表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/44

第十話

 鬼塚探偵事務所──午後四時


 薄曇りの午後、鬼塚探偵事務所には、いつもの静寂が漂っていた。


 鬼塚蓮司はデスクに座り、書類に目を通しながら煙草をふかし、助手の本間里沙はコーヒーを片手にスマホで最新の依頼情報をチェックしていた。


 そんな時、事務所のドアが静かにノックされ、里沙が穏やかな笑顔で迎えに出た。


「いらっしゃいませ」


 ドアの向こうから入ってきたのは、二十代前半の女性。


 彼女はストレートの黒髪を肩に下ろし、淡いブルーのワンピースに身を包んでいる。顔にはどこか疲労と不安が漂い、手には小さな革のバッグをぎゅっと握っていた。


「失礼します……」


 彼女は、少し戸惑いながらも、事務所の中へと足を踏み入れた。


「どうぞ、おかけください」


 里沙が優しくソファを指し示すと、女性は小さく頷き、そっと腰を下ろした。


「お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」


 里沙がノートを広げながら尋ねる。


「……中村詩織と申します」


 詩織は震える声で名乗ると、深いため息をついた。


「中村さん、どのようなご相談でしょうか?」


 鬼塚蓮司が、淡々とだが鋭い眼差しで問いかける。


 詩織はしばらく目を伏せ、やがて口を開いた。


「……私の部屋に、ある肖像画が飾ってあるのですが、その絵が……夜になると、動いているように感じるんです。最初は夢かと思っていたのですが、昨晩、部屋で一人でいると、絵の中の女性の目が……私をじっと見つめ、そして、まるで助けを求めるように、かすかな声で『…来て』って……」


 室内は一瞬、重苦しい沈黙に包まれた。


 里沙は眉をひそめ、蓮司も無言で詩織の顔を見つめた。


「それは……どんな絵ですか?」


 蓮司が問いかけると、詩織はバッグから一枚の写真を取り出し、机に広げた。


 写真には、古びた額縁に収められた肖像画が映っていた。


 絵の中の女性は、優美な着物をまとい、どこか哀しげな瞳でこちらを見つめている。だが、写真には写っていないはずの、ほんのわずかな赤い色が、額縁の周囲に滲んでいるように見えた。


「これが……その肖像画です」


 詩織は震える指で写真を撫でながら続けた。「夜になると、部屋に一人いるはずなのに、誰かの視線を感じるんです。そして、時折、絵から、微かに誰かが呼ぶような声が聞こえて……」


「声……?」


 里沙が眉をひそめ、詩織をじっと見た。


「ええ。何か……恐ろしくて……不気味な声です……。私、引っ越してきたばかりのこの部屋に飾ったんですが、それ以来、夜の静寂の中で、あの絵が……」


 蓮司はしばらく写真を見つめ、重々しい口調で言った。


「中村さん、その肖像画には、何か呪いのようなものが仕込まれている可能性が高い。現実に影響を及ぼす霊的な現象は、ただの偶然では済まない」


 詩織は目に涙を浮かべながら、静かに頷いた。


「どうか、私を助けてください……!」


「分かった」


 蓮司は立ち上がり、煙草を灰皿に押し付けながら言った。「今夜、あなたの部屋に伺って、詳しく調査させてもらう。もし、絵が本当に動いているのなら、その裏にある真相を暴いてやる」


「ありがとうございます……」


 詩織は、安堵と不安が入り混じった表情で、深く頭を下げた。


「里沙、準備してくれ。今夜の訪問に備えるぞ」


 蓮司は冷静な声で指示する。


 里沙は即座に、霊的な調査に必要な道具をバッグに詰め始めた。


 ──こうして、鬼塚探偵事務所は新たな依頼へと動き出した。


 中村詩織の部屋にまつわる、呪いの肖像画の謎が、今、解かれようとしていた。



 マンションの五階にある詩織の部屋は、シンプルなワンルームだった。


 だが、部屋の中央に据えられた一枚の肖像画が、異様な存在感を放っている。


 ──女がこちらを見つめている。


 古びた額縁に収められたその絵は、確かにただの絵のはずだった。


 しかし、蓮司の目にはそれ以上の何かが映っていた。


「……この絵、何かがおかしいな」


 蓮司がポケットから呪符を取り出し、静かに言う。


「やっぱり、普通の絵じゃないんですね……」


 詩織が不安げに呟く。


「いや、普通じゃねぇってレベルじゃねぇな」


 蓮司は絵の隅に目を向ける。「血のような滲み、少しずつ広がってやがる」


 里沙も絵を見ながら、低く言う。


「こういうのって、触らない方がいいんですよね……?」


「普通はな」


 ──しかし、今夜は違う。


 蓮司はバッグから黒い布を取り出し、慎重に額縁を覆った。


 そして、詩織を見やる。


「この絵、どこで手に入れた?」


 詩織は少し迷ったが、静かに口を開いた。


「骨董品屋で見つけました……。ちょうど部屋のインテリアを探していたんですが、この絵を見た瞬間、なぜか引き込まれるような気持ちになって……」


「……骨董品屋か」


 蓮司は目を細める。「店の名前は?」


「古美堂っていうお店です」


「……古美堂?」


 里沙が怪訝な顔をする。「どこかで聞いたことがあるような……?」


「曰く付きの品を扱ってるって噂の店だな」


 蓮司は煙草を取り出し、火をつける。「だが、それを置いといても、この絵には何かが宿ってる」


 ──カタッ。


 不意に、部屋の空気が冷たくなった。


「っ……!」


 詩織が肩を震わせる。


「始まるぞ」


 蓮司が呪符を握りしめる。


 ──部屋の空気が、じわりと変化する。


「ああ……代わって……代わって……代われ……」


「っ……!!」


 詩織が目を見開く。


 ──絵の中から、微かな声が聞こえてくる。


「…………」


 蓮司は一歩前に出ると、黒い布を外した。


 ──その瞬間、絵の中の女が、わずかに微笑んだ。


「……見つけた」


 ──バチッ!!!


 部屋の照明が一瞬で消え、闇が広がる。


「蓮司さん!!」


 里沙が叫ぶ。


「おいおい……歓迎が派手すぎるぜ」


 蓮司は冷静に呟きながら、懐から霊視用の符を取り出す。


「……本当の姿を見せてもらうぜ」


 ──符が光を放ち、闇を照らす。


 ──シュバアアアア!!!


 蓮司が霊視用の符を発動させた瞬間、部屋の空気が一変した。


 強烈な霊的エネルギーが弾け、暗闇の中に何かが浮かび上がる。


 肖像画の中の女が、額縁の中から這い出し、ぐにゃりと形を変えながら姿を現す。


 ──それは、血に染まった女の霊だった。


 長く絡まった黒髪。


 顔は人間のものではなく、目は真っ黒に染まり、口は異様に裂けている。


 手足は異常に長く、全身が血に濡れ、異臭が漂っていた。


「代わって……代わって……代われぇぇぇ!!」


 霊の女は、詩織に向かってゆっくりと這い寄る。


 壁という概念は意味をなさず、まるで影のように歪みながら動いていた。


「っ……!!」


 詩織が怯えて後ずさる。


 ──バンッ!!


 突然、部屋の扉が勢いよく閉まった。


 逃げ道は完全に塞がれた。


「逃げ道はねぇぞ」


 蓮司は煙草を床に落とし、靴で踏み消した。「だが、お前が消える道はある」


「貴様……邪魔をするな……!!!」


 霊の女が、異様に長い手を振り上げ、蓮司に向かって鋭く振り下ろす。


 血の滴る爪が、空間を裂くように襲いかかる。


 ──だが、蓮司は冷静だった。


「霊の一撃が、霊能者に効くと思ってんのか?」


 ──ギィンッ!!!


 蓮司の全身が、青白い光を帯びる。


 まるでオーラのように霊的エネルギーが身体を包み込んでいた。


「……クッ!!?」


 霊の女の爪が、蓮司のオーラに弾かれ、肉を裂くことはできなかった。


「こっちの番だ」


 蓮司は呪符を拳に纏わせ、霊の女に向かって突き出した。


 ──ズドォォォン!!!


 強烈な霊的衝撃波が発生し、霊の女の身体が後方に吹き飛ばされる。


「ぐああああああぁぁぁぁぁぁ!!!!」


 霊の女は悲鳴を上げながら壁に激突し、影のように歪む。


「……こいつ、まだ本気を出してねぇな」


 蓮司は冷静に状況を分析する。


「蓮司さん!!」


 里沙が叫ぶ。「まだ霊力が強いです!!」


「分かってる」


 蓮司は煙草を取り出し、再び火をつける。


 そのまま一口吸い込み、霊の女を睨みつけた。


「本気を出せよ」


「グガアアアアアアア!!!!!」


 ──霊の女が、血を噴き出すようにして完全な姿を現す。


 ──赤黒く脈打つ肉体。


 ──無数の腕が生え、壁や天井を這い回る。


 ──裂けた口からは、子守唄のような呪詛が響く。


「お前が……代われ……!!!」


 ──詩織の身体が、異様なほど重くなる。


「くっ……!!」


 詩織が膝をつく。


「体を乗っ取るつもりか……!」


 蓮司は煙を吐き出しながら呟く。


「させるかよ」


 ──彼はコートの内側から、特別な呪符を取り出した。


「封印殺伐札……これで終わりだ」


「グガァァァァァァァァ!!!!!」


 霊の女が、異形の腕を蓮司に向かって振り下ろす。


 ──しかし、その刹那。


 蓮司の目が鋭く光った。


「霊力、解放」


 ──青白い炎のような霊的エネルギーが、蓮司の身体を包み込む。


「テメェみたいな悪霊がこの世にしがみつく資格はねぇんだよ」


 蓮司は、呪符を拳に纏わせた状態で突撃した。


 ──ドォォォォォン!!!!


 霊の女に、強烈な一撃が直撃する。


「グギャアアアアアアアア!!!!!」


 霊の身体が崩れ始める。


「消えろォォォォォォ!!!!」


 ──最後の呪符が、霊の女の額に叩き込まれる。


 ──ズバァァァァァン!!!


 ──部屋中に、霊的エネルギーが爆発的に広がる。


 霊の女は、最後の叫びを上げながら、血の霧となって消え去った。


 ──静寂が戻る。



「……終わったか?」


 蓮司は煙草をふかしながら、壁を見やる。


 肖像画は、完全にただの絵に戻っていた。


「……あの女、もう動かないんですね?」


 詩織が震えながら尋ねる。


「ああ。もう誰も絵の中から出てこねぇ」


 蓮司は最後の呪符を絵に貼り、念を押すように言った。


「ここに霊殺する」


 ──こうして、呪いの肖像画の霊力は完全に取り除かれた。



 鬼塚探偵事務所──後日談


 数日後、鬼塚探偵事務所に詩織が訪れた。


「その後、どうだ?」


 蓮司が尋ねると、詩織は微笑んだ。


「……もう、何も起こらなくなりました」


「そりゃ良かった」


 詩織は小さく笑い、紙袋を差し出した。


「お礼です。クッキーと、コーヒーを」


「いい心がけだ」


 蓮司は紙袋を受け取る。


「……でも、ちょっと不思議なことがあるんです」


「ん?」


 詩織は、ぽつりと呟いた。


「……あの絵、今は静かに微笑んでいるんです」


 ──室内の空気が、一瞬張り詰めた。


 

「……へぇ」


 蓮司は煙を吐きながら、静かに言った。


「なら、もう問題ねぇさ」


 そして物語は──次なる怪異へ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ