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第十九話

 その夜、柊結菜は一人だった。

 高校の帰り、駅前の塾で遅くなり、

 ようやくバスに乗り込んだのは午後八時を過ぎた頃だった。


 車窓には、

 白銀塚市の郊外に広がる、春の夜の風景。

 街灯の間にぽつりぽつりと揺れる街路樹の影が、

 幻想的なほど静かだった。


 スマートフォンを見れば、姉――涼音からメッセージが届いていた。


【ごめん、会議長引いてる。ごはん冷蔵庫入れてある。】

【帰ったら鍵ちゃんと閉めてね。】


「うん、分かってるよ……」


 独り言のように呟いて、スマホをしまう。


 最寄りの停留所でバスを降りたとき、

 夜風が一気に身体を撫でた。


(……ちょっと寒いな)


 ブレザーの襟元を引き寄せ、住宅街へ歩き出す。

 春の夜はまだ、思ったより冷たい。


 だが、彼女は気づかなかった。

 そのときすでに、

 一歩後ろを、誰かが追っていたことに。


 住宅街の角を曲がったとき、

 ふいに、街灯が一つ、音もなく消えた。


「……え?」


 立ち止まり、見上げる。


 周囲には誰もいない。

 だが、風の音がやけに耳に残る。

 ひゅう、という風の中に、

 何か、別の音が混じっている。


 布がすれる音。


 そして――すぐ後ろから、


「――ようやく、見つけた」


 低く、感情のない男の声が響いた。


 結菜が振り返る間もなく、

 背後から黒い布のようなものが振るわれた。


 視界が闇に覆われ、

 意識が、そこから急速に遠ざかっていく。


(あ……声が……出ない……)


 誰かに引きずられ、

 夜の地面と同化するように、

 結菜の身体は路地裏へ、静かに消えていった。



「結菜……? まだ帰ってきてないの?」


 その夜遅く、帰宅した姉・涼音は、

 部屋の電気が点いていないことに不安を覚えた。


 スマホに電話をかけても繋がらない。

 チャットも既読がつかない。


 だが、部屋にリュックも制服もなく――

 そこだけ、ぽっかりと存在が抜け落ちていた。


 胸の奥に、冷たいものが染みてくる。


(まさか、何か――)


 そして涼音は、

 あの夢を見るようになる。


 赤い陣、黒い布。

 炎に照らされる結菜の輪郭。

 それを囲む、目のない仮面の者たち――


 闇は、すでに始まっていた

 街は普段通りに見えても、

 すでに結菜は世界の表層から外されていた。


 警察も、情報も、

 どこにも彼女の痕跡を見出せない。


 そして数日後――

 涼音は、最後の望みをかけて、

 鬼塚探偵事務所の扉を叩くことになる。



 雨が降っていた。

 季節外れの冷たい雨。

 白銀塚の春は、いつもこんなふうに終わりに向かっている。


 鬼塚探偵事務所の扉が、

 一度、二度、激しく叩かれた。


 その音には、明確な何かを振り切ってきた者の焦燥があった。


 蓮司は黙って立ち上がり、

 里沙が先に応対に出る。


 ドアを開けた瞬間、

 風と雨と共に、一人の女性がなだれ込むように姿を現した。


 濡れた髪。

 堅く結ばれた唇。

 目元だけが異様に鋭く、真っ直ぐだった。


「……すみません。こんな時間に。でも……誰にも、頼れるところがないんです……」


 柊涼音。二十七歳。市内の中学校に勤務する教師。

 端正なスーツの裾は泥に濡れ、肩は震えている。

 だが、それでも彼女の背筋には、教師としての気丈さが残っていた。


 蓮司と里沙が静かに座るのを見て、

 涼音は深く一礼し、話し始めた。


「……五日前、妹の結菜が、帰ってこなくなりました。通っていた塾からの帰り。バス停から家までは、徒歩五分。でも――その途中で、忽然と姿を消したんです。防犯カメラには何も映っていない。警察も家出の可能性を口にし始めました。でも、そんなはず、ありません。妹は……明るくて、真面目で、そんな子じゃないんです……!」


 拳を握りしめたその手が、震えていた。


「それに、ここ数日、私は夢を見ています。……現実のような、匂いや熱まで感じるような――悪夢です」


 涼音は言った。

「夢の中で、私は何かの儀式を見下ろしています。大きな黒い部屋。床に描かれた、赤い紋様――そしてその中心に、結菜が横たわっているんです。火が、灯っていて。まわりには、顔のない人たちが立っていて……結菜は……泣いていました。声を出さずに、ずっと、助けを求めているように……」


 その瞬間。

 事務所の空気が、かすかに変わった。


 静かだった空間に、

 一瞬、風が吹いたような気配が、

 蓮司と里沙の霊感にひっかかる。


 蓮司が煙草をくわえたまま、

 目を細めて涼音を見据えた。


「……夢、じゃないな。それは、霊的に接触されてる。儀式に関わる誰かが、あなたを見てる」


 里沙が立ち上がり、

 手元の呪符の帳を開く。


「その儀式、降神の型に近いです。術者が誰かの魂を器に変えようとしている。しかも――かなり本格的なもの」


 蓮司も短く頷いた。


「このままだと、妹の魂は食われる。魂の輪郭が失われれば、見つけても戻れない」


 蓮司は頷いた。


「依頼として、受けよう。だが、これは時間との戦いになる。あなたがどこまで覚悟を持ってるかによる」


 涼音は、深く頭を下げた。


「何でもします。私が命を賭けてでも――結菜を取り戻したいんです」


 蓮司の眼が一瞬、静かに揺れた。


(こいつは……本気だな)


 そのとき、事務所の電話が鳴った。

 深夜にしては珍しい、警察の番号。


 里沙が応対する。


「はい、鬼塚探偵事務所……? ……はい。――冬川さんですか」


 蓮司が顔を上げる。


 その名を聞いた瞬間、

 戦いの舞台が、再び動き出す。



 束の間時を遡る──姉として、私はあの子を守れただろうか

 鬼塚探偵事務所のソファに腰掛けながら、

 涼音はふと、目を伏せた。


 蓮司と里沙の前で静かに語った依頼の言葉。

 だが、その奥にあるのは――

 もっとずっと以前からの、後悔と祈りだった。


(思えば、あの子はいつだって……)


 雨音が遠く、記憶の彼方と重なる。


 小さな頃のこと

 涼音が中学生だったころ。

 父親は家に寄りつかず、母親は働き詰めだった。


 結菜がまだ幼稚園児で、

 夜泣きしては、母を困らせていた。


 ある晩、布団のなかで泣き止まない結菜を、

 母は乱暴に押しのけた。


「うるさい! 涼音、なんとかして!」


 それを聞いた涼音は、

 結菜を抱きしめて、

 優しく背中を叩きながら言った。


「泣かないで。涼音がいるから。どこにも行かないから」


 そのとき、小さな結菜が、

 鼻をすするように言った。


「おねえちゃん、いると、こわくない……」


 涼音は、その言葉をずっと忘れなかった。


 だが成長するにつれ、

 二人の距離は少しずつ、静かに開いていった。


 涼音は大学に進み、教職の道を選んだ。

 妹は家で一人、黙って過ごす時間が増えていった。


 気づけば、夕飯も別々。

 笑顔も、言葉も、あのころより減っていた。


 ある夜、久々に一緒に食卓についたとき、

 涼音が軽い調子で聞いた。


「最近どう? 友達と遊んでる?」


 結菜は少しだけ笑った。


「うん……まあ、それなりに」


 その言葉に――どこか違和感があった。

 でも、深く踏み込まなかった。


(信じてた。大丈夫だって。あの子は、ちゃんとやれてるって――)


 けれど本当は、

 それが逃げだったと、今は分かる。


 そして、あの日

 その日、塾の帰りが遅かったのも知っていた。

 疲れていて、もう寝てしまっていた。


 メッセージだけ送った。


「ごはんは冷蔵庫。ちゃんと鍵閉めてね」


 それが――

 あの子と交わした、最後の言葉になった。


「……私は、妹を信じてたんです。でも本当は、何も見ていなかっただけだった。大人になって、教師になって、見守る側になったつもりでいた。でも、一番近くにいたはずの結菜に、ずっと……背を向けていたのかもしれません」


 涼音の声は震えていたが、

 その瞳には、はっきりとした火が灯っていた。


「だからこそ、あの子を取り戻したいんです。今度こそ、ちゃんと、あの子の手を、掴みたい」


 蓮司はしばらく黙っていた。

 そしてようやく、煙草をくわえ直して、ひとつだけ言った。


「なら――霊にも、人にも負けるな。あなたのその後悔ごと、あの子を引き戻せ。俺たちが手伝ってやる」



 現在、夜。

 鬼塚探偵事務所の電話が鳴ったのは、涼音の話が終わって間もなくだった。


 里沙が応対すると、相手は低い女の声で名乗った。


「冬川梓。刑事課の者だ。蓮司に代わってもらえるか」


 その名前を聞いて、

 蓮司が目を細める。


 受話器を受け取り、無言で耳に当てた。


「久しぶりね、鬼塚。相変わらず普通じゃない依頼に首突っ込んでる?」


「お前が言うかよ。今度は何の件だ」


「――結菜って子。五日前に消えた女子高生。君のとこに姉が駆け込んだろ」


 蓮司の目がわずかに鋭くなる。


「情報が早いな。……警察は捜査打ち切ったって聞いてるが?」


「それでも、私は追ってる。白銀塚市北部、旧・鳴ヶ原廃寺に動きがある。近隣住民の通報が数件、そして妙な失踪記録も立て続けに出てる」


「教団か?」


「ああ。サルヴァ=ノクス……名前に覚えがあるはずね」



 冬川梓――刑事課の人間。

 だが、蓮司とは過去に一度、共に人ではない者を追ったことがある。


 そのとき、彼女は目の前で仲間を失った。

 法も、銃も、言葉も効かない現実に触れてしまった。


 以来、彼女は公式ではないやり方で、

 蓮司と時折接触を続けている。


 深夜、事務所を訪れた梓は、

 黒のスーツにレインコートを羽織ったまま、

 無駄のない足取りで入ってきた。


 冷えた目。だが、その奥にあるのは明確な意志。


「私は警察の人間としてではなく、知ってしまった者として、ここに来たわ」


 彼女は涼音に名刺を差し出したあと、

 蓮司のデスクに一枚の写真を置いた。


 それは、廃寺の裏手に設置された監視カメラの静止画。

 夜中、黒い衣をまとう人物が、

 何かを抱えて門をくぐっていく――


 それは、人影だった。


 小柄な、少女のような。


「結菜だな」

 蓮司がつぶやいた。


「これが、今のところ唯一の痕跡。だが廃寺には張られた結界がある。術者のものでなければ踏み込めない」


 里沙が反応する。


「術者……つまり、教団の霊能者が儀式を守ってる。普通の人間じゃ、近づくだけで霊障が起きるわね」


「だから頼んでるのよ」

 梓はまっすぐに言う。


「私は、あの子を救いたい。法が届かないなら、お前たちのやり方に付き合うわ」


 共闘、成立。

 蓮司は短く息を吐いたあと、

 机の上の短刀を手に取り、柄を軽く叩いた。


「だったら、遠慮なく使わせてもらう。梓、お前には突入前に情報と警備動線を潰してもらう。こっちは霊障対策と結界破壊だ」


「了解。私は現場で戦える。拳銃の他に、霊障対策品も揃えてある」


「……やっぱお前、刑事の皮かぶった祓い屋だよな」

 蓮司が苦笑する。


 こうして――

 鬼塚探偵事務所と冬川梓の共闘が始まった。


 儀式の夜は近い。

 十三夜は、あと三日。



 冬川梓が警察官でありながら、

 なぜ霊能探偵である鬼塚蓮司と共闘する道を選んだのか。

 その答えは、数年前の、ある夜にある。


 そしてその夜は、彼女にとって今も終わっていない事件だった。


 回想──冬川梓「死者の部屋にて」

 それは五年前――

 冬川梓が、まだ警部補として本庁に在籍していた頃の話だった。


 配属されたばかりの新人を連れ、

 彼女は一件の失踪事件の現場検証に赴いた。


 現場は、郊外の廃団地。


 住民はすでに全員退去しており、

 建物は朽ちかけ、コンクリートのひび割れからは草が伸びていた。


 だが――

 団地の一室で、不可解な現象が相次いでいた。


「夜中に電気がつく」

「人の話し声がする」

「誰もいない部屋で、椅子が動いた音がする」


 そんな噂が近隣の作業員から上がり、

 捜査の一環として内部調査が行われたのだった。


 異変。

 団地の三〇一号室。

 窓は割れ、空気は淀み、カビと埃の匂いが染みついていた。


 若い巡査が怯えた声で言った。


「……冬川さん。な、なんか寒くないっすか? 冷房、入ってないっすよね……?」


 その直後だった。


「たすけて」


 誰かの声が――

 部屋の奥から、はっきりと聞こえた。


 誰もいないはずの、

 真っ暗な寝室の奥から。


 冬川はすぐに拳銃を抜いて構えた。


「警察だ! 中に誰かいるなら応答しなさい!」


 だが、返事はない。

 空間だけが、異常なまでに冷えていく。


 奥の扉を開けた瞬間――

 中には、誰もいなかった。

 ただ、壁一面に、子どもが書いたような絵が貼られていた。


 その全てに、こう記されていた。


「みつけて」

「ここにいるよ」

「まだ、さびしいよ」

「しんでも、さびしいよ」


 次の瞬間、背後でドアがバンと閉まった。


 巡査が叫ぶ。

「冬川さん、今……! ドア、勝手に……ッ」


 だが梓はその時、

 確かに何かが背後に立った気配を感じていた。


 息の音。


 まるで、

 背中で泣いている子どものようだった。


 その後、部屋に入っていたもう一人の捜査員が――

 原因不明の心不全で死亡した。


 死亡時刻は、その声が聞こえた直後。


 司法解剖でも、死因は特定されなかった。


 以来、梓は知ることになる。


 法は、すべてを裁けるわけではない。


 現実には、理屈の外側にいる何かが、確かに存在している。


 彼女はそれ以降、独自に民間の霊能捜査士を追い、

 非公式に事件記録を手繰った。

 その過程で出会ったのが――鬼塚蓮司だった。


 現在。

 鬼塚探偵事務所の一室で、

 梓は短く語った。


「……あれから私は、警察官であり続けることを選んだ。けれど、霊的現象の存在を否定はしていない。むしろ今は、それが犯罪と結びついていると感じてる」


「今回の件は、明らかにそれだ。人間の悪意が、霊的儀式と結びついている」


「だから、私は――手を引かない」


 蓮司は短く頷いた。


「その覚悟があるなら、俺たちの領分に踏み込んでも構わない。あんたさえよければ」



 鳴ヶ原廃寺へ出発する夜、

 鬼塚探偵事務所では、最後の準備が整えられていた。


 涼音は、事務所の隅で不安げに佇んでいた。


「……私も、行きます」


 その言葉に、蓮司が即座に首を振った。


「だめだ。あなたが来れば、逆に結菜の霊脈が刺激される。繋がりが強いぶん、器の完成を早める危険がある」


「でも――」


「行かないことも戦いのひとつです」

 里沙が、穏やかに言う。

「あなたの想いは、必ず私たちが届かせます。だから、ここで――祈っていてください」


 しばし沈黙ののち、

 涼音はぎゅっと手を握りしめ、目を伏せた。


「……わかりました。どうか、あの子を、お願いします」


 蓮司はひとつ頷き、

「借りは返す」とだけ残して背を向けた。



 ここからは、儀式の場に踏み込むための準備と、

 その前に待ち受ける霊的残滓ざんし=失敗した儀式の痕跡との接触だ。


 暗黒教団《サルヴァ=ノクス》が拠点とする廃寺、鳴ヶ原廃寺は、

 既に外部の結界によって封じられている。


 だが――その封印の歪みから漏れ出したものが、

 今夜、迎え撃つ者たちを試す。


 白銀塚市・郊外。

 鳴ヶ原廃寺へと続く林道は、既に夜の帳に沈んでいた。


 蓮司、里沙、梓、三人の影が木々のあいだから伸び、

 風に混じって土と苔の匂いが濃くなる。


 蓮司が静かに歩を止めた。


「……ここから先だ。霊的な境界に入る」


 その目は細く、だが鋭く光っている。


 里沙は呪符の束を開き、

 空中に一枚ずつ、念を込めて放っていく。


 符が空中で淡く光り、

 ある一点でビリ、と破れるように消えた。


「反応あり。境界は、そこから半径二十メートル内。霊障が始まる可能性あり。準備して」


 冬川梓は拳銃のホルスターを確認しながら、

 低く問う。


「中に入れば、儀式の痕跡に触れる可能性があるんだな?」


「むしろ、触れに来る」

 蓮司が即答する。


「奴らは封印を維持するための式を定期的に繰り返してる。その残響が――術者が去ったあとでも、場所に残る」


「そして、それに引き寄せられてくるものがいる」


 接触──儀式残滓《ひび割れの嬰児えいじ

 三人が境界を踏み越えた直後だった。


 空気が、一気に冷えた。

 夜気の中に、鉄錆と血のような臭気が混じる。


 梓が息をのむ。


「……空気の質が変わった。気圧も下がってる」


「くるぞ」

 蓮司が呟いた瞬間、林道の奥、朽ちた鳥居の下に――


 小さな何かがいた。


 四つん這いのまま、

 ぐしゃりと潰れたような赤子のような影。

 全身がひび割れた陶器のようにざらついており、

 頭部は逆さまに、耳と口が同じ位置にあった。


「あぁ……かぁさん、こっち……みてぇ……」


 その声が、脳髄に刺さるように響く。


 里沙が息を呑み、素早く符を掲げる。


「これは……儀式の拒絶反応……! 生贄にされかけた魂の、半端な残り……!」


「つまり、儀式に失敗した魂のなれの果てか」


 蓮司が短刀を抜いた。


「……成仏もできず、役目も果たせず、ただここで叫び続けてる――」


「ちがう、ちがう、ちがう、ちがう……おれは……いのりに、なりたかったのに……」


 その影が、地面を這いながら突進してくる。



 蓮司は短刀に霊力を纏わせ、

 低く唱える。


「裂魂式――霊脈断ち!」


 地面を這う霊の前に霊陣が浮かび上がり、

 その進行を阻む――だが、嬰児の霊体は一瞬で裂けて分裂し、

 複数のひび割れた手として襲いかかってくる。


「分裂するぞ、構えろ!」


 梓が、特製の霊符装填式リボルバーを抜き放つ。


 弾倉には、結界破り専用の封札が刻まれている。


「式番号《四十七番・封撃》、発射」


 バン!


 一発の霊符弾が嬰児の胴を貫き、

 影の一部が蒸発するように霧散した。


「――動きは鈍いが、痛覚がある」


「じゃあ、これは効くはず!」


 里沙が地面に呪文陣を描き、中心に結晶符を叩き込む。


「浄式・束環そくかん!」


 放たれた光が嬰児の影を包み、

 その泣き声が低く、途切れていく。


「……おかあ……さん……」


 かすかな声だけを残して、

 影はようやく静かに、地へと還った。


 終わり、だが

 沈黙が戻った林道。


 蓮司は短く言う。


「これが、儀式の入り口ってやつだ。まだ何人も、ああやって途中で捨てられてる」


「本命は、この奥だ」

 梓が拳銃を納め、短く言う。


「ここから先が、地獄の本番」


 蓮司は低く告げた。


「結菜がいる場所だ。次は、俺たちが踏み込む番だ」



 時刻は午前二時。

 十三夜の月が雲の切れ間から覗いていた。


 廃寺の正門前。

 倒れかけた石灯籠が、薄い闇に沈んでいる。


 だが、その奥からは確かに感じる。

 儀式の気配。生贄の鼓動。


 里沙が地面に手を当て、呪式の境界を読み取る。


「ここから先は、完全に結界内です。警告式が張られている。術者に気取られる前に、突入して撹乱します」


 梓は拳銃を確認しながら低く言う。


「その撹乱が済んだら、私は裏手の納屋へ回る。脱出経路の確保と結菜の所在確認は任せて」


「俺は本堂正面から入る。導師がいるはずだ。ぶっ潰して結界を落とす」


 蓮司がそう言った瞬間――

 突風が吹いた。


 寺の門が、音もなく自動的に開いた。


「……歓迎の準備はできてるらしいな。どうやらプランB、全員正面から行くしかないようだぜ」


 三人は無言で、境内へと踏み込んだ。



 境内は不気味なほど静かだった。

 だが地面には、薄紅色の灯油で描かれた巨大な円陣。


 その上に立った瞬間、

 地面から黒い煙が立ち上がる。


「侵入者、確認――」


 金属のような声。

 現れたのは、黒装束の男たち。顔には仮面。


 教団の術者兵《傀儡くぐつ》たち。


「始末しろ。式は完成間近だ。貴様らの干渉は許さぬ」


 蓮司が一歩前へ出る。

 手にした短刀が霊光を帯び、

 空気に音を立てて火花を走らせる。


「言っとくが――俺は、話の通じない奴をぶん殴るのが得意だ」


 そして、


「――祓うぞ」


 一陣の風と共に、突撃。


 鳴ヶ原廃寺・本堂前。


 鬼塚蓮司が結界陣に足を踏み入れた瞬間、

 四方の地面に刻まれた文様が赤く脈動し始めた。


 ズズ……ッと音を立てて、土の中から這い出てくる黒衣の男たち。

 その顔は白布で包まれ、瞳だけが血のように赤く光る。


 教団の戦術霊能者――《傀儡くぐつ》。


「侵入者、祓え……ッ!」


 その号令と共に、

 六体の傀儡がいっせいに突進を開始。


「来るなら来い」


 蓮司は短刀を逆手に構え、

 地を蹴った瞬間、全身に霊オーラが漲る。


 オーラは黒と蒼の混じる炎。

 それが走った瞬間――


「裂魂一閃!」


 地を走る斬撃が円を描き、

 一体目の傀儡を真正面から切り裂く。

 霊符が焼け焦げ、肉体ごと地に沈む。


「蓮司さん、左ッ!」


 第二陣──里沙の結界破り術。

「封・陣崩し《解呪式・連波》!」


 空中に走らせた呪符が次々と光を放ち、

 傀儡たちの足元にある術式を逆転符号で乱す。


 地面が揺れ、守りの結界が音を立てて崩れていく。


「式場の外では、あんたたちも無力よ!」


 その隙に蓮司が横薙ぎの一撃で、

 二体をまとめて吹き飛ばす。


「よし、半分を潰した――!」


 第三陣──冬川梓、霊符弾発射

 梓は冷静に拳銃を構えた。

 リボルバーには浄霊強化符《破滅式・第四号》が装填されている。


「撃つ」


 ターゲットロック、引き金を引く。


 パン!


 銃声は裂帛の如く響き、

 霊符が炸裂。

 一体の傀儡が宙を舞い、顔の仮面ごと吹き飛ぶ。


「次弾。式番号《五十二番・穿撃》」


 パンッ――!!


 二発目は突撃してきた傀儡の膝に直撃。

 関節が砕け、霊力が断たれた体が崩れ落ちる。


「……霊障にも、骨にも通るわよ。私の銃は」


 蓮司が口元だけで笑う。


「相変わらず、無法な警官だな」


 残りの傀儡が後退し始めたそのとき――


 本堂の扉が、音もなく開いた。


 そして現れたのは、

 漆黒の法衣を纏った、導師ヴェスカ。


 白髪、異様に痩せた頬、

 額には邪神の焼き印。

 その目は、感情を一切排した完成された狂信そのもの。


「……祓う者どもか。滑稽だ。我らが器を目覚めさせたのは、むしろ貴様らよ」


 里沙が霊感で確認し、顔をこわばらせる。


「結菜ちゃん……! 本堂の中にいる……!」


 蓮司が低く、静かに刀を構える。


「だったら、遠慮はいらない。導師。器を汚すな――その魂ごと、俺が祓う」


 ヴェスカは本堂の中へ入る。


 三人も駆けだす。本堂は、墨を垂らしたように暗かった。


 蝋燭が灯る中央に、柊結菜の姿があった。

 白い儀式衣を纏わされ、胸元には血の印。

 手足を縛られるでもなく、ただ静かに横たわっていた。


 だが、彼女の瞳は開いている。

 虚ろに天井を見つめ、まるで夢のなかに囚われているようだった。


「……結菜……!」


 叫びそうになる里沙を、蓮司が手で制した。


 その視線の先に、導師ヴェスカが立っていた。

 月のような白髪、骨のように痩せた身体。

 彼の周囲の空間だけ、歪んでいた。


「お前たちの行動は、ただ儀式を促進させるだけだ。魂の焦燥が強まれば強まるほど、器は完成へと近づく」


「黙れ」

 蓮司が一歩踏み出す。短刀が霊光を帯びる。


「器でもなんでもない。あれは、人間だ。生きた魂を、神のための箱になんかさせてたまるか」


 ヴェスカの口元が歪む。


「ならば、その覚悟……魂で示せ」


 その瞬間、

 ヴェスカの背後に黒炎が噴き上がった。


 式陣が起動する。

 空中に逆紋の呪符が浮かび上がり、

 本堂全体が結界戦場へと転じた。



 蓮司が突進。

 だが、ヴェスカは身動き一つせず、

 掌から放たれた霊気の鎖が空を走る。


 ガッ――!


 蓮司の右腕に巻き付いた鎖が、

 一瞬で霊脈を絞めつける。


「……霊力が、流れなく……ッ!」


「術者の霊脈を断つ拘束陣――我ら《サルヴァ=ノクス》の根幹は、供物の律動にある。魂の通路を断てば、お前はただの人間」


「なら、私が通路を再構築する!」


 里沙は地面に瞬時に結界式を描き、

 霊流の再補正を行う。


「祓符・開霊ひらきたまえ!」


 蓮司の身体に貼られた呪符が輝き、

 断たれた霊脈が逆流のように動き出す。


「――間一髪だぜ、サンキュ」


 蓮司が再び突撃。

 ヴェスカは今度は掌から黒い護符を撒き散らし、

 それが空中で顔のない亡者となって襲いかかる。


「足止めは任せろ」


 梓が拳銃を構え、

 顔のない亡者の口元へ、霊符弾を一発ずつ撃ち込む。


 パン、パン、パン――!


 一体、また一体と黒い霊体が崩れていく。


「数は止められるが……あれ、導師本人が霊的核を担ってる。撃ち込むなら、直接の隙しかない!」


「了解!」


 そのとき――

 本堂の中心で、

 柊結菜の指が微かに動いた。


「……っ……ねえ……おねえ、ちゃん……?」


 虚ろだった瞳が、霊力の激流のなかで

 わずかに戻ろうとしている。


 だがヴェスカがそれに気づいた。


「器が……目覚めかけている……!」


 彼が両腕を広げ、最後の呪詛を唱え始める。


「来たれ、神喰の端末よ。汝の核を、少女に与えよ――!」


 赤黒い球体の霊核が空中に現れ、結菜の胸元へと落下する――


「させるかよ!」


 蓮司が全身の霊力を凝縮させ、

 逆手に構えた短刀へ注ぎ込む。


「この魂は、貴様らなんかに喰わせない。――封祓・断魂穿だんこんせん!」


 重い風圧とともに放たれた斬撃が、

 空中の霊核を真っ二つに裂く――!


 破裂音。


 霊核は砕け、術式は崩れ、

 本堂全体の結界が失神するように崩れ落ちた。


 ヴェスカは力なく後退し、

 苦しげに地面を掴んで言う。


「我らの夜は終わらぬぞ……いずれ、また……」


 そのまま、白布のごとき法衣を散らして、

 導師の姿は闇に溶けて消えた。



 静寂。

 本堂に残るのは、灯の消えた蝋燭と、

 結菜の小さな呼吸音。


 彼女はゆっくりと目を開け、

 蓮司たちの姿を見て、震える声でつぶやいた。


「……おねえちゃんは……来て、くれた?」


 蓮司はそっと頷く。


「来てくれたさ。だから、もう大丈夫だ」



 それは、霧雨の明け方だった。


 白銀塚市の北端、鳴ヶ原廃寺の結界が破られ、

 本堂はただの瓦礫の静寂へと還っていた。


 炎は鎮まり、

 呪符は燃え尽き、

 儀式陣も風に散って消えた。


 本間里沙が結菜に薄手のブランケットをかけ、

 そっと背中を支えて言う。


「もう、大丈夫よ。怖いのは、終わったの」


 結菜はかすかに震えながら、

 蓮司の影越しに、空を見上げた。


 夜が――明け始めていた。


 廃寺の前には、すでに一台の車が停まっていた。


 ドアが開く音。


 結菜が目を見開いた。


「……お姉ちゃん?」


「結菜!!」


 柊涼音が走り寄ってきた。

 その顔には、涙の跡。

 だが、声はしっかりしていた。


 そのまま、躊躇なく――妹を、抱きしめた。


「ごめん……遅くなってごめん……私、私、あんたのこと……ずっと見てなかった……!」


「お姉ちゃん……っ、ほんとに来てくれたんだ……」


「当たり前でしょ……! 絶対に取り戻すって、決めたんだから……!」


 結菜の小さな手が、涼音の背を掴む。


 二人は、しばらく離れなかった。

 何も言わず、ただ確かめるように、ぬくもりを分け合っていた。



 探偵事務所へ戻ったのは、午前八時過ぎだった。


 鬼塚蓮司は、疲れたようにソファに倒れ込み、

 里沙はコーヒーを淹れていた。


 梓は上層部への報告に備え、資料をまとめながら呟く。


「結局……教団の本体はまだ残ってる。導師も完全には祓えてない。神喰の儀式体系も、未解明のままよ」


「だが、結菜は取り戻した」

 蓮司は煙草をくわえ、火をつける。

「一人を救うってのは、こんなに泥臭くて、それでも尊い仕事だ」


「また戦うことになるわよ」

 梓が淡々と言う。


「そのときは、俺たちのやり方でやるさ」

 蓮司は微笑まずに、そう返した。


 姉妹の手紙(後日)

 数日後。

 事務所に、封筒が届いた。


 差出人は、柊涼音と結菜。


 丁寧な手書きの手紙と、小さな菓子箱。

 中には、こんな言葉が添えられていた。


「あの夜、私たちは確かに闇の中にいました。でも、あの子を取り戻せたのは、鬼塚さんたちが、私の代わりに祈ってくれたからだと思っています。ありがとうございます。これからは私が、妹を守って生きていきます。どうかまた、誰かの闇を照らし続けてください」


 蓮司はその文面を読んだあと、

 無言でコーヒーを啜った。


 机の上には、焼き菓子と、

 薄い春の光が差し込んでいた。



 蓮司はソファに背を預け、

 煙草をくゆらせながらぼんやりと天井を見ていた。


 机の上には、涼音と結菜からの手紙。

 開封されたまま、まだそこにある。


 本間里沙は黙ってコーヒーを淹れ、

 二人分のマグをテーブルに置いた。


「静かですね、今日は」


 蓮司は、返事をせずにコーヒーをひと口啜る。


「この静けさが、……嵐の前の静けさじゃなきゃいいがな」


「それでも、今は静かなんです。少なくともあの子たちのところには」


 里沙の指先が、手紙の封筒に触れる。


「いい顔でしたよ、結菜ちゃん。あの夜から何もかも変わるわけじゃないけど……ちゃんと、生きて帰ってきた顔でした」


「……あの子は、戻ったんだ。祓われずに済んだ魂ってのは、そう多くはない」


 蓮司の声は低い。

 淡々としていたが、その奥にはわずかな安堵が滲んでいた。


「でも、あいつら……《サルヴァ=ノクス》は、まだどこかにいる。導師も、完全には消えていない」


「わかってます」

 里沙は頷きながら、小さく笑った。


「だから、ちゃんと休んでくださいね。次に備えるためにも」


「お前は休まねぇくせに、よう言うな」

 蓮司がわずかに眉を上げると、

 里沙はマグを持ち上げて、少しだけ肩をすくめた。


「私は助手ですから。蓮司さんが止まると、事務所が止まっちゃう」


 その言葉に、蓮司はほんの一瞬だけ、口元を緩めた。


「……そうかよ」


 沈黙が、また戻る。

 だが、それは重たいものではなかった。

 どこかに、春の光と同じような、

 柔らかく、確かな温度があった。


 机の隅には、封を切られた菓子箱が置かれている。

 涼音と結菜が焼いてくれた、手作りのもの。


 里沙がふと一つつまみ、

 もう一つ、蓮司の前に押し出す。


「……おいしいですよ、これ。せっかくの手紙と一緒に、ちゃんと味わってください」


 蓮司は小さくうなずき、

 静かにそれを手に取った。


 そして窓の外、どこまでも澄んだ青空を見上げた。


 Case:完了

 次の依頼が来るまでは、

 この春の静けさに、少しだけ浸っていよう。


 何かが終わった日には、

 こうして誰かとコーヒーを飲める時間が、

 何より大切なのかもしれない。

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