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旗本改革男  作者: 公社
〈第八章〉改革、未だ半ばにて
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福利厚生という名の……

――話は徹夜仕事中に定信が陣中見舞いで訪れた夜の江戸城に戻る


「城内に飯を供する場を作ると?」

「左様」


 俺のアイデアは、城内で働く者たちのために食事を供する場所、つまり社員食堂を作ろうというものだ。


「御膳所を使うわけにはいくまい」

「それは承知しております」


 江戸城内にも台所は存在する。定信様が言う御膳所がそれに該当するが、その一番の仕事は将軍や御台所の食事を作ることであり、役高二百石の御膳奉行を頂点とする、れっきとした幕府の組織の一つである。


 そこでは五十人を超える台所人と呼ばれる男たちが、十人前の食事を作る。そのうち何膳かは途中のお毒味で消費され、残ったもののうちから一膳が食事として供されるのだ。それはどの膳が供されるか分からないようにして、毒を盛られにくくするための対策である。


 一応宴の膳を用意するとか、老中や若年寄に食事を供するくらいは可能なものの、数千人規模の食事を調理するのは難しいので、調理場と食堂は新たに作らなくてはいけないが、既に食材の調達や保管などが仕組みとして整っているのだから、何も無いところから作るよりはマシだと思っている。


「治部のことゆえ、なんぞ益あっての考えとは思うが、倹約を推し進める中にあってわざわざ金をかけて飯を用立てるは何故か」

「政を遅滞なく進めるには、これに携わる者への労りも肝要にござる」




 未来の日本では、企業や団体が業績を上げるためにCS、日本語だとクライマックスシリ……ではなく、顧客(カスタマー)満足度(サティスファクション)と呼ばれるそれを上げることが大事であると謳われた時代があった。


 価格、サービス、その他諸々の要素において、お客様のニーズに応えて満足度を上げる。自分も消費者の立場であれば、同じ値段なら性能やサービスの良い方を選ぶし、同じ性能なら少しでも安い方を選ぶから、物を売るために必要な要素であることは否定しないが、過度な競争により組織が限界を迎えたとき、それでも競争を続けようとすれば、従業員の権利が侵害されることになる。


 勤務時間内で終わらない仕事に休日も出勤の強要。好景気の時代はこれが給料に即座に反映されたからまだ頑張りようもあったろうが、ひとたび不景気となれば固定給は上がるどころかカットされ、ボーナスもゼロ。残業や休日出勤の実績すら残さないサービス残業という悪弊のみが残ることとなる。


 頑張っても給料が上がる未来は見えず、むしろ自分がいつか倒れてしまうのでは。そうなったときにどうやって暮らしていけばいいのかという不安が先行すれば、やる気の出ようもないし、そうなれば生産性は格段に低下する。CSばかりを優先した結果、このような事態に陥った社会で注目を浴びるようになったのがES。エントリーシートもESと訳すらしいが、ここでは従業員(エンプロイー)満足(サティスファクション)を指す言葉だ。その言葉通り、働く者の満足の向上が生産性の向上、ひいては顧客の満足向上とそれに伴い業績も上向きになるという考え方である。


 さて、先ほど俺が残業ばかりなのに給料はちっとも上がらないという話をしたが、それは何も平成令和の時代だけではなく、実はこの江戸時代も一緒だったりする。


 この時代、主君から与えられた知行か給米が武士の給与に相当する。一応加増や減封もあるが、基本的には一生額は変わらないものである。そして役職に就けば与えられる役料も同じで、昇進すれば額は上がるが、同じ職に留まり続ける限り基本額は変わらない。未来のように毎年ベースアップするわけではないのだ。


 ここで未来なら転職するという手もあるが、江戸時代においてそれは武士の身分を捨てることに等しいので、不満はあっても今の身分にしがみつくしかない。という違いこそあれど、働く者の環境を改善する余地は十二分にあると思われる。


 もちろん何でもかんでも未来と同じようにとは言わないし、物理的に無理なことも多いが、職場で飯を提供する場所くらいはあっても良いだろうよ。


「飯を与えるが家臣への労りとな?」

「腹が減っては頭も体も働かぬゆえ飯を食べるものにござるが、食べることで緊張を和らげ心を落ち着かせる効能もござる」

「たしかに苛々しながら飯を食い続けることはないな」


 食事とは基本的にリラックスの時間。それまで泣いていようが怒っていようが、飯を食べ終わる頃まで同じ状態であることは少ないだろう。食べている間は嗚咽も怒声も口から出ることはないわけで、食べ終わる頃には感情も和らぐというものだが、実はこの気分転換が仕事においては重要なのだ。


 仕事とは常に緊張の連続。特に武士は一つの失敗で腹を召すなんて事態にもなるので気が抜けないし、特に最近の役方は新たな政策を進めることも多く、頭を働かせる時間も長いから、昼の食事時間は、緊張を解きほぐす貴重な休憩時間でもある。


「お役目を過怠なく務めるには、適度に頭と体を休ませる時間が必要にて、それに適した場を設けるのです」

「なるほど。それは分かったが、なれば弁当でも良いのではないか」

「御城内で温かな飯を出す利点は二つ。一つは温かい飯は冷や飯よりも心が落ち着きやすいこと」

「して、もう一つは」

「温かい飯のほうが即座に力となりやすいのです」


 冷たいご飯は消化するまでに時間がかかるらしい。故に腹持ちが良く、ダイエットの効果もあるなんて話を聞いたことがあるが、裏を返すと消化のために多くのエネルギーが使われることを意味し、その後仕事を再開しようとする人間にとってメリットは少ない。一方で温かいご飯は消化も早く、文字通り午後の活力となるのだ。このあたりは未来知識によるものだが、いつもの如く蘭学由来の知識とでも言っておけば問題なかろう。


「温かい飯を供し、家臣たちの仕事の活力とするか。されど、そのために公金を用いるはいささかやり過ぎではないか」

「全て賄いはしませぬ。公金は食すための場を整えるために使い、飯代は食べる者に払わせまする」


 未来の社員食堂では、概ね街中の食堂などより安く食べられる。それは経営者が運営費を負担するケースが多く、さらには営利ではないから価格への転嫁もなく、その分だけ安く飯にありつけるという仕組みだ。今回の計画はこれの応用ということになる。


「しかし、払わせると申しても、禄の少ない旗本御家人ならともかく、大名や寄合席の者は小銭など持ち歩かぬであろう」

「私からすれば、金の使い方も知らぬで政がよう出来るものだと思いますが」

「細かい銭の使い方を学ばせるか」

「御意」


 幕府だけでなく、各藩でも倹約令はあちこちで触れが出されているが、果たしてその何たるかを詳しく知る大名当主がどれほどいるだろうか。


 大名や高禄旗本の嫡男なんてものは、普通生まれてからずっと屋敷の中で大事に育てられ、何を用立てるにしても自分で買うということはない。長じてから街に繰り出して夜遊び……なんて者もいるが、それだって用人が支払いをするかツケ払いなわけで、自ら勘定を考えて金を払うという経験はしていない。にもかかわらず、領地の財政やら何やらが本当に理解出来るのかというのは常々疑問に感じていた。


 学問で学ぶのと実際に経験することは全く別物と言っていい。未来だとお金の使い方など小学生のうちに学ぶものであるが、この時代にあっては主をそのような些事で煩わせるわけには……なんて感じで触れる機会は無いのだが、今後改革を進めていくには当主自らが金の価値とそれをどのように使うかを知ることは結構大事なことだと考える。


 ちなみに定信様は幼い頃に俺を供連れにして城下を歩き回っていたので、茶店での数文の支払いから経験しており、後に藩主となってから倹約令を施行するにあたり、大いにその経験が生かされているのもそう考えた理由の一つだ。


「お上の慈悲により飯を供しつつ、武士たちは銭の使い方を学ぶか」

「御意。さらには供する飯も複数用意し、新たな食材や調理法に触れてもらおうかと」


 俺の仕事はといえば、米の収穫が不安定な中で、これに代わる食糧を如何に確保するか。そしてそれを如何に調理して食べてもらうかである。そのためにこれまでも数々の手を打って広めることに注力してきたので、その一環だと思ってもらっていい。


「そこも狙いか。てっきり徹夜仕事で美味い飯が食えぬゆえ、作らせようとしたわけではなさそうだな」

「そこも否定はいたしませぬ」


 あまり遅い時間までは営業出来ないし、数も昼よりは用意出来ないけど、夜も城内には夜警番などがいるので、温かい食事が提供出来るのは福利厚生的に利は大きい。それに今回のように役方が夜まで仕事となったときも使えるし、あっても損は無い設備だと考える。


 ……決して勘定所の面々に過重労働デスマーチを強いるつもりはないぞ。俺だってやらなくていいならやりたくはないが、政治の世界ではどうしようもないときも存在する。そういうときのためでもあるのだ。あくまで福利厚生の一環ですよ。


 本心です(真顔)。


「もう一つ聞こう。働く者は何処より用立てる気じゃ」

「食材の調達などは小普請から登用。そして調理や給仕には、大奥より女中を移そうと考えております」

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― 新着の感想 ―
食事は大事、これを疎かにしてて病気になって亡くなる人は現代でもザラに居ます。 仕事が忙しすぎるからってカップ麺しか摂ってなくて30大半ばで亡くなった方前の職場に居ましたし。
 >「本心です」 (⌒_⌒) ♪
温かい飯が食えるってのは大きいと思う
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