ターヘル・アナトミア、葬られる
「徳山殿……」
「これは中々厳しいですね」
意気揚々と読み始めた我々だったが、思いっきり一行目から大コケである。
いやね、SVOCみたいな文法、これが主語かな、これは動詞だなみたいなのは何となく分かるんだけど、肝心の単語の意味が分からない。
昆陽先生に教わり、前野さんの自習にも付き合わされた俺の語彙力は格段に上がっていたと自負して……自惚れもいいところだったな。
日本語でも医学用語は難しいなんて考えれば分かること。英語ですら出てくる臓器なんて、肝臓に舌、あとは心臓、胃……って、それは焼肉だな。心臓はハート、胃はストマック。パッと出てくるのはそれくらいだ。難しいに決まっている。
上手い例えが見つからないが、英語の文章和訳問題で、読めない単語も発音は何となく分かるから、それっぽく文章を読むことは出来る。でも日本語訳が出てこないので、頭をひねって何とか答えを書いたけど、多分間違いだろうなと最初から見えてしまっているときの徒労感、それを数倍にした感じだね。
漫然と読んでいても一向に訳は進まない。どうしたらいいのか……
「まずは単語の意味を解読しないと、どうにもならないよな」
まず単語の意味を知る。それがあって次に文法。文章を読むのはその先の先だ。単語が分からなければ、いつになっても和訳など無理だ。
俺も英語が得意だったわけではない。それでもこの時代の人間より外国語の学び方については一日の長があると思っているし、未来では万人がそうやって英語や他国語を学んでいた。
もちろんそのせいで変な発音で覚えるというリスクもあるし、読解力重視の勉強法だから日本人は英会話が出来ないなんて批判もあるけど、今回は本を読むための勉強なんだから特に問題は無いだろう。
「ちなみに……杉田殿と中川殿がご存知の単語はありますか」
「アルファベットを……十語ほどなら」
「……申し訳ない。それすら知りませぬ」
マジか……オランダ語を読めないとは聞いていたが、そこまでとは……よくそれで読もうと思ったもんだね。
「ならば、まずはオランダ語に慣れるため、各自で写本を作りましょう」
原書は貴重なので、読んでいる最中に破ったり汚しては大変だから、学習のためにそれを用いる場合、多くは写本したものを使用する。
ここで今回大事なのは、杉田さんと中川さんにオランダ語の文章に慣れてもらうこと。意味が分からなくても書き取りをしていると嫌でも頭に入るはず。そこが狙いだ。
「その後、原書に出てくる単語を全て書き写します」
「書き写す?」
「ABCDと、頭文字のアルファベット順に文字を別の紙に転記するのです」
そして既に知っているものは和訳を記す。他にも和蘭文字略考のほか、俺や前野さんが過去に書き記していた単語帳も含めて、現時点で分かる範囲の単語を二人には覚えてもらおう。
「残りの単語は読み進めながら解読します」
「どのようにして?」
「他にも蘭書はあります。それらも読みながら意味を探ります」
どんな種類の本でもいい。知っている単語が載っていれば、そこから意味を類推し、解読出来たものを単語帳に記す。これの繰り返しだ。
たしか史実でもそうやって翻訳したとか。フルヘッヘンドという単語を、色んな本の記述から推測して、「うず高い」と訳したという話が蘭学事始にあったと聞いたことある。
もっとも、この本にはフルヘッヘンドという単語は載ってなくて、大変さを誇張するために杉田さんが創作したものと後に判明したらしいけど……
「単語が分かれば、文章全体は無理でも雰囲気で意味は掴めるかもしれません。そして後に単語帳を更に細かくアルファベット順に並べ替えれば……」
「なるほど、他の蘭書を和訳するにも役に立ちますな」
「ええ。今日この日が、我が国における蘭書解読の始まり。一つ一つの単語の意味を記して字引とすれば、後に見返すことが出来ます。手間のかかる仕事ですが、元より何も読めぬ状況から始めるのですから、後世のために少しでも多くの物を残していきましょう」
もしこの本にオランダの慣用句みたいなものがあったら、絶対に意味がおかしくなるが、とにかく今は直訳するしかない。地道に積み上げる以外、他に上手い方法は無いと思う。
「だが、私も前野殿も若くない。のんびりやっているわけには……」
「杉田殿、そうは申しても他に方法はなさそうだ。私は彼のやり方を信じるよ」
「……まあ、前野殿がそう仰るなら」
杉田さんは身体が弱いようで、早くしないとと焦っているのだと思う。ただ、実はこの人意外と長生きだったはずなんだよね。今それを言っても信じないだろうけど……
「では、まずは皆で写本から始めましょうか」
「ところで……この本は何と呼びましょうか。やはり題名はあった方がよいかと」
「そうすると、これでございますかな」
中川さんの疑問に対し、杉田さんが扉絵に書かれた文字を指した。
……ってかこの絵、よく見たら怖いな。今から解剖なのか手術するのか知らんけど、メスというにはデカすぎる刃物を持った医者(?)がカメラ目線でちょっと笑っているように見える。吹き出しを付けるなら「今からスパッといっちゃうよ~」みたいな。部屋の中にガイコツ居るし、完全にサイコパスのマッドサイエンティストじゃん。
っと、そんなことはどうでもいい。題名は……「TABULÆ ANATOMICÆ」
えーと……このAとEが合体したような文字は何?
オランダ語にもドイツ語で言う"ウムラウト"という上に点が二つ付くやつはあるけど、こんな文字は……俺が知らないだけか?
「前野殿、ご存じか?」
「いいや、オランダ語ではなさそうですな」
だよね……あ、もしかしたらだけど、中世のヨーロッパはラテン語が知識人の公用語ってのを教科書か参考書で見たことあるな。医学書だからあり得るか。
「なんと発音するのでありましょう……」
よく分からんけど、AとEだから、アェみたいな……
「アェ」
「ア、アェ」
「アェ……オェッ……徳山殿、慣れぬ言葉にて気持ち悪くなります」
うーん、日本語では発音しない音だからな……Aの部分は前の言葉に付ける感じにして、タブラエ・アナトミカエ……語呂が良くない。両方「エ」で終わると間が抜けた感じでイヤだ。そうだな……
「タブラエ・アナトミカ、はどうでしょう」
「タブラエ・アナトミカ……よろしいのではないでしょうか」
「では、本日よりこの原書の名はタブラエ・アナトミカといたす。各々方、それでよろしいか」
この日、ターヘル・アナトミアという名前が後世に残る可能性は消滅した……