騒ぎで得られたもの
「ばっかもーん!」
聞こえるのは波○さんの声ですか? いいえ、それは老中・松平越中守定信様です。
俺の屋敷にやって来て何を怒っているのかと言えば、昨日蔵前であった打ちこわし騒ぎに種が絡んでいたためだ。
本人は明神様にお参りした帰りにたまたま遭遇しただけ(たぶん違うと思う)と言っているが、仮にも大名の奥方が首を突っ込むような話ではない。幸いにして途中で平蔵殿が加勢してくれたので結果オーライになっただけで、危ないったらありゃしない。
それはもう昨日はその一報を受けて屋敷の中も大騒ぎになったし、帰ってきてから俺も滾々とお説教というかお話し合いをしたわけだが、どうやらそのときの騒ぎの火の粉が定信様にも降りかかってきたらしい。
「甲斐守と信濃守が儂の元にすっ飛んできて、突然『平に、平にご容赦を』としてきたものだから、何ぞ大事が出来(発生)したのかと思ったぞ」
騒ぎを収めた後に、口では売る米が無いと言いつつ、儲けを優先しようとする米屋の態度を見て、種は高値で売りつけるために隠し持っているのではないかという疑いを持った。
故に平蔵殿を通して蔵を改めるよう申し入れたそうだが、町人の格好をした若い娘が町奉行を官職名で呼び捨てにしたものだから、無礼な町人と見なされ、あわや捕縛ということになりかけ、平蔵殿が押しとどめたようだが相手が一向に退いてはくれず、やむなく自身の素性を明かしたらしい。
おそらくはその一連の経緯を後になって知らされた甲斐守殿と信濃守殿が、血相変えて定信様の元に馳せ参じたものだから、詳しく事情を良く知る平蔵殿を連れてやって来たのだ。
「其方は嫁に行った身ではあるが、徳川の血を引く者ぞ。軽率なことをするでない」
「お兄様にご迷惑をおかけしたことは素直にお詫びいたします。……されど、夫のことを悪しざまに言われて黙っていられましょうか」
「それは分かるが立場というものをだな」
「なればお兄様は、義弟である我が夫殿が謂れなき悪評にて貶められておるをどうして黙って見過ごしておられるのですか」
静養している間、俺が利益優先でわざと米の流通を規制しているという風説が広まっていたという話は定信様からも聞いていたが、それを目の当たりにした種にしてみれば尚更我慢ならないことであり、それを実兄が半ば放置していることに納得がいかないようである。
「殿がこれまでなされたことは、反発もございましたでしょうが概ね政の役に立っておるはず。それだけの功を上げた者が謂れなき悪評を立てられれば、御公儀の体面にも関わりましょうぞ」
「儂とてそれくらいのことは分かっておるわ」
「種殿、手を出さぬはそれなりの理由があってのことにございましょう」
「平蔵は相変わらず鼻が利くな。この一件は田沼親子が敢えて泳がせておるのよ」
何やらきな臭い話だが、要約すると俺が襲われたのと前後して、米屋と結託して米価を釣り上げんと画策しているという風説が流れたことは、全て現政権に反感を持つ者たちが蠢動した結果だそうだ。おそらくは流言に踊らされた庶民が暴発し、世情が不安定になったところで田沼公たちの責を問い、幕府内における主導権を奪い返す魂胆ではなかろうかとのこと。
そこまで把握しているのであれば、前もって手を打ち、騒ぎを抑えることは難しくないはずだが、それでは火種が残ったままだし、そこかしこで新たな騒ぎが勃発するだけだと考え、この機に全てを刈り取るため、敢えて泳がせておいて、その間に内密に調べを進めていたらしい。近しい者だけとはいえ、定信様がそこまで口に出したということは、早晩ケリが付く算段があるのだろう。
「とはいえ江戸市中に無宿者が多数入り込んでおるのは確かなこと。火種を消したとて、また別件で火が点く恐れもございます」
「平蔵の申すことはもっとも。民が食うに困らぬようにと、我らも出来うる限りの策は講じたのだがな。やはり旧里帰農令が必要ではないのか」
「越中守様、それは無意味だと皆で結論付けたではありませんか」
旧里帰農令とは、定信様が考えた改革の一案である。江戸に流れてきた百姓や正業を持たない者に資金を与え、農村へ帰ることを奨励する法であり、農業の担い手減少と江戸の治安改善をその目的としているが、以前に定信様が幕閣の協議でそれを提案した際、効果が薄かろうということで見送りとしたのだ。
「百姓の多くは食うに困って土地を捨てた者。その者たちにとってみれば、米不足とはいえども江戸の暮らしのほうがまだましであればこそ、皆ここでの暮らしを捨てようとはしておりませぬ。金を用立てるから故郷へ帰れと申したところで再び江戸に舞い戻るか、どこかの城下に流れ着くかで、故郷に戻ることはほとんど無いかと」
「されど放置しておけば、再び騒ぎを起こすのは明白であろう」
「御老中、そのことについて某に腹案がございます」
「平蔵、許す。申してみよ」
出来うる限りの飢饉対策は講じたが、それでも江戸に流れてきた農民たちの数は少なくない。これをどうするかという難題に対して平蔵殿が考えたのは、その者たちを集めて手に職を付けさせる施設を作るというものだった。
「無宿養育所をもう一度興せと申すか」
無宿養育所。それは十年ほど前に深川茂森町に設立され、生活が困窮した放浪者や無宿者たち、言い換えると放置しておけばいずれ犯罪に手を染めかねない者たちを収容し、自立した生活を送れるようにする援助を行うことで犯罪の抑止を目的とした施設だ。
しかし、これは設立から六年ほどで閉鎖されてしまった。身も蓋もない言い方だが、浮浪者や無宿者というのはもとより素行がよろしくないからそうなってしまった者も多く、問題をおこしたり、途中で逃亡する者が後を絶たなかったためだ。
「養育所をただ同じように再建するわけではなく、此度は手に職を付ける意欲のある者を多く入れたいと考えます。手に職を付けて江戸で皆の役に立つ職に就くもよし、新たな農法を身に付けさせてから郷里に返し、それを実践させるもよし。そこで身を立てる術が学べると広まれば」
「……なるほど。いずれ蝦夷地開拓に興味を示す者を育てる腹積もりか」
「ご明察」
「して、名は何といたす」
「人足寄場。はいかがかと」
おや、なんか日本史の教科書で見た記憶のある名前が出てきたぞ。たしか元の世界の歴史でも人足寄場は平蔵さんの考案だったが、あれは火付盗賊改方を務め、江戸市中の犯罪に関する実情を最前線で見ていたからこそ発想に至ったものかと思ったが、元々そういう構想を持っていたのだろうか。
「無宿養育所は悪くない取り組みでございましたが、如何せんやりようが拙うございました。此度の献策はかつて治部殿が為されていたことに着想を得て、改良を加えたものにて」
かつて俺がやっていたこととは、子供たちを集めて様々な学問を教え、大きくなってからそれを自らの仕事や暮らしに役立ててもらおうとした、所謂無償の寺子屋のことだ。
前身である無宿養育所は未来で言うところの刑務所みたいなものだが、平蔵殿はその機能は維持しつつ、学ぶ意欲のある者を受け入れる職業訓練校のような機能も兼ね備えた施設にしたいらしい。そこはどうやら俺の寺子屋事業からヒントを得たようだ。
「手に職を持つ者はこれからいくらでも必要になりまする。やむを得ず無宿となりし者や、暮らしに窮する者をお上が助けることで、結果として江戸の治安改善につながるかと」
「試してみる余地はありそうだな。本来なら発案した平蔵に任せる。と言いたいところだが、お主には蝦夷地を任せてあるからのう」
「なれば勘定所の皆にお願い致す」
そう言うや、平蔵殿と定信様の視線がこちらに向いた。
待て待て。まるで俺にやらせようとしている感じだが、それはお門違いでしょう。勘定所は勘定奉行を頭とする組織であって、俺は非常設のオブザーバーですからね。任せるというのなら奉行たちに申し付ければ、彼らなら「お任せあれ〜」って言ってくれますから。だって勘定奉行だもん。
「お待ちくださいな。殿の悪評が打ち消されぬままに、また新たなお役目を課すはあまりにも無体にございます」
もし直接言及されたら、笑顔で「だが断る」をするつもりであったのだが、定信様たちが何かを言い出す前に、種が待ったをかけた。
俺に謂れのない疑いがかけられている。それが事実ではないことを上様や幕閣が承知していたところで、下の者たちの中には疑念の目で見る者もいるだろう。特に新たな政策に否定的な守旧派からすると、格好の攻撃材料となる。
種にしてみれば、そんな中で夫が再び役に就くのは御免被ると言いたいのだろう。
「治部殿のことだから良い顔はしねえと思ったが、まさか種殿に先に言われるとはな」
「長谷川様、当たり前です。誰が好き好んで夫をそのような場に出すというのですか。せめて風評が治まるまで、暫しほとぼりを冷ます時が必要かと」
「それはもっともな話であるな。だが案ずるな。この越中に一計がある。明日ここへ客人を連れて参るゆえ、そのときに話をしよう」
さて、定信様が言う俺への風評被害を打ち消す一案とは如何なるものか。
客人を連れてということは、その人が何らかの関与をするということなんだろうが、はてさて一体誰なんでしょうか?




