【他者視点】くろーとざーっく!!(種)
「さあさあみんな聞いておくれ。米の値が下がったカラクリと、これに抗った庶民の味方佐野大明神様のお働き。詳しくはこの瓦版に全部書いてあるぜ」
――ブッチーン!
Klootzak……
Klootzak……Klootzak……
Klootzak……Klootzak……Klootzak……
くぅろぉーーとざぁーーーっく!!!!
瓦版売りのふざけた口上が聞こえた瞬間、私の中で何かが切れる音がしました。
殿が……一体何をしたと言うのですか。
米作りに適さぬ地でもよく育つ作物の栽培を勧め、町にあっては米だけに頼らぬ食事の提唱。どれもこれも、いつかまた飢饉が起こるであろうことを見越し、そうなったときに食べるものがなく、ひもじい思いをする者が少しでも減るようにとのお考えで為されたこと。実際にそれから程なくして未曽有の飢饉が起こりましたが、それらの策を講じたおかげで多くの者が飢え死ぬことなく命を長らえて今に至っているのですから、殿のお考えは間違いではなかったはず。
その結果、江戸に入ってくる米の量を規制することとなりましたが、町人たちの不満が高まらないようにと、上州まで火消たちを同行させ、飢饉の惨状を皆に知らしめようとお手配りまでされた。本来ならお上の命であると有無を言わさず進めてもおかしくないのに、我慢を強いる者に何故そうせねばならぬかを知ってもらう必要があるという、殿の御心遣いです。
にもかかわらず……米の値を意図的に吊り上げ、その儲けを不正に懐に収めているなど……一体この者たちは何を考えてそのような世迷言を流布するのか。
新しいことを始めるときや、これまでの慣習を改めようとするときに、非難批判の声が沸き起こるのは古から変わらぬもので、自身の名が多少貶められようとも、多くの者の命が救えるという実に比べれば大したことではない。殿はそう仰せでしたが、これはあまりにも横暴が過ぎる。藤枝治部の妻として看過は出来ませぬ。
コロス……ミナ、コロス…………
「お嬢駄目だ。手を出しちゃならねえ」
私はこの無知蒙昧の徒を早々に除かなければならぬと決意し、懐剣を手に切りかからんと動き出そうとしたものの、その動きを察知した新三郎親方によって制されてしまいました。
しかし……今、お嬢? と呼ばれましたが、如何なることでしょうか。
「……申し訳ありやせん。ここで奥方様なんて大声で言っちまったら、それこそ騒ぎの元だ。お叱りなら後で十分にお受けしやすんで、ここは堪忍を」
町人の格好をした小娘に対し、町の顔役とも言うべき火消の親方が人に聞こえる声で奥方様なんて敬称を使えば混乱の元となるのは明白。そこで親方は、あくまで私を町名主や商人など、町人の中でも比較的裕福な家のお嬢さんという体にして止めに入ったと、小声で伝えてきました。
たしかに私がここで斬りかかれば、余計に面倒なこととなる。諌められればそれはそうだと頭では理解するものの、このまま何もせずにいれば、私の怒りをどこへぶつければよいのかというものです。
「奥方様の怒りはごもっとも。ですがここは一つ、あっしに任せてはいただけませんかね?」
「親方に?」
「ええ。お武家様ほどではないが、あっしら町人にも面子というものがありやす」
親方曰く、飢饉の惨状を町の者たちに知らしめる役目は、殿から自分に頼まれたものであり、市中で出鱈目な話がさも真実であるかのように語られているのは、自身の触れ回りが足りなかった証だと。故に己の責任でこの場の方をつけたいとのこと。
「奥方様を不快にさせちまった時点でしくじったようなもんだが、せめて不始末は手前でけりを付けさせてくだせえ」
「分かりました。親方にお任せします」
「ありがてえ。おうコラてめえら! ……っと、なんだあオイ」
「ウソばっかり書いてんじゃねえ!」
思うところはありますが、ここで渋れば親方の顔を潰すことになりますので承諾の意を示すと、親方はありがてえとばかりに喧嘩を売るかのごとく威勢よく突っかかっていこうとしました。
しかしその矢先、親方の目の前を横切るように子供が瓦版売りの方に向かっていき、叫びながら何かを投げつけました。
「何しやがんだぁ、このクソガキ!」
投げたのはどうやら小石のようなもので、当てられた瓦版売りはその場でこそ痛がりましたが、目の前の子供が自身に向けて投げてきたのが分かるや、血相を変えて詰め寄ります。
「どうやら殿様のところで読み書きを教わった子のようですな」
瓦版売りとの口論から、石を投げつけたのは湯島にお屋敷があった頃、殿や綾、弟子の大槻殿などに読み書きの手ほどきを受けた子供たちの中の一人と思われます。
それから数年経ち、今はどこかに奉公しているか、職人の弟子になって働いているようですが、たまたま通りかかったところで殿を悪く言う声を聞きつけ、石を投げつけられた瓦版売りと揉みくちゃになりながら、如何に荒唐無稽な話であるか顔を真っ赤にして反論しています。
さすがに教えを授けた子供の数が多く、全員の顔を覚えているわけではないので、それがどこの誰なのかまでは定かでないものの、熱弁を振るって殿に受けた恩を語っておるところを見ると、それなりの間屋敷に通っていたのだと思われます。
「ああやって殿様の恩義を忘れねえ律儀な子も多くおりやす」
「そうですね。少しは報われた気がいたします」
「とはいえ、このまま放っておくわけにもいくめえ。仲裁に入ったほうが良さそうですな」
「親方、お願い出来ますか」
「合点承知でござい」
働き出したとはいえまだまだ子供。大人と喧嘩になれば叩きのめされるのは目に見えており、悪党は嘘話で金儲けするお前らの方だと言われた瓦版売りが、童子の襟元を掴んでガクガクと揺さぶり始めたので、親方に仲裁をお願いすることとします。
「おうおう。本当のことを言われたからってガキ相手に大人気ねえんじゃねえのか、嘘つき瓦版屋さんよ」
するとそのとき、またまた別の方から身なりのいい殿方が割って入ってきました。
その雰囲気は、町人たちの中で"粋"と呼ばれるそれでしょう。洒落た感じで垢抜けた姿は、町人の中でもそれなりに裕福な層の人物と見受けます。
「誰が嘘つきだ蔦重!」
「嘘も嘘。八百万の神もびっくりの嘘八百ときたもんだ」
蔦重と呼ばれたその殿方は瓦版売りに食ってかかられると、まるで芝居で口上を述べるかのように、周囲にいる者たちへ語り始めました。
「今から五年前、上州は浅間の山が火を吹いた。家は大岩に押し潰され、植えた作物は川の流れで根こそぎ持っていかれた。仏様となった者は数知れず。辛うじて生き延びた者だって明日も見えねえ地獄に落とされ、そんなところへ手を差し伸べた菩薩様こそ、甘藷のお殿様こと藤枝治部少輔様じゃねえのか?」
「親方、あの方は?」
「日本橋通油町の版元、蔦屋重三郎ですぜ。狂歌本やら黄表紙で儲けてる奴でさ」
黄表紙とは、古典をもじり、洒落や滑稽を交えて世相を風刺するような物語本の総称で、昨今江戸庶民の中で流行の読み物。親方の話だと、この重三郎という方は最近黄表紙の当たり作を次々と世に送り出し、版元の世界で日の出の勢いの方なんだそうです。
「蔦重よ、それが何の関係があるってんだ?」
「おいおい。世の中にゃ下々の民なんぞ虫けら同然と言って憚らねえお武家様だってごまんといるんだぜ。御自ら助けに行った上、江戸の者に外がどうなってるかをわざわざ教えてくださるような奇特な御方だぜ。お前らだって町の火消たちからそのことはよおっく聞かされただろ。五年も経ったら忘れちまったか?」
旗本御家人にとって、自身の領地でもない遠国の村のことなどお役目でもない限り関わるだけ損。それでも村の者たちの苦境を憂い、自ら行動に移すような人物が、つまらない不正を企てるものかねと問えば、当時多くの者が火消から話を聞かされたことを思い出したのか、たしかにそういやそうだったなと得心しています。
「いやいやいや、そうやって米が足りねえと俺らに吹き込み、麦やら芋やらの値を釣り上げて儲けようって企みじゃ……」
「仮に藤枝様がそう企んでいたとして、その儲けは何に変わった? あの小僧みたいに、毎日食うもんにも事欠く子供らの飯代に化けただけよ。お武家様にとっちゃ端金かもしれねえが、人を騙して儲けようなんて強欲な奴がわざわざそんな金の使い方するもんかね?」
瓦版売りや周囲で話を聞いていた町の者たちが次々に重三郎に問いかけますが、彼の答えは一貫して殿が悪事を働くような人物には見えないというものでした。
「蔦重、お前やけに甘藷の殿様を庇い立てするじゃねえか。何を企んでやがる」
「企むも何も、それが事実だからさ。とっておきの裏話を知ってるもんでな」
「裏話だぁ? 一体なんだってんだ」
「オイラの口から話してもいいが、ここは一つ、現場を見た人に語ってもらったほうが話は早え。なぁ、新三郎親方」
勿体ぶった口調で裏話がどうのこうのと言っていた重三郎が、ふいにこちらを向いて新三郎親方の名を口にした。
「なんでえ蔦重。俺が居るのに気づいてやがったのか」
「さっきから何度となく仲裁に入ろうとしては引っ込んでいたのが見えやしたんでね」
「で、俺に何を話せと」
「さあ皆の衆、刃傷沙汰を起こした佐野ってお武家様は、世間じゃ大明神なんて讃えられてるけどな、実のところは俺たち庶民のことなんて歯牙にもかけねえ奴だってこと、ここにいる火消に組の新三郎親方が教えてくださるぜ」
「……!! 蔦重、テメエ」
「親方、殿様の名誉がかかってるんだぜ。この期に及んで黙ってる必要は無えんじゃないのかい?」
「たしかにそのとおりだな……いいかお前ら、耳の穴かっぽじってよーく聞きやがれ! 佐野善左衛門って侍はなあ……」
重三郎に促され、親方が吾妻郡で何があったのか、そこで佐野が何を仕出かしたのか。その目で見たことを皆に伝え始めると、誰しもが初めて聞いた話で一様に驚いていた。
……ええ、私も初耳です。以前に殿と揉めたことがあるとはそれとなく聞かされておりましたが、具体的なことは初めて聞きました。
殿に斬りかかっただけでも不届千万ですが、正にKlootzakとしか言いようがない愚物でございますわね……




