第十八話
静まり返った街に、
誰もが「本当は信じていない」と言いながらも、
決して一人では歩きたくない噂がある。
春の夜、灯りの途切れた裏路地で、
誰もいないはずの場所に、誰かが立っている。
あの坂道で、振り返ってはいけない。
白銀塚市の北端に位置する住宅街の外れ。
地元では「影踏み坂」と呼ばれる、
古びた石畳の坂道がある。
そこには、夜ごと誰かが立っているという。
背を向けて歩いていると、
背後にもうひとつ、足音が重なる。
だが――振り返ってはいけない。
振り返った者は、
自分の影に引きずり込まれるという。
そんなありふれた都市伝説に、
ふとしたきっかけで命を落とす人間が出始めたのは、
ごく最近のことだった。
鬼塚探偵事務所──夜
午後九時過ぎ。
鬼塚探偵事務所には珍しく、夜の来客があった。
扉を叩く音。
遠慮がちで、だが切迫した気配を帯びている。
「どうぞ」
蓮司の声に応じて入ってきたのは、
二十代前半の女性だった。
名は――槙野 千紗。
黒髪を一つにまとめた、控えめな印象の女性。
だが、その瞳の奥には、何か深い怯えがあった。
「お願いです。助けてください……」
彼女の声は震えていた。
そして語り始めたのは、
自分が数日前――影踏み坂で振り返ってしまったという告白だった。
語られる都市伝説の現実
「その日、夜遅くに帰っている途中で、……誰もいないはずなのに、足音が聞こえたんです。振り返っちゃいけないって、分かってた。でも、どうしても、怖くて……振り返ったら……。――自分の影が、立ち上がってたんです」
蓮司と里沙は、静かに目を見交わす。
それはただの妄想ではなかった。
千紗の周囲に、かすかな霊的残響が漂っている。
影の匂いが、現実のものとして染みついていた。
「それから……毎晩、夢に出てくるんです。誰かが、私の後ろに立ってるんです。鏡を見ると、影が動くんです……。私……、もう、怖くて、眠れなくて……」
彼女の肩は震えていた。
蓮司は立ち上がり、静かに言った。
「分かった。依頼、引き受ける。その影がただの都市伝説じゃないのなら――俺たちが、現実として、決着をつけよう」
夜の事務所。
暖かなランプの光が机を照らすなか、
千紗は、掌をぎゅっと握ったまま、静かに語り出した。
「影踏み坂のことを、知ったのは……昔の友達の、葬儀がきっかけだったんです」
蓮司と里沙が目を向ける。
千紗の声には、怯えと、なにより罪悪感が滲んでいた。
「高校のとき……影踏み坂の噂を流したの、実は私たちなんです。――わたしと、笹原かれんという子が」
名前を口にするたびに、彼女の口元がわずかに震える。
「深夜、あの坂を通ると影がついてくる。振り返ると自分に殺される。……そんな、子どもの噂話。でも、それからしばらくして、かれんが……夜、坂の下で倒れてたって」
声が途切れる。
里沙が、柔らかく言った。
「亡くなったの?」
千紗は、かすかに頷いた。
「事故死ってことになった。でも――あの坂で、倒れてたんです。一人で、夜中に、何をしていたのかも分からないまま……そのまま、誰にも何も言わずに……。怖くて、私は誰にも言えませんでした。かれんとあの噂話をしていたことも、約束してたことも、全部。だから……。だから、きっと、影は――私に、怒ってるんだと思うんです」
千紗は続けた。
「最近、少しずつ、かれんの顔が思い出せなくなってきてて……あんなに一緒にいたのに、声も、笑い方も、ぼんやりとしか思い出せないんです。家族の人に会いに行こうとしたら、『うちにそんな名前の娘はいません』って――」
蓮司の目が鋭く光った。
「それは、影が、かれんの痕跡を食ってる。記憶も、人の繋がりも、忘れられたくない魂を封じるために、周囲の記憶を侵食してるんだ。このまま放っておけば――あなた自身も、かれんを知っていた記憶ごと、世界から消えていくぞ」
千紗の瞳が揺れた。
「……かれんを、忘れたくない。あの時、私が一人で噂なんてしなければ――一人で夜の坂になんて、行かせなければ……今さら、何をしても償えないかもしれないけど……でも、……でもせめて、かれんの影がそこにいるのなら――もう一度、会って、謝りたいんです」
蓮司は立ち上がり、窓の外を見た。
外は春の夜。
だが、その静けさの奥に、
影の気配が、じっと息をひそめている。
「いいだろう。だったら――俺たちで、その影と向き合う場所まで、案内してくれ。かれんの記憶を食らう存在がいるのなら、そいつは俺たちが祓う。ただし――」
振り返った蓮司の目は、真剣そのものだった。
「あなた自身が、逃げずに会う覚悟があるなら、だ」
千紗は、唇を噛み、震える声で言った。
「はい……。行きます。かれんのところへ。最後まで、ちゃんと……向き合います」
闇にひそむ影の正体と、
そこに込められた想いをたどるために。
蓮司、里沙、そして依頼人の千紗は、あの坂道へと向かう。
白銀塚市、北端。
住宅街の外れにある小道を抜けると、
それはまるで時間から置き去りにされたように、ぽつりと現れる。
影踏み坂。
昼間はただの傾斜道にしか見えないこの坂は、
夜になると、明らかに空気が変わる。
蓮司、里沙、千紗の三人が坂に足を踏み入れたのは、午後十一時過ぎ。
あたりの街灯は切れており、
ただ月明かりが、わずかに石畳を照らしていた。
「……ここです」
千紗が足を止める。
「かれんが、最後に来た場所。わたしも……あの日、ここで影を見たんです」
里沙が、懐から塩を少量撒くと、
空気がざわりと揺れた。
「反応がある。……いますね。影が、すぐそこに」
蓮司は目を細め、ゆっくりと呼吸を整えた。
その瞬間――
カッ……カッ……カッ……
後方から、誰かが石を踏む音が聞こえた。
誰も振り向いていない。
けれど確かに、そこにもうひとつの足音がある。
「影だ」
蓮司が低くつぶやく。
「絶対に、今は振り返るな。この場所では、見てはいけないものがいる」
千紗は震える肩を抱きながら、目を閉じた。
足音が近づく。
だが、それは一歩ごとに重く、
まるで聞く者の心臓を圧迫するような響きだった。
幽視──蓮司の霊的視界。
蓮司はゆっくりと右手を上げ、
己の霊力を集中させた。
オーラが立ち昇る。
視界が淡く歪み、肉眼では見えない存在が、輪郭を帯び始める。
「見えた……」
蓮司の眼に映ったのは、
黒いセーラー服姿の少女――
いや、かつて少女だった何か。
影のように半透明で、
だが、髪の先、袖の揺れまで異様にはっきりと存在感があった。
その顔は――
笑っているのに、涙を流していた。
「わたしを、忘れたの?」
「千紗……どうして……振り返ったの?」
「くるぞ」
蓮司が声を低く張る。
「この影、問いかけてくる……! 自分の存在を思い出させようと、記憶の奥に爪を立ててくるぞ!」
影が千紗の背後に接近し、
まるで影が伸びて、千紗の足元に重なっていくように、
飲み込もうとしてくる。
「千紗! 頭の中に直接語りかけてくるぞ。答えるな! 記憶を吸われる!」
蓮司が叫ぶ。
だが、千紗は静かに口を開いた。
「……かれん。わたしは……あなたを……」
千紗が言葉を口にした瞬間、
空気がねじれた。
蓮司の眼に映る霊的な光景が、一瞬で反転する。
春の夜の坂道が、
まるで水の中に沈んだように揺らぎ始めた。
「――蓮司さん、空間が歪んでいく!」
里沙の声も、まるで遠くの水底から響くように聞こえる。
次の瞬間――
蓮司と里沙、そして千紗の三人の意識は、
記憶の奥底へと引きずり込まれた。
そこは、
陽の傾き始めた、放課後の教室だった。
窓の外では桜が咲き、
女子高生たちの声が飛び交っている。
千紗は制服姿で、
教室の後ろの窓際に、静かに座っている。
そして、隣にいたのは――
笑っていた。
黒髪を肩まで垂らした、透明な笑顔の少女。
笹原かれん。
「ねぇ、千紗。あの噂、知ってる?」
「影踏み坂のやつ? うん、誰かが言ってた」
「でもさ――誰かが、本当に影に引きずられてったら、どうする?」
「……そんなの、あるわけないってば」
「だよね。でもさ……」
かれんは、かすかに笑う。
「忘れられるのが、一番怖いって思わない? 私は、いつか、みんなに忘れられる気がして、……それが、怖いんだよ」
千紗は、その言葉に返せなかった。
ずっと前から、かれんは居場所を探していた。
教室では少し浮いていて、
声が小さくて、冗談も苦手で、
けれど、千紗にだけは、心を開いていた。
あの日、かれんが一人で坂へ向かった理由――
それは、あの噂を
ほんとうかどうか確かめたいと言い出したからだった。
千紗は、
「行かない方がいいよ」
と、笑ってごまかした。
けれど――
止めなかった。
記憶の中の影
そして、教室の中で、
時間が止まったように、静寂が訪れる。
窓の外。
影が、地面を這うように、
教室の中に入り込んでくる。
黒い、少女の形をした影。
「千紗……」
「わたしを、忘れてくれるの?」
影が教卓の上に立つ。
それは、笑っていた。
目から、黒い涙のような霧を流しながら。
「あなたにとって、わたしは、ただの怖い話だった? 噂になって、終わったの?」
千紗は、制服姿のまま、机にしがみつくように立ち上がる。
「……ちがう。ちがう……わたし、忘れてない……忘れたくなかった……! わたしが……私が、逃げてただけだよ、かれん……!」
記憶の中の教室が揺れる。
影のかれんが、少しずつ、色を取り戻す。
だが――まだ、救いには至らない。
蓮司が前に出る。
その霊力が、記憶の空間にも光のように滲む。
「影よ。問いかけは終わりにしろ。この記憶は囚われではなく、和解のためにある。――次に問うのは、俺たちだ。お前が、忘れられたくなかったなら、その痛みごと、俺たちが引き受けよう」
次の瞬間、記憶の教室が砕け、
三人の意識は現実へと引き戻された。
だが、その中心にはまだ――
影のかれんが立っていた。
今度は、確かな敵意をもって。
蓮司、里沙、そして千紗。
三人が立つのは、春の夜、記憶と現実が交差する坂道。
今、影のかれんが完全な姿を現し、
「忘却」の呪いを刃のように振り下ろす。
これは、都市伝説の皮をかぶった
――魂の悲鳴との戦いだ。
ザアァ……ッ
夜風が、坂道を逆巻く。
影は少女の姿を保ったまま、だがその輪郭は、
黒い霧と怨念のオーラをまとう異形の存在へと変貌していた。
瞳は虚ろに、口元だけが笑みを浮かべている。
「忘れた者は、裁かれる。見なかった者は、消える。千紗、あなたも、連れていく」
その声は、千紗の心を直接えぐるように響いた。
霊力、解放──蓮司と里沙の構え
「来るぞ」
蓮司が低く言い、両手を前に構える。
霊力のオーラが、蓮司の背後から立ち上がる。
それは漆黒に淡い蒼光が混じる、重く鋭い気配だった。
「千紗、下がっていろ……だが、お前の覚悟だけは忘れるな。かれんの魂に、向き合うんだ」
「はい……!」
千紗は震えながらも頷き、祈るように両手を組む。
一方、里沙も印を切りながら前に出る。
指先には光の符――緋色に輝く呪符が浮かぶ。
「影と対話は終わった。次は――霊術師としての、対処です」
影のかれんが、空間ごと滑るように突進してくる。
「わたしを、忘れたくせにッ――!!!」
霧の刃のような手が、
蓮司へと叩きつけられる。
「来いよ……相手になってやる」
蓮司は地面を蹴り、カウンターの霊撃を繰り出す。
腕から放たれる霊波動のオーラが、
空間ごと割るように直撃。
ドゴォッ――!
黒い影が一瞬揺らぎ、瓦解しかける。だが――
「まだッ!!」
影は分裂し、五体の虚像を作り出す。
「っ、幻影か!?」
「蓮司さん、全部記憶の抜け殻……! 思い出されなかった彼女自身の影が攻撃してきてる!」
里沙の援護──封術と呪符
「数で押すつもりなら……封じてあげる!」
里沙が両手を広げ、空中に六枚の呪符陣を展開。
「破邪・緋緋羅陣――発動ッ!」
空間に張り巡らされた呪符が瞬時に爆ぜ、
霊影たちを包囲・拘束。
三体が完全にその場で硬直する。
「蓮司さん、今!」
「やるしかないな――!」
鬼塚蓮司、全霊解放
蓮司は拳を握り、低く唸る。
「……忘れられることが、お前を狂わせたんなら――俺は、お前の記憶に手を突っ込んででも、魂の底から――引き戻す!!」
彼の身体全体から、
龍の如き霊圧が立ち昇った。
霊力の奔流がうねり、空間がきしむ。
右腕に宿した特異な紋章が発光し、
影の本体へと一撃を叩き込む。
「浄化破霊――断影裂破!!」
――ズンッッ!!
重く、広がるような破裂音。
影のかれんが、叫びとともに、裂けるように光へ砕けていく。
消える影、残る声。
「わたしは……わたしは……本当は……千紗と、……友達で、いたかった……だけ、なのに……」
それは、
怒りでも呪いでもなかった。
ただの、少女の声だった。
黒い影は、静かに淡い桜色の光へと還り、
風に乗って、どこかへと消えていった。
魂の咆哮が過ぎ去り、夜明けが訪れる。
忘却と呪いに縛られた影は、
最後に友の声を聞き、静かに還っていった。
戦いの余韻を残しながら、
蓮司たちは坂を下りる。
春の黎明。
東の空がわずかに朱を帯び、
影踏み坂は静けさを取り戻していた。
鳥の声が遠くから響き、
朝露に濡れた石畳が、昨夜の激しさを忘れたように輝いている。
蓮司は、封じ札の焼け焦げた痕を確認しながら、
ふう、と煙草に火をつけた。
「……終わったな」
その横で、里沙も深く息を吐く。
「一時はどうなることかと思ったけど。やっぱり、蓮司さんが本気出すと空間が軋むレベルですね」
「……大げさな」
「いえ、本気で言ってますよ。私も久々に霊力、追いつくの大変でしたから」
そんな二人の横で、
千紗は一人、坂道を見上げていた。
春風が髪を揺らす。
その瞳は、どこか空っぽのようで、けれど――穏やかだった。
「ねえ……」
千紗が静かに呟く。
「……かれんの顔、思い出せたんです。最後のあの瞬間、確かに笑ってた。あんなに、まっすぐ笑ったの、初めて見た気がする」
「怖い噂にして、笑い話にして……自分だけ逃げて、彼女を置いていった私が――今さら、何かできるとは思えないけど……」
「でも、思い出せる。思い出せるうちは、忘れない。忘れなければ、きっと、彼女はいたことになるから」
蓮司は黙って、煙草を消した。
「記憶ってのは、霊以上にやっかいだ。時間にも理屈にも勝てる。でも、その分――残酷でもある」
蓮司は言った。
「……それでも、思い出すって決めたんなら。それは、あなたにしかできない供養だよ」
千紗は涙を拭い、小さく頭を下げた。
「ありがとうございました。あの子のこと、私――もう、怖がらない」
数日後――鬼塚探偵事務所にて
春の午後。
事務所には穏やかな陽射しが差し込み、
蓮司はソファで新聞を広げていた。
里沙は机の上で帳簿と睨めっこしている。
「……次の依頼、まだこないですね」
「静かなのは悪くない」
蓮司は短く返す。
「まあ、いつまでも平穏じゃいられないでしょうけど」
カラン、と。
「いらっしゃいませ……あっ」
里沙が声を上げる。
ドアの向こうには、あの日と変わらない姿で立っていた。
依頼人、千紗だった。
彼女は穏やかな微笑を浮かべ、手には小さな紙袋を持っていた。
「こんにちは。……その、少しだけお時間、いいですか?」
数分後。
蓮司と里沙はソファに座り、彼女の話を聞いていた。
千紗の表情は、どこかすっきりとしていて、
憑き物が落ちたような、いや――想いを受け止めた者の静けさがあった。
「……この間のお礼にと思って。たいしたものじゃないですけど、焼き菓子、焼いてきました」
里沙は驚きと喜びの入り混じった声で、袋を受け取る。
「うわぁ……ありがとうございます。うれしいです」
「本当は、あの日からずっと言いたかったんです。ちゃんと……ありがとうって」
彼女は言葉を噛みしめるように続けた。
「あの夜のこと、忘れることはできないし、たぶん、一生背負っていくと思います」
千紗の表情は綺麗だった。
「でも、かれんのこと……怖いじゃなくて、悲しいって思えたんです。今なら、もう一度ちゃんと、彼女に会いたいと思える」
蓮司は煙草をくゆらせながら、短く返す。
「――それでいい。霊は、記憶の中でこそ、救われるもんだ」
千紗はゆっくりと頭を下げた。
「本当に……ありがとうございました。また何かあったら、絶対に相談しますね。今度は怖がらずに」
「次は、お茶菓子だけでもいいですよ」
里沙が微笑む。
「そのときは、ぜひ」
千紗はくすりと笑い、礼儀正しく頭を下げて事務所をあとにした。
ドアが閉まったあと。
蓮司はひとつ息を吐いて、つぶやいた。
「……忘れないってのは、案外強い呪いだが――同時に、祈りでもあるのかもな」
「記憶って、残酷だけど、優しくもありますよね」
里沙は、机の上に残された紙袋を眺めて言った。
「春は、やっぱり別れと出会いの季節かもしれません」
蓮司はふっと笑ったような気配だけ残し、
窓の外を見やった。
淡い陽光の先――
坂道は、もう静かに桜を散らしていた。




