忘れていたこと
家治公にパン作りを指南してからしばらく後、俺はその話を聞きつけた家基公と田沼公に呼び出されていた。
「父上の焼かれしパン、評判が良いようじゃの」
「評判が良過ぎて揉めるほどには」
家治公が調子に乗ってパンを大量に焼いてしまい、どうやって消費しようかという話になったので俺が食事処に供してみたところ、それはもう一瞬で捌けてしまったのである。
米は武士の暮らしを支える神聖なものという認識は未だに強く、パン食はあくまで米食の補完でしかない中、これほどの人気になったのは、やはり大御所様手ずから焼いたものであることが大きいと思う。
しかし大量に焼いたとはいえ、江戸城で働く全員に行き渡るほどの量ではなかったので、手に入らなかった者や、その日はたまたま食事処に足を運ばなかった者たちからクレームが続出。それを聞いた大御所様が、それほど評判が良いのなら毎日でも焼いてやろうと、毎日数量限定で供されることとなる。
もっとも喜んでばかりはいられない。大御所様のパンを手に入れようと、フライング気味に並ぶ者が殺到して、その者の上役から仕事を抜け出されて困るんですけどと苦言を呈されたり、それなりの役に就いている人物が裏で手を回して自分の分を確保させたりと、殺伐とした空気が流れることもあった。
「そこで、お役目ごとに供する日を分けさせていただきました」
今日は小姓番、次は書院番。といった具合に、日ごとに手に入れられる部署を決め、順番で全員に行き渡るように調整した。全員に行き渡るまでにかなりの日数がかかるだろうが、公平性を保つにはこれが一番だろう。
「大御所様からの賜り物と、皆喜んでおりまする」
「畏れ多くて食べられぬ。という者もおるのではないか」
「おりましたな」
阿呆は何処にでもいるもので、大御所様からの賜り物、これは我が家の一生の家宝であると言って食べずにこっそり持ち帰り、家の神棚にお供えした者がいたらしい。
それがどうなったかは言わなくても分かるよな。未来と違って防腐剤的なものは入れてないからあっという間にカビて、ナ◯シカの世界にいそうな物体に変貌してしまった。以来持ち帰り厳禁で、その場で食べるよう通達している。
「しかし、大御所様の手を毎日毎日煩わせるのはいかがなものか」
「田沼様。実はここだけの話ですが、ほとんどは大御所様付きの小姓たちの手によるものにて」
「……そうなのか?」
俺がパン作りを進めたのは、身体を動かすことで健康維持を狙ってのことだから、職人のような仕事ぶりとなっては却って悪影響となる。
そこで、大御所様には自身で召し上がっていただく分より少々多目くらいの生地を捏ねてもらい、その余ったところを小姓たちが捏ねた生地に混ぜて焼いているのだ。一応大御所様が捏ねたものも混ぜた生地で焼いたパンなので、大御所様のパンと言って間違いではない。
パッケージに〇〇産△△使用と大きく書いてあるけど、よく見ると小さな字で、〇〇産は使用量のうちのほんの僅かだったなんてことはよくある話だろ。景品表示法? この時代にそんな法は存在しないぞ。
「あまり長く続けておると有り難みが薄れますゆえ、そう遠くないうちに一度供出は止めまするが」
「その頃には武士たちもパン食に違和感がなくなるということか」
「米とは違い、焼いてから一日二日は保ちますゆえ、陣中食にも向いております。戦など起こらぬに越したことはございませぬが、武士なれば有事の備えは肝要。パン食に慣れるのも鍛錬の一つと考えてもらえれば」
「たしかに陣中食に適しておるな」
陣中食とは即ち、戦場で食された野戦糧食のこと。戦国時代の陣中食も基本は米や餅を主食としていたが、米を炊けば炊煙が上がるので、敵に位置や状況を知られたくない状況などでは、一度炊いた米を干した「乾飯」なんてものを食べていたとか。どちらにせよ、おかずも含めて干物や燻製、漬物といった保存の利く食材が中心となる。
一方ヨーロッパではどうかというと、あちらは主食がパンなので陣中食もパンが基本となる。ご飯とパンの決定的な違いは、作ってからの日持ちする期間であろう。パンだって時間が経てばカビてしまうけど、水分量を減らして焼けばそのリスクは少なくなる。所謂乾パンとか堅パンと呼ばれるものだ。
米は少しばかり水に浸したくらいでは食べられるものではないが、乾パンや堅パンならば、スープに浸して柔らかくして食べるという手が使える。しかも軽くて携行が楽な上、栄養はちゃんとあるというわけで、このあたりを導入の理由付けに使いたいと考えている。
無論俺はそうならないように平和的に近代へ移行させるための行動をしているのであって、戦争をしたいとは考えているわけではない。武士という武力集団が政権を握り、軍事を疎かにするわけにはいかないところを逆手に取り、パン食を導入する契機に用いようというだけだ。
実際に戦場で食べるとなると、水分の抜けたパサパサ乾パンにはなると思われるので、米しか食べたことのない人間にはハードルが高すぎる。言わばその前段の慣らしというところだ。
「すぐに戦がおこるというわけではございませぬが、武士は常在戦場の心意気を失ってはなりませぬ。それを忘れぬためにもパンを食す理由は十分にあるのです」
「聞けば、何やら麦粉もそのために変わったものを用いておるとか」
「こちらにございます」
「これは……普通の麦粉より茶色みが強いな」
「これは麦をまるごと挽いた粉にございます」
俺が持ち込んだのは全粒粉と呼ばれるものだ。米が精米して糠と胚芽を取り除くことで白米となるように、麦も果皮や胚芽など「麩」と呼ばれる部分を取り除いてから製粉することで、よく知られる白い小麦粉となる。
同じイネ科の植物なので、そのあたりの原理は同じなわけだが、そうすると残った部分に栄養が多いという理屈も一緒なわけである。
玄米の場合も炊飯時間とか、臭いの面でデメリットがあったように、全粒粉にも香りが(良い意味でも悪い意味でも)強くなるとか、グルテン成分が少なく、フワフワのパンに仕上げにくいといった点はあるものの、白米と比較されやすい玄米に比べ、そもそもパン食は始まったばかりなのだから、最初からこういうものだと刷り込ませればいいだけのことである。それを差し引いても、全粒粉の高い栄要素は捨てるにはもったいない。
そして、全粒粉の導入は家治公の健康を気遣ってということもある。パン作りが身体を動かすのに適しているのはもちろん、食べるパンが滋味溢れるものであれば健康面でより良いものになる。特に三度一にして何かを挟む形状を好むから、グルテンが少なくてあまり膨らまないパンでも問題ないのだ。
「西洋では寒き地においても良く育つ麦もあると聞いておりますれば、今後蝦夷地を切り拓く上でも適したものと考えておりまする」
「相分かった。パンの話はここまでにして、主殿、米のほうは如何じゃ」
「はっ。山城守に命じ、ここ数年の作付がなんとか持ち直してきた西国より米を集めまして、それが近々上方から届く手はずかと」
「左様か。ならば米の値も少しは落ち着くか」
「商人どもが高値を付け、出し惜しみせぬよう目を光らせまする」
俺は稲作がダメだったときのための対策を広めているが、やはり一番は米なわけで、田沼公やその息子の山城守意知殿は、なんとか少しでも安く米を江戸に入れようと動いていた。
これまでは備蓄米を少しずつ放出してきたが、長きにわたる飢饉によってその蓄えもなくなり始め、代わりに比較的飢饉の被害が少なかった西国から米をかき集めてきたらしい。
「山城守殿もご苦労なさっておられますな」
いつまでも下がらぬ米価。飢饉で生産量が激減しているのだから当たり前なのだが、結果が出ないと政治家は文句を言われる生き物である。山城守殿は老中の息子という立場もあって誹られがちなところもあるから尚更だ。
「だが、治部がやってくれたことは間違いなく生きておる」
誹られるのは端から織り込み済み。それでもその声が決定的に大きくならないのは、俺がパンや甘藷をはじめとする、米に頼らない食生活を広めたことや、浅間山のときに火消しのみんなを使い、江戸庶民に外の様子を知らしめてくれたからだと田沼公は言う。
「表向き儂とお主は犬猿の仲だからの。これからも苦言を呈してもらうぞ」
「扱き使うようにしか聞こえませんな」
それからしばらく、様々な政策に関して意見を交わし俺は家基公の前を辞し、城内の廊下を歩きながら、俺は色々な想いを巡らせていた。
本当なら今頃は全国的な飢饉に瀕し、農村はことごとく荒廃し、街では米価の高騰にあえぐ庶民の怒りが爆発して大規模な打ち壊しが発生していた。
そして幕府ではこれに乗じ、田沼公を政権から引きずり下ろす政変が発生。定信様が老中に就くも、その改革は道半ばで頓挫して、以降は治済・家斉による国のために何も益のない政治が、結果幕末の混乱を引き起こす。そんな未来だったはずだ。
俺はそれを変え……てしまったんだろうな。家基公が将軍になり、田安家が存続している時点でそれは明らかだし、田沼公と定信様が協調しているわけだからな。言わば口先八丁で歴史を変えてしまったわけだ。
そしてこのとき、俺は大事なことを忘れていたのだと思う。途中経過では苦労することも多かったが、結果として概ね自分が望む方向に未来を動かせていたということも、驕りにつながっていたのかもしれない。
忘れていたこと。それはつまり、何かを変えたときに、それによって今までの権益を失い、不利益を被る存在が少なからず発生すること。
いや、そのことは常に頭の片隅に置いていた。忘れていたことというのは、正確にはそれらの者の恨みが自身に向いたとき、令和の未来よりもより残忍で直情的な報復が可能な時代だということをだ。
ここは江戸時代。命よりも自身の名誉を重んじる武士が、容易に人の命を奪うことの出来る凶器を携行し、いざとなればそれを抜くに迷いのない時代……
「治部少輔! 覚えがあろう!」
〈第八章 改革、未だ半ばにて・完〉
これにて第八章本編は終了です。
次回は、田沼意次視点の話と人物まとめになります。
さて、思いがけず大河と同時期に同じようなことになってしまいましたが、この先どうなるかは第九章開始まで今しばらくお待ちください。