【他者視点】親方は見た(に組・新三郎)
新三郎が言う殿様とは治部のことです。
――治部と定信の会話から時は少し戻り、神田明神近くの茶屋にて
「親方、女将さん、手間をおかけしました」
「いえいえ。奥方様の頼みとあれば断る理由はございやせん」
お城の中で殿様が刃傷沙汰に遭い怪我を負ってからしばらく後、俺は奥方様に頼まれて神田明神を参拝するお供をしている。
夫の快癒を祈念してとのことだが、ただでさえ世間の耳目を集めているこの時期に、その話題の中心たる藤枝家の一団が明神様を訪れたとなれば何を言われるか分からない。
そこで武家の供回りは最低限にとどめ、俺や女房、若い衆に連れ立ってもらい、町娘を装って参拝に来ているって寸法よ。
「しかし、殿様の傷はそれほど酷くねえと聞きやしたが、わざわざ快癒を祈念に来られるとは殊勝なお心がけだ」
「どちらかと言うと、私の心を鎮めるため。ですかしら」
「奥方様の……ですか?」
殿様の傷は生死の境を彷徨うようなものではなく、しばらく療養に努めれば確実に治るもの。まして本人が日の本一の蘭医となれば、何を案ずることがというものよ。
それをわざわざ、身分を隠して明神様にお参りに来たのかと疑問に思って聞いてみれば、別の理由があったらしい。
「一報が知らされてすぐ、白河藩邸より兄の遣いが参りまして」
「白河ということは、越中様の」
どうやら殿様が斬られたと聞いたときの奥方様は、『その不届者の素っ首、この私が刎ねてくれん』とばかりの勢いだったとか。
当の奥方様本人は不思議とそのときの記憶が曖昧のようで、その話は家来の皆さんが言っていたことを後から聞かされただけらしいが、俺にしてみれば、怒るのは当然としか言いようが無いな。
そんなときに白河藩邸から、兄上越中守様の家臣である水野為長という御方が、主の命を受けて自重するようと諌めに来たらしい。
「委細はこの兄に任せよと申されれば、私が手を下すわけにもいきませんでしょ」
「そりゃそうですな」
越中守様は天下の御老中。その方に委細任せよと言われれば、何も言えないわな。
しかもその水野ってお侍様は、古くから越中守様に仕える御方で、殿様も奥方様もよく知る相手。その方に諌められたら矛を収めるしかないといった具合のようだ。
「ですが、そうなると私の怒りはどこへ持って行けばよいのかとなり、心を鎮めるためにもお参りをと」
「呪詛のために神仏に祈るよりはよっぽどマシでさ。まあ殿様の傷が浅いってのが不幸中の幸いだ」
「あちこちであることないこと噂にはなっているようですが」
無論これら話は大きな声で言うわけにいかず、内輪に聞こえるくらいのヒソヒソ話に収めていたんだが、茶店には他の客も大勢おり、こちらの声が小さい分、あちこちで話している声は嫌でも耳に入ってきた。
「甘藷の殿様が斬られたのは、どうやら不正を働いていたかららしいぞ」
「俺も聞いた。わざと米を市中に流さないようにして、高値で売り捌いて暴利を貪っているとか」
その多くはお城で殿様が斬られたという話に関することであるが、仔細が町人には知らされないがために様々な風説が流され、中には殿様が悪事を働いていたから斬られたなんてとんでもない出鱈目まで囁かれていた。
「親方」
「なんでございやしょう」
「市中では、あのような話が信じられているのですね」
茶屋を出て道を歩いていると、ふいに奥方様がそんなことを言ってきた。
あのような……ってのが何を指しているかと言えば、さっきの茶屋で話に出ていた殿様が不正を働いていたとかなんとかというやつだ。あれが耳に入ってからというもの、奥方様の表情が優れねえもんだから、それくらいは学の無い俺でも察するさ。
「申し訳ねえ。あっしらの力不足で」
「いえ、親方や火消の皆さんはよくやってくださったと思っております」
江戸で米が足りないのは、殿様がお上に進言して敢えて運び込む数を少なくしているのは本当の話だ。だがそれもそのはずで、運び込もうにも村々にはそのための米の蓄えなど無いのだから、無理に取り立てれば農家の連中の食うものが無くなってしまう。
とはいえ街の連中はそんなことは知らない。だからこそ殿様は山の噴火で滅茶苦茶になった上州の村々の再建に俺たち火消の人間を連れて行った。
無論腕っぷしの強い奴が多いから、力仕事にはうってつけってのもあるが、それ以上にあちらの様子を具に見て、江戸に帰ったらそれを余すところなく街の連中に伝える。それがもう一つの俺たちの大事な仕事だと頭を下げて頼んでくださった。
殿様には竜吐水の設置だったり、火事になったときの騒ぎを減らすため、火除地まで逃げる道順を町割りごとに定めるとか、そもそも火事を起こさないための心構えを説いて回ったりと、火消の連中からしたら返しきれない恩がある。そんな方に頼まれて嫌とは言えねえよな。
それはウチの組以外の連中も同じ気持ちで、江戸に戻ればみんながあちこちで触れ回ってくれたと聞いているし、米が足りない中で町のみんなが我慢してくれたのは、それがあってのことだと思っている。
だけど、世間には天の邪鬼な奴というのがそこかしこにいるし、不平不満を誰かのせいにしたがる輩もいる。俺たちの前ではいい顔しているが裏でグチグチ言っている連中には、何を言っても馬の耳に念仏というやつなんだよな。
とはいえ、間違いは間違いと正さなきゃならねえ。ましてあの佐野とかいう侍は、上州でふんぞり返って村の奴らを困らせていたような輩だ。とても大明神と崇めるようなもんじゃねえんだが、手前の信じる話が真実であったほうが都合がいいというのが多いのか、騒ぎが思ったより大きくなってやがる。
おかげでそういった連中と、火消の仲間たちやその話を信じている者、殿様から手習いの施しを受けた若い者なんかの間で喧嘩騒ぎになることも最近は少なくねえ。現にさっきの茶屋でも、俺たちが怒鳴り込むよりも早く、他の奴が割り込んでああでもねえこうでもねえと口喧嘩になってやがった。
「世間には色んな物の見方がありやすが、殿様のなさってきたことが手前たちの暮らしにどれほど役立っているかを理解しねえ奴が多くていかん。それを糺すことも出来ず申し訳のしようもねえ」
「よいのです。新しきことを始めるときは、誹謗中傷は必ずあるものだと殿も仰せでした。それでも、親方や皆のように信じて付いてきてくれる者が多くいるのも事実。それだけでも十分に心強きこと」
「勿体ねえお言葉で」
奥方様はたまに気性の荒いところが出るんだよねなんて、ウチに来たときに殿様が仰っていたが、俺にはそうは思えねえな。今日はここまでで何度も嫌な話を耳にしたのに、仕方ないこともありますと平然となさるそのお顔は、菩薩様みたいに穏やかなんだもの。
……と思っていたんだが、どうやらそうではなく、我慢に我慢を重ねた結果だったと知るのはその少しあとのことだ。
「さあさあみんな聞いておくれ。米の値が下がったカラクリと、これに抗った庶民の味方佐野大明神様のお働き。詳しくはこの瓦版に全部書いてあるぜ」
その後の帰り道はなるべくその話を避けるように話題を選んで話していたんだが、日本橋界隈にさしかかったあたりで瓦版売りが鳴り物を鳴らして口上を述べている場に出くわした。
話から察するに、殿様のことを無いこと無いこと書き立てているんだろうという中身で、正直またかよと思ったんだが、ふとそのとき、俺の背筋に何やら得体の知れねえ悪寒が走った。
何事かと思って恐る恐る後ろを振り返ったんだが、そこにいたんだよ。
「申し訳ありません親方。そろそろ堪忍袋の緒が切れます……」
世間ではよく女房のことを鬼嫁とか般若とか言う。ウチの女房も時折鬼に変わることがあるが、ありゃあ可愛い部類なんだと今更ながらに気付いた。
なんでって? そりゃああれよ。本物の鬼とか般若ってのは、このときの奥方様のような姿と雰囲気のことを言うんだって知ったからさ……