第一話
鬼塚探偵事務所は、狭いながらも整然とした空間だった。この探偵事務所の主、鬼塚蓮司の机は窓際にあり、外の光が薄いカーテン越しに差し込む。その目の前には、灰皿とタバコの箱が無造作に置かれている。蓮司は、机の上にだらりと手を置き、足を組んでソファに腰掛けると、タバコを一本取り出して火をつけた。白い煙がゆっくりと天井に漂い、部屋の空気を少しずつ変えていく。
「はぁ……」
蓮司は深く息を吐きながら、煙を指で払い落とす。机の上には、いくつかの書類が散乱しているが、どれも手をつける気配はない。事務所に来てから数時間、電話も鳴らず、来客もなく、彼の日常は無駄に長く感じることが多かった。
反対側の机では、アシスタントの本間里沙がキーボードを叩いている音が響く。彼女は顔を前に向けて、パソコンの画面に集中しているが、その手の動きは慣れたものだ。画面に映るのは、おそらく依頼に関連した書類や過去の事件のデータだろう。たまに、首をかしげたり、眉をひそめたりして、何か考え込んでいる様子も見受けられる。
蓮司は里沙の方をちらりと見てから、またタバコをふかしながら、少し退屈そうに天井を見上げた。
「里沙、なんか面白い事件ないのか?」
普段なら、あまり口を開かない蓮司が唐突にそう尋ねると、里沙はパソコンから目を離して一瞬だけ蓮司を見た後、静かに答える。
「今は特にないですね。過去の案件がまだ片付いてないですし……。でも、次の仕事が来たらすぐに連絡するようにしますから、それまで待っていてください」
「仕事も来ないし、収支もかつかつだなぁ……」
蓮司はつぶやきながら、タバコの煙を吐き出す。その声に、里沙は少しだけ表情を曇らせ、手を止めてしばらく黙っていた。
「でも、急に来ることもあるかもしれませんから、気を引き締めておかないと」
里沙の声は冷静で、いつも通りだが、どこか蓮司を励ますようなニュアンスが含まれていた。
蓮司は軽く頷き、もう一本タバコを取り出して吸い始める。その煙が部屋の中に広がり、しばらくの間、二人の間には静かな空気が漂っていた。
蓮司はタバコを手にしながら、再び何もない空間をぼんやりと見つめていた。時計の針が無音で進んでいく音だけが響く。里沙は画面に映る数字や文字に集中しており、その手は休むことなくキーボードを打ち続けていた。
「どうだ? 進展は?」
蓮司が少しだけ声をかけると、里沙は一度だけ顔を上げ、軽くため息をついてから答える。
「新しい依頼が来る前に、これを片付けないといけませんから……。クライアントも待ってくれませんし、少しでも早く進めないと」
里沙は肩をすくめて、またキーボードを打ち始める。蓮司はその様子を静かに見守りながら、改めて自分の手元を見た。無駄に時間が過ぎる中、心地よい空虚感が広がっていくのを感じていた。
「この静けさも悪くないがな……」
蓮司はそうつぶやき、窓の外を見ながらタバコを消す。夜の気配が少しずつ広がり、周囲の街灯が淡い光を放つ。その瞬間、突如として事務所の電話が鳴り響いた。
蓮司は驚いたように電話機を見つめ、しばらく反応がなかったが、すぐに受話器を取った。
「鬼塚探偵事務所、鬼塚です」
「もしもし……、鬼塚探偵事務所でしょうか?」
電話の向こう側から、女性のかすれた声が聞こえてきた。その声には焦りと不安が混じっており、すぐに蓮司は態度を改めて、真剣な表情を浮かべた。
「はい、こちら鬼塚探偵事務所ですが。どうされましたか?」
「実は、お願いしたいことが……」声が震えていた。「私、最近変なことが続いていて、怖くて……。夜になると、必ず誰かがつけているような気がして……」
蓮司は少し黙って聞きながら、その声に不自然な点がないか注意深く聴いていた。里沙もそのやり取りに気付き、パソコンの画面から目を離して電話の内容に耳を傾ける。
「分かりました。詳しく話を聞かせてください」
蓮司はしばらく電話で話を続け、その間、里沙も事務所内を見渡していた。電話が切れた後、蓮司は深いため息をつきながら受話器を戻し、里沙に向かって言った。
「どうやら、今度の依頼は少し変わっているかもしれないな。どうやらつけられているという話だが、普通のストーカーの話ではなさそうだ」
里沙は興味を引かれた様子で、蓮司を見つめた。
「どんな内容だったんですか?」
「うーん、話の内容だけじゃ判断できないが、夜になると誰かに見られているような気がして、寝るときにも気配が感じられるらしい」蓮司は少し黙ってから続けた。「まぁ、普通の人間関係のトラブルの可能性もあるけど……」
里沙はしばらく考えてから、軽くうなずいた。
「依頼人はどこに住んでいるんですか?」
「電話番号を聞いたけど、住所は教えてくれなかった。そう言えば、家の中で奇妙な音がするとも言っていた」
「音?」
「そう。どうやら、家の中で何かが動く音らしい。それに、女性は今すぐ近くまで来ているらしい。火出野公園だ。直接会って話を聞いてこよう」蓮司は立ち上がり、タバコを灰皿に押し込んでから里沙に言った。「準備しておけ」
里沙はすぐに立ち上がり、カバンの中を整理し始めた。蓮司は事務所の扉を開けると、軽く振り返って言った。
「今日は少し長くなるかもしれない。行こうか、里沙」
彼女は軽くうなずき、二人で事務所を後にした。
蓮司と里沙は茫漠とした不安を抱きながらも公園に向かっていた。探偵の直感とも言うべきものが蓮司を事件に向かわせていた。
「大丈夫でしょうか、その女性の方」
里沙の声に、蓮司は肩をすくめる。
「分からん」
市街地の通りには人が行き交っていて、また夜は眠っていなかった。
やがて二人は火出野公園近くまでやってきた。その時だった。公園の方から悲鳴が聞こえた。
「所長」
「ああ、やばいことになったか。行くぞ」
公園の中央に、倒れた女性が一人横たわっていた。周りには人々が集まっており、誰も近づこうとはせず、ただただその光景を見守るばかりだ。悲鳴がまだ耳に残る中、蓮司は静かに周囲を見渡す。
「何があったのか……」
彼は思わずつぶやき、足を早めて現場に向かう。蓮司は里沙に視線を送りながら、公園の中央に向かって歩みを進める。里沙も無言でその後を追う。
女性が倒れていた場所に辿り着くと、警察が到着する前にすでに数人の目撃者が集まり、ざわめいた様子だった。しかし、女性の姿はどこか異様に見える。
蓮司はその倒れている女性の顔をじっと見つめ、微かに目を閉じると、静かに息を吸った。彼の目が一瞬、まるで視界が消えたように見えたかと思うと、すぐに不気味な空気を感じ取った。
「……これはただの暴行事件じゃない。里沙、俺が調査を始める。」
彼は言ったとたん、その場で目を開け、手を軽く伸ばした。幽体離脱を使って、現場の過去の出来事を目の前に映し出させることができるのだ。しかし、蓮司がその能力を使うのは簡単ではない。周囲の人々や警察の目を避けつつ、何とかこの状況を探る方法を見つけなければならない。
その瞬間、蓮司の体がわずかに震える。幽体離脱を行うためには、まず心を落ち着け、周囲の空気を感じ取らなければならない。彼は深呼吸をして、視線を倒れている女性に集中した。目を閉じ、周囲の喧騒が遠くなるのを感じると、彼はゆっくりと意識を空間に広げ、体を離れる感覚を味わった。
蓮司の霊的な姿は、肉体から離れ、無重力のような感覚に包まれる。彼の意識は現場に残された過去の断片を掴むため、周囲を漂うように動き出した。目の前に映し出されるのは、まだ起こっていない出来事の数分前。公園の暗がりで、女性が倒れる前の瞬間を蓮司は見ることができた。
足音が近づく。細い影が暗闇から現れると、女性が恐怖に満ちた表情でその影を見つめていた。蓮司はさらに近づいて、その声を聞こうとしたが、ふと何かが引っかかる感覚を覚える。
「違う」
蓮司はすぐにその場から引き戻され、目を開けた。周りの光景が元に戻り、現実の公園が目の前に広がっている。里沙はまだざわめいている現場の様子を見守っている。
「……何か、感じました?」里沙が近づいてきた。
「ただの暴行事件じゃない。あの女性はただの被害者じゃない、何か、他の力が働いている」
蓮司はゆっくりと立ち上がり、周囲を見渡す。女性が倒れている場所に視線を戻すと、どうしても見逃せない何かを感じた。警察が到着し、周囲の人々が次々と事情を話し始めたが、蓮司はその中に埋もれることなく、自分の直感を信じていた。
「里沙、調査を始める前に、少しだけ情報を集めよう。ここはただの公園じゃない、何かが隠れている」
里沙は疑問そうな顔をしながらも、すぐに頷いた。
「分かりました。どうやって調べるつもりですか?」
「まずは……この公園の過去を調べる必要がある」蓮司はそう言うと、周囲を見渡しながら歩き出す。
蓮司は歩きながら、周囲の状況を注意深く観察していた。公園は普通の市民が集まる場所で、昼間は子供たちの遊ぶ場所でもある。しかし、今は夜の静けさと不安が支配していた。倒れている女性を取り囲む目撃者たちの中で、何か異様なものを感じる。何度も目撃者の顔を見て、彼の目は鋭く、周囲の気配を探る。
「所長、この人、まだ息があります」
里沙の声に蓮司は振り返った。「気を失っているだけか? それとも……」
やがて二人の警官がやって来ると一人が女性の近くにいた蓮司と里沙に声をかけた。
「あなたがたは? その人の知り合いですか?」
「いえ、違うんです」
「では少しお話を聞かせてもらえますか」
里沙は蓮司に目をやる。蓮司は頷き、里沙に時間稼ぎを任せた。里沙は警官の方を向いて話し始めた。
その時だった。女性が目を覚まし、蓮司に手を当てた。蓮司は女性に言った。
「大丈夫ですか? 何があったんですか?」
女性は震えながら目を開け、ゆっくりと蓮司を見上げた。その目には一瞬、怯えと混乱が見えたが、すぐに顔をそむけ、声を絞り出した。
「後ろに……後ろに……!」
その言葉が何かを引き起こした瞬間、蓮司は声を落として問うた。
「何か見たのか?」蓮司は低い声で尋ねる。
女性は恐る恐る蓮司を見て、少しずつ言葉を絞り出す。
「後ろに……あの男が……」
その言葉を聞いた瞬間、蓮司は何か強い予感を感じた。幽体離脱で見た過去の出来事が蘇り、目の前の公園に何かが隠れているという確信を得た。
「男? どんな男だ?」蓮司が問い詰めようとした瞬間、周囲の空気が一変した。女性の目が急に大きく見開かれ、息が乱れる。
「う……うう……」
その瞬間、周囲の気温が急激に下がり、蓮司は胸に不快な冷気を感じた。何かが近づいている。里沙もその異変に気づき、すぐに蓮司を見た。
「蓮司さん、何かが……」
二人の警官も異変を察知していたが、群衆がパニックを起こさないように呼び掛けていた。
「離れろ」蓮司は里沙を突き飛ばすようにして、女性から一歩後ろに下がった。その瞬間、背後の暗がりから、何かが現れた。
影が不自然に動き、ゆっくりと女性に近づいていく。蓮司は目を細め、周囲を見回しながらその影を注視する。
「来るか……」
蓮司の言葉が終わると、影が完全に姿を現し、暗闇から一歩前に出た。それは人間の姿ではなく、どこか異質な存在のように感じられた。冷たい視線が蓮司に向けられ、その瞬間、蓮司は心の中で一つの決意を固めた。
「里沙、下がってろ。俺は片付けることがある」
里沙は一瞬驚きの表情を浮かべたが、蓮司の言葉に従い、すぐにその場から退く。
蓮司は冷徹な目で影を見つめ、静かに足を踏み出した。
影はゆっくりと動き、蓮司に向かって近づいてきた。暗闇の中で、その姿はますます不気味に感じられた。形は人間に似ているが、その動きや存在感はまるで生物ではないかのようだった。冷たい風が吹き、蓮司の周囲の温度が一気に下がるのを感じる。息が白く立ち上る中、蓮司は一歩、また一歩と影に向かって歩みを進めた。普通の人間には見えない霊体だが、冷たい空気は一帯を支配していた。
「君の正体、分かってる」
蓮司の声が冷静に響く。その声には少しも震えがない。彼はあらゆる異常に立ち向かってきたが、この存在もその一つに過ぎなかった。幽体離脱や憑依能力を駆使して数多くの事件を解決してきた彼にとって、このような異常に遭遇することは珍しくはない。だが、どこかに引っかかるものがあった。
影は言葉なく、ただ蓮司を見つめている。その目は暗闇に沈んでおり、まるで人間のものではない。瞬きもしない。動くたびに、まるで風を切る音のような不快な音が鳴る。
蓮司はすぐにその動きを察知し、静かに手を伸ばした。「このままでは、こちらが不利だな……」
彼は目を閉じ、再び幽体離脱の準備を始めた。冷たい空気を吸い込むと、心が落ち着き、彼の体はしだいに霊的なものへと変化していく。身体が軽くなる感覚を覚えながら、意識が徐々に現実から遠ざかっていった。
その時、影が突然動き出した。人間のような足取りで蓮司に向かって急接近する。蓮司はその動きを見越して、幽体離脱の状態で後ろに一歩下がった。
「来るなら、来い」
蓮司の霊的な体は完全に現場から離れ、影の周りをぐるりと旋回する。その瞬間、影の不安定な動きに気づいた。蓮司は意識を集中させ、その影が本当は「何か」に取り憑かれていることを見抜いた。これはただの人間の姿ではない。何かがその影の中に潜んでいる。
影が徐々に消えかけた瞬間、蓮司は意識を戻し、肉体の方に力を込めた。彼の目が再び開き、その不気味な存在を直視する。
「見破ったぞ」
蓮司はその言葉とともに手を伸ばし、念じる。霊的な力を込め、影の中に潜む存在を引き出す。突然、影の形が崩れ始め、黒い煙のようなものが漏れ出す。まるで悪霊が取り込まれているような感覚だ。
その瞬間、影が大きく歪み、異形の姿が現れた。それは一瞬で蓮司に向かって伸びたが、蓮司は冷静にその存在を霊的な力で抑え込んだ。
「お前の正体は分かっていると言ったろう」
蓮司はその声を低く響かせ、力を込める。影の存在は再び苦しみ始め、最終的にその異形の姿を消し去った。周囲に残ったのは、ただ冷たい風と、消えかけた煙だけだった。
女性はその場で震えながら立ち上がり、蓮司を見つめていた。蓮司は彼女の方を向き、優しく声をかける。
「大丈夫だ。もう危険はない」
女性は涙を浮かべながら、蓮司に感謝の意を示すように小さく頷いた。蓮司はその姿を見守った。里沙がやってきた。静かな夜の公園に、異常な空気は完全に消え去った。
里沙が戻ると、蓮司は一度彼女に向かって頷き、軽く微笑む。
「これで、解決だ。帰ろう」
里沙は安心したように深呼吸し、蓮司に従って公園を後にした。事件はひとまず解決したが、蓮司の心の中には何か不穏な予感が残っていた。今後、この事件の背後にある真実を突き止める必要があると感じていた。
女性は震えながらも、蓮司と里沙の前に姿勢を正し、ゆっくりと話し始めた。
「私……真奈香織と言います。鬼塚探偵事務所に電話を掛けた者です。あなた方のことはホームページで」その言葉に、蓮司と里沙は驚きの表情を浮かべた。蓮司は一瞬、言葉を失った。まさか、事務所に依頼をしていた人物がこんな形で現れるとは予想していなかったからだ。
「電話を……?」蓮司が口を開こうとすると、香織は小さくうなずいた。
「はい、あなたにお願いしたいことがあって。でも……今のこの状態で、こんなことになるなんて思いもしませんでした」
蓮司は香織をしっかりと見つめると、すぐに冷静さを取り戻して言った。「どういうことだ? 最初の依頼は何だった?」
香織は再び恐怖の表情を浮かべ、声を震わせながら話し続けた。
「実は……家の中で奇妙なことが続いていて。最初はただの物音だと思っていたんです。でも、夜になると、誰かが私の家に忍び込んでいるような気配がして……。それだけじゃなく、冷たい風が吹き込んだり、家具が勝手に動いたりすることがあったんです」
蓮司はその話を聞きながら、香織に近づき、やさしく声をかけた。「それで、あなたは何か助けを求めたかったんですね。でも、どうしてこの公園で?」
「それが……」香織は一瞬、目を閉じた。「昨日の夜、家で寝ているとき、誰かの声が聞こえたんです。でも、誰もいないはずだと思った。次の瞬間、何かに取り憑かれたみたいな感覚がして……。怖くなって、家を飛び出してきました」
蓮司はその言葉を聞きながら、周囲の状況を思い返していた。香織が言う通り、家に取り憑かれたような異変があったのなら、それはただのストーカー事件や悪戯ではない。背後には、もっと複雑な力が働いている可能性が高い。
「それで、どうして私たちに依頼をしたんだ?」蓮司はもう一度尋ねた。香織はしばらく沈黙した後、少しだけ恐る恐る話を続けた。
「実は……以前、誰かが私のことを調べているような気配を感じていたんです。何度か、変な目をして見られたことがありました。でも、その時は気にしないようにしていました。それが……この異常が続く原因だったのかもしれません」
蓮司はその話を聞きながら、徐々に何かを思い出すような表情を浮かべた。その顔に困惑と興味が入り混じっている。
「誰かがあなたを監視していた……。それが、異常な出来事を引き起こしている原因だと思う。君が最初に感じた気配、そして今のこの状況、全部繋がりがある」
香織は目を見開き、蓮司に尋ねるような視線を送った。「でも、どうして私にこんなことが……? 一体誰が私を……?」
その問いに対して、蓮司は一瞬目を閉じ、静かに答える。
「それが、今から調べるべきことだ」
それからしばらくの間騒然としていた公園はやがて落ち着きを取り戻し、女性が無事なこともあって、やがて警官たちも戻っていった。蓮司と里沙も解放された。
蓮司は香織の目を見つめながら、じっくりと考え込んだ。その瞬間、里沙が隣で口を開いた。
「蓮司さん、どう思う? これだけ異常が続くということは、やはり何かしらの力が働いているに違いないと思うけど……」
蓮司は少し間を置いてから、静かに答えた。「うん、間違いない。あの影……、ただの人間じゃない。あれは何か別の存在だ。背後に、黒い力が関わっているんだろう」
里沙はその言葉に驚きの表情を浮かべながらも、すぐに落ち着いた。「じゃあ、この人の家に何かがあるんですね? その力の源が」
蓮司は一度頷き、香織に向き直った。「香織さん、君が感じた異常は、ただの事故や悪戯じゃない。何かが君の周りで目をつけてきている。それを調査しない限り、安心できる日常は戻ってこないだろう」
香織は恐る恐る口を開いた。「私……どうすればいいんでしょうか? もう、家に帰るのも怖くて……。でも、どうして私が狙われているのか全く分からないんです」
蓮司は少し黙ってから、深く息を吸った。「君が狙われている理由、そしてその力の源を突き止めるために、今から君の家を調べに行く」蓮司は静かにその言葉を告げると、里沙に向かって言った。「準備をして、すぐに行こう」
里沙はすぐに頷き、いったん事務所へ戻った。香織は不安そうだったが、蓮司の冷静な態度に少し安心したようだった。
「分かりました。お願い、お願いします」女性は蓮司に頼むような目を向ける。
「任せておけ」蓮司は力強く言い、立ち上がる。やがて里沙が戻ってくる。三人で公園の出口を抜け、静かな夜道を歩いていると、蓮司は香織の家の場所を思い浮かべながら、その背後に感じる異常な気配を察知した。何かが見えないところで動いているような気がして、彼の警戒心がさらに強まった。
「里沙、もしも……俺が何か見落としていたら、君がバックアップしてくれ」蓮司は歩きながら、念を押す。
「もちろんです。お二人のためにできる限りサポートします」
その言葉を聞き、蓮司は一瞬だけ里沙を見やると、静かに頷いた。二人は急ぎ足で香織の家に向かって進んでいった。
家に到着すると、外から見てもその家は普通の住宅で、特別な異変が見当たらなかった。しかし、蓮司はその建物の周囲をじっくりと観察し、屋根から壁に至るまで、異常が潜んでいないか探し始める。
「まずは、家の中に入ってみる。だけど、何かが起きる前に気配を感じ取っておかなければ」蓮司は静かに呟き、里沙に合図を送ると、扉を開けて中に入った。
中は薄暗く、空気がひんやりと冷たかった。古びた家具が並ぶリビングは、静寂の中でひときわ異常を感じさせた。蓮司は歩きながら、空気の流れを探るように部屋を見回した。
「ここだ……」蓮司が突然足を止め、壁際の小さな棚に目を留める。何もないはずの場所に、わずかな異常を感じたのだ。
「里沙、少し手伝ってくれ」蓮司は棚をそっと動かし始めた。
里沙は驚きながらもすぐに手伝い、二人で棚を動かすと、そこに隠された小さな扉が現れた。扉は古びており、まるで誰かが意図的に隠していたかのように見える。
「こんなところに……」里沙は目を見開きながら言った。
蓮司はその扉を開け、暗い通路が続いているのを確認した。足元が不安定なその通路に、何かの力が強く感じられた。
「これは……ただの秘密の部屋じゃない。香織さん、君が感じていた異常、ここから始まっている」蓮司は言って、慎重にその先に足を踏み入れた。里沙が続く。
暗闇の中、二人の足音が響く。何が待ち受けているのか、蓮司の心臓は次第に高鳴り始めた。
通路は狭く、湿気を帯びた空気が蔓延していた。蓮司と里沙は慎重に歩みを進め、足元の不安定さに気をつけながら進む。壁は冷たく、どこか不気味な雰囲気を漂わせていた。通路の先にある小さな扉のようなものが、さらに緊張感を高める。
「これが……異常の源か」蓮司は低い声で呟いた。里沙はその言葉を聞きながら、背後を気にして何度も振り返りながら歩く。
「ここは……普段は使われていないようだな」蓮司は周囲の状況を観察しながら、通路を進む。そして、ついに小さな扉の前に辿り着いた。
扉は木製で、年月が経ったようにぼろぼろになっている。しかし、その表面には奇妙な文字や図形が彫られており、まるで何かの儀式に使われていたような痕跡が見受けられた。蓮司はそれを見つめ、少し黙ってから、静かに扉を開ける。
「気をつけて」蓮司が里沙に警告すると、彼女はしっかりと頷き、蓮司の後ろに続く。扉が軋みながら開き、暗い部屋の中が顔を出す。
その部屋は薄暗く、何か不気味なものが散乱していた。蓮司は部屋の中に入ると、床に広がる奇妙な模様に目を奪われた。部屋の中央には、黒い布で覆われた何かが置かれており、周囲には古びた書物や奇妙な道具が散らばっていた。冷たい空気が漂い、どこかからか不明な音がかすかに聞こえてくる。
「これは……」蓮司は一歩踏み出し、部屋の中央へと向かう。里沙は恐る恐る後に続いたが、足元の不安定さに注意を払っていた。
蓮司は黒い布を慎重に取り払うと、その下に隠されたものが明らかになった。それは、古びた石の台座の上に置かれた、血のように赤黒い石でできたオブジェだった。形は不規則で、どこか異様な美しさを放っている。
「これが、あの影の元凶だ」蓮司はその石をじっと見つめながら、里沙に説明を始めた。「これはただの装飾品ではない。この石、何かを封じ込めている。おそらく、異界の力が封印されている」
里沙はその言葉に驚き、目を見開いた。「封印された力……?」
「そう」蓮司は深く息をついて、石を慎重に手で触れた。「おそらく、あの影の存在は、何かの儀式で封印された悪しき存在だ。それが目を覚まし、この家に取り憑いている」
その時、部屋の空気が急に冷たくなり、蓮司は一瞬、背筋が凍るような感覚を覚えた。何かが動いた気配がした。
「気をつけろ、里沙……」蓮司は警戒し、周囲を見渡した。その時、急に部屋の隅から低い声が響いた。
「お前たち……来てしまったな」
その声はまるで部屋全体から響いているかのようで、蓮司の心臓が一瞬跳ね上がった。里沙は驚きと恐怖の表情を浮かべ、蓮司の方を見た。声の主は見えない。だが、確かにその存在はそこにあった。
「何者だ?」蓮司は冷静に問いかける。
「私は……この力を引き出す者だ」声はさらに深く、底知れぬ冷たさを含んでいた。「お前たちが触れたその石、これはただの偶然ではない。君たちが来るのを待っていたのだ」
蓮司はその声にじっと耳を傾け、少しずつその正体を探る。何かが近づいている。だが、それが何かはまだ掴めない。
「里沙、後ろに下がれ」蓮司は低い声で言い、ゆっくりと足を前に出した。
突然、部屋の隅から影が現れ、目に見えない力で石が浮かび上がる。その瞬間、蓮司は全力でその力を封じ込めようと、念を込めた。
「戻れ……!」
その瞬間、空間が震え、光と闇が交錯する。蓮司は必死にその力に抵抗し、石に向けて霊的な力を送り込んだ。しかし、その力は予想以上に強大だった。
「もう遅い……」声は冷たく響き、部屋全体が揺れ始めた。
部屋が揺れ始めると、蓮司はその異常な力を感じ取ると同時に、自分の身体にかかる重圧を強く感じた。何かがその空間全体に浸透していくような感覚があり、まるで地面が崩れ落ちるような不安定な感覚に包まれる。
「これは……ただの霊的な力じゃない……」蓮司は冷静を保ちながらも、心の中で危険な兆しを感じていた。「これは、もっと強力な何かが関わっている。封印されたものが、完全に解放されようとしている」
里沙は身震いしながらも蓮司の指示を待ち、足元を注意深く見守っている。その時、突然、部屋の中央に浮かんでいた黒い石がさらに高く浮かび上がり、光を放ちながら異常に熱を帯びてきた。その熱さは周囲の空気を歪ませ、じりじりと肌を焼くような感覚が広がっていく。
「蓮司さん、どうすれば……?」里沙は不安そうに尋ねる。
蓮司はその質問に答えようとした瞬間、またもや低い声が響き渡った。
「お前たちが消えるのは時間の問題だ」声はどこからともなく響き、さらに深く冷たい力が部屋を包み込んでいく。「お前たちが触れることで、私の計画は遂行される」
その声に蓮司は、恐るべき何かが本当にこの場所に潜んでいることを確信した。声の主が「私」と言ったことに、一つの可能性を感じた。もしかしたら、この異常な現象の背後には一人の人間、あるいは、かつての人間が関わっているのではないか。
「里沙、あの石を封印しない限り、ここから抜け出すことはできない。おそらく、この場所の力はその石に由来している。だが、封印を解こうとする者が近くにいる」蓮司は冷静に指示を出した。
里沙は頷き、蓮司の動きに従いながら、懐から小さな袋を取り出した。それは、以前蓮司が使っていた呪符が入った袋だった。蓮司はそれを手に取ると、呪符を一枚取り出し、石に向かってゆっくりと近づいた。
その瞬間、部屋の中の空気が一層冷たくなり、周囲に引き裂かれるような音が鳴り響いた。蓮司はその音を無視し、集中して呪符を石に向けて掲げた。「今、力を封じ込める!」
呪符が石に触れると、一瞬で部屋全体が震え、空気が揺れ動いた。黒い石が光を放ち、周囲の空間が歪み始めた。その光は強烈で、目を開けていることができないほどだった。蓮司はその光を受け止めながらも、念じ続ける。
「明かりに見せまし善なる神よ、邪悪を封印したまえ……封印……!」
突然、石の光が一瞬で消え、部屋が静寂に包まった。蓮司は肩で息をしながらも、力を使い果たしたようにその場に立ち尽くしていた。里沙もその異常な光景に目を見開き、ようやく力が引き寄せられたことを実感した。
「……終わったのか?」里沙は息を呑みながら聞く。
蓮司は一歩前に進み、部屋の中を慎重に見渡した。石はすでに静まり返り、その表面は何もなくなったかのように見えた。しかし、蓮司は完全に油断していなかった。何かまだ残っているような気配が感じられた。
「まだ……終わっていない」蓮司は静かに呟き、部屋の隅を指差した。「あの影が完全に消えたわけではない」
里沙はその言葉に驚き、すぐにその方向を見た。暗がりの中に、再び微かな影が見える。影は静かに動き、まるで蓮司に挑戦するかのように存在感を強めていた。
「どういうこと?」里沙は恐る恐る聞く。
「奴は……まだここにいる」蓮司はしばらく黙ってから、冷徹な目でその影を見つめた。「だが、今度は俺が仕留める」
影はゆっくりと動き出し、その形が徐々に人間の姿を成していった。それはまるで生気を持たない亡霊のようで、蓮司の前に立つと、その冷たい声が再び響いた。
「お前たちが封じたと思っているかもしれないが、私の力は消えない」
影が完全に姿を現すと、その形はゆっくりと定まった。目の前に立つのは、蓮司が思い描いていた通り、かつての人間だった。だが、その目には生気が感じられず、まるで亡霊のような冷たい空気が漂っていた。暗闇の中でその存在が浮かび上がる様子は、まるで現実から切り離されたような、異界のものに思えた。
「私の力は消えない……?」蓮司は静かにその言葉を繰り返し、無表情で影の存在を見つめた。「ならば、なぜ今ここに現れた? 君が目覚めることはなかったはずだ」
影は蓮司の言葉に反応することなく、冷たく静かな声で答えた。「お前が封印したと思ったその力は、ただ一時的に封じ込められただけだ。私の存在を完全に消すことは、できない」
蓮司は少しだけ眉をひそめた。この存在が言っていることは、すべての力を封印することが不可能であるということを示唆している。しかし、これまでの蓮司の経験からすると、その力を完全に消し去る方法があるはずだと信じていた。彼の目の前に立つこの影が何者なのか、それが明確になれば、状況を打破する方法が見えてくる。
「君の名前は?」蓮司は冷静に尋ねた。
影は少しの沈黙を置いてから、答えた。「私はかつて、カイエン・ヴァルドという名の者だった」
「カイエン・ヴァルド……」蓮司はその名前に覚えがあった。だが、すぐに思い出せなかった。過去に聞いたことがある名前ではあったが、それが何を意味するのかはすぐには思い出せなかった。
「カイエン・ヴァルド……」蓮司は再び呟き、しばらく考え込むと、ようやくその名前の持つ意味に気づいた。「あの時代の、失われた魔術師の一人か。君が力を求めすぎたあまり、死後もその力に縛られていたというわけか」
影、カイエン・ヴァルドは静かに頷いた。「私の力は、死後もこの世に残り、誰かがそれを解き放つことを待っていた。君たちのような者が私に触れることを」その言葉には、どこか冷徹で無慈悲な響きがあった。
蓮司は少し間を置いてから、冷静に答えた。「君が復活した理由はもう分かった。だが、それがどうした? 君の力が完全に解放されたわけではない。まだ、消し去ることはできる」
その言葉に、カイエンは冷笑を浮かべると、ゆっくりと歩きながら言った。「お前たちが信じる力など、私の力には足元にも及ばない。封印が解けた今、私はもうお前たちの力では止められない」
「そうか」蓮司は淡々と答え、次に起こすべき行動を考えていた。カイエンの力が完全に解放されていないことは確かだ。まだ何か封印された部分がある。今、彼にできることはその隙間を突くことだ。
「里沙、準備をしてくれ」蓮司は静かに言った。
里沙はすぐに反応し、蓮司の背後に立ちながら、手に持った呪符を使い始めた。彼女は蓮司の指示を受け、精密にその呪符を空中に浮かべ、力を込める。呪符の周りに光の輪が広がり、空気が変わるのを感じる。
カイエンはその様子を見て、不敵に笑う。「無駄だ、無駄だ。お前たちにできることは、もう何もない」
しかし、その瞬間、蓮司はカイエンに向かって手をかざした。その手から放たれた霊的な力が、部屋の空気を揺らし、石に封じ込められていた力を再び引き寄せた。
「君の力は確かに強い。しかし、封印を解いたのはあくまで一部に過ぎない」蓮司は冷静に言い、手をさらに前に突き出す。
その言葉とともに、部屋の中に強い力が渦巻き、カイエンの姿が一瞬ぼやける。蓮司の霊的な力が、カイエンの闇の力を引き裂こうとする。だが、カイエンもそれに反応し、力を振り絞って抗い始める。
「お前は……まだ理解していない」カイエンは苦しげに声を上げ、その顔に異常な表情を浮かべながら、力を放出する。部屋全体が歪み、二人の力がぶつかり合う中、蓮司は最後の力を込めて言った。
「君の力を封じる。もう二度と、目覚めさせることはない」
蓮司の声が響くと同時に、部屋の空気が一気に変わり、まるで時間が止まったかのような静けさが広がった。カイエンの力が暴れ、部屋の中で異常な力が激しく渦巻く。しかし、蓮司は動じず、その力に立ち向かう準備を整えていた。
「これで終わりだ」蓮司は冷静に、しかし確固たる決意を持って言葉を発した。
その言葉と共に、蓮司は両手を前に伸ばし、手のひらをカイエンに向ける。霊的な力がその手から一気に放たれ、部屋中の空気を圧倒するような強さで波動が広がった。その波動はカイエンに直撃し、空間が引き裂かれるような音とともに、彼の姿が歪み始める。
「うっ……!」カイエンは声を上げ、痛みに顔を歪める。しかし、彼の存在が揺らぐことはなく、その力は依然として強大だ。カイエンの体が膨張し、まるでその中に閉じ込められた悪しき力が解き放たれようとしているかのように見えた。
「封印を解除しただけでは、私を完全に消し去ることはできない!」カイエンは叫び、周囲の空間を破壊しようとする。だが、蓮司の力はその激しい反動にも耐え、さらに強く放たれていった。
里沙はその状況を見守りながら、蓮司の力を支えるべく呪符を次々と空中に浮かべ、彼の力を補強する。彼女の手から放たれる呪文が、蓮司の力と融合し、カイエンに向かって集中する。
「これで……終わりだ!」蓮司は全身を使って、最後の力を込めた。
その瞬間、空間が爆発したような衝撃が走り、カイエンの体が引き裂かれるように崩れ始めた。影のような存在が溶けていくように、カイエンの形が徐々に消えていく。激しい光と闇の渦の中で、ついにカイエンの姿が完全に消え失せ、部屋は再び静寂に包まった。
蓮司は深く息をつきながら、その場に立ち尽くしていた。全身が疲労に包まれ、力を使い果たしたように感じる。しかし、これで終わったことを確信していた。
「……終わったか」蓮司は里沙に向かって、疲れた表情で言った。
里沙はしばらく黙って彼を見つめ、ゆっくりと歩み寄った。「はい、終わったみたいですね」
蓮司は少し微笑み、力なく肩をすくめた。「でも、これであの影はもう二度と復活することはない。あの力は完全に消し去ったはずだ」
里沙は頷きながら、部屋の中を見渡した。静かな空間の中、カイエンの残した気配は完全に消え失せていた。
「これで、あなたが言っていた通り、香織さんはようやく普通の生活に戻れるんですね」里沙は優しく言った。
蓮司は短く頷き、深く息を吐いた。「ああ、だが……何かが終わった気がしても、また新たな問題が待っている。それがこの仕事だ」
里沙は少し笑いながら、蓮司を見つめた。「でも、今は少し休んでくださいね。あまりにも無理をしすぎですから」
蓮司は静かに里沙に微笑み返し、しばらく無言で立っていた。そして、やがて言った。
「ありがとう、里沙。君がいなければ、ここまで来ることはできなかった」
里沙は軽く頷き、「いつでもお手伝いしますから」と笑顔を見せた。
二人はしばらくその場で静かな時間を過ごし、やがてゆっくりと部屋を後にした。ドアを閉める音が静かに響き、鬼塚探偵事務所に帰るための道を歩き出す。
事件は終わった。だが、蓮司と里沙が迎える日常は、また少しずつ別の問題に向かって動き出しているのだろう。
事件が解決し、蓮司と里沙は香織と共に鬼塚探偵事務所に戻った。蓮司は香織を事務所に案内した。香織の顔にはまだ恐怖の色が残っているものの、蓮司と里沙が帰ってくると、少し安心したような表情を浮かべた。
「ありがとうございました。蓮司さん、里沙さん」香織は軽く頭を下げ、ホッとしたように息をついた。
蓮司は少し疲れた表情を見せながらも、微笑んで答えた。「無事に解決した。あの影はもう二度と君に近づくことはない」
香織はその言葉に、ほっとした表情を浮かべ、ようやく安心したようだった。「本当に、ありがとうございます。あなた方のおかげで……もう怖くて眠れなかった日々が終わったんですね」
里沙は優しく微笑みながら、香織に向かって歩み寄った。「ご安心ください。もう大丈夫です。あの影の正体も明らかになり、力を完全に封じ込めました」
香織は涙をこらえながら、静かに答えた。「実は、最初にあなたたちに依頼の電話をかけたとき、どうしても信じられませんでした。こんなことが自分に起こるなんて……でも、あの電話をかけて本当に良かった」
蓮司は少し黙ってから、香織に向かって静かに言った。「君が感じた異常は、すべて現実だった。過去に一度でもそれに触れた者がいたなら、その力は決して消えることなく、しぶとく残り続けることもある」
香織は深く頷きながら、その言葉を噛みしめるように聞いていた。「最初はただの偶然だと思っていたんです。音がしたり、家具が動いたりしても、誰かのいたずらだと思いたかった。でも、次第にそれが普通じゃないことだって分かり始めて、怖くて……誰にも言えなかった」
「それが普通の反応だ」蓮司はその言葉に頷き、冷静に続けた。「だが、君はそれを無視せず、きちんと向き合おうとした。だからこそ、問題が大きくなる前に解決できたんだ」
香織は静かに涙を拭い、少しだけ強い表情で答えた。「でも、どうして私なんかが……? あの時、何も悪いことをしていないのに」
「君が狙われた理由は、君が弱いからではない」蓮司は深く考え込みながら言った。「君が持っているもの、君の周りに引き寄せられる力が原因だ。このような力に目をつけられるのは、決して君だけじゃない。だが、君が気づかなかったからこそ、長い間放置されていた」
里沙はその説明を聞きながら、少し心配そうに香織を見つめた。「でも、どうしてそんなことが起こったのでしょう? 一体、あの力は何だったんですか?」
香織はしばらく黙って考え込んでから、静かに答えた。「実は……私は子供の頃、ある人物に助けられたことがあるんです。その人物は、私がまだ小さかった時に家族と一緒に出会った人で、その後に姿を消してしまいました。でも、私はその人物がくれた言葉を今でも覚えているんです」
「その人物とは……?」蓮司は少し注意深く尋ねた。
「その人は、私にある本を見せてくれました」香織は声を震わせながら言った。「その本には、古代の魔法について書かれていたんです。子供の頃だから、全てを理解していたわけではありませんが、その本には暗い力が封印されていると書かれていました。あの時、私はただの好奇心からその本に触れたんです」
蓮司はその言葉に少し考え込み、しばらく黙っていた。「それが原因かもしれない」
「つまり、あの人物が私に本を渡したことが……」香織は言葉を詰まらせながらも、少しだけ理解したようだった。
「おそらく、その本は危険なものだった」蓮司は冷静に答える。「その人物が意図していたかどうかは分からないが、君にその力が引き寄せられた可能性が高い」
里沙は黙ってその会話を聞いていたが、蓮司に向かって言った。「でも、これで終わりですよね。あの本やその人物が何であれ、今後はもう彼女がその力に縛られることはない」
「はい、もう大丈夫です」蓮司は静かに答えた。「君にはもう何の危険もない。ただし、この先、もしも何か異常を感じたら、すぐに知らせて欲しい」
香織は深く頷き、再び感謝の気持ちを言葉にした。「本当に、ありがとうございます。あの恐怖から解放されて、ようやく心から安心できる気がします」
「いいえ、私たちの仕事です」蓮司は軽く微笑んだ。「これからも、気をつけて生きていってください」
香織は涙を拭い、最後に深くお辞儀をしてから、静かに立ち上がった。蓮司と里沙もそれに応じて見送り、事務所内には静かな安堵感が広がっていった。事件は無事に解決し、また一つ、蓮司の探偵としての仕事が終わった瞬間だった。