暇を持て余した殿様たちの遊び
「……出羽守様?」
「いや、その……ほれ、上様にのお耳には届いておらぬゆえ」
「届いてしまっては一大事にござる」
本丸の開業から日を置かず、西の丸にも食事処が開かれて間もない頃、御老中の水野出羽守忠友殿に呼び出されて話を伺いに行けば、俺は胡乱な目で相手を見据えざるを得なかった
水野家は家康公の生母於大の方様の生家ということもあって、かつては信濃松本七万石を治める大名であったが、六十年ほど前に当時の当主であった忠友殿の従兄が江戸城内で刃傷事件を起こして改易となってしまった。家督だけは忠友殿の父忠穀殿が継ぐことを許され、家名は存続したものの、領地は信濃佐久郡七千石と十分の一に減らされてしまった。
その跡を継いだ忠友殿は、家治公の小姓からキャリアをスタートさせると、後に幕閣として田沼公の政策を支える一人となり、若年寄から側用人、老中と出世を重ね、それと共に幾度かの加増も受け、今は駿河沼津藩三万石の大名となって、一度は地に落ちてしまった家名の復興を成した人物である。
元々は本丸の老中であったが、西の丸で家基公に仕えていた多くが一橋に唆された結果、死罪、免職となって人材が不足したため、家治公の大御所就任に伴い、西の丸に転任された。田沼公と近い立場なので、本丸と西の丸のつなぎ役として適任と考えての処遇であったが……
「心配は無用じゃ。お忍びであったゆえな」
「隠れようもない気がするのですが……」
なんのことはない。家臣たちの評判を聞きつけた家治公がお忍びで食べに行ったという話である。
水野殿は大御所様が将軍世嗣であった頃からの側近であるから、主の頼みをなんとか叶えてあげようと思ったのだろうが、家治公は長年将軍の地位にいたわけで、その顔を見知った者はそこかしこにいる。多少衣装を変えたところで、某時代劇のように「余の顔見忘れたか」とはなるはずもない。それでも騒ぎにならなかったのは、ある種の忖度が働いたのだろう。
「政から離れると、どうにも暇を持て余すものでな」
家治公は将軍位を譲られて後、政に一切の口出しをしていない。もっとも、将軍であった頃から政務は田沼公にお任せだったわけだが、そんなツッコミをしようものなら首と胴がTot ziensなので言わないけど。
一応フォローすると、政務は家基公と老中や幕閣が差配するものであり、自身が出る必要がないから出ないだけのことであり、史実の家斉&治済親子と比較したら、ありがたいことこの上ない姿勢であるが、当の本人にしてみれば、裁下すら仰がれなくなって余計に暇を持て余しているのだと思われる。
「三度一が食べたかったのじゃ」
「御膳奉行に申されれば」
「あやつ、頭が固くていかん。そう頻繁に三度一のみにて食事を終わらせられては、御膳所の面子に関わると申しての」
家治公が日がな将棋に没頭し、食事を取るのも忘れていたとき、小姓が三度一を供したところ、これはよいとそれ以来お気に入りとなってしまった。
中に挟む具にもよるものの、比較的栄養のバランスは取れ、かつ、片手間で簡単に食べられるものであるが、いくらなんでも毎日そればかりでは料理人も腕の振るいどころを失ってしまう。本人の指示であったとしても、意地の悪い者が御膳所は手抜きしておると言いだしかねない。
「とはいえ、何度もお忍びで食事処に足を運ばれては家臣たちが困りまするし、何より上様に聞かれては本丸の御老中たちも頭を抱えますぞ」
家基公に聞かれたら困る。というのは、警備体制とか安全管理という話ではなく、「余も行きたい」の一言に後ろ盾を与えないためだ。
でしょうねという話かもしれないが、既に上様には何度となく「余も食事処で食べてみたい」と下問を受けている。とはいえまだまだオペレーションがグダグダな面は否めず、上様の御成りとなるには準備不足。定信様ですら余計な口出しをさせなかったのだから、上様となれば尚のことである。
「大御所様はよいのに何故と言われれば、返す言葉もなく」
「食べに行っては駄目かのう」
「されば、御自らパンを焼いてみてはいかがでしょうか」
「治部、其方大御所様に下男の如き仕事をせよと申すか!」
俺の提案に出羽守殿が激昂する。そりゃまあ飯作りは下級の者の仕事だから、大御所が粉まみれになって生地をこねこねする姿なんぞ威厳も何もなく、この時代の人間にしてみればあり得ない話ではあるが、暇を持て余しているなら協力してもらおうと考える。
「まず、某がパン作りを勧めるは、大御所様の健康のためでもございます」
家治公は政から離れてより、あまりお体を動かされておらぬと聞く。長寿の秘訣は適切な栄養の摂取と適度な運動にあるから、パンの生地を捏ねるはうって付けだろう。結構捏ねるのに体力を使うからね。
「身体を動かすなら鷹狩りでもよかろう」
「鷹狩りは準備に手間がかかり、そう頻繁には行えませんが、パン作りであれば場所と材料、あとは窯があれば出来まする。大御所様御自ら自身の好むパンを焼き、三度一に仕立てられまする」
「其方、パンを広めるために余を利用するか」
「治部殿!」
「まあよい出羽守。稲が不作となりし折、治部が進めた農地対策が功を奏したは事実。この先もいつまた飢饉に見舞われるやもしれんのだから、パンの作り方を広めるは悪い話ではない。余がその先鞭をつける役というところか」
「その通りでございます」
「食べたければ己でこしらえる。考えてもみなかったが面白そうだ」
こうして、家治公にパン作りを指南することとなった。
西の丸の中奥に窯が仕立てられると共に、俺が様々な挽き方をした小麦粉を用意し、捏ね方から発酵の仕方、焼き方を指南すると、家治公は思いのほか乗り気でパン作りに精を出すようになった。
のだが……
〈それからしばらく後〉
「大御所様、これはいくらなんでも作り過ぎにございます」
「うむ……捏ねておるうちに楽しくなってしまってのう」
出羽守様から知らせを受けた俺が西の丸に行ってみると、目の前には焼き立てパンが山のように積まれていた。
外がパリパリのバゲット。砂糖や油脂を使ってフワフワにしたロールパン。発酵をあまり進めず、三度一に適した形にしたナンやピタ状のもの。具材をクルクルと巻く形で食べるトルティーヤ状のもの。兎にも角にも、教えた製法に従ってありとあらゆるパンを焼いたらしい。
「どう致そうか」
「小姓や近侍の者たちだけでは食べきれませぬぞ」
どうやら家治公は、パンを焼き上げるたびに、自ら消費するほかに近習たちにも食べさせていたらしい。
パン自体はとても良い出来だったようだが、さすがに毎日毎日では飽きてくる。とはいえ大御所様からの賜り物を、口が裂けても要らないとは言えず褒めるしかないので、家治公が調子に乗ってしまったというのが真相のようだ。
「早く食べねば腐ってしまうぞ」
「とは申せ、中奥だけでは……」
「されば、食事処に卸してみましょうか」
「家臣たちに分け与えるということか」
「はっ。パンを広めるための大きな助けになるやもしれません」




