和蘭かぶれですが何か?
――天明六(1786)年晩秋・江戸城西の丸
「これが草津の湯か」
以前は家基公に目通りするために訪れていた西の丸だが、将軍となって本丸へと居を移したので、今は大御所となられた家治公の在所となっている。代替わりして以来、政務も全て引き継ぎを終えて悠々自適の生活。大御所として目を光らせるという建前はあるが、家基公や田沼公の政策に異議を唱えるわけでもなく、実際は隠居暮らしと言ってもいいだろう。
そんなところへ俺が呼ばれた理由。それはレクリエーションのための何かを求められているからだ。というわけで今日は、西の丸の湯殿に草津の湯を再現した。
「とは申せ、雰囲気を味わう程度ではございますが」
「構わぬ。直に湯を運ぶより気軽ではないか」
湯を江戸に運ぶ。それはとても重労働なのだが、草津には将軍献上用の湯を汲む場として木枠が沈められており、そこから湯を汲み上げ、江戸までエイホエイホと運んでいたのだ。これは初代家康公から始まり、八代吉宗公も江戸にあって草津の湯を堪能したというし、なんなら家治公の治世でも献上があった。
で、今回もまた同じことをしたのかと言われると、答えは否だ。今回は我が中之条藩の新事業を試してもらう次第だ。
「湯を乾かした粉とは考えたの」
「畏れ入りまする」
――時は少し遡る
「殿、こちらにございまする」
大水からの復旧が進むある秋の日のこと、藩の製薬事業担当兼隠密を務める薬種組の一人が江戸にやってきた。組頭・大原外記に代わり、普段は中之条にあって隊士をまとめていた彼が、ようやく完成しましたと持参してきたのは、やや黄色がかった白い粉である。
言っておくが、「ダメ。ゼッタイ。」でお馴染みのアレとは別物である。
「初めは半信半疑にございましたが、真に斯様な粉が取れるものなのですな」
「海の水が乾けば塩が取れるのと一緒よ。特に草津の湯は混じり物が非常に多いゆえ、かの地を拝領した頃より、取ることは出来ぬかと考えておった。よい仕事をしてくれた」
「もったいないお言葉」
勘の良い方ならお気づきだろう。天然由来の入浴剤、湯の花である。未来ではそこかしこの温泉で生産されているものだが、実はこの時代で湯の花を日常的に生産する温泉は存在しない。唯一の例外が豊後にある明礬温泉であろう。その名の通り、温泉の湯の花から明礬が取れるのだ。
明礬とは染め物で染料を繊維に定着させるために使うほか、様々な用途のある素材なのだが、基本的には清国からの輸入に頼っていたものを、品質が良いとのことで輸入を取りやめ、国内消費はこの豊後産がほとんどを占めるようになったという。
つまり豊後における湯の花生産は、実質的に明礬を取るための作業なので、湯の花を湯の花として商品にしようというのは俺たちが初めてと言えよう。明礬温泉のことは、俺が湯の花生産を企図して薬種組に情報を集めるよう指示した折に、それを知っていた組の者から聞かされた話だ。
もっとも、詳しい作り方までは知らないらしい。彼の地にとって明礬は大切な財源であり、その技法は秘匿するに足るものだからだ。生産する村の中には天領だけでなく、外様の久留島家が治める森藩領も含まれており、製造方法を詳しく調べようと動けば、揉め事になる可能性もある。
ではやり方も知らずにどうやって作るのかと言えば、俺には未来知識がある。明礬温泉における製造方法は知らないが、草津と言えば湯畑だ。たしか湯樋に湯を通すことで、高温の源泉を冷ますと共に、沈殿した湯の花を採取していたはずなので、この世界でもそれを採用しようというわけだ。
まあ……だからと言って、すぐに湯の花が取れるものではない。樋の傾斜の角度とか長さ、そして湯を流し続けても腐食しにくい木材等々の知識は俺も持ち合わせていないから、薬種組に命じて色々と実験を行いながらの製作を続けており、今回その試作品がようやく完成したわけだ。
「治部、この技法もあちこちに広めていくつもりか」
「まだ草津でも始めたばかりゆえ、しばらく先のこととなりましょうが、いずれ各地の湯でも取れるようになれば稼ぎになりましょう」
「真に其方は欲が無いのだな。草津だけで独り占めすることも出来ように」
家治公はそう仰せだが、欲が無いわけではない。まず俺の中には第一として、諸外国がこの国に接触を図ってきたとき、史実の幕末のような混沌を生み出したくないという想いがある。逼迫した財政と国家運営の中、さらなる課題が突きつけられれば、余裕のある対応が出来るはずもなく、そうしないための増収策だ。懐の余裕は心の余裕にもつながるし、国の安定は自身の利益にもなるわけだ。
そして湯の花という入浴剤の市場を広げるには、同業他社の存在も重要だ。草津だけで独占していては、マーケットは大きくならない。だからこそ技法を快く教え、他の温泉でも生産が始まればと思っている。これは先駆者としての名声とこれに付随して得られる様々な利益が全て俺に帰属するのを見越しての行為なので、決して善人ではないと思う。
「しかし、そんなお主を和蘭かぶれなどと申す者も少なくないようだな」
「大御所様のお耳にも入っておりますか」
「うむ。意次からそれとなくな」
和蘭かぶれ。蘭学に傾注したり、オランダの文化に憧れ、これを模倣したりするような人のことを後世では蘭癖と呼んでいたりしたが、この時代ではまだその言葉はあまり使われておらず、和蘭、もしくは西洋かぶれなどと言われている。主には解体新書翻訳に携わった面々や、蘭学塾で学ぶ者たちを指す言葉だが、大名の中にもそう呼ばれる者がおり、その筆頭はもちろん薩摩藩主の島津重豪殿と俺である。
言葉の雰囲気から好意的ではないのは分かるし、当然ながら俺をそう呼ぶ者の中には面白くないという感情があるのだろう。新しいもの、それも素性の知れぬ他国の文化に傾注し、我が国古来の文化を蔑ろにする輩。そういった意味での蔑称だな。
「私はたしかにオランダの学問を多く取り入れておりますが、全てはこの国が豊かになることを企図してのこと。有用なものがあれば取り入れ、古来より伝わる技法や知識のほうが優れておれば、別に取って変える必要もないと思っております」
何かを変えることは大変なことだ。誰しも己の学んだことが役に立たなくなるかもという不安はあるし、故に新たなものを忌避する気持ちは分からんでもないが、試してみなければ良し悪しは分からぬ。試してみた結果、これまでのやり方のほうが優れていると分かることもある。
だからこそ俺は色々試しているのだ。今のところは上手くいきそうなものを選んでいるので大過はないが、この先に大失敗が待ち構えている可能性もある。そうなったときにこそ、田沼公が言っていた批判を受け流す技術を用いるべきであり、今はその時ではない。
「言わせておけば良いと申すか」
「大御所様の耳に入られておるならば、当然上様もご存知かと。それはつまり、私の学問をこの先も政に活かせという御老中のお考えがあっての進言であったかと」
俺の話を上様や大御所様の耳に入れたのは、和蘭かぶれであろうと役に立つなら重用されるのだということを示し、一挙に雑音を封じようという田沼公の配慮なのだと思う。批判に対して一つ一つ向き合うというのは非効率な話だから、そこを上手く切り抜ける術を身に着けよと教えてくれた御仁らしいやり方である。
「西洋の知識で植えた食物や生み出した料理も飢饉の折に役に立ちました。人によっては好みが分かれますが、有益なものも多く生み出せたと自負しておりまする」
「そうであったな。余も三度一は世話になっておる」
三度一とはサンドイッチの和名、俺の造語だ。主食のパン、主菜の肉や魚、副菜となる野菜などを一度に食べられるという意味で、パン作りを広めるのに使わせてもらった。
家治公は大の将棋好きで、暇があれば誰かと指すし、一人なら詰将棋に没頭する。それこそ熱中したときは食事も忘れてなんてこともあり、見かねた小姓がこれなら食べながら指せますと三度一を供し、これはよいと気に入られたのだ。
「新たな菓子も考えておるのであろう」
「都を離れ、江戸で暮らすことになる宮様の心をお慰めできればと」
そう。本当は今年の夏に家基公の御台所として、都から孝宮様が輿入れされる手はずであったが、大水が発生して江戸が水浸しになったことで、またしても先延べとなってしまった。
とはいえこの婚約は六年前に決まった話であり、飢饉やら何やらで延期延期となっていた話なので、再び年単位の先延べとはせず、こちらが落ち着いたらということで、年明けには江戸に入られることになる。
当然その費用は馬鹿にならないが、今回は世情が世情なのでなるべく出費を抑えるということで朝幕で合意は取れている。しかし当の本人にとっては自身が蔑ろにされていると感じなくもないだろうから、典礼を簡素化する分、結婚して以降の生活でカバーしましょうとなった。言い換えれば俺の西洋知識を活用して、都では経験出来ない日用品やら食事でもてなそうということだ。湯の花の生産や新たな菓子作りもその一環である。
「これは和蘭かぶれの私だからこその仕事と思っております」
「なるほど。お主はかぶれで結構ということであるな」
「御意にございます」
文句を言う奴はいつの時代もいる。ならば新たな知識や技法を使わず生きるのかと言われれば、頑なにそれを守れる者はそう多くない。
時代は少しずつ変わるものなのだよ。




