表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
旗本改革男  作者: 公社
〈第九章〉
202/203

一難去ってまた一難

「越中守様。後のこと、よろしくお頼み致す」

「馬鹿を言え。政を改めるはまだ緒に就いたばかり。其方の知恵無くして何とする。縁起でもないことを申すな」

「されど、医術を学んだ身なればこそ、己がどういう状況かはよう分かり申す。この身ではもはや上様のお役には立ち申さん。職を辞すほか……」


――ペチン!!


「痛っ! 怪我人に対してご無体な」

「ただのかすり傷であろうが。まったく……何の猿芝居が始まったかと思えば、またいつもの"宮仕えは嫌でござる病"ではないか。ある意味不治の病であるが、それで死にはせんことくらい医者ではない儂でも分かるわ」


 江戸城で襲撃を受けて負傷した俺はそのまま上屋敷に担ぎ込まれた。


 そう聞くととんでもない大怪我と思われそうだが、あのとき咄嗟に投げた小麦粉の包みが上手いこと相手に当たり、狙いを大きく外した刃が僅かに俺の肩口から腕を掠めた程度で済んだ。


 とはいえ痛いものは痛いし出血も伴っていたので、すぐさま江戸城から桂川殿が治療に遣わされ、ついでに前野さんや杉田さんまで出向いてきて早目の治療となったので大事には至っていない。


「そう聞いたゆえ見舞いに来たと言うに、通されれば床に臥せっておるから何事かと思ったぞ」


 そういうわけで俺は病身の身とは程遠い状態なのだが、それはそれで見舞いの客が来たら無事であることをアピールしなくてはいけない。それも毎日続くといい加減面倒くさくなってきたので、定信様が見舞いに来たと聞き、重病のフリをして寝込んでいたというわけだ。さすがに猿芝居だとすぐにバレたようだが。


「しかし、よう刀を抜かずに対処できたな」

「正確には抜けなかったと言うべきかと」


 相手が刀で斬りかかってきたのだから、身を守るためにはこちらも刀を抜いて応戦するべきなんだろうけど、あのとき俺にその選択肢は無かった。


 それは俺が小麦粉の包みを持っていたということもあるが、必要であれば包みを捨てて刀を抜くことも出来た。それでも俺が抜刀しなかったのは、大きく二つの理由がある。


 一つは殿中での抜刀がご法度であること。そもそも城内に入る際、太刀は持ち込むことが出来ず、所持出来るのは脇差のみ。しかしそれとて抜いてしまえば将軍に対する叛意ありとして厳罰に処される行為だ。


 だが、脇差とはいえ刀を持っている以上、何者かに襲われるという危険ははらんでいる。有名なところだと赤穂事件の浅野内匠頭をはじめ、これまでに殿中における刃傷沙汰は何度となくあり、命を落とした者もいる。


 実際に襲われて身を守らねばならないのに、いざ刀を抜いたらそれが咎められる理由になるとなれば、抜くのを躊躇するに十分な理由となろう。


 改めて考えたらおかしな話だよな。刀とは身を守るための武器であるのに、抜いたらダメよとなれば、何のために帯刀しているのよという話だ。


「とはいえ凶行を為す不埒者が暴れておるのに周りの者は何をしておったのだ」


 定信様はそう言って、凶行の際に周囲にいた者たちの初動の遅さを非難しておられるが、俺としては条件は全く違うけれど、未来の警察官の発砲事案に似た雰囲気を感じるんだよね。


 警察官の場合は拳銃の使用要件が一応は整っていたはずだが、この時代では殿中での抜刀は原則禁止で、仮に抜いてしまった場合の判断は為政者のさじ加減一つであるから、抜きたくても抜けないというのが実情であろう。


「もう一つは皆が皆、戦というものに自身が巻き込まれるという意識が薄いゆえかと」


 江戸幕府は厳密には軍事政権であるが、この時代の侍は軍事部門の番方に就いている者とて、誰一人として他の勢力や国家と戦争をした経験は無い。


 刀や鉄砲という武力を保持しているけれど、侍の多くは書類仕事、後世では役人や政治家と言われる者たちが担う仕事をしており、所謂武門の務めに関してはおざなり、もしくはなおざりであることが多い。一応は剣の稽古などは奨励されているものの、実戦で使う想定はほとんどの者がしていないだろう。


 そんな中で目の前で凶行が発生したとき、すぐさま対応出来る剛の者がどれほどいるだろうか。俺も仮にあのとき手ぶらだったとして、すぐさま抜刀出来たかと問われれば、おそらく抜けなかっただろう。周囲にいた者たちも同じだったのかと思う。


「太平の世が長く続いているは重畳なれど、いざというときの心構えが備わっておらねば、最新の武具を整えても無用の長物。西洋の国々が我が国に迫っておると警鐘を鳴らしておる身として、恥ずべきことにございます」

「別にお主を責める気は毛頭ないぞ」

「いえ、これは私の落ち度。やはりここは責任を取って……」

「それで上様が分かったと言うわけがなかろう」

「やっぱり?」

「何でも致仕ちし(辞職)に持っていこうとするな」


 これまでの刃傷沙汰において、ほとんどのケースで被害者側も何らかの罰を与えられていることが多い。それはつまり、有事に即応出来ず傷を負ったことが武士として恥である。という理由からくるもので、抜いても処分、抜かなくても負傷したら処分というのは理不尽極まりない話なのだが、現実的に俺も軽傷とはいえ斬られたわけで、これまでの慣例から見て何らかのお咎めがあるものと思っていたが、定信様の話しぶりを聞く限り、上様は俺を処罰する意思はなさそうだ。


「しかし納得しない方もおりましょう。隠岐守おきのかみ様とか隠岐守様とか隠岐守様あたりが」

「心配するな。兄上は領国伊予松山におる。それに水戸様も我らの考えにご同意であるし、水戸様から紀州様や尾張様にも話は通っておる」


 おそらくだが俺が斬られたことをダシにして、俺自身の落ち度と責め立てる者や、田沼公あたりを攻撃する材料に使う定国《隠岐守》様のような輩が出てくるだろうと考えていたが、そのあたりは水戸様がこちらに付いてくれたことで封殺出来ているらしい。


「それにお主に罰を与えたとなれば、田安が黙っておらぬわ」

治察はるあき公の御尽力もありましたか」

「と言うか、そうせねば種が……と兄上《治察公》が仰せであった」


 一応俺が田安家の縁戚であるからというのも温情の理由の一つらしい。もっとも治察公の言葉を汲み取るならば、種のことを案じてというより、今回の凶事に対する対応を間違えれば、噴火した妹が薙刀担いで乗り込んで来るやもしれんと考えたのかもしれない。


「さすがにそれは考え過ぎかと。たしかに私が屋敷に担ぎ込まれたときは、善左衛門の屋敷に攻め込まんばかりの怒りでござったが、水野殿に諭されて落ち着きました。越中様のお指図でございましょう」

「役に立ったのなら何よりじゃ」


 水野殿は名を為長と言い、元は旗本の養子であったが宗武公に召し出されて田安家に仕え、賢丸と名乗っていた頃から定信様に近侍し、主が白河藩に養子入りした際もこれに付き従い、今は久松松平家の家臣となられた人物。つまるところ定信様の近侍とか学友という意味では俺の先輩にあたる方だ。今でこそ俺も大名になったので対等な付き合いは難しくなったが、昔から親しくさせてもらっている。


 俺が屋敷に担ぎ込まれてからすぐ、事後処理に追われて手の離せなかった定信様が、代わりにと水野殿を我が屋敷に遣わし、いきり立つ種に向かい、全ては定信様《兄上》にお任せし、ご自身は主人が無事であるよう尽くしなさいと諭し、種も見知った顔で昔からよく諭された経験のある相手ゆえか、随分と大人しく従った。


 ちなみに余談だが、俺が昔、種にせがまれて膝の上に乗せて本を読んであげたことがあったが、そのときも主従の分を弁えたほうが……と苦言を呈されたものである。


「で、その種はどうした」

「今は神田明神に参拝に行っております」

「明神様? 快癒を祈念するほどの怪我でもあるまい」

「どちらかと言うと己の心を鎮めるためかと」


 水野殿に諭されて殴り込みこそ思いとどまったが、鬱憤は溜まっていたようなので、明神様にお参りに行ったのは気晴らしも兼ねてである。大名の奥方として出向くと色々面倒なので、火消し"に組"の頭や女将さん、若い衆を連れて街娘を装って行っている。無論家中の者も護衛として供だってではあるが。


「うーむ……」

「何かご懸念が?」

「うむ。これも水野の調べによるものなのだが、お主と米問屋が結託して米を市中に流さず、高値を付けて暴利をむさぼっておるとの流言が流れておるとか」

「私も聞き及びましたが、それがただの流言であることを理解する者も多くおりますれば」


 米が手に入らないのは飢饉の影響が大きく、その中で江戸に米を送れば農村が飢え死ぬということは、浅間山噴火の被害救済の折に帯同した火消しの者たちを通じて広く知らしめたと思っていた。


 しかし定信様に言わせれば、世の中には色々な物の見方、ときに偏見や悪意に満ちた論調が囁かれるのはよくあることで、特にそうであって欲しいと願う者がいれば、火のないところに火を点けてでも煙を立たせたい者はいるとのこと。たしかにそのあたりはいつの時代も変わらないのかもしれない。


「儂が懸念するのは、お主を非難する声が種の耳に入ったとき、あれが大人しくしておられるかということだ」

「に組の頭が睨みを利かせておるので大丈夫かと思いますが」

「殿、お話しのところご無礼いたします」

「いかがいたした」


 定信様は種が何か揉め事に巻き込まれる、もしくは揉め事に首を突っ込むことがないかと心配しており、そう言われれば俺も不安になるなあなどと考えていたとき、急の用件があったようで、それを告げる家臣に声をかけられた。


「先程中屋敷にて火消に組の頭から言伝を受けたとのことで遣いが参っております」

「種に何かあったか」

「はっ。浅草蔵前にて街の者と米問屋の間で揉め事が起こり、奥方様がその騒ぎに巻き込まれたと……」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
くわばらくわばら… 鬼姫様のお出ましじゃあ…
外記くん、そんな役職離れたいなら、しばらく蝦夷地開拓しない?
巻き込まれたというより、治部さんのデマを言って騒いでいた連中の前に、殺気全開のダーク種子様が降臨なされたような・・・くわばらくわばら
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ