命名・北海道
俺は傷が癒えた後、宣言通り職を辞すこととした。
あの騒動に関して、こちらには責任の無い話だが、城内での刃傷沙汰となれば何の沙汰も下らずでは異議ありと口にする者も出てくる。上様は留任を望んでいたようだが、そうなると今度は依怙贔屓だとそちらにまでヘイトが向くおそれもあるから、俺としてはそれは避けたかったからだ。
「なのにどうしてお召しがかかるのでしょうか」
「其方は見張っておかんと何を仕出かすか分からんからな」
「いつの間にか危険人物扱い……」
どうやら田沼公や定信様が、俺をフリーハンドにするのは非常に危ういと考えているらしく、こうして上様のお召しという形で意見聴取のために呼び出したらしい。
「勘違いいたすな。お召しということは、上様も同様のお考えであらせられるに他ならぬのだからな」
……きっと怯えているだけなんだね。ほらね、治部は怖くない、怖くないよ。
――江戸城黒書院
「これが蝦夷地の真の姿か」
「まだまだこれはほんの一部。この先に大地はまだまだ続いておりまする」
集まったのは将軍家基公のほか、田沼公や定信様。そして両名と共に老中の職にある面々。これらが一堂に会したのは、平蔵さんが松前を中心とした蝦夷地南部の詳細な絵図を持ち込み、現状の把握と今後の方針を決めるために参上したためで、俺が呼ばれたのは、蝦夷地開発に過分に関わっている身として、その意見も聞きたいというところだろう。
「平蔵、これは如何にして作られたのか」
「治部少輔殿の弟子で高宮徳内と申す者を中心に調査隊を結成し、海沿いに測量を続けて作り上げたものでございます」
源内さんに代わり蝦夷地探索の任に就いている徳内が現地でも測量の勉強を続けていたことは便りで聞いていたので、助けになればと三旗堂の面々に依頼して測量技術に関する蘭書翻訳を進め、新たな知識が得られれば逐次それを知らせるようにしていたのだが、思いのほか早く成果につながったようだ。
俺もはっきりと正確な地図が思い浮かぶわけではないものの、徳内が作った地図が蝦夷地の南西部、未来では渡島半島と呼ばれる一帯であろうと、少し見ただけで分かるくらいには詳細に描かれていた。
「この南の端にあるのが松前。ここより東の端に至るまでおおよそ三十里(約120㎞)少々、絵図にある北の端までがおおよそ五十里(約200㎞)」
「五十里とは遠いな……」
「日本橋より東海道を西へ参れば、大井川に至るくらいの道のりになりますな」
「平蔵、先ほどこの先に大地はまだまだ続いておると申しておったが」
「はっ。蝦夷地の北の果てにありまする交易地のソウヤまでは、この絵図の三倍近くの距離があろうかと」
五十里の三倍となると、百五十里(約600km)。江戸から出れば東海道を越え、姫路から岡山の間くらいまでは到達できるだろう。
「それほどまでに広いのか」
「御意。さらに申し上げると、道というものがございませぬゆえ、陸路で向かう場合海辺に沿って平地を歩んでいかねばならず、容易なものではございません」
未来ならば山のど真ん中にトンネルを掘って道を作ることも可能だが、この時代にそんな技術があるはずもなく、道を切り開くならば海沿いや沢や谷あいの数少ない平地をつないでいくしか方法はない。
「山に踏み入って開拓するは難しいか」
「山の中は熊の住処。さらに申し上げると蝦夷地の熊はこちらの山々におるものよりはるかに大きく、かつ凶暴とのことで、山に踏み入って襲われし者が出た折には退治するにも大勢の人手を要しましたゆえ、今はまだその機ではないかと」
それはヒグマとツキノワグマの差だな。少人数で探索を続けているうちは、遭遇したら対処は難しいし、地図を作るだけなら海岸線沿いに測量を続ければ全体像は見えててくるので、今は敢えて山中深く分け入る必要はないかもしれない。
「いずれ大きく切り拓いていくことを念頭に置くならば、まずは住む者の数を増やすところからかと。さりながら松前は土地が狭く、これ以上の町割りは難しゅうございます」
蝦夷地は米の収穫がないため、これを本州から持ち込む必要があった。この運搬に貢献したのが北前船である。この北前とは、上方の人間が北陸以北の日本海沿岸を指して言う名称で、大阪まで北国の物資を運んでくる船であることから北前船と呼ばれた。北行きの船には米や酒、砂糖、塩のほか、日用品などを積み、大坂行きの船は作物栽培の肥料となる鰊粕、数の子、干しナマコ、昆布、干鰯などの海産物が荷の中心だ。
船は蝦夷地を出航すると、鯵ヶ沢、能代、酒田といった港を経由し、寄港地ごとに荷の積み下ろしをしながら日本海沿いに長門国赤間関(現在の下関)まで向かい、そこから瀬戸内海に入って商業の中心地大坂を目指すもので、西廻り航路とも呼ばれる。一見遠回りのように見えるが、太平洋を進み黒潮の流れと逆行して進まなければならない東廻り航路は難破の危険性が高いため、比較的安全な西廻り航路が選ばれているのだ。
そういったわけで松前という港は、北前船による交易にとって蝦夷地で最も便利な場所と言える。航行の難所である津軽海峡の西端にあり、本州側の竜飛崎までの距離もそう遠くない良港。その先日本海方面へ向かうことを考えれば、貿易地としてはこれ以上ないロケーションだが、その土地は後背に山が迫り、平地は海沿いに長く伸びたわずかな範囲で、可住地の面積はお世辞にも広いとは言えない。今後開拓を進め、人が多く住むことのできる大きな町を築くならば、別の場所を探すしかないだろう。
「平蔵、目星はあるのか」
「されば、松前より東に二十里ほど行ったこのあたりに、"箱館"と申す港があり、その周囲には比較的まとまった広さで平野が広がっておりまする」
平蔵さんが指したのは未来で言う函館市のあたりだ。もっともこの時代は"函"館ではなく"箱"館である。かつてここに和人居住地の拠点として、宇須岸館という名の城が築かれたのだが、この館の形が箱に似ていることから「箱館」と呼ばれるようになったのだという。
ここは湾に囲まれた天然の良港で、松前、江差と並び海産物交易における集積地の一つであるが、北前船の中心は松前であり、箱館はそれより東の根室や釧路方面から松前に至るアイヌ交易船の中継地という形だ。ちなみにこのあたりが和人とアイヌの居住地の境として松前藩に規定されており、それらの出入り監視も含め、当地の行政を担うものとして番所も設置されているほか、内陸に広範囲な可住地もあるため、開拓を始めるにあたって最初の拠点とするには最適かもしれない。未来でもこの近辺では函館が最大都市であるし、歴史的経緯は色々あったのかもしれないが、そうなるに必然の理由があったのだと思う。
「ふむ……当座はその箱館に奉行所を置き、開拓の手始めとするか」
「御意。松前はこれまで通り北前船の寄港地として交易の拠点といたしますが、政に関しては藩政の時代とは一線を画すという意味でも拠点を移す意義はあるかと」
「長谷川殿、貴殿が開発に汗を流して動いておることは重々承知しておるが、そう簡単に人が蝦夷地に渡るものであろうか」
平蔵さんが開拓の構想、その段取りを披露していると、何やらそれに思うところがあるのか、集まった老中の中で最年少の松平伊豆守殿が異議を唱えた。
三河吉田藩主・松平伊豆守信明殿は、御年二十六歳と俺や定信様より五歳年下。大河内松平家の分家当主で、代々の当主が伊豆守に叙されることから、松平伊豆守家とも呼ばれる家柄である。松平伊豆守といえば、三代家光公の側近で「知恵伊豆」と名高い松平信綱殿が良く知られているが、信明殿はその直系の子孫である。若いながらも才ある人物と評され、定信様と同じように新時代を担う者の一人として、今年に入り老中に任用されたのだ。
「伊豆守、なんぞ懸念があるか」
「されば上様に言上仕る。蝦夷地の調査を始めて十年近く経ちもうすが、未だその全容も掴めず、開発の端緒にも就いておりませぬ。しかしながら厳しき寒さや険しい山々に囲まれた地形など、暮らすには相当の覚悟を要する場であることは知られ始めております。土地を持たぬ百姓や、主を失いし浪人たちに自分の土地を持てる好機と唱えたところで、如何程の者が志願するか。そもそもで申さば、蝦夷の地と名付けられた地に、誰が好き好んで行くと申すのか、某には見当も付きませぬ」
蝦夷地。それはすなわち蝦夷の住む土地という意味である。ここで言う蝦夷という言葉が和人だけを指すのかアイヌまで含めるかは議論のあるところだが、どちらにせよかつて朝廷の支配下に入っていなかった者たちを指す言葉で、要は朝廷の文化に入らない野蛮人という意味の蔑称である。征夷大将軍だって、本来は蝦"夷"を"征"伐する役職なのだ。
今まであまり深く考えていなかったが、蝦夷地という名称は野蛮人の土地と同義に近く、開拓すれば土地がもらえるとはいっても、そこへ向かうということは自ら流刑地へ旅立つように感じる者も少なくないだろう。幕命で人を送り込めば、半ば島流しみたいなものだと言う伊豆守殿の意見は、たしかに一理ある。
「治部、お主の見解を聞きたい」
ここまで一言を発さずに話を聞き続けいていたためか、家基公が俺に意見を求めてきた。おそらくはそこに対する妙案でもないか? と尋ねたいのかしら?
であれば……毎度おなじみ未来を先取りですな。
「まず、蝦夷地を開拓する意義でございますが、産出する資源を公儀の財源にする思惑が一つ。もう一つはロシアに対する備えとして、かの地を我が国の土地として確かなものにせしむることにございます」
「それは以前より其方から聞かされておるな」
「我が国の土地とするならば、伊豆守殿の仰せのように蝦夷の地ではいささか都合が悪いゆえ、律令国として組み込んでしまえばよろしいかと」
「律令国として……?」
「はっ。現在の五畿七道に加え、かの地を八つ目の道といたすのです。さしあたり北海道……とでも名付けるよう朝廷に言上いたしては如何かと」




