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旗本改革男  作者: 公社
〈第八章〉改革、未だ半ばにて
191/204

食事問題とリストラ問題

――天明七(1787)年六月


「藤枝殿、飯にしようぞ」

「おお、これはかたじけない」

「湯漬けに沢庵と梅干しにござれば、忝いと言うほどのものではござらぬよ」


 伊奈の赦免をという滝川殿、及び大奥筆頭の高岳殿の申し出をはねのけて後、勘定所の面々は今まで以上に目の回るような忙しい日々を送っている。


 多忙の一番の理由は、代官頭の伊奈家が機能不全に陥ったせいだ。天領を管理する者がいなければ、年貢を徴収することもままならない。とはいえこれまでの経緯から伊奈に任せ続けるわけにいかず、代わりに勘定方がこれを担うことになったのだが、誰しもがそれぞれの所掌を持つわけで、増えた分の仕事は俺も面倒見ており、今日も夜遅くまで仕事をしていたところ、勘定奉行の久世殿が夜食の支度が出来たと声をかけてくれたのだ。


「奉行をはじめ、勘定方には苦労をかけ申す」

「なに、忙しいのは事実。武士は弱いところを見せてはならぬと申す者も多いが、痩せ我慢をして身を崩しては元も子もない。真に忙しいと分からせるためにはこれもまた一興というものです」


 勘定奉行や町奉行、老中などは概ね四つ時(10:00)頃に出勤し、退勤が八つ時(14:00)あたり。そして暮れ六つ(18:00)には城門が閉められるので、下役でも七つ時(16:00)には下城するのが普段の勤務時間だ。


 随分とホワイト企業に見えるかもしれないが、奉行たちはその後役宅へ戻り、残りの仕事に取り掛かっており、町奉行なんかだと日付も変わろうかという頃まで仕事をしているのもザラにあるという。武士という身分自体が職業みたいなものだから、仕方ないっちゃ仕方ないが、かなりの激務である。


 では何故、城に残って仕事を続けないのかといえば、これはもうルールとしか言いようがない。先に述べた通り夕刻には城門が閉じられ、内外の行き来は出来なくなるし、奉行が城に居続ければ嫌でも新規の案件やら相談事が持ち込まれる。役宅に戻って邪魔の入らないところで仕事に集中するのも一理あるところだ。


 そしてさらには、武士の体面というものがある。「武士は食わねど高楊枝」という言葉があるが、これは良い解釈をすると「貧しい環境であったとしても、表にはそれを出さずに気品高く生きていくべきである」という高潔さを示すものであるが、故に人目のあるところで夜遅くまで仕事をしている様を見せるのは無様であるという思考につながるのだろう。


 しかし、今回は事態が事態だ。早急に代官業務を勘定所で管理運営する仕組み(スキーム)を確立しないと、行政・徴税に支障が出るので、皆に頭を下げて交代交代で徹夜の仕事をしてもらっている。


 それを仕事が出来ない無能だからだと揶揄する者には、「となると、貴方への給米の支給が遅れるけど構わないかな?」と言えば、大変な仕事だと本心で分かっていつつも、揶揄したいだけの者が多いから黙るしかなくなる。もっとも上様や老中にも話を通してあるので、誰に憚られるものでもないのだけどね。


「しかし、さすがにいつもいつも湯漬けと漬物では……」

「かと言って弁当ではこの時間まで保ちませぬしな……」


 この時代、江戸城で勤める者たちが食事をどうやって調達するかというと、基本的に弁当持参である。そしてそれを昼に食べるのだが、暑い夏場だとその時点で少し痛み始めているということもままあり、それで腹を下す者も少なくない。そりゃあ何時間も常温に晒していれば……というのは未来人なら当然分かるのだが、生憎と冷蔵庫も電子レンジも無い時代ですから、そうするしか方法が無いのだ。


 当然、弁当に入れるのは腐りにくい食材が中心で、お世辞にも美味そうには見えないが、それでも湯漬けに少々の沢庵と梅干しよりははるかにマシ。しかし保管方法が無いからこの時間にそれは用意できない。大名や高禄の旗本なら家臣に届けさせる手もあるが、下級職の者ではそうもいかないし、なにより仕事の大半はその下級職が担っているのだから。




「皆の者、ご苦労である」


 今だけのことといえば我慢してもらう手もあるが、この先同じようなことが無いとは限らない。貧相な食事ではやる気が出ないのはもっともなので、何か策はないかと思案していたら、部屋の入口あたりで聞き覚えのある声がして、ふと見返せば、とうに帰宅したはずの定信様の姿があった。


「これは御老中。いかがなされた」

「日によっては屋敷に帰らぬこともあると、種が案じておるやに聞いたゆえ見に参った」

「わざわざのお越しにならずとも……」

「よいよい。皆には無理をさせているからな。陣中見舞いのようなものだ」


 そう言って定信様が持ち込んだ風呂敷包みを開くよう供の者に命ずると、そこには握り飯やおかずなどが入った漆塗りの重箱がいくつもあった。どうやら老中の勤めを終えて屋敷に戻った後、俺や勘定方たちのためにと用意してくれたらしい。


「この時間ともなると、城の中で食えるものなどたかが知れておろう。いつもそれでは体が保たんであろうと思ってな」

「されど、この時間では門は閉まっておりましょう。越中守様も屋敷に戻れませぬぞ」

「構わぬ。其方と差し向かいで話をすることも昔ほどは叶わぬゆえ、良い機会じゃ」


 定信様は俺の横にドカッと座りながら、お重の中身が皆に振舞われるのを満足そうに見ている。どうやら俺が言うまでもなく、今日は帰る気は無さそうだ。


「過分なお気遣い痛み入ります」

「この程度のことなら易いものよ。それよりも無理はしておらぬか」


 上役にそう聞かれれば、大丈夫と答えるのが普通だろうが、していないと言えば嘘になるな。


「どこぞの御老体のせいでそうならざるを得なくなっただけゆえ、越中守様のせいではございませぬ」

「相変わらず辛辣だな」

「表向きは犬猿の仲ですからな」

「心の奥底から憎々しいように聞こえるが」


 ちなみに職を取り上げられた伊奈忠尊は、家中不取締と職務怠慢によって改易となるのが決定事項となっているのだが、蟄居謹慎中で正式な沙汰が出るのはまだ先の話。これには理由があって、異議があるなら意見を取りまとめて奏上されたしとして、赦免を願い出た大奥の顔を立てて定信様が猶予を与えたから。もっともその実は、証拠固めのために継続してお調べを進めるための時間、そして勘定所が代官業務を引き継ぐための時間を稼ぐためのものなので、それもあって急ぐ必要があるのだ。


「しばらく田沼殿の尻ぬぐいが続くのは予見しておりましたし」

「そうだな。伊奈の件が片付けば、次は大奥ぞ」

「考えたくない……」


 これまで将軍の信任のみを拠り所とし、協力者を増やしたい田沼公と、これに恩を売ることで利権を伸ばそうと考えた大奥や幕臣の関係は、所謂ズブズブで不健全なもの。どこかで是正が必要であり、そのどこかが今であることは確かなのだが、当の田沼公本人がそれを切り出せば揉めるのは目に見えているので、代わりに定信様がこれを担った。このことは以前にも話をしたが、こと大奥に対しては厳しくなっている。


 特に財政改革の一環で、大奥の経費節減を主導していることから、定信様の大奥での評判は最悪と言ってよいのだが、文句を言おうにも田沼公への取り次ぎは叶わず、家基公に直訴しても越中守を通すようにと言われるばかり。だからこそ赦免の要請も定信様に話がきたわけだが、結果はあの通り。思うように事が運ばないから、御年寄たちはイライラしていることと思う。


 これを外から見れば、義務に対する権利が大きすぎるし、しかもその義務すら大して果たしていないのだから当然の結果と思うが、今まで正当に享受していたと思っていた権利が、次々と取り上げられ廃止されとなれば、中にいる人間からしたら面白くはないだろう。定信様がそれらを織り込み済みで任に就いたのは、やはり吉宗公の孫だからだろうか。


 吉宗公が大奥の人間をリストラしたことはよく知られており、有名なのは美人の女中ばかりを選んで「君たちは美人だから宿下がりしても嫁入り先はすぐに見つかる。俺に見初められる僅かな可能性に賭けるより有意義じゃね?(意訳)」と言って解雇を納得させた話だろう。個人的には残った者たちが「じゃあ私たちは美人じゃないってこと?」と僻んだのではなかろうかと邪推するが、上手い言い訳を考えたものだと思う。そんな話もあったので、祖父に次いで大奥に手を入れるのは孫の俺しかいないと意気込んでいるのだろう。


 兎にも角にも、俺が忙しいのは田沼公のこれまでのやり方で生じたひずみを矯正するためなので、尻ぬぐいと言って間違いはないのだ。


「そういうわけで金目の話は勘定方の出番ゆえ、またぞろ面倒ごとになるやもしれぬ」

「押し付ける気満々ですね」

「出ていく金を減らすには大奥にかかる費用を減らすことも肝要と、お主が言ったのではないか」

「言いましたけどね、それをどうやって為すかは思案のしどころです」


 実際には金食い虫だから人員整理する(クビ)ね。というのが真実であるが、それを前面に押し出すと貧乏を喧伝することになり、幕府の体面としてよろしくない。事実を明らかにして、ならばそれにどう即していくのかというのが俺の考え方だが、名誉や体面を重んじる武士が多くいる中で強行するのは、横やりがこれでもかと入ること請け合いなので、所謂落としどころをどこにするかというのは大事なのだ。


「お主がそんなことを気にするとは」

「己の考えを通すには、そういう配慮も必要なのです。私は偉い方相手にそれを考えるのが面倒なので、お役に就きたくなかったと言っても過言ではありません」

「口ではそう言いつつ、なんだかんだお役目を果たすのが藤枝治部の良いところよ」

「褒めても何も出ませんぞ」

「お主は知恵を出してくれれば結構」


 こりゃ一本取られましたな。


「まあとにかく食べろ。こんな夜分に城におっては食えぬものばかりぞ」

「たしかに下の者たちでは普段滅多に食べられぬものばかりにございますな」

「であろう」

「質素倹約はどこへ?」

「必要なところへ必要なだけの金と物を投じる。藤枝治部の教えに従ったまでよ」


 なんだか今日は一本取られっぱなしなのだが、事実こうして城内で夜まで仕事をしていると、食べるものに事欠くのは事実なんだよな。


 昼食を含めた城で働く武士たちの食事問題。特に下級武士はその日食うにも困る状況。


 そして続いては大奥のリストラ……


 いや待て、リストラとは日本では整理解雇のことを指すが、本当は組織再編とか再構築という意味なんだよ。


 ということは、その本来の意味を用いた一石二鳥の方策が……あるかもしれない。

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― 新着の感想 ―
社員食堂?
本来のリストラはハイコストな上層部の人員整理から始めてバランスをとるのが筋の筈だったのですが、何故か我が国では……。
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