義父と義母と娘の……
定信様からの申し出を受け、翌日綾と話をするために俺は下屋敷へと向かい、種も話に加わってもらって本人の意思確認をすることとなった。
綾は俺の弟子でもあるが、今の正式な役目は種の側仕えなので、俺が勝手に彼女をどうこうするというわけにはいかない。しかも殿様が正室付きの女中と二人きりとなると、それはもう密会的な受け取られ方もされかねない。
我が屋敷で勤める者は、男女を問わず互いの仕事に敬意を表すべしと定めているが、それでも女性が下に見られがちなのは完全に払拭できないし、そんな中で殿様が女中と密会となると、目的は手を出すことしかないからな。そこに本人の意思は関係ない。周囲がそう見てしまうものなんだ。
「申し出は真に有り難く、誉れにございますが、私に務まりますやら」
「越中守様ほどの御方が、務まらぬと思う者に声はかけまい」
「買い被りも程がありますわ」
「いやだわ。遜り方が師匠そっくりだこと」
種がオホホホホ……なんて言っているが、その師匠っていうのは俺のことだな。あんまりな言い方だと反論したいところだが、思い当たるフシがありすぎるので、言葉には出さないでおこう。
「ですが綾。お兄様は松平の姓を持つ白河十一万石の主。その方が町人の娘を迎えたいと仰せになるは、並大抵の話ではございません」
「御方様の仰せの通りかと。たしかに過去には私と同じような立場から側室に上がった方も多いと聞きますが、それは言ってみれば妾のようなもの。有難きお話なれど、私はそのように見目麗しいとも思えません」
以前にも話したかと思うが、綾は種の側仕えのかたわら、屋敷内の農園管理なども行っており、自ら畑仕事に汗を流すこともあるから、その肌は程よく日に焼けた感じとなっている。
見た目は悪くない。というか、俺基準だと十分に美少女の部類に入るのだが、この時代の美人の絶対条件が色白さんであるということもあって、本人的には愛妾として迎えられるほどの器量ではないと感じているようだ。
「普通の側室ならばそうかもしれん。だが越中守様にはお前を迎えたい理由があるのだろう」
「理由……にございますか?」
「うむ。一番は峰子様との関係であろう」
綾はしばしば峰子様に呼ばれ、彼女の健康相談とか体力づくりのサポートのために白河藩邸に向かうことが多かった。最初に峰子様の体力トレーニングを提案したのは俺であり、それを受け入れたのは定信様だが、以降は峰子様の希望で綾をご指名となって今に至る。
幼い頃から身体が弱く、自由に外へ出ることもままならぬ身分の峰子様にとって、綾は数少ない気の置けない関係の人間なのだろう。元は夫の勧めとはいえ、気の合わぬ者を自らの意思で呼び寄せはしまい。近頃は健康相談のほかに、茶を飲みながらたわいもない話をするということも多いらしい。
「嫡男をご出産されたとはいえ、子は何人おっても良いもの。されど自らが次を生むのが難しいとなれば、十一万石の御正室という立場上、側室を拒むことは難しい」
「私も同じ立場であれば、殿にそういう話をせねばならぬと覚悟はしておりました」
「御方様も……」
「うむ。武家の娘とはそういうものだ。しかしな、家を守るためとはいえ、自分の夫が違う女と子を生すというのは、心中いかばかりかというところでもある」
「だからこそ、峰子様は気心が知れている綾をお望みになられたのではないかしら」
仮に定信様と綾の間に子供が生まれたとしても、普通に考えれば久松の血を受け継ぐ嫡男が後を継ぐのは当然のこと。考えたくはないが、夭折するとかあまりにも病弱で藩主の任を全うできないなんて話でもない限り、母親の出自が違いすぎて、後継争いという話にはなりにくいだろう。
とはいえ、そういったお家騒動はこれまでもいくつもあったし、史実だとこの先も薩摩藩でお由羅騒動なんてのが発生した。つまりは珍しい話ではないのだが、綾であればその心配はないということ。
それは綾本人がそんなことを望むような人物ではないと峰子様が見立てているからだろうし、さらには俺がそういった野心とは無縁であると定信様も思っているのだろう。だからこそ当家に養女の話を振ってきたのだと思っている。
「越中守様が申すには、峰子様は己がそう長くは生きられないのではと思われているようだ。もし自分に何かあったとき、越中守様の側に綾が控えていてくれれば、何を思い残すこともなく旅立てると」
「縁起でもない……」
「俺もそう思うし、越中守様も馬鹿なことを申すなと仰せになられたようだが、とかく臥せりがちなときは気も弱くなる。だが、だからこそ何があっても大丈夫なようにと思案されておられるのだと思う」
「そう言われますと、私が峰子様の側にいて、気鬱にならぬようせねばなりませんね。ですが、それならば側室でなくても、白河藩邸の女中でもよいような……?」
「たしかに峰子様だけが綾を所望しているならばそれが自然ですわね。でも、そこを側室に……ということの意味。貴女なら分かるわよね」
「越中守様がお望みだと……?」
「そういうことだ。まあ大事な話ゆえ、すぐには決められまい。時間をかけてじっくり考えるがいい」
<数日後>
「お時間を頂戴しまして申し訳ございません」
その日、俺は種に呼ばれて再び下屋敷を訪れていた。
その要件はただ一つ。先日の話を綾が了承したからにほかならないが、それに先立って俺と種に話しておきたいことがあるからという。なので産後間もない種を上屋敷に連れてくるわけにもいかないので、俺がやってきたわけだ。
「越中守様のお申し出、謹んでお受けいたします」
「相分かった。白河藩邸には追って遣いを出そう」
「それに先立ちまして、殿と御方様にはお話しておきたいことが」
「なんでしょう」
「殿、私と初めて会った時のことは覚えておいででしょうか」
あのときは母上が火事で大けがを負い、母一人子一人で暮らしていた綾の生活は大変苦しいものだったらしい。
そんなとき、母が勤めていた和菓子屋の主が、おっ母に食べさせてやりなと、当時はまだ珍しかった干し芋を綾に託したのだが、その帰り道で質の悪い武家の子に狙われ、荷物を奪われてしまったのだ。そこへ助太刀に現れたのが、お忍びで城下を散策していた定信様とお付きの俺だった。
最終的にその子供たちを追い払ったのは、真っ黒オーラの平蔵さんだけど。
「あのとき助けてもらっただけにとどまらず、母娘共々徳山のお屋敷で奉公させてもらえることになり……」
「あのときの話ですわね」
種が言うあのときがどの時点かは分からない。少なくとも俺は盛大な勘違いをされて命の危険を感じた、平蔵さん顔負けの真っ黒オーラの病み姫様の印象しか残っていない。言えないけど……
「私はあのおかげで救われたのです」
俺は定信様に半分脅されて受け入れただけの話であるが、綾にしてみれば素性も分からぬ町人の母娘を、いきなり女中として雇ってもらえたというのは恩を感じるところだろう。
もっとも、これは俺も想定していなかったが、綾本人が非常に学習能力が高かったことは後に寺子屋で子供たちに読み書きを教えるのに役立ったし、彼女経由で母が勤めていた和菓子屋の長兵衛さんと知り合い、そのおかげで行き詰っていたパン作りで酒種パンという手法が生まれたわけだから、俺も雇い入れた恩恵は十分に受けているので、キザな言い方だが礼を言われるほどのものでもない。
「いえ、実はこれは今までお話ししていなかったことなのですが、あのとき、私は遊郭に売られていたかもしれないのです」
「遊郭……吉原のか」
この時代、働いている女性もいるが、やはり男性の稼ぎに頼るところは多いので、母一人子一人で暮らすのは大変なことだ。しかもあのときはその母が働くことが出来ず、収入が絶たれた状態。未来のように失業保険とか生活保護なんてセーフティネットが発達していないので、貯えを切り崩すという生活だったようだ。
しかし、そもそも貯金などそれほど出来るような環境でもなく、すぐに蓄えは底をつき、借金に手を出すかどうかというところまで来ていたという。
「つまり、借金のカタにってことか」
「ええ。私が吉原に奉公へ出れば、母がしばらく暮らすくらいのお金は」
「殿、吉原に奉公ということは……」
「種が思っている通りだ。子供のころは遊女の世話をする"禿"として働くが、いずれ大きくなれば遊女として客を取ることになる」
「綾を遊女になどと……許せませんわ」
「御方様。町人の子、農村の子で貧しい者は、そうやって生きていくしかない者も多いのです。決してみな喜んでその道に進んでいるわけではないのです」
どうやらその話は、母の勤めていた和菓子屋に出入りしている客経由で持ち込まれた話なのだが、それを聞いた長兵衛さんがとんでもない話だと怒ったらしく、それで綾たちの生活の面倒を見ていたという事情があったらしい。
とはいえ店主として、身内でもない一使用人にばかり肩入れするわけにもいかず、だんだんと生活が苦しくなってきたところで、たまたま俺が引き取ったということらしい。
「その話はあの頃はまだ子供だった綾が直接聞いたわけではあるまい」
「はい。母と共に徳山から藤枝のお屋敷に移り、御方様の側仕えを務める頃になって母から聞かされました」
子供にわざわざ過去の苦労話を聞かせるのは、母親としてどうなんだという意見もあるかと思うが、これには母の考えがあったようで、自分のせいとはいえ、もしかしたら遊女として一生を終えたかもしれない人生が、俺や定信様と知り合えたことで大きく変わった。それは単なる偶然でしかないのだが、だからこそこの出会いに感謝し、身命を賭して藤枝の家に尽くすようにとの想いで、知る必要もなかった話を娘に聞かせたようだ。
「殿、私が白河に嫁ぐこととなれば、越中守様とのつながりはより強固となりますか」
「それは間違いない」
「殿にとって、それは有益なものでしょうか」
「当然だ。越中守様は今や御老中。そのつながりを欲さぬ者はおらぬ」
「これまでは殿や御方様の側にあって、懸命にお仕えするのが恩返しになるとばかり考えておりましたが、私が嫁ぐことで藤枝のお役に立つならば、喜んで側室に上がりましょう」
「無理はしておらぬか」
「正直に申すと、誰かと夫婦になるということを考えておりませんでしたので、いささか不安ではございますが」
「そこはお兄様が上手くやってくださいますし、峰子様もおられます。案ずることはありません」
「はい。お二人の娘として、大役を果たしてまいります」
こうして、俺と種に二人目の娘(娘というより妹くらいの年齢なのは気にしない)が生まれ、白河藩の側室として輿入れすることとなるのであった……
いつもお読みいただきありがとうございます。
先日ご報告したとおり、先行して掲載するカクヨム様に話が追いつきました。
つきましては次話以降は週1土曜日の投稿となりますのでご了承ください。
引き続きよろしくお願いします。