第十話
鬼塚探偵事務所──午後四時
薄曇りの午後、鬼塚探偵事務所には、いつもの静寂が漂っていた。
鬼塚蓮司はデスクに座り、書類に目を通しながら煙草をふかし、助手の本間里沙はコーヒーを片手にスマホで最新の依頼情報をチェックしていた。
そんな時、事務所のドアが静かにノックされ、里沙が穏やかな笑顔で迎えに出た。
「いらっしゃいませ」
ドアの向こうから入ってきたのは、二十代前半の女性。
彼女はストレートの黒髪を肩に下ろし、淡いブルーのワンピースに身を包んでいる。顔にはどこか疲労と不安が漂い、手には小さな革のバッグをぎゅっと握っていた。
「失礼します……」
彼女は、少し戸惑いながらも、事務所の中へと足を踏み入れた。
「どうぞ、おかけください」
里沙が優しくソファを指し示すと、女性は小さく頷き、そっと腰を下ろした。
「お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
里沙がノートを広げながら尋ねる。
「……中村詩織と申します」
詩織は震える声で名乗ると、深いため息をついた。
「中村さん、どのようなご相談でしょうか?」
鬼塚蓮司が、淡々とだが鋭い眼差しで問いかける。
詩織はしばらく目を伏せ、やがて口を開いた。
「……私の部屋に、ある肖像画が飾ってあるのですが、その絵が……夜になると、動いているように感じるんです。最初は夢かと思っていたのですが、昨晩、部屋で一人でいると、絵の中の女性の目が……私をじっと見つめ、そして、まるで助けを求めるように、かすかな声で『…来て』って……」
室内は一瞬、重苦しい沈黙に包まれた。
里沙は眉をひそめ、蓮司も無言で詩織の顔を見つめた。
「それは……どんな絵ですか?」
蓮司が問いかけると、詩織はバッグから一枚の写真を取り出し、机に広げた。
写真には、古びた額縁に収められた肖像画が映っていた。
絵の中の女性は、優美な着物をまとい、どこか哀しげな瞳でこちらを見つめている。だが、写真には写っていないはずの、ほんのわずかな赤い色が、額縁の周囲に滲んでいるように見えた。
「これが……その肖像画です」
詩織は震える指で写真を撫でながら続けた。「夜になると、部屋に一人いるはずなのに、誰かの視線を感じるんです。そして、時折、絵から、微かに誰かが呼ぶような声が聞こえて……」
「声……?」
里沙が眉をひそめ、詩織をじっと見た。
「ええ。何か……恐ろしくて……不気味な声です……。私、引っ越してきたばかりのこの部屋に飾ったんですが、それ以来、夜の静寂の中で、あの絵が……」
蓮司はしばらく写真を見つめ、重々しい口調で言った。
「中村さん、その肖像画には、何か呪いのようなものが仕込まれている可能性が高い。現実に影響を及ぼす霊的な現象は、ただの偶然では済まない」
詩織は目に涙を浮かべながら、静かに頷いた。
「どうか、私を助けてください……!」
「分かった」
蓮司は立ち上がり、煙草を灰皿に押し付けながら言った。「今夜、あなたの部屋に伺って、詳しく調査させてもらう。もし、絵が本当に動いているのなら、その裏にある真相を暴いてやる」
「ありがとうございます……」
詩織は、安堵と不安が入り混じった表情で、深く頭を下げた。
「里沙、準備してくれ。今夜の訪問に備えるぞ」
蓮司は冷静な声で指示する。
里沙は即座に、霊的な調査に必要な道具をバッグに詰め始めた。
──こうして、鬼塚探偵事務所は新たな依頼へと動き出した。
中村詩織の部屋にまつわる、呪いの肖像画の謎が、今、解かれようとしていた。
マンションの五階にある詩織の部屋は、シンプルなワンルームだった。
だが、部屋の中央に据えられた一枚の肖像画が、異様な存在感を放っている。
──女がこちらを見つめている。
古びた額縁に収められたその絵は、確かにただの絵のはずだった。
しかし、蓮司の目にはそれ以上の何かが映っていた。
「……この絵、何かがおかしいな」
蓮司がポケットから呪符を取り出し、静かに言う。
「やっぱり、普通の絵じゃないんですね……」
詩織が不安げに呟く。
「いや、普通じゃねぇってレベルじゃねぇな」
蓮司は絵の隅に目を向ける。「血のような滲み、少しずつ広がってやがる」
里沙も絵を見ながら、低く言う。
「こういうのって、触らない方がいいんですよね……?」
「普通はな」
──しかし、今夜は違う。
蓮司はバッグから黒い布を取り出し、慎重に額縁を覆った。
そして、詩織を見やる。
「この絵、どこで手に入れた?」
詩織は少し迷ったが、静かに口を開いた。
「骨董品屋で見つけました……。ちょうど部屋のインテリアを探していたんですが、この絵を見た瞬間、なぜか引き込まれるような気持ちになって……」
「……骨董品屋か」
蓮司は目を細める。「店の名前は?」
「古美堂っていうお店です」
「……古美堂?」
里沙が怪訝な顔をする。「どこかで聞いたことがあるような……?」
「曰く付きの品を扱ってるって噂の店だな」
蓮司は煙草を取り出し、火をつける。「だが、それを置いといても、この絵には何かが宿ってる」
──カタッ。
不意に、部屋の空気が冷たくなった。
「っ……!」
詩織が肩を震わせる。
「始まるぞ」
蓮司が呪符を握りしめる。
──部屋の空気が、じわりと変化する。
「ああ……代わって……代わって……代われ……」
「っ……!!」
詩織が目を見開く。
──絵の中から、微かな声が聞こえてくる。
「…………」
蓮司は一歩前に出ると、黒い布を外した。
──その瞬間、絵の中の女が、わずかに微笑んだ。
「……見つけた」
──バチッ!!!
部屋の照明が一瞬で消え、闇が広がる。
「蓮司さん!!」
里沙が叫ぶ。
「おいおい……歓迎が派手すぎるぜ」
蓮司は冷静に呟きながら、懐から霊視用の符を取り出す。
「……本当の姿を見せてもらうぜ」
──符が光を放ち、闇を照らす。
──シュバアアアア!!!
蓮司が霊視用の符を発動させた瞬間、部屋の空気が一変した。
強烈な霊的エネルギーが弾け、暗闇の中に何かが浮かび上がる。
肖像画の中の女が、額縁の中から這い出し、ぐにゃりと形を変えながら姿を現す。
──それは、血に染まった女の霊だった。
長く絡まった黒髪。
顔は人間のものではなく、目は真っ黒に染まり、口は異様に裂けている。
手足は異常に長く、全身が血に濡れ、異臭が漂っていた。
「代わって……代わって……代われぇぇぇ!!」
霊の女は、詩織に向かってゆっくりと這い寄る。
壁という概念は意味をなさず、まるで影のように歪みながら動いていた。
「っ……!!」
詩織が怯えて後ずさる。
──バンッ!!
突然、部屋の扉が勢いよく閉まった。
逃げ道は完全に塞がれた。
「逃げ道はねぇぞ」
蓮司は煙草を床に落とし、靴で踏み消した。「だが、お前が消える道はある」
「貴様……邪魔をするな……!!!」
霊の女が、異様に長い手を振り上げ、蓮司に向かって鋭く振り下ろす。
血の滴る爪が、空間を裂くように襲いかかる。
──だが、蓮司は冷静だった。
「霊の一撃が、霊能者に効くと思ってんのか?」
──ギィンッ!!!
蓮司の全身が、青白い光を帯びる。
まるでオーラのように霊的エネルギーが身体を包み込んでいた。
「……クッ!!?」
霊の女の爪が、蓮司のオーラに弾かれ、肉を裂くことはできなかった。
「こっちの番だ」
蓮司は呪符を拳に纏わせ、霊の女に向かって突き出した。
──ズドォォォン!!!
強烈な霊的衝撃波が発生し、霊の女の身体が後方に吹き飛ばされる。
「ぐああああああぁぁぁぁぁぁ!!!!」
霊の女は悲鳴を上げながら壁に激突し、影のように歪む。
「……こいつ、まだ本気を出してねぇな」
蓮司は冷静に状況を分析する。
「蓮司さん!!」
里沙が叫ぶ。「まだ霊力が強いです!!」
「分かってる」
蓮司は煙草を取り出し、再び火をつける。
そのまま一口吸い込み、霊の女を睨みつけた。
「本気を出せよ」
「グガアアアアアアア!!!!!」
──霊の女が、血を噴き出すようにして完全な姿を現す。
──赤黒く脈打つ肉体。
──無数の腕が生え、壁や天井を這い回る。
──裂けた口からは、子守唄のような呪詛が響く。
「お前が……代われ……!!!」
──詩織の身体が、異様なほど重くなる。
「くっ……!!」
詩織が膝をつく。
「体を乗っ取るつもりか……!」
蓮司は煙を吐き出しながら呟く。
「させるかよ」
──彼はコートの内側から、特別な呪符を取り出した。
「封印殺伐札……これで終わりだ」
「グガァァァァァァァァ!!!!!」
霊の女が、異形の腕を蓮司に向かって振り下ろす。
──しかし、その刹那。
蓮司の目が鋭く光った。
「霊力、解放」
──青白い炎のような霊的エネルギーが、蓮司の身体を包み込む。
「テメェみたいな悪霊がこの世にしがみつく資格はねぇんだよ」
蓮司は、呪符を拳に纏わせた状態で突撃した。
──ドォォォォォン!!!!
霊の女に、強烈な一撃が直撃する。
「グギャアアアアアアアア!!!!!」
霊の身体が崩れ始める。
「消えろォォォォォォ!!!!」
──最後の呪符が、霊の女の額に叩き込まれる。
──ズバァァァァァン!!!
──部屋中に、霊的エネルギーが爆発的に広がる。
霊の女は、最後の叫びを上げながら、血の霧となって消え去った。
──静寂が戻る。
「……終わったか?」
蓮司は煙草をふかしながら、壁を見やる。
肖像画は、完全にただの絵に戻っていた。
「……あの女、もう動かないんですね?」
詩織が震えながら尋ねる。
「ああ。もう誰も絵の中から出てこねぇ」
蓮司は最後の呪符を絵に貼り、念を押すように言った。
「ここに霊殺する」
──こうして、呪いの肖像画の霊力は完全に取り除かれた。
鬼塚探偵事務所──後日談
数日後、鬼塚探偵事務所に詩織が訪れた。
「その後、どうだ?」
蓮司が尋ねると、詩織は微笑んだ。
「……もう、何も起こらなくなりました」
「そりゃ良かった」
詩織は小さく笑い、紙袋を差し出した。
「お礼です。クッキーと、コーヒーを」
「いい心がけだ」
蓮司は紙袋を受け取る。
「……でも、ちょっと不思議なことがあるんです」
「ん?」
詩織は、ぽつりと呟いた。
「……あの絵、今は静かに微笑んでいるんです」
──室内の空気が、一瞬張り詰めた。
「……へぇ」
蓮司は煙を吐きながら、静かに言った。
「なら、もう問題ねぇさ」
そして物語は──次なる怪異へ。




