第十二話
春の風は、あたかも過去をめくる指のようである。
白銀塚市の片隅、煤けた建物の一角に掛けられた小さな金属製の看板には、「鬼塚探偵事務所」の文字が、午後の陽光に沈黙の光を帯びていた。
建物の内は静謐そのもので、ただ、窓の隙間から入り込む微かな花の香りと、時折ふわりと舞い込む桜の花びらだけが、季節の存在を告げていた。
その時――。
カラン……。
控えめな鈴の音が、微睡む室内に一つ、確かな現実の音を刻んだ。
扉を開けて姿を現したのは、年若き一人の女性であった。
春の淡い光を受ける彼女は、まるで季節そのものの化身のように静かに立っていたが、しかしその眼差しには、どこか凍てついた過去の影が宿っていた。
「初めまして……。私、杉野千紗と申します。ご相談したいことがあって、参りました」
彼女の声は柔らかく、けれども芯に微かな震えを含んでいた。
それを聞いた所長、鬼塚蓮司は、長年愛用している古びたライターの蓋を静かに閉じ、ゆっくりと身を起こした。
「ここに来たということは――そう簡単な話じゃなさそうだ」
「……ええ。亡き祖母の遺品から、ある地図が見つかりました。それは、どの地図帳にも、ネットの検索にも、行政の記録にも載っていない集落の名を示していたんです」
千紗が差し出した紙片には、筆跡の古びた手書きの地図が記されていた。
山脈の影、そのさらに奥に、ぽつりと赤い文字が記されている。
ナグサ村。
「……聞いたこともないな」
蓮司が低く呟く。
「祖母は生前、よく言っていたんです。あの村にだけは、二度と近づくな記憶が戻っても、思い出してはならないって……。でも、私……本当は、行ったことがある気がするんです。けれど、思い出せない。その記憶に、鍵がかかっているような感覚がして……」
里沙がそっと写真を受け取り、目を細めた。
集合写真。
山間で撮られたと思しき一枚の古写真。だが、そこに写る十数名の人々の顔は、まるで呪詛のごとく黒く塗り潰されていた。
「……これ、後から塗られたんじゃない。最初から顔が映っていなかった可能性がある」
「ナグサ村は、忘れられたのではないのかもしれません」 里沙が重々しく呟いた。
「封じられたのだとしたら……それは誰の手によって?」
蓮司は目を閉じ、浅く息を吐いた。
そして、ふと立ち上がり、薄手のコートを羽織った。
「春にしては寒い風だな……よし。行こう。誰も思い出さない村に、俺たちが足を踏み入れてやろう」
春の山道は、まだ冬の名残を微かに抱いていた。
山肌を撫でる風は冷たく、けれどもその中に確かに混じる、若葉の匂いがあった。
斜面に咲く山桜が、時折その花びらを静かに散らし、三人の肩に、髪に、沈黙の彩りを添えていく。
「……こんな山道、地元の人間でも通らないんじゃないか」
蓮司が呟いた声は、誰に向けるともなく、ただ山の空気に溶けていった。
杉野千紗は、彼の少し後ろを歩いていた。
表情は静かだが、その歩みに籠もる緊張は、山の空気以上に重く、張りつめていた。
「懐かしいような……でも、やっぱり思い出せません」
彼女がふと呟く。
「記憶ってやつは、都合の悪いものから蓋をする。その蓋を開けるには、相当の覚悟がいるんだよ」
蓮司が煙草に火をつけることもなく、咥えたまま言った。
やがて、一本道が急に開けた。
そこには――まるで地図の中にだけ存在していたはずの光景が、忽然と姿を現していた。
谷に抱かれた小さな盆地。
朽ち果てかけた家々が、まるで時間を凍結したかのように建ち並び、
どの家も、窓が開いたまま、誰もいないくせに誰かがいるような気配を漂わせていた。
ナグサ村――。
「……残ってる。全部、残ってる」
千紗が呆然と呟く。
「これが……存在しないはずの村」
里沙の声には、かすかな戦慄が混じっていた。
蓮司は静かに足を進めながら、周囲を睨むように見渡した。
「この空気……ただの廃村じゃない。念が残ってる。それも、記憶されることを拒む念だ」
村の中心と思しき広場に、古い井戸があった。
その井戸の縁に、ぼろぼろになった赤い布が結びつけられている。
蓮司が井戸を覗き込もうとした、その瞬間――。
「……帰ってきたのね、ちぃちゃん」
声が、した。
千紗が息を呑んで振り向いた。
だが、そこには誰もいない。
ただ、風が吹き抜けるばかり。
「今……確かに、私を呼ぶ声が……」
蓮司が井戸から顔を上げ、冷ややかな視線を遠くに投げる。
「……始まったな。この村は、お前が戻ってくるのを待っていた」
風が止まった。
その瞬間、村全体が、まるで誰かの吐息に耳を澄ませるかのように、静まり返った。
井戸の縁に結ばれた赤い布は、千紗の目に、どこか見覚えのある色として映った。
それは春の日に、祖母が結ってくれた髪飾りと同じ色――。
けれども、もっとずっと古く、もっとずっと重たく、彼女の心を締めつける色でもあった。
「……これ、私のものだった気がします」
千紗が布にそっと手を伸ばしたとき、
カン、コォン……。
井戸の底から、何かが落ちる音が聞こえた。
誰も何も投げていないのに。
蓮司はすぐに反応した。
懐から黒ずんだ霊符を取り出し、井戸の口へと掲げた。
「……悪いな。目覚めちまったか」
里沙が、周囲に霊的気配の網を張る。
その額には、じわりと冷たい汗がにじんでいた。
「この井戸……中から逆流してる感じがします。霊気じゃなくて、記憶のような……でも、それは他人のものじゃなく、千紗さん自身の……」
千紗が立ち尽くす。
「思い出せそうで、でも、思い出したら終わってしまうような気がする……そんな感じです」
「千紗、聞け」
蓮司の声が低く響いた。
「思い出すってのは、自分を再構成することだ。ただし、この村は記憶を封じることで、お前を守ってきた」
「……どういうことですか?」
「つまり、お前の記憶は、この村そのものに封じられてるんだ。自分の意思でここを訪れた時点で、封印はもう……解けかけてる」
その時、井戸の奥からふたたび音がした。
カラ……カラ……。
乾いた音。木か石か、何かが転がる音。
だが、それ以上に不気味だったのは――。
その音が、まるで数を数えているように聞こえたことだ。
「……いち」
「……にい」
「……さあん」
千紗が、無意識のうちに呟いていた。
彼女の目が虚ろになり、まるで誰かに憑かれたように、井戸の縁へと歩き出す。
「危ない、千紗さん!」
里沙が叫び、手を伸ばすも――。
その瞬間、村の空気が反転した。
空がねじれ、風が逆巻く。
井戸の底から、黒い影のような手が一本、するりと伸びてきて、千紗の足首に触れた。
「帰ってきたね、ちぃちゃん」
蓮司が即座に助ける。
「舐めんなよ……この女を連れてくなら、まず俺を通してからにしろ!」
──霊符、展開!
蓮司の放った符が、井戸口を瞬間的に封じ、黒い手を燃やす。
影が引き裂かれるように消え、千紗はその場に崩れ落ちた。
「……ごめんなさい、わたし……見てはいけないものを……思い出しそうになって……。でも、確かに聞こえたんです。あの声が……あの人が、待ってるって……」
蓮司が井戸をじっと見下ろす。
「こりゃ、ただの封印じゃないな。この村の核……つまり、何を隠すために村ごと忘れさせたのかが、こいつの底にいる」
「……向かうつもりですか?」
「当たり前だろ。探偵ってのはな、答えを見届けるためにここにいるんだよ。たとえ地獄の底にでもな」
井戸は、決して水を汲むための場所ではなかった。
それは、記憶を沈めるための墓穴であり、
同時に――呼ばれた者しか辿り着けぬ、裏返された春の底だった。
春の山は静かに囁く。
その囁きが人を招くのか、忘れさせるためなのか、それは分からない。
だが、鬼塚蓮司は知っていた。
この場所の風の流れも、空気の震えも、まるでひとつの意思を持って千紗を迎えにきていることを。
「……俺が行く」
「え?」
千紗が顔を上げた。
「お前の記憶の底だ。お前自身が潜れば、もしかしたら戻れねぇかもしれない。……けど、俺ならその声の正体を暴ける。そのうえで、お前がどうするかを――決めればいい」
「でも……蓮司さん、危ないんじゃ――」
「危なくない仕事なんざ、この世にひとつもねえよ」
そう言い残すと、蓮司は井戸の縁に立ち、両手で結界札を井戸の口へ貼りつけた。
まるでそれは、通路を作るかのような動作だった。
「……潜るぞ」
低く呟いたその瞬間、井戸の口が淡く青白く光り出す。
里沙が手早く後方に結界の護符を張る。
「万一のときは、私が引き戻します。……でも、気をつけてください。あそこは、現実じゃない」
「――ああ。誰かの記憶の中だろうな」
蓮司は言い、そして身を翻す。
そのまま、井戸の闇へと、音もなく飛び込んだ。
落下しているはずだった。
だが、気がつけば――蓮司の足は、しっかりと地面を踏んでいた。
そこは、どこまでも春だった。
桜の花が静かに舞い、鳥の声すら微かに響く、小さな村の風景。
だが、そのどこかがおかしい。
人々が笑いながら歩いている。
誰もが穏やかな顔で、優しく、静かに過ごしている。
しかし――全員、顔がない。
のっぺらぼうのまま、笑っている。
蓮司が一歩踏み出すと、頭の中に声が響いた。
「ちぃちゃん……こっちだよ……」
振り返ると、そこにいたのは、ひとりの少女。
髪は千紗に似ていた。
顔立ちも、体格も、声も――。
まるで幼いころの千紗そのものだった。
「あなたが……ちぃちゃんか?」
少女は首を傾げ、言った。
「ううん、私はちぃちゃんの中に置いてこられた子。春を終われなかった、私だよ」
蓮司の胸に、冷たいものが落ちる。
「……まさか、お前がこの村に封じられた、もうひとつの人格か?」
少女――影のちぃちゃんは、にこりと笑った。
その笑みは、どこか痛々しいほど、悲しみに満ちていた。
「ねえ、おじさん。ひとつだけ、お願いがあるの。――私の名前を呼んで」
「……名前?」
「忘れられた村の記憶の中に、ずっと閉じ込められてた私。誰にも呼ばれずに、名前もなくして、声も失って……。だから、誰かに、ちゃんと、名前を呼んでほしいの」
蓮司の頭に、ふと浮かんだ。
あの写真。
祖母の遺品の中に残された、黒く塗りつぶされた集合写真。
その裏に、かすかに書かれていた名。
――さくら。
蓮司はそっと膝をつき、目の前の少女に向かって言った。
「……さくら――お前の名前は、さくらだ」
その瞬間。
風が動いた。
花が散った。
そして、少女の瞳から――涙が、あふれた。
「ありがとう。これで、ようやく春が、終わる」
彼女の姿が、ゆっくりと消えていく。
あたかも、何年も散りきれなかった一枚の花びらが、
ようやく地に落ちるかのように――
目を開けると、そこは再び――春の山の中、ナグサ村の井戸の縁であった。
「……おかえりなさい」
ほっとしたような、けれど張りつめた空気を纏って、里沙が微笑みを浮かべる。
千紗はその隣で、両手を固く握っていた。
震えていた。
それは寒さではない。蓮司の帰還を待つ時間が、彼女の心をすっかり冷やしていたのだ。
「見てきた」
蓮司はゆっくりと口を開く。
「井戸の底にいたのは――お前自身の、もう一つの記憶だった。さくらって名前の子だ。この村で暮らしていた、お前の中の少女。あるいは、記憶に捨てられた自分そのものかもしれない」
千紗が、小さく息を飲む。
「……私……小さい頃、この村にいたんですね……?」
「そうだ。だがそれは、家族や親戚からなかったことにされてた。君の祖母がこの村から連れ出した後、君の記憶からも、意図的にナグサ村を消した」
「……どうして……?」
蓮司は、手にしていた古びた写真を広げる。
「この写真の裏に、君の名前と、さくらの名が並んで書かれていた。それはたぶん――双子だった証だ」
千紗の瞳が大きく見開かれ、次いで涙がにじんだ。
「じゃあ……あの声は……私の……もうひとりの……?」
「そうだ。記憶から消され、名前を呼ばれなかった方の子。この村に取り残され、春という季節に閉じ込められたまま、ただ名前を呼ばれる日を待っていた」
沈黙が落ちた。
山の風が、ふたたび柔らかく吹いた。
ほんの少しだけ、桜の花びらが、三人の間にひらひらと舞い降りる。
「さくらは、ようやく旅立った。だが……この村を、どうするかはお前次第だ」
「私が……?」
蓮司はゆっくりと頷く。
「記憶は戻った。ここに自分の半身が残されていたことも、思い出した。あとは、お前がそれをどう生きていくかだ」
千紗は、しばらくのあいだ、何も言わず、ただ井戸の縁に座りこんだ。
顔を上げたとき、春の日差しが彼女の瞳をまっすぐ照らしていた。
「忘れません。忘れないって、辛いことですけど――。それでも、覚えているってことは、きっと、さくらがこの世界にちゃんといたという証になるから……」
蓮司は、その言葉に微かに目を細め、そして言った。
「……いい判断だ」
日が暮れかけるころ、三人はナグサ村をあとにした。
春の空には、まだ白い月が顔をのぞかせている。
振り返れば、あの村はもう、そこに存在していないかのように、風景に溶けていた。
千紗は、静かに微笑んだ。
「きっと、今頃さくらは……春の続きを歩いていますね」
「春ってのはな、本来終わるためにある季節なんだよ」
蓮司が呟く。
「満開の桜を見てると、誰だって思うだろ。このまま散らずにいてくれって。けど、散らなきゃ夏は来ない。花のあとの季節を歩く覚悟――それが、生きていくってことだ」
千紗は小さく頷いた。
「はい。……私、歩いていきます」
春の風が吹いた。
それは、かつてあの村に閉じ込められていた誰かの、小さな旅立ちのようだった。




