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第十三話

 鬼塚探偵事務所は、午後の光に包まれていた。春の陽はやわらかく、窓の外では風が軽やかに踊り、桜の花びらを舞わせている。 だが、その穏やかな光景の裏で、何かが静かに蠢き始めていた。


「……もうすぐ来るな」蓮司が、窓辺の椅子に身を預け、つぶやいた。


「え?」机に向かって書類をまとめていた里沙が顔を上げる。


「いや……妙な揺れを感じる。霊気の、だ」蓮司は煙草に火を点けずに咥えたまま、事務所の扉をじっと見つめた。


 その時――。


 カラン……。


 鈴の音が、小さく鳴った。


 扉が静かに開き、ひとりの青年が立っていた。


 長めの黒髪、細身の身体。年の頃は二十代後半か。白シャツに黒いコートを羽織り、手には封筒を握っている。


「……失礼します。こちらには初めて来ました。雨宮岳あまみや がくと申します」


 その声は落ち着いていたが、瞳の奥に宿るものは不穏だった。まるで――深い湖の底に沈んだ何かを、ひとりで抱えているような気配がある。


「ようこそ。話を聞こうか」蓮司が静かに促す。蓮司はどこか違和感を覚えていたが、依頼人の話を聞くことにした。


 岳は一礼し、封筒から一枚の写真を取り出した。


 写っているのは、山奥の湖畔に建つ古びた屋敷。どこか洋風の構えで、だが年月の汚れが窓を曇らせ、蔦が壁を這っている。


「これは、私の家――いえ、かつて家だった場所です。両親はもう亡くなり、今は誰も住んでいません。けれど、ここにある何かが、私を、何度も夢の中で呼ぶんです」


「呼ぶ……?」


「はい。しかも、決まって同じ夢です。湖の水面に、誰かが浮かび上がってくるんです。そして、私の名前を呼ぶ――がく、こっちへおいでって。けれど顔が、わからない。夢の中で、近づこうとすると、体が動かなくなるんです。そして最後には、必ず水の底へ引きずられる」


 蓮司と里沙は、すぐに互いの目を見た。


「……霊的な縁の呼びかけですね」里沙が小さく頷く。


 蓮司はゆっくり立ち上がり、言った。「その屋敷と湖の周辺、実地で調べさせてもらう。夢に繰り返し同じ霊が出るってことは、相当強い執着と力を持ってる。悪霊化してる可能性があるな」


 岳の顔に緊張が走る。「助けていただけますか……? 私は、もう逃げたくないんです」


「安心しな」蓮司は無言でコートを羽織り、目を細めた。「こっちは霊を相手にするのが本業だ。あんたが呪いの水面に呼ばれたなら――俺たちは、そこへ潜って正体を引きずり出す」



 湖畔の館は、春霞に包まれながら、静かに朽ちていた。水面は鏡のように静まり返り、風すら息を潜める。


「……ここが雨宮の旧家か」蓮司が足を止め、足元の泥を踏みしめながら館を見上げた。


「水の気配が強い……ただの湿気じゃないですね」里沙が霊符を取り出し、感覚を研ぎ澄ます。


「湿気に混ざって、人の感情が流れてるって感じか。……しかも、底のない怒りと哀しみ。こいつは長いぞ」


 雨宮岳は、背中を丸めるようにして立っていた。彼の目には、どこか既視感があった。――幼少期に、ここで何かを見てしまった記憶。


「入ろう。決着つけるぞ」


 館内部──歪む記憶の間。扉を開けた瞬間、湿気と一緒に声が流れ込んできた。


「がく……がく、こっちへおいで」


 千切れた声、湿った囁き。それは館の天井裏、床下、壁の奥――あらゆる方向から同時に届く。


「感情が残ってるんじゃない。人格が染みついてるんだ……!」


 蓮司が構える。右手には黒符の束。左手には、鎮咒の短刀。呪紋が鈍く青く輝き始める。


 ズルッ……グチャ……。水音のような、肉の擦れるような音が響く。


 そのとき、天井の木組みが裂け、水と肉が混ざったような霊体がゆっくりと現れた。


 髪は濡れて顔に張りつき、眼孔は空洞。しかし、その口だけが、異様に歪みながら開く。


「がく……がく……こっちに来て、一緒に沈もう?」


「出たな、呼びかける者……!」


 蓮司が霊符を一枚、真横に引き裂く。


「破封──《氷蓮壁》!」


 霊符が空中で破れ、冷気と共に結界が展開される。霊体の前進を食い止めるが、すぐに腐食した水が流れ込み、結界を溶かし始めた。


「蓮司さん、右側からも来ます!!」


 里沙が霊環を掲げ、緑の符を口に挟むと、結界内の霊の動きを封じるように呪を詠み始める。


「禍を穿ち、道を律す――《鎮言・翠織》!」


 空間が歪み、霊体の動きが一瞬止まる。だが、それはほんの一拍。霊体の腕が異様に伸び、まるで水流のように空間を割って襲いかかる。


 ビチャッ!!


 里沙が防御結界を展開するも、半身を水に浸され、膝をつく。


「ぐっ……これ、記憶に触れてくる……!」


 水に濡れた部分から、霊の記憶が流れ込んでくる。悲しみ、喪失、呼び続けても応えられなかった孤独。


「……これは、子を失った母の霊か?」


 蓮司が短刀を構え直し、前へ出る。


「構うな、里沙。今のお前じゃ無理だ。俺が斬る」


 そして、踏み込む。


 鬼塚蓮司──覚醒・喚魂術《双眼界》。蓮司の両目が静かに輝き始める。それは、過去と霊界を視る力。人の記憶と霊の情念を、一度だけ、完全に見ることができる術。


「……見えたぞ。お前は、沈んだ子供を助けられなかった母親の霊……それでも呼びかけ続けた。けれど、誰も気づかなかった。お前は、誰にも応えられない呪いになったんだな……!」


 霊体が唸るように叫ぶ。それは怒りでも、敵意でもない。――「悔しさ」だった。


「だったら――せめて、俺が終わらせてやる!!」


「斬祓・終刻ざんぱつ・しゅうこく!!」


 短刀が霊体の核へ突き刺さる。符が炸裂し、内側から霊を裂く光が放たれる。


 霊体は叫び、崩れ、最後には――。


「……がく……」


 ただ、その名を優しく呼んで、消えていった。



 戦いのあと、霧が晴れるように館の中の空気が変わった。


「……鎮まったか」蓮司が短刀を納め、結界を解除する。


「霊力、まだ残ってますか?」里沙が額の汗を拭いながら聞く。


「ああ。……でも、そろそろ休みてぇな」


 その傍らで、岳が崩れ落ちそうなほど脱力しながら言った。


「ありがとう、ございます……母は……最後に、俺の名前を……呼んでくれた気がしました」


 蓮司は一言、静かに応えた。


「もう夢には出てこねぇよ。あの人は、名前を呼んでくれるのを待ってただけだったんだ」



 それは、戦いの数日後――。


 白銀塚市に、季節外れの静けさが訪れていた。鳥の声が消え、風が止み、人々の足取りまでもが鈍く感じられる。そんなときだった。鬼塚探偵事務所に、一通の封筒が届く。差出人の名前はない。だが、中には一枚の手紙と、写真が添えられていた。手紙には、ただこう書かれていた。


「この部屋に、誰かがいます。でも、誰も気づきません。声もないし、音もありません。でも、そこにいるんです。……助けてください」


 写真は、薄暗いワンルームマンションの一室。カーテンも閉ざされ、ほこりが積もりかけた家具の間に――。かすかに誰かの足のようなものが写り込んでいた。


「……これ、普通の霊写じゃない」里沙が写真を覗き込みながら言った。


「写ってるはずの霊じゃない。写らないはずの存在が、滲み出てるんだ」蓮司が頷く。


「この霊は、最初から音も気配も存在しないものとして、誰にも気づかれずにここに居続けてる。だから今も、どこかで――」


 コン……。


 その瞬間。誰も触れていない事務所の棚が、小さく揺れた。


 蓮司と里沙は同時に立ち上がる。


「……来てやがる。写真の中の霊、封印されてたんじゃねぇ。送り込まれたんだ。俺たちの事務所に」


「完全に気配を絶って侵入するタイプの霊……!」


 里沙がすかさず結界を展開するも――遅い。


 ドォンッ!


 空間が歪み、まるで空気が破れたような音のない衝撃波が襲ってきた。


「クッ……来るぞ!」


 部屋の四隅に影が滲み、そこから黒くて長い手のようなものが這い出してくる。そのすべてが音を持たない。


 何も発さず、何も答えず、ただそこに存在し、侵食する霊。


 蓮司がすぐさま短刀を抜き、空中に呪紋を描く。


「霊視界、展開――《零律・黒明式》!」


 その目にだけ、存在してはならない輪郭が映る。そこにいる。否――そこしかない。


「姿を持たねぇタイプの霊は、一度認識しちまえばこっちのもんだ!」


 斬ッ――!


 蓮司の刃が虚空を裂く。だが、その一撃は何も断たない。空間が、滑っている。


「……効かない?」里沙の目が見開かれる。


「違う。概念としてしか存在してない霊なんだ。この霊体、音を持たないっていう性質だけでここにいる。だから斬るには、その性質ごと封じる式が必要なんだ……!」


「やります!」


 里沙が霊環を掲げ、五枚の符を宙に放つ。


「無音に帰れ。存在を名づけられぬ者よ、ここに輪をもって鎮めん――《五音断結・沈声の式》!」


 結界が組まれ、空間が急激に閉じていく。


 そして――霊の無音が、一瞬、微かに音を発した。


 カラン……。


 それは、ずっと閉ざされていた声が、ほんの一瞬だけ現れた証。


「……届いたな」


 蓮司が短刀を最後に振り抜く。


 斬祓・音斬の式――完了。


 空間が元に戻り、霊の気配がすっと消えた。春の空気が、ようやく戻ってきた。



 後日──再び静寂の中で。封筒の送り主は、いまだ名乗っていない。けれど蓮司と里沙は知っている。声なき霊は、誰かの悲鳴でもあった。――届かなかった、ただひとつの助けての声。


「静けさほど、怖いもんはないな」蓮司が煙草に火をつける。


「でも、あの霊……ほんとは、誰かに聞いてほしかったんでしょうね」


 里沙が優しく呟いた。次なる依頼は、果たして叫ぶ者か、それとも沈黙する街か。



 事務所に静けさが戻った数日後。蓮司と里沙のもとに、再び一通の手紙が届いた。今度は、しっかりと名前が記されていた。


 差出人:雨宮 岳


 中には、先日と同じ形式の封筒と、短い手紙が入っていた。


「先日は、お見事でした。無声の影は、あくまであなた方の霊処理技術を測るためのもの。おかげで、私の確信は深まりました。鬼塚蓮司、本間里沙、あなた方には、本来の相手と戦う資格がある。今度は、私が試される番です」


「……まさか」里沙が読み終えて顔を上げる。


「依頼じゃなかった。試験だったのよ、最初から」


 蓮司は黙って手紙を読み返し、ひとつだけ、静かに呟いた。


「霊能力者同士の……宣戦布告ってわけか」


 かつて、表に出ない霊能力者たちの間では、実力者同士による儀式的な対決が行われていたという記録がある。霊力の相性、術式の深度、結界術の熟練度――それらを計る儀式戦。


「岳は、水と無音を使うタイプだった。情報戦を仕掛けて、俺たちの応答力を試してきた。……このままじゃ済まないな」


「……来ますか? 次は正面から」


「いや――こっちから行く」



 その招待状は、旧市街の古書店を通して届いた。手書きの紙に、こう記されていた。


「鬼塚蓮司、本間里沙両名へ。過日、私の仕掛けた無声の霊に対し、見事な対処を見せていただきました。霊能力者として、あなた方の名は本物であると認めざるを得ません。つきましては、正式な術式戦を申し込みます。場所は、白銀塚廃駅跡。四月七日、夜零時。術をもって語り、力をもって応えよ。霊能の本質は、すなわち意思である。雨宮 岳」


「随分と気取った挑戦状だな」蓮司は、手紙をくしゃりと折ってポケットにねじ込む。


「白銀塚の廃駅って……あそこ、霊的に封じられた場所ですよね」里沙が真顔になる。


「霊道が交差してるからな。うまく使えば結界内で全霊術が展開可能だ。……つまり、雨宮はあそこを自分の結界として完全支配してるはずだ」


「挑むんですか?」


「当然だ。霊能力者を試すなんて傲慢な真似、やられたままで済ますかよ」


 蓮司は久々に、黒革の術具ケースを開いた。並ぶ符、式盤、短刀、霊石――ひとつひとつが、これまでただの幽霊相手には使わなかった、本気の術具。


 里沙も黙ってそれに倣い、自らの霊環を調律する。言葉はない。だが、気持ちは同じだ。



 白銀塚廃駅──夜零時。その場所は、もはや駅の体を成していなかった。朽ちたホーム。割れたガラス。崩れた線路。だが、地面には見えない光の文様――結界式が静かに脈打っていた。


 そこに、ひとりの男が立っていた。


 黒いコート。無風の中でもなびく長髪。その目は、氷のように澄んで、深く、そして冷たい。


 雨宮岳。


「ようこそ、お二人とも。今夜、ここにあなた方を招いたのは、戦いのためではありません」


「……いや、戦いだろ」蓮司がにらむ。


「お前が仕掛けてきた霊は、ただの試験じゃない。こちらの命にかかわる攻撃だった」


「ええ。術者の本質は、死線にこそ現れる。あなた方が本物かどうか、確かめたかった。それだけです」


「……で、本物だったと?」


 雨宮は微笑を浮かべる。


「ええ。そして、今度は私が試される番です。霊能者として、術師として、そして――対話者として」


「対話?」


 その瞬間――地下に封じられた結界が解かれる音が、低く響いた。


「私はここに、ひとつの霊的存在を召喚しました。この存在を制御できるかどうか――それこそが、術者の本質です。ただし。制御できなくなった場合、当然――あなた方にも被害は及びます」


「……はは、上等だな」


 蓮司が短刀を構えた。里沙は黙って霊環を掲げ、結界の骨組みを立て始める。


「俺たちを試すってんなら、最後まで付き合ってやるよ。ただし、お前が操る霊よりも――こっちの力のほうが深いってこと、教えてやる」



 白銀塚廃駅。その地下には、鉄道の運行が絶たれた日から誰も足を踏み入れていない空間があった。雨宮岳がその場に用意したのは、霊喚の門と呼ばれる古式の召喚装置。四方に置かれた霊石、地面に刻まれた螺旋の紋、そして中央の水面。


 岳の指先が淡く光ると、空間が震えた。


「見せましょう、これが私の問い。この存在を、あなた方がどう受け止め、どう解くのか」


 そして――。それは現れた。水面に逆さの人影が立ち、やがて現実の床からぬるりと這い出してくる。頭はない。手も脚も、長く歪んでいる。顔のない死者たちが何体も融合し、記憶の層が波打つように蠢いていた。


「……これは、記録霊か」蓮司の声が低く響く。


「一体に見えて、複数の死に方をそのまま持っている……これは、厄介です」里沙がすぐに結界の式を展開する。


 ギャリッ――!!


 集合霊は、突如として身をよじらせ、ホーム全体に呪的な波を放った。その一撃は物理ではなく、死者の記録された死因を周囲に再現させる霊波。鉄柱が倒れ、瓦礫が崩れ落ちる。それはかつてこの駅で命を落とした者の死の再生だった。


「……霊波、まさか複数の記憶が同時に流れてるのか!?」


「蓮司さん、来ます!」


 ズドン!!


 霊体の一撃が、蓮司の結界を揺らす。一瞬、頭の中に複数の死因――溺死、圧死、焼死――が錯綜する。


「思考そのものが汚染される霊だな……! こいつ、死の記録を押しつけて、生者を再現させようとしてる!」


 蓮司は短刀を逆手に持ち替え、霊体の核へ霊視を行う。


「霊視眼・斑紋識写はんもんしきしゃ!!」


 その瞬間、霊の核心が浮かび上がる。


「……やっぱりそうか。この霊の中には、自分を知られたい者が一人だけいる。あとの無数の記録は、その者の死を覆い隠すためのノイズだ」


「じゃあ、誰か一人の記憶を霊核として、他の記録で防御してるんですね?」


「ああ。だったらやるべきことは一つ。本体の記録に繋がる道だけを、術で引き出す。里沙!」


「はい!」


 里沙は、五枚の霊符を重ね、咒言を口にする。


「記録の澱みを流し、真実を上澄みに浮かべよ――浄写術《月水環げっすいかん》!」


 結界内の霊波が淡く波紋を描き、記憶の核が露わになる。――それは、ひとりの少年の最後の光景。誰かを庇って、線路に落ち、名前も残されずに死んだ少年。蓮司は静かに短刀を納め、霊符を掲げて言う。


「名は不要だ。だが、お前の死はもう、誰にも埋もれない」


 そして、目を閉じて霊の名を思念で呼ぶ。その瞬間、霊体が崩れ始めた。ノイズだった他の記憶が剥がれ落ち、ただひとつの光景だけが、残る。少年の霊は、ふっと笑って――光へと消えた。


 岳は、静かに膝をついた。


「……やはり、あなた方は本物だった。ただ祓うのではなく、霊を理解し、救う術者だった」


 蓮司は近づき、言う。


「お前は、霊能力者の力のあり方に疑問を持ってた。……だから俺たちを試したんだろ?」


「ええ。術の力は、制圧にも、救済にも使える。どちらに進むか――それは、術者の心次第ですから」


 里沙が静かに言う。


「……なら、私たちのやり方を見たでしょ。霊は、ただ祓うべき敵なんかじゃないって」


 岳は頷いた。


「……また、会いましょう。そのときは、敵ではなく、共に戦う者として」



 翌朝、白銀塚廃駅には、風が吹いていた。誰もいないはずのホームの片隅に、いつの間にか一輪の花が供えられていたという。


 その名を知る者はいない。けれど、その記録を、もう誰も忘れることはない。



 後日──朝の煙と、冷めた紅茶。午前十時。春の陽光が、鬼塚探偵事務所の窓硝子を通して柔らかく差し込んでいた。


 前日の術式戦を経て、街もまた、何事もなかったかのように日常を取り戻している。けれど、疲労の残る身体には、その静けさがかえって重くのしかかっていた。


「……なぁ、これ、なんで俺が書いてんだ?」蓮司は椅子を軋ませながら、手元の報告書に渋い顔を向けた。


「そりゃ依頼人が形式として報告求めてるからでしょう。今回は、他の術者も関わったから。記録って大事なんですよ、ちゃんと」里沙が言いながら、資料のファイルを丁寧に閉じる。


「だったら、お前が書いてくれりゃいいじゃないか。俺は実戦担当だぞ」


「……その理屈、毎回言ってますけど、結局書くのは蓮司さんです。私は補足と校正。役割分担ってやつです」


 蓮司は報告書の最初の一行に「霊的衝突(推定儀式戦)」とだけ書いて、タバコに火をつけた。


「……雨宮の野郎、最初からこうなるの見越してたよな。試して、認めて、同じ場所に立つって……霊能力者ってのは、やっぱ変人ばっかだ」


「蓮司さんが言うと説得力ありますね」


「……今の、皮肉か?」


「ご想像にお任せします」


 苦笑が一つ漏れる。蓮司はタバコの煙をふっと吐き、報告書の横にマグカップを置いた。


 中身は冷めきった紅茶だった。今朝、里沙が淹れてくれたはずのもの。


「……霊を理解して救う、か。言葉で言うほど簡単じゃねぇが、まぁ――」


「やれる限り、やるですよね?」里沙が、いつものように、笑みも皮肉も混ぜずに言う。


 蓮司は少しだけ黙り、そして静かに頷いた。


「……ああ。そんくらいの距離感で、ちょうどいい」


「でも、最近強敵が続いてますよね。そろそろ、温泉とか癒し系の依頼こないですかねぇ。旅館でお化け騒動とか、廃校に現れる美少女幽霊とか」


「お前さ、それどっちも仕事になるぞ?」


「ですよね……」里沙はファイルを抱えて立ち上がった。「とりあえず、次の依頼までは休憩ってことで。報告書は夕方までに仕上げてくださいね」


「はいはい……霊よりお前の方が怖ぇよ……」蓮司はぶつくさと呟きながらも、ペンを握り直す。


 春の陽射しは、まだ穏やかだった。けれどその光の向こうで、また誰かが助けを呼ぶ声をひそかに上げているかもしれない。


 蓮司も里沙も、それを知っている。だから、今日も事務所の扉は開いている。


 いつでも、次の依頼人を迎え入れる準備を整えて。


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