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旗本改革男  作者: 公社
〈第八章〉改革、未だ半ばにて
189/203

白河様は清濁を併せ持つ

――清流


 元々は清らかな水の流れを意味するこの言葉が政治の世界で用いられるようになったのは、古代中国・後漢の頃に士大夫層が自らを清廉な官僚であるとして「清流」と称し、対立する宦官を「濁流」と称したことを起源とするらしい。以降、この国においても政治が腐敗して国内が停滞したとき、これを正すべく立ち上がった人物を「清流」になぞらえることは多々あった。


 今の世においての清流は、若き老中・松平越中守定信様だろう。奥州白河藩の養子という形で将軍後継者の座から追いやられるも、類まれなる才覚と指導力により、大飢饉にあって領民を一人たりとも飢え死にさせることなく切り抜けた名君として名を上げ、その功をもって見事に中央政界に返り咲いたとくれば、汚濁に塗れた田沼公に対抗する人物になると世間では見なしている。


『山吹に まみれし田や沼 きよめんと 江戸に流るる 清き白河』


 その証拠として、定信様が老中に就任した折、江戸の町でこんな狂歌が出回った。


 素直な解釈をすると、「何処の田畑に行っても湖沼に行っても、全部山吹色で染められてしまったこの国を綺麗にするため、清らかな白河の流れが江戸にやってきた」となるが、そんな意味不明の歌が流行るはずもなく、これは政治風刺の歌だ。


 山吹とはその色から小判の隠語であり、田沼とはすなわち意次・意知親子を指すことから、『金権政治で汚職塗れの政治を正すために、将軍様が清廉潔白で知られる定信様を白河から呼び寄せ、老中に任じたのだ』という意味。白い河ってのがより清廉なイメージにつながるのだろうな。このあたりの評価は史実とあまり変わらないようだ。


 実際に田沼公が政治を主導して以来、賄賂や不正といった話は枚挙に暇がなく、さらには相次ぐ飢饉や天災で米の値も高止まりということで、民衆の評価は低い。個人的には史実よりかなり被害を食い止めたと思っているが、世間一般ではこの世界で起こった飢饉や噴火、大水による被害が全てであり、少なからず死人も被害も出ているから、田沼公の政治が良くないからだと非難される。そこへきて清廉なる若き指導者が老中に任じられたとなれば、清き政によって田沼公の横暴を改めてくれるのであろうと世間が感じるのも無理はない。


 しかし、清い志を持った者が政権に就いても、暮らしが良くなるとは限らないんだな。先の歌が流行ったとき、俺はふと前世の歴史で学んだ狂歌を思い出したのだが、それがよい証拠だ。


『白河の 清きに魚も 棲みかねて もとの濁りの 田沼恋しき』


 その意味するところは、「白河様の政治は規制規制で堅苦しくて不都合ばかりだ。淀んで不正も多かったが、田沼様の時代のほうが町のみんなも生き生きしていたなあ」という、寛政の改革を学ぶときに必ず触れることになる有名な狂歌だ。


 寛政の改革というと、俺の前世では田沼の賄賂政治を否定し、それと真逆の政策を取っていった……みたいな感じで受け取られていたが、後世研究が進み、実は田沼時代の政策を継続していた面もかなり多かったということが判明したらしい。


 どちらも大目標は幕府権威の再生であるから、不変な部分があっても不思議ではないが、大きく違うことといえば、規制緩和で民間主導の政策を打ち出した田沼公と、官主導の政策できっちり決めごと通りに事を運ぼうとした定信様。という対比であろうか。


 民間の活力やアイデアを生かすため、法の規制を最小限にしてその活動を阻害しないようにしたことで、経済活動は活発化して金の巡りも良くなり、生活が豊かになることで新たな文化も醸成されていった田沼時代。弊害としては法の規制が及ばないがゆえに、不正を働く者が後を絶たず、貧富の差も拡大したところにあろう。


 一方で幕府主導の政策をもって全てを管理下に置くことで、民間をコントロールしようとした定信様。中には評価の高い政策もあるが、前時代的な考え方を基本としたお仕着せであるがゆえに、指示された側も規制の範囲内で動かざるを得ず、金回りも悪くなって経済活動は停滞。


 何をやるにしても質素倹約を旨とするお触れが出ている中にあっては、新しいアイデアも生まれてこないし、風俗の取り締まりも厳しくなれば活気の出ようもない。そのときになって初めて、不満も多かったけど田沼様の時代のほうが自由だったよなあと思い返す。俗にいう「昔はよかった」というやつだな。


 文化というものは経済の発展に比例して花開くもの。それは単に娯楽や風俗といった面だけでなく、経済活動に寄与する新たな発見、発明にもつながる。要は頑張れば頑張るほど収入が増えて生活が豊かになると信じられるからこそ、人々がそれをモチベーションとして、より良い手法を生み出していくのだ。


 もちろん不正が横行してはそのモチベーションが保たれないから、取り締まるところは厳しくしないといけないし、必要か不必要かを正しく判断するために、政治がしっかりとこれに関わっていくことは重要だが、何から何まで法で縛り、それ以外の手法は一切認めませんではやる気の出ようもなく、誰の得にもならない。と俺は考える。




 さて、話が逸れてしまったが、現在の政治情勢ではどうかというと、この世界にあっては、富国のために経済を活性化させるという考えは田沼公はもとより、定信様も、史実では表舞台に立つことのなかった田安家も共有している。だから史実のように、田沼公が政権中枢から引きずり降ろされるという事態にはならない。


 とはいえ、これまでの政策は幕府の資産を増やすことに重点が置かれたものであるため、支出を減らすために大名の手伝普請を増やしたり、運上・冥加を増やすために商人に色々な権利を与えたせいで、庶民の中で貧富の差が拡大するなど、ある特定の一部だけが利を得て、そうでない者の負担が増大している状況にある。


 既に各地で一揆が頻発しており、このままではさらにその規模は拡大し、都市部でも打ち壊しが始まるかもしれない。さらには困窮した武士階級の反乱なんてことも十分に考え得るので、これを防ぐために定信様が老中に就任したわけだ。その狙いは綱紀粛正と質素倹約の奨励だ。


 後世あまり知られていないが、実は田沼公の時代、つまり俺が生きている現在に至るまでの間にも、何度も倹約令は出されている。無駄な支出(マイナス)を減らすことと新たな財源を作って税収プラスを増やすことは、収支改善のために必要な両輪であるからやろうとしていることは分かるが、田沼公は増収策一辺倒で金・金・金のイメージであるためか、今一つ効果が出ていないのが現状である。


 庶民とか各藩の目線で見ると、田沼様は金儲けに走って、その腰巾着たちはいい思いをしているのに、なんで俺らだけ倹約しなきゃならんのよ。といったところだろう。人というものは自分が努力して決まり事を守っているのに、他人がそれを守っていないように見えると、大いに不満を持つものであるから、触れを出した本人が倹約してないじゃんと見られれば、守ろうとする人はいないよな。


 そこへ定信様が登場するやいなや、これまで田沼公の下で利を貪っていた(と見られている)者たちが次々と罰せられていく様を見れば、世間の者たちは白河様が田沼を掣肘してくれた! と喝采を上げる。綱紀粛正は定信様が主導したものではなく、政権側の全員で共有した認識であり、小堀家や伊奈家の件も田沼公を含めて全員が了承したうえでの処断なのだが、田安家・定信様と田沼公がツーカーなのは内密の話なので、表向きには定信様が老中に就任したことで政治が変わり始めたと見られているのである。


 そしてこの名声が、これまで効果の出なかった倹約令の遵守につながる。実際に不正を働いた者を粛正したという実績が、この人なら正しく導いてくれるという期待になり、その方が倹約をするようにと指示するならば、大変だけど守るしかないよなと考えてくれるわけだ。


 もちろん全員が全員そう思ってくれるわけではないだろうが、そうやって指示に従う者が増えてくれば、同調圧力ではないけど周囲も少しずつ感化されるはず。これは引き続き田沼公()()が政権を担う形であれば出来なかったこと。定信様という他称「清流」が幕閣に入ったからこそ出来たことだ。


 しかし、定信様が本当に清流かというと違うだろう。その本質は高潔な方であるが、その想いを実現するために綺麗事ばかりでは話が前に進まないことをよく理解しているし、そもそも自身の評価を認識し、政策を推し進めるためにこれを利用しようと考えていた時点で、十分に打算などが働いているから、世間様が期待する純粋な清流ではない。


 これは決して非難しているわけではなく、必要であれば旧弊を捨て、新たな知識や物の考え方を厭わずに取り入れる器量も持ち合わせている今の定信様なら、単なる清流とは一味も二味も違う方向で改革を進めてくれるのではと考える。

 

 だが、それも有言実行していければの話だ。未来でも「クリーンな政治」を謳ってでっかい花火を打ち上げたはいいものの、その後……な政治家が多くいたように、清廉を前面に押し出した以上は言行不一致では誰も従いはしない。だからこそ伊奈を赦免してしまえば、結局白河様も同じ穴の狢かと落胆されるだけになってしまうので、認めるわけにはいかないのよ。




「此度の処分は既に上様のご裁可も仰いでおります。これに異を唱えるは上様に異を唱えると同じ。それを承知で申されておるのでしょうや」

「さりながら、大水の折の不手際においては、勘定吟味役の罷免にて処分が済んでおるはず。再びそのことで罪を問うは、さきの咎めを覆すことにて、それこそ上様の御沙汰が間違いであったと世に示すことになりはしまいか」

「なるほど。高岳殿や滝川殿はそれを懸念されておられたか。であれば心配は無用。新たに咎めを与えねばならぬ話があったればこその御沙汰でござる」


 そう……伊奈の処分は以前の諸々のやらかしに加え、新たな問題が伊奈家中で発生しているためなので、実は大奥が何を言ってこようが、覆る可能性は元から無いのだ。それを分かっていて、定信様がどうしてここまで話を引っ張ったかといえば、もう一つ目的があるから。


 ここにおわす白河様は、単なる清流とはわけが違うのだよ。

『山吹に 塗れし田や沼……』の歌は作者の創作です(清きに魚も……は実在の歌。念のため補足)。調べたところ、史実でも定信が老中に就任した頃に似たような風刺の狂歌(定信の政治に期待する声)が歌われていたらしいですが、それを用いずに創作したのは単なる気まぐれで深い意味はないです。

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― 新着の感想 ―
『山吹に 塗れし田や沼……』の歌、お見事です。 あとがきで作者の創作と種明かしされるまで、「そんな歌があったとは知らなかった。でもあっても不思議ではないな」と、全く違和感を感じませんでした。
歌が上手で感心しました!
田沼と白河のマッチポンプですな
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