【他者視点】市中騒乱の火種(江戸庶民)
お待たせしました。第九章開始です。
最初は治部の与り知らぬところの話からスタートです。
――治部が城内で斬りつけられてから間もなくのこと、それまで品薄であった米が市中に出回りだし、高止まりしていた価格も僅かながら安くなり始めた。
「米が安くなるってえのはありがてえ話じゃねえか」
「そうだな。ここしばらくは白いおまんまを食べる機会も少なかったからな」
「佐野大明神様々だ」
「……なんでえ、その佐野大明神ってえのは?」
「お前知らねえのか、米が安くなったのは佐野大明神様のおかげだって、もっぱらの噂だぜ」
浅間山の噴火以来長く続く飢饉にあって、幕府は江戸や大坂に入る米の量を制限してきた。その目的は各藩が必要以上に米を売りさばき、自領の民のために備蓄すべき分まで放出させないようにするためである。
流入を減らせば必要な量の米が足りなくなり、町人たちの不満が高まるのは必然であったが、災害支援に向かった火消たちが目の当たりにした地方の惨状を知らされ、とても米が育つ状況ではないと理解する者も増え、今のところ江戸の市中で大きな騒動は発生していない。無論甘藷やパンなど、代わりに食べるものが普及していたことも理由としては大きい。
とはいえ、それももう数年は続いているから、そろそろ我慢の限界に近いであろうと田沼親子が米を各国から集めるよう手配し、それが出回り始めたのが、たまたま江戸城内での刃傷沙汰と時期が重なっただけというのが真相であるが、一部の町人たちには佐野の凶行と米価の下落を関連視する風説が流れていた。
実際に飢饉はまだ続いているが、悪条件でも比較的収穫の見込める作物の栽培を奨励したり、食料備蓄に関して幕府が積極的な姿勢を見せたことで、史実と比べて被害は確実に抑えられている。本来餓死してしまったはずの農村の者たちの多くが命を繋ぎとめ、農作業の労働力としてその後も機能したことが大きい。
働き手が亡くなってしまえば誰が作物を育てるのかという話だ。仮に生きていたとしても、食べるものもない状態では力の出しようもないし、村の者が次々と倒れていく惨状にあって普段通りの生活を送ることなど不可能で、食べ物がありそうなところを求めて村を捨てることになる。
そうなれば農村社会は崩壊し、更に農産力が落ちるという負の連鎖に陥るところであるが、多くの藩や村々がその状況に至らなかったことで、史実よりも食料事情に余裕が生まれ、無理にかき集めることなく江戸に米を運べたのはそのおかげと言っていい。
これらは幕閣の者や実際に現場で働く者たちの努力の成果であるが、元を正せば治部の提言があってこその結果である。
だが、本来の歴史から軌道修正されたことを知る者は誰もいない。当の治部ですら史実の惨状を正確に把握しているわけではないのだから仕方ないことであるが、この世界に生きる者は自分たちが経験した事実を過去と比較して評することしか出来ないのだ。
治部の提言によって多くの村が救われたことは事実だが、被害を完全に防げたわけではなく、食うに困って村を捨てた農民が江戸の市中にも少なからず流入しており、それは即ち農産力の減少を意味する。ただでさえ不作の米の収穫量は以前より落ち、米値は高止まりしているのだから、対策を施していたとて政治に不満を持つ者はいる。
そこへきて前触れもなく米の値が下がったので、何か理由があるのだろうと考えるものの、未来と違って政治の世界の話がある程度正確なニュースとして伝わる時代ではない。そうなれば自身が見聞きした情報のみで類推する者が少なからずおり、これがまことしやかに巷間に広まっていったのだ。
「その佐野ってお侍は、田沼様の政治に異を唱えて天誅を下そうとしたらしいぜ」
「だが斬られたのは甘藷のお殿様だそうじゃねえか」
江戸の庶民には甘藷のお殿様とか、江戸一番の蘭学者として知られる男が斬りつけられたという話は、日を置かずして江戸の庶民にも知れ渡っていたのだが、これは正式なルートで公表されたものではない。
故に当初は情報が錯綜し、斬られたのは治部ではなく老中田沼意次や松平定信、若年寄田沼意知であったり、その他の人物を含めて複数が斬られたなんて話になっていたり、怪我の具合も無傷から実は亡くなったというガセ情報が多く出回っていたものだから、佐野の犯行理由についても諸説飛び交い、これが事実無根の風説をより多く生み出した原因となる。
「馬鹿馬鹿しい。甘藷のお殿様と言やあ越中守様と共に田沼様の横暴を止める側の人間だろ。それがどうして斬られなきゃならねえのよ」
「そこよ。どうやら裏にカラクリがあるみてえだぜ」
酒場で一杯ひっかけながら、巷で話題の刃傷沙汰をツマミに話に花を咲かせる男たち。
その中の一人、職人風の男が酒に酔った勢いで、何やら裏情報を握っているようなことを大声で話しだしたものだから、周りの者も野次馬根性からか誰となく聞き耳を立てている。
「なんで江戸の街に米が無かったと思う?」
「そりゃあここしばらく飢饉が続いて実りが少なかったからじゃねえのか」
「じゃあなんで今になって急に米が出回り始めたって話さ。つまるところ米はずっと前からあったんだよ。お上がそれを出し惜しみしたのよ」
「何のためにだい」
「かぁ〜っ、察しが悪いね。甘藷のお殿様と言やあ、米の代わりに芋やら麦やらを俺らに食わせて腹を満たせって広めたお侍だぜ。そうすりゃ芋や麦の値が上がり、大儲け出来るって算段よ」
この男が言うには、治部は飢饉で米が品薄になると喧伝し、代わりに甘藷や麦を食べさせることでその需要を高め、必然的に売値を上げて儲けにつなげたのだと言う。
「その証拠に十三里が流行りだした頃、真っ先に甘藷の栽培に手を付けたのは、昵懇の仲の田安様の御領地じゃねえか。最初からそれを見越して手を打っていたんじゃねえのか」
「お上はそれを黙って見逃したってことか」
「見逃すも何も、田安様も越中様もグルってことよ。田沼様だって米が無い無いと言い続けりゃ、年貢米を高値で売り払えるってもんだから、文句は言わねえだろうよ。ついでに言うなら、米屋どもも手を組んで売り惜しみしてるんじゃねえのか」
荒唐無稽な話だが、それを否定する材料を持ち合わせていない周りの者たちは、半信半疑、まさかそんなことはと思いつつも、無い話でもないのかといった表情で聞いていた。
「じゃあ何かい。佐野ってお侍様はそれを咎めるために天誅を下そうとしたってのかい?」
「そうだろ。米だけじゃなく諸々の値が上がって苦しんでいる俺たち庶民のことをお考えなさったんだろうよ。だから巷じゃ大明神様と崇める者もいるらしいぜ」
「そんなわけあるか!!」
佐野が治部を襲ったのは、物の値を釣り上げて私腹を肥やそうとした者たちを成敗するため。それがあって慌ててお上が米を市中に流したからであろうと男が結論付けたとき、それに対して真っ向から反対するかの如き怒声が別の席に座っていた男から放たれた。
「さっきから黙って聞いてりゃ好き勝手言いやがって……藤枝様はなあ、その日食うものにも困っている貧しい子供どもを集めては施しを下さり、あまつさえ読み書き算盤まで教えてくださった。子供らが大きくなってから困らないようにってな。俺もそのおかげで真っ当な仕事に就いて道を逸れずに済んだんだ。しかも見返りなんかいらねえ、お前たちが世間様の役に立って、幸せに暮らせればそれでいいって仰るような御方だぞ。そんな阿漕なことをするような人じゃねえ!」
怒りの声を発する若者は、おそらく幼い頃に当時旗本だった治部の屋敷で読み書きや農作業を教わり、甘藷やパンなどの新しい食材に触れた者の一人なのだろう。大恩人を悪しざまに言われ、黙ってはいられなかったようだ。
「表じゃそうやって善人ぶっても、裏で何をしてるかなんて分からねえぞ。甘藷のお殿様なんて言われて崇められているようだが、元は五百石の旗本の部屋住だった身が今や三万石のお大名様だってんだから、その間に何か疚しいことがあったとしても不思議じゃねえ」
「野郎、まだ言うか……テメエ表に出やがれ!」
「おお、上等じゃねえか若造!」
江戸の街に不穏な空気が流れていた……