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旗本改革男  作者: 公社
<第十章>

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ナントカの沙汰も金次第

<京都・妙法院>


「帝はあまりよい顔をされなかったようですな」

「某の不徳の致す所にて」

「いやいや、例の話は誰が見ても難しいことゆえ、時間をかけてゆっくりと。であります」




 寛政元(1789)年の夏、京都所司代に任じられた俺は任地である京都に赴いた。


 前回訪れたのは九年前。当時即位して間もない幼帝であられた帝も御年十九歳となられ、王としての風格も感じさせるようになっていた。


 そして、幕府の中では俺が新任の所司代であることは決定事項なんだが、実は正式には帝に拝謁して幕府の意向(俺が新任の所司代であるということ)を改めて伝え、それを帝がお認めになられることで初めて確かなものとなる。


 そんなわけで俺も帝に拝謁したわけだが、最初こそ「久しぶりじゃのう〜」という和やかな雰囲気だったが、尊号のことに話が及びそうになるや、途端に空気が重くなった。


 実際に話をしたわけではない。俺が所司代に就任したことを追い風と感じた者たちが、協力の一言を引き出そうと躍起になって話をそちらへ持っていこうとしていたが、左大臣殿などが本題に至る前に公卿たちを制して終わったからだ。


 恐らくは俺が相手の話に乗ってこなかったのを見て、ここで尊号のことを持ち出しても、これまでと同じく拒絶されるだけであろうと考え、じっくり時間をかけて俺を懐柔しようしていたのかもしれない。


 まあこちらとしては何がどうあっても認めるとは言えないので、この先も公卿たちに会う度に、また何度もあのような空気になるのかと思うと気が重くて仕方がない。




「それで、拙僧に口添えをと仰せなのだな」

「ご面倒かとは存じますが」


 そこで江戸出立前に今出川殿からもらった助言のとおり、京都妙法院の門主真仁様に手を貸してもらおうということとなった。


 妙法院は京都東山にある天台宗の門跡もんぜきである。その起源は比叡山にあった坊(小寺院)の一つなのだが、伝教大師(でんぎょうだいし)、即ち天台宗の開祖最澄(さいちょう)が初代門主という由緒がありまくりなお寺。そしてさらに言えば、門跡とは皇族・貴族が住職を務める寺院のこと指し、その中でも妙法院は皇族が住職を務める門跡とあらば、輪をかけて格式のあるお寺だとご理解いただけると思う。


 当代の門主真仁様も当然ながら皇族の出身。閑院宮典仁親王の第五王子で、幼少期は時宮様と呼ばれていた。つまり、今上帝や御台所恭子様の異母兄であり、僧籍に入られて後に親王宣下を受け、正式には真仁法親王様という。僧籍に入った今も、れっきとした皇族の一人なのである。


「恭子からの文にもあったが、江戸におる徳川大納言とは義兄弟となったのだから、孝の心を説いて特段の配慮をと訴えれば、幕府とて無下に出来るものではなかったのだがな」

「親王様も上皇宣下には賛成でございますか」

「父宮が上皇を授かることになれば目出度きことであろう。子なればそれを望むは道理。されど、此度はやりようが拙速であったとしか言えん。ここから覆すは難しかろうこともまた道理と理解しておる」


 真仁様も上皇宣下には基本的に賛成のようだが、それは各所から異論が出ないことが前提であり、その各所には朝廷()だけではなく幕府(江戸)も含まれるという見解で、根回しもなく京が勝手に動けば、江戸が怒るのは当然だし、京が折れない限り江戸は退かないだろう。そして、京が頑なに折れなければ、江戸が力ずくで折りに来る恐れもあるとお考えらしい。


 ここで言う折りに来るとは、かつて後白河法皇や後鳥羽上皇、後醍醐天皇などが武士に追われた事例を引き合いに出しているのだろう。


「帝をどうこうとまでは……」

「分かっておる。しかし話がここまで拗れたとあっては、いずれそうなってもおかしくはない。京と江戸が反目し合うは何の益もないし、公卿たちに上手く乗せられただけの帝や父宮に責が及んでは一大事。朝廷に折れてもらうほかあるまい」

「それでは……」

「とはいえ……帝はともかく、父宮はかなり乗り気と聞くゆえ、中々の骨折りであることは理解してもらいたいのう」


 なんとなくこちらに協力してくれそうな雰囲気は感じるが、はっきりと明言してくれないのは、思惑があってのことと思われる。


 魚心あれば水心、というやつだな。


「私で何か親王様のお力添えになることがありましょうか」

「話が早くて助かる。では話の続きは場所を移してからにいたそう」



<方広寺>


「これが京の大仏様にございますか」


 真仁様に連れられ、妙法院からそう遠くないところに建つ方広寺という寺にやってきた。


 どこかで聞いたことのある名前だなあと思っていたが、その創建は豊臣秀吉が大仏様を安置するために建てたものと聞き、ある一文を思い出した。


――君臣豊楽 国家安康


 地震によって崩壊した大仏殿が徳川の世になって後に再建され、その際に新たに作られた梵鐘。その銘文が時の大御所徳川家康公の名を分断し、豊臣が君主となり楽しむという解釈から、徳川を呪詛する意思ありと見なされ、大坂の陣に至る契機となった"方広寺鐘銘事件"の舞台となったあの方広寺だ。


 完全に豊臣ゆかりの寺であるから、普通なら破却されても不思議はないのだが、方広寺に関しては残され、その境内の中に含まれる三十三間堂などと共に妙法院の管理するところとなった。つまり、真仁様はこの大仏殿も管理する責任者ということである。


「いかがでございますか」

「いや……大きいですな」


 大仏様といえば未来だと奈良の東大寺、もしくは鎌倉の高徳院にあるものが有名だが、実はかつては京都にも大仏様がいたのだ。昭和の頃に焼失してしまったらしく、前世の俺も実物を見たことはなかったが、少なくともこれは俺の記憶にある奈良や鎌倉の大仏よりも大きいと感じる。


 のだけど、なんかこう、思ってたのと少し違うような……


「言わずとも分かります。この大仏殿は落慶より既に二百年近く経っており、かなり痛みが激しくなっておるからの」


 真仁様が言うとおり、大仏様は見事なものだが、建物自体が古くてボロボロなためか、なんとなく朽ち果てた印象を受ける。


 聞けば大仏殿は例の鐘銘事件の頃に再建されたものだとのことで、二百まではいかずとも百七十年くらいは経っている。それくらい年季の入った建物なんかいくらでもありそうなものだが、それは丁寧な補修・改修ありきの話。要はそれが出来ていないということだ。


 皇族が門主を務める由緒ある門跡寺院とはいえ、数多くある寺院の一つでしかないから、これだけ大きな建物の補修費用を自力で集めるのは大変なことなのだろうが、修繕も満足に出来ず、柱は朽ち果てかけているし、天井には雨漏りしたであろう形跡があちこちに見える。


「所司代殿の力でなんとかならんものかの」

「修繕費用の工面ということですか」

「なんとかの沙汰も金次第と言うではないか」

「門主様の言葉とは思えませぬが……」

「それだけ難儀しておるということよ」


 これまでも所司代経由で幕府に援助を求めることは多々あったそうだが、先に述べたとおり門跡寺院とはいえ、幕府という国家組織が一寺院に出来ることなど限度がある。やり過ぎればウチもウチもと他の寺社からも求められるからな。


 しかし、今回に関しては法親王様の協力は得難いものだから、何か策は考えないとならないだろうな……


当時の京の大仏は大きさ約19mで、奈良東大寺の大仏(約15m)より大きかったとか。

ちなみに現在一番大きいのは、立像では茨城県の牛久大仏(全高100m、台座込みで120m)、座像では福井県の越前大仏(17m)だそうです。

個人的な推しは千葉県にある鎌ヶ谷大仏(高さ1.8m、台座込みで2.3m)だ。

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― 新着の感想 ―
鎌ヶ谷大仏、親族が見に行ったときは、小さすぎて逆にガッカリしたと言っていたな。 果たして、治部くんは京の大仏を守ることができるのか?
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