朱子学も悪いが無学はもっと悪い
賢丸様の仰る身分制度とは、士農工商だけではなく、武士の中での格差、いわゆる家格のことも含まれるのだろう。
厳然たる身分によって就く職が変わる制度は、俺からすれば極めて成長力の無い社会と思えるが、かつて己の力一つで成り上がることが可能な社会であった結果が、下克上とそれに伴う無法の戦乱の世であり、当時の人々が安定を求めた末に導き出した制度だと考えれば、未来人の思考だけでそれを否定するわけにもいかない。
「安十郎。其方なら知らぬわけがあるまい」
「大義名分論。朱子学の教えでございますな」
そんな社会に利用されたのが朱子学。そこで唱える大義名分論は、天の理が人間の社会においては身分の上下として現れる。だから主君の、親の言うことは絶対で必ず従わなければいけないという思想。為政者が身分統制を司るのに大変都合の良い考え方だ。
が……儒教ってのは本来、仁・義・礼・智・信という五常をもって、人間関係を正しく維持しましょうという教えであるはず。朱子学が本来説く君臣関係だって、君主に過ちがあり、諌止して聞き入れられなかった場合は君臣関係を破棄するのも止む無しという考え方であるが、忠孝を大切にねって部分だけを切り取って都合良く使いすぎなのだと思う。
それに四書の一つ「大学」にある、"格物致知"という言葉について、物事の道理や本質を深く追求し理解して、知識や学問を深め得ることと解説していたりもする。
どういうことかと言えば、立派な人物になるには学べってこと。聖人になるためには学ぶことを疎かにしてはダメだよと説いていて、なるほどど頷ける点もあるのだが、残念ながらそっちはあまり守られていないようだ。いかに都合の良いところだけを使っているかという証だな。
「君臣、父子の別を弁え、敬うという本質に異論は唱えません。さりながら、それを盾に学びを疎かにする者が、家督を継ぎ禄を食むのは如何なものかと。一方の教えは遵守し、他方は軽視では示しが付きませぬ」
民を安んじるには、君は教え導くために学ぶべきであり、主を支えるためには、臣も学びを得た上でこれを補佐し、誤りがあれば諫める。そうして互いをリスペクトすることもまた、儒教の理念ではないかと思う。
俺の拙い知識に基づくイメージだから、正確かどうかは分からないけど概ねそれが儒学の理念だろう。
とはいえ全員が理念通りに動くわけがないし、努力したって叶わないことがあるのが世の常というもので、理想論ではあることは分かっているけれど、だからと言って都合のいい部分だけ切り取って使うのも違うだろう。
「主に能く仕えんと欲するならば、どうして己を律するを厭いましょうか。私は朱子学の教えというよりは、自分に都合の良い教えだけを拠り所に、怠惰を貪る無学の者を否定するのです」
「……ったく、お主は口ばかり良く回り……いや、口だけではないな。身をもってそれを示しておればこその言葉であるな。否定するは無学の徒か、物は言いようだな」
意外と賢丸様の口調が穏やかである。もっとこう……激高してふざけるな! とか言うかと思ったのだが……
「どうした? 呆けた顔をしおって」
「お怒りになりませんので?」
「怒る……私が?」
「今までの制度や政策を否定する考えですし……」
「な……何を今更!?」
そう言うと、賢丸様は急に吹き出した。まさかそんなことが理由かと、ヒイヒイ言いながら笑い転げておられる。いや、どんだけ俺が節操無しだと思っていたのであろうか。
「ああ腹が痛い……こんなに笑ったのは生まれて初めてだ。今更そのようなことを気にしておったとは」
「賢丸様は吉宗公を崇敬しておられますので……」
賢丸様は祖父である吉宗公を尊敬している。後に松平定信となって行った寛政の改革も、基本理念は吉宗の享保の改革と同じく、初代家康公の政治を理想にしたものだと覚えている。
つまり旧来の姿を取り戻すための政策なわけで、俺の意見は言ってみれば、「お前の爺さん間違ってたぜ」と受け取られかねないもの。父祖を大切にする賢丸様の心象を悪くするだろうなと思って言わなかったんだよ……
「だから私が不届き者と怒ると?」
「尊敬する方を貶めることを申せばさすがにお怒りになるかと」
「たしかに安十郎の考えはこれまでとは違う。されど根っこは民を安んじ、国を保つための策ではないか。どうしてお祖父様を愚弄することになろうか」
俺が気にしていた理由が自分にあると分かったからか、賢丸様が穏やかに語りかけてきた。
曰く、身分の話を申すなら、俺の師である昆陽先生も取り立てられた者の一人であり、人材登用の策である足高の制も吉宗公の時代の話。そもそも身分を煩く言うのなら、宗武公も自分も俺を受け入れてなどいないと。
「それに……お祖父様も、もしかしたらこれまでのやり方に限界を感じていたのやも知れぬ。蘭書の導入を認めたのも、西洋の知識に見るべき物があれば取り入れよという思し召しであったのだろう」
「では先程、身分のことを仰せになったのは」
「其方の身を案じての話よ」
身分制度が確立して百数十年、今や上の人間は安定した身分を守ることに固執し、能力のある下位の者が現われると、自らの権益を侵す不埒者と排除の力が動くのが当たり前の世の中になった。
未来の民主主義社会ですら格差の是正を拒む有象無象の力が働くのだから、厳然とした身分が存在するこの時代では言わずもがなであろう。
老中格となった田沼様ですら、成り上がり者と軽んじる者は少なくないのだ。五百石取りの旗本の部屋住である俺が、田安家に重用されることを面白く感じない者がいるのは想像に難くない。
今は賢丸様の学友という自然な形で収めているが、甘藷の件で俺の名が知られるようになってからは、宗武公や治察様の耳にもそれとなく届いているらしい。
「お祖父様が蒔いた蘭学の種から、ようやく徳山安十郎という花が咲こうとしているのだ。実が生るも枯らすも、為政者のさじ加減一つ。今ここで其方を散らすわけにはいかぬ」
もちろん俺自身もこの時代の大多数とは異なる考えだと分かっているから、時と場合は考えているが、おそらく賢丸様は俺が考え無しに知識をひけらかしているのならば、自分が手綱を締めるというつもりで試したのだろう。
「私がその身分制度に守られた存在であることは良く分かっている。だからこそ、民を導き国を良くするべく精進している。だが多くの者は安十郎の申すとおり、朱子学の悪い面ばかりを尊重し、それが都合が良いからと信奉する者も多い。今はまだその時ではないのだ」
賢丸様がススッとにじり寄り、俺の肩に手をおいて耳元で囁く。
「私や治察兄上が今より力を付けたら、そのときは存分に力を奮ってもらう。今はその苗床を準備する時だ」
「それは田安家のためにですか?」
「馬鹿を申せ、天下万民のためじゃ」
互いに何が言いたいのかよく分かるから、ニヤリと笑みが溢れる。どうやら俺の存在は、想像以上に松平定信の思考を大きく変えてしまったようだ。
「念のために聞くが、この話は他には……」
「賢丸様以外には……と言いたいのですが、どうやらもう一人聞こえてしまったようです」
「何?」
「あちらに……」
「種、そこで何をしておる?」
俺と賢丸様が身を寄せてヒソヒソと話し始めてから、どうにも窓の外から妙な気配を感じたので目を向けたら、庭からこちらをジッと見つめる種姫様の姿があった。
「あら……お兄様ごきげんよう」
なんだろう。たまたまそこに居たという雰囲気の割に、普段のニコニコした雰囲気ではなく、仄暗い、一言で言うならダークサイドに墜ちちゃった感じなんですが……