若いっていいねえ
――未来は変えるものではなく作り上げるもの
源内さんの言葉は真理だ。変えるとは本来元となるものが存在するものであり、未来を変えるという言い方におけるそれは、考えうる限りで望ましくない結果が想定出来るというだけの話。実際に起こったことではない。
だからそれを回避するために行動や考えを改めることになったとして、それは未来を変えたわけではなく、自分たちの考えた方向へ歴史を作り上げたというのが事実となろう。
飢饉に備えて農業の改革を行い、来るべき諸外国の到来に向け国力の増強を図るべく商業の振興を行う。俺の中では自身の知っている歴史において発生した、出来得る限り避けたい事態を発生させないための対策として動いていたが、この世界においてはその結果は改変ではなく正史であり、俺は新たな世を作り上げた一人でしかない。
ただ、そうなってしまった以上、この先起こる出来事には、俺の記憶にも無いものが次々と沸き起こるはず。事実として将軍に就くはずのなかった家基公が将軍となり、一方でこの先権力の中心にいたはずの一橋家は存在していないし、それもあって田沼公と定信様が協調して政務にあたっている。
さらには薩摩をはじめとする外様との向き合い方にも大きな変化が生じているし、オランダとの関係も異なるものとなっているだろう。
そして今日の来訪者もまた、新たに作り上げた未来によって、俺が従前から知る歴史とは異なる動きを見せているのは確かだ……
〈田安邸〉
「先生、お身体の具合は」
「なに、少々傷を負ったまでのこと。大事ござらん」
さて、今日は田安家のお屋敷にお邪魔している。そして集まったのは、俺の講義を受けるために駆けつけた未来を担う若者たちである。
一人目は田安家の御曹司基匡様。中納言治察公と御簾中因子様との間に生まれた第一子で次期田安家当主となる方だ。
幼名は父と同じく寿麻呂様。といえば思い出すだろうか。そう、かつて俺に菓子作りをせがんでは母の因子様や、許嫁である島津重豪殿の御息女篤姫様に窘められていたあの男子である。十六になった今年晴れて元服され、家基公から一字拝領して基匡と名乗られたのである。
昔は治部〜治部〜と呼ばれていたが、正式に俺に師事するとなって、治察公から公私を弁えるようにと言われ、今は俺を先生と呼んでいる。それだけ彼も成長したということよ。ちなみに篤姫様との祝言も間近だ。
「刃傷沙汰に遭われたと聞き、皆案じておりました」
「ご心配をおかけいたした」
二人目は徳川治紀様。水戸藩主・徳川治保公の嫡男で、つまりは次の水戸家の当主である。年は基匡様と同じ十六だが、元服は三年ほど早く、ちょうど家基公に代替わりする直前のことであったため、名前は家"治"公の字を拝領し、幼名の鶴千代から治紀に名を改められている。
「日も空きましたゆえ、先生のお話を聞きたく、こちらにお伺いするを待ち望んでおりました。大事に至らず何より」
「恐悦にござる」
そして治紀殿と共に田安邸に足を運んだのが、讃岐高松藩の後継者である松平頼儀殿(十四歳)、常陸宍戸藩主の嫡男信之助殿(十一歳)、常陸府中藩主の甥(弟の子)兼太郎殿(十一歳)。三人に共通するのは、水戸徳川家から分かれた支藩、所謂御連枝と呼ばれる家であること。
御連枝とは、本家当主に万が一のことがあったとき、その跡を継げる家のことで、将軍家で言うところの御三家、御三卿と役目は同じ。ちなみに尾張家にも紀州家にも何家かの御連枝がおり、徳川吉宗公が将軍に就任する際、紀州藩主の座は従兄であり、御連枝の伊予西条藩主松平頼致殿を養子という形にして引き継がせた例もある。
さて、どうしてこれだけ徳川の血を受け継いだ若者が集まったかといえば、簡単に言うと水戸の治保公から頼まれたからである。
最初に教えを授けたのは基匡様。田安家は俺という姻戚を介し、切っても切れない縁であるから当然の流れというか、学びの中に蘭学が組み込まれ、俺が侍読(天皇の側に仕えて学問を教授する学者)のような立場となったのだが、これが治保公の耳に入った。そのあたりを時系列で言うと……
帝が俺に一目置く
↓
蘭学が帝のお墨付きを得たと思われる
↓
尊王の志に篤い水戸藩が蘭学を取り入れる
↓
飢饉対策などで結果が出る
↓
蘭学しゅごい
↓
いやどうも〜ウチの子にも蘭学教えてくれっけ? と治保公に頼まれる
↓
ついでに支藩の子らも蘭学の勉強おっ始めてみっけ? という話になる
↓
え、必要なのそれ? という支藩に対し、このごじゃっペが。これからの時代は蘭学だっペ
ってな感じで支藩からもご子息たちが集まったわけだ。ちなみに治保公は江戸生まれの江戸育ちなので訛ってはいない。発言はあくまでイメージである。
講義は基本田安邸で行うので、水戸&連枝の面々は都度参集し、月に二度ほど蘭学を中心に農学やら貨幣経済のことなどを教えつつ、各自の領地における課題なども適宜議論するなどしていたが、俺があんなことになったので、皆が集まるのは久しぶりである。
しかし改めて感じるが、水戸藩がこれほど蘭学に傾倒してくれるとは思いもしなかった。なまじ前世の記憶があるから尚更だ。
これは以前にも述べたが、本来尊王の志は西洋知識の導入による富国策と相反するものではない。史実で外国人排斥、所謂攘夷と結びついてしまったのは、ひとえに対策を怠ったからであり、結局は先に国を強くしてからでないと外国の圧力は跳ね返せないって結論に至り、それが倒幕という話につながったわけだから、幕府にそれを担う能力があると示せるなら、政権交代が絶対に必要とはならない。
とはいえ、史実では水戸藩の尊王論が倒幕思想の下地になっていたのは間違いないので、そういう意味で歴史を変えてしまったのだと思う。ただ、この先変わってしまった未来でどうなるかは俺にも予測が付かないので、可能な限り多くの人に正しい判断をするための知識の共有を図る。それが今のところ俺に課された使命じゃなかろうかとは考えているのよ。
たまたま水戸藩とその御連枝は後継者に同世代が揃っており、更には俺の話を真剣に聞こうという姿勢が強いから、今は田安家+水戸家の陣容だが、可能なら紀州や尾張、譜代外様を問わず、これからの未来を担う若者を教化していければと考える。外様に関しては開けっぴろげにやるのは難しいので、島津家や上杉家と同じように内々のやりとりとはなるけど。
……え? お前も若者だろと? いえいえ、既に三十路です。この世界の三十路は若手じゃなく、さらに下の世代を導く役目だったりします。俺はまだ子供は娘一人だけど、人によっては五、六人かそれ以上子を儲けていたりするのでね。下半身だけはまだ若いですが……
「では始めるといたそう……と言いたいところだが、どうやら新顔がいらっしゃるようだ。治紀殿、ご紹介いただけるか」
「ご紹介いたします。我が藩にある彰考館の総裁、立原翠軒が門人にて、今年新たに彰考館にて『大日本史』の編纂に携わっておる藤田熊之介にござる」
「藤田にごさいます。本日は師、翠軒の推挙もあり、若君と共に高名なる治部少輔様にご教示賜りたく」
「承知した」
――大日本史
それは二代藩主徳川光圀公により始められた、神武天皇から後小松天皇までの百代の帝王の治世を扱う紀伝体の史書であり、彰考館とはそれを編纂するための修史局である。
そこに勤める館員は全国各地に派遣され、修史編纂のための史料収集に従事。ちなみに光圀公存命時の彰考館総裁に佐々介三郎という方がいて、名前からお気づきの人もいるかもしれないが、水戸黄門漫遊記の助さんこと佐々木助三郎のモデルである。一説では、館員が全国を旅して巡っていた事実をベースに、黄門様(光圀公)自身が旅をする話が作られたとか。
館員に推挙されたという藤田殿は、治紀様より一つ下の十五歳。書籍自体は既に完成しているのだが、最近光圀公の没後百年を目処に、その内容の校訂作業が続けられており、その年でそこの担当の一人として推挙されたのだから、学才に恵まれた方なのだと思う。
「本日は何をご教示いただけましょうや」
「そうですな。日も空きましたので、皆が今疑問に思っていることや聞きたいことなどがあればお伺いするとしましょうか」
「では某からよろしいでしょうか」
「よかろう。藤田殿は何を聞きたい」
「されば、昨今話に上っております、閑院宮様への尊号宣下のことを」
いきなりぶっ込んできましたね。さすがは尊王が旗印の水戸藩。それも史書編纂の担当だもんな。聞きたいことと言えばそれだろう。
当然下手な返答は出来ない話題だ。若いって怖いもの知らずですな……
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