壁で囲われてる」


 蓮司は頷く。


「柾木静って霊媒師……素人じゃねぇな。この規模の結界張れるのは、一線級だったはずだ」



 小夜子の案内で、二人は家の奥へ進む。

 薄暗い廊下、擦り切れた畳の匂い。

 空気の密度が、外界とはまるで違う。


「……ここです」

 小夜子が立ち止まったのは、廊下の突き当たり。


 そこに、本来なかったはずの扉があった。


 ごく普通の、木製の引き戸。

 古びた真鍮の取っ手。

 だが、その存在感はあまりに濃すぎる。


 里沙が霊感符を翳す。


「……やっぱり。空間ごと追加されてる。もともとこの家になかった領域が、意図的に挿入されたみたいに存在してる……」


 蓮司が戸口に手を伸ばすと、

 空気がわずかに揺らいだ。


 ――戻るな。中には入るな。


 誰かの声が、

 遠くから、耳の奥に届いた気がした。


「警告……か」

 蓮司が言った。

「だが、戻るなってのは、中にまだ意識があるってことだ」


 開かれた間取り

 扉は、音もなく開いた。


 中は――


 異様に静かで、異様に広かった。


 六畳ほどの部屋のはずが、

 内部はまるで違う空間に繋がっているかのように奥行きがあった。


 壁という壁に、無数の符。

 床の中央には小さな木製の机がひとつ。

 その上には、開いたままの古い手帳があった。


 蓮司が近づき、そのページに目を落とす。


《記録:第五十六例・霊界反響》

《術式型:連環・媒介逆召喚》

《事象:通路固定・術者同化の兆候あり。》


「……術者同化……?」

 里沙が読み上げ、青ざめたように言う。

「これ、媒介として存在を保つどころじゃない……術者自身が霊の通路そのものになってる可能性があります」


 蓮司の目が鋭くなる。


「つまり、静は霊を呼ぶための器になった。……自分の肉体と魂を、向こうへの橋に変えて」


「……それ、元に戻せるの?」


「戻すしかないさ。じゃなきゃ、あの娘が依頼に来た意味がねぇ」


 蓮司はそう言って、部屋の奥――

 最奥の闇に、そっと手をかざした。


 ……その瞬間、空気が変わった。


 奥の闇に、微かに息をする音が響く。


 その音は、確かに、

 まだ誰かが中にいることを告げていた。



 空気が震える。


 柾木静が媒介と化した部屋の中心で、

 蓮司が手を差し出した瞬間だった。


 空気が、ひっくり返った。


 空間そのものが間違った音を鳴らし始める。


《──なまえをよこせ──》

《──おまえのなまえを──》


 壁一面に、黒い手書きの文字が滲むように浮かび上がる。

 すべて鬼塚蓮司という名前を、

 崩れた字体で、繰り返し書いている。


 床からは黒い影が這い出し、

 その中心で人間の形を模した何かが立ち上がった。


 それは、蓮司によく似ていた。

 いや、蓮司の外形を真似ようとした結果だった。

 だが顔は崩れ、

 口は開かれたまま閉じることができず、

 目は名を持たぬ恐怖のように揺れていた。


《──おまえの なまえを──》

《──わたしの かたちに──》

《──あたえろ──あたえろ──》


「……出てきやがったな。言葉を持たねぇ化け物め」


 蓮司は霊刀を抜き、霊気を帯びさせる。

 里沙は即座に、護符の束を展開。


「蓮司さん、名前が危ない! この空間、名前を引きずり出そうとしてる!」


「わかってる! 一発で仕留める!」


 名を奪う力

 喰名者の体から放たれる黒煙は、

 蓮司の名を呼びながら霊刀にまとわりついてくる。


《鬼塚》――《蓮司》――


 そのたびに、蓮司の霊力が目に見えて削れていく。


「……クソッ、刀の名前が曖昧になってやがる……!」


「蓮司さんの名前ごと、武具も存在を揺らがせてるのよ! 霊的アイデンティティが崩れたら、この場にいられなくなる!」

 里沙、名を支える術式展開

「だったら、私が名の支柱を刻む!」


 里沙が呪符を三枚、蓮司の足元に貼る。

 それぞれには、蓮司の名前を言霊として封じた式文が書かれていた。


「名連結術式《紐帯の刻》! ――鬼塚蓮司、ここに在り!」


 術が展開されると、

 蓮司の足元に影が戻り、

 一瞬、喰名者の波動が止まった。


「助かる……! 今のうちに!」


 決撃──穿魂断・変式

 蓮司が刀を高く掲げる。


「名のない貴様に、俺の名前はくれてやらねぇ! 穿魂断――変式、《名守りし者》!!」


 蓮司の霊力が凝縮され、刀身に刻まれる自身の名が燃えるように輝く。

 そして――


 一閃。


 刀が喰名者の影の胸部を穿ち、

 未完成の肉体を霧散させた。


《……ナマ……エ……》

《……ま……だ……ナ……イ……》


 消え際に聞こえた声は、

 どこか子供のようだった。


 名前を知らない苦しみを訴えるような、

 誰にも届かない訴えだった。


 静寂――そして、封印へ

 空間が静まり返る。

 残されたのは、ただの媒介の部屋。


 蓮司は息を整えながら、刀を納める。


「……あれは、まだ名前を探している」


「封印しなきゃ……また誰かが、あれを呼んでしまう」


 里沙は頷き、二人は奥に進んだ。



 音が――消えていた。


 蓮司が指先を差し出したその奥、

 闇の最深部は、まるで水底のように沈黙していた。


 だが次の瞬間。

 その沈黙に、小さな呼吸が混じった。


「……はぁ……ふっ……ふう……」


 かすかに揺れる空気。

 それは、術者・柾木静の気配だった。


 蓮司はわずかに眉を寄せ、

 奥へ一歩踏み出す。


 その足元――

 床が紙のように薄くなる。


「……霊界転移の前段階だ。この空間、向こうとこちらの端境にある」


「つまり……中途半端なまま、こっちに残ってるってこと……?」


 里沙の声が震える。


「柾木静は、完全には霊界に行っていない。……だが、帰る場所もすでにない。この中間の空間が、彼女そのものだ」



 蓮司と里沙がさらに進むと、

 その先に、何かが浮かんでいた。


 それは人影。

 顔の輪郭すら朧げな――女性の霊。


 が、その口は開かれず。

 言葉も発せず。


 ただ、頭をゆっくりと左右に振っていた。


「……戻れ、と言ってるのか?」


 蓮司が問う。

 だが返答はない。


 代わりに、空間そのものが低く呻いた。


「…………」

「…………っ」


 いや、違う。

 呻きではない。


 言葉にならないものが、言葉になろうとしている音だ。


 里沙が背筋を凍らせるように言う。


「蓮司さん……誰かが――話す手段を持っていないのに、話しかけようとしてる。霊じゃない。……言語を知らない存在よ」


 閃光と影の干渉

 次の瞬間、部屋の天井が青白く閃く。


 霊的な干渉。

 柾木静を媒介として、

 何か本来、呼ばれてはいけないものが、ここに来たがっている。


《──媒介が開かれた。》

《──音を与えよ。形を与えよ。》

《──我は、名を知らぬまま、口を持たぬ。》


「……やべぇ、こいつ……」


 蓮司が一歩引いた。

 空間の密度が爆発的に高まり、

 影が逆流するように部屋の中心へ集まりはじめる。


「こいつ、言葉を持たない何かだ。名前が存在しない――だからこそ、術者の名前を乗っ取って出てこようとしてる」


「静さんの意識はまだここにいる。でも、それを使って、別の何かが通ろうとしてる!」

 里沙が警告する。

「蓮司さん、まだ術式陣が崩れてない! 再構築すれば、一時的に封印できます!」


「やるしかねぇ!」


 蓮司が再び霊刀を抜き、

 里沙が周囲に結界符を展開。


 机の上の手帳が自らページをめくるようにめくれ、

「この場に残された意思」が、二人に術式の意図を訴えかけてくる。


 封印儀式・第一段階

「よし、始めるぞ!」


「――結界展開、四方封印《律文・遮断式》!」


「無名なる者よ、名を与えられぬまま来たりしものよ。汝の入口を閉じよ。媒介はここに断たれり!」


 蓮司の刀が床を刻み、

 里沙の呪符が空中で光る。


 影が暴れ、言葉なき咆哮が室内を満たす。


 だが――


 次第に、それは静まっていった。


 口を持たぬ何かは、退いていく。

 まるで――またの機会を待つように。



 封印は成功した。

 しかし、柾木静の姿は、もうこの空間にはなかった。


 その代わり、机の上に一枚の紙片が落ちていた。


「小夜子へ。私は、媒介としての限界を超えてしまいました。あなたの声をもう聞けないことを、どうか許してください。でも、あなたを守るために――この扉だけは、閉ざし続けてください」


 蓮司がそれを手に取る。


「……全部、分かってやってたってことか。この扉を、あいつは鍵にして自分を封じた」



 後日。

 小夜子に事情を伝えた蓮司と里沙は、

 再び静まった柾木家を後にする。


 小夜子は玄関で立ち尽くし、

 遠くを見つめながら小さく呟いた。


「母は……誰かを呼んではいけないって、よく言ってました。名のないものは、言葉に宿ろうとするって」


 蓮司は立ち止まり、背を向けたまま答えた。


「名前を与えるってのは、存在を許すってことだ。……あんたは、決してあれに名前を与えるな」



 それは、封印から数日後の午後だった。


 柾木家の玄関に、

 鬼塚蓮司と本間里沙の姿があった。


 小夜子から、話をしたいと連絡が来たのだ。

 二人は、変わらぬ古い家の引き戸をくぐる。


 出迎えた小夜子は、

 以前よりどこか、凛とした表情をしていた。


 髪はほどかれ、黒い服ではなく、

 淡いブルーのワンピースを着ていた。


「……おふたりに、きちんとお礼を言いたくて」


「気にするな。仕事だっただけだ」

 蓮司が淡々と答える。


「それでも……母はもう帰ってこないって、ちゃんとわかってる。でも――ひとりじゃないって思えるようになりました」


 里沙が静かに問う。


「……扉のこと、どうするつもりですか?」


 小夜子は一瞬、瞳を伏せて、こう言った。


「封印は残しておきます。でも、母の部屋として、きちんと手入れはしようと思って。そこに誰もいなくても、母が最後に選んだ場所を、私の中では生きた空間にしておきたいんです。それって、ここにいていいって、母が最後に自分に言ったような気がするから」


 事務所に戻ろうとする蓮司たちを、

 小夜子が見送る。


「ねえ、鬼塚さん……」

 彼女が呼び止める。

「名を与えないって、霊だけじゃなくて、人間にもそういうことってありますか?」


 蓮司はしばらく考え、

 答えを選ぶようにゆっくりと口を開いた。


「……誰かの中で、名前を呼ばれ続けるってことが、存在の証になる。逆に、誰の記憶にも残らなけりゃ――それは生きていないのと同じだ」

 蓮司は頷く。

「だからあんたは、この家の中で、ちゃんと名前を呼び続けてやれ」


 小夜子は、穏やかに笑った。


「……はい。母の名前も、私自身の名前も。誰かに消されないように、私がちゃんと覚えていきます」


 蓮司と里沙、帰路にて

 帰り道、里沙がぽつりと呟く。


「……あの子、霊媒師にはならないかもしれないけど、何かを護る人にはなりそうですね」


 蓮司は煙草に火をつけ、

 冬の名残を含んだ風に、煙を吹かす。


「なれるさ。あの目はもう、名前を失うってことの重さを知ってる」

 蓮司は言った。

「だからきっと、この先、誰かの名前も忘れずに守るだろうさ」


 そして二人は、

 静かな午後のなかを歩いていく。


 どこか遠くの、

 まだ名も知られぬ誰かのために――。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ