治部、早くも二人目?
「虎の尾ならぬ龍の尾を踏んだか」
「笑い事ではございませぬぞ越中守様」
愛娘との対面からしばらく、若き新老中となられた松平定信様が、竜子の顔を見に行った後、祝いの品を持って中之条の上屋敷に顔を出された。
若いのに老中とはこれいかに? って話だが、現在の老中は定信様を除けば一番年下でも五十を過ぎている。来年でようやく三十となる定信様が老中に就くというのは異例なのだが、若い才能をどんどん登用するという将軍家基様の決意の現れとして、俺や田沼意知殿と並んで旗頭にされたわけだ。
「女子を産んで気落ちしていたようだが」
「幸いに種は産後の肥立ちも良いようなので、いずれまた子を生すことも出来ましょうから、気にすることではございませぬ」
「左様か……」
「越中殿、いかがなされましたか」
「峰子は次は難しそうだ」
定信様の正室である峰子様は生まれながらに身体が弱く、以前は子を生すのも難しいのではと思われていたが、俺が提唱した栄養摂取と身体づくりのトレーニングなどで体力を付けたこともあってか、めでたく御子を妊娠された。
とはいえ元が病弱だったものを、本来ならこの時代では考えられなかった未来の健康管理法を用いて底上げしただけなので、やはり生来健康な人と比べると、その身体は弱いと言わざるを得ない。なので妊娠中は当家や三旗堂からも人を遣わし、子が流れないように気を配ったものである。
大名の大事な後継ぎが生まれるかもしれないということもあるが、そこまでの配慮をしたのは他にも理由があって、松平を名乗っているとはいえ、久松は家康公の異父弟の家系なので、徳川から養子に来た定信様は血のつながりはあるものの限りなく他人に近いから、家の血を残すならば、先代の唯一の子である峰子様が子を生すほかないからである。
だがこの出産は彼女の体力を考えると、非常にリスクが高いものであった。しかしながら武家の女性は子を生すことが自身の大きな存在意義であると考えているから、そういう場合にあっても、己が命を落とそうとも子供だけは産むとの強い意志がある。峰子様もその例に漏れずであったので、我々も出来る限りのサポートをしたわけだ。
その甲斐あってと言うと偉そうだが、難産ではあったものの目出度く元気な男子を出生され、峰子様も産んだ後の出血やら体力低下などによる体調不良で、一時は死の境を迷うほどであったが、なんとか持ち直している。まだ予断は許さないところではあるけどな。
そしてここからが困りごと。今は待望の後継ぎ誕生で祝賀ムードだが、時が経てば二人目三人目の期待が寄せられることになる。そのときに峰子様が耐えきれるかと言えば、診察した医師の見立てによると、母子共に無事に……とは言い切れない状態らしい。俺も状況を聞くに、おそらくそれは間違いないと思う。
先程も言ったように、女性は子を産むことが仕事であり、子が無事に生まれたならば己の身がどうなろうと覚悟はしている。というのが常識の世界。これは未来なら女性軽視と言われるかもしれないが、子供のうちに死亡する率が高いこの時代にあっては、子は一人より二人、二人より三人と多くいたほうが良いという事情があるから、一概に否定出来るものではない。医療技術や社会基盤が脆弱な世の中で血を残すというのはそういうことだ。
当然定信様もそのことは分かっている。養子に入っておいて後継ぎも作れないとなると外聞が悪いからね。そして子を生せば生したで、次の期待を寄せられる。されど峰子様にその重圧を再び押し付けることには躊躇いがあるのだろう。
「峰子様はなんと仰せで」
「気持ちは有り難いが、それが私の役目だとな」
「さすがは名門久松の姫ですな」
もし同じ状況だったとして、種も同じことを言うと思う。それだけ彼女たちにとって、出産とは重要なことであり、アイデンティティなのだ。
「しかし……越中守様は無理はさせたくない。領民にだけでなく、奥方にも見事な労りですな」
「からかうでない。儂は太郎丸を産んでくれたことでその役目は果たしたと考えておる」
「とはいえ先のことは分かりませぬぞ」
「日の本一の蘭医藤枝治部が義弟におるから案じてはおらぬ」
「それは過分なお褒めにございますな」
定信様の案じておらぬという言葉は、俺が今までに提唱してきた諸々で、子供の生存率が以前より高くなっていることを指している。武士階級、それも大名クラスであれば、十分な栄養を与えるとか、衛生面の配慮なども可能だし、鉛白粉禁止も大きい。
つまりは嫡男の太郎丸殿が無事に成長する未来が見えているのだろう。万が一のときは俺に診させるのも含めてな。
「峰子にそれを説いたのだが、万が一が無いとも限らぬから、せめて側室を迎えなされと」
「側室にございますか。武家の定めとはいえ、峰子様も決断が早い」
「ちと理由があってな。この先自分が子を生さねば、必ず側室をと声が上がるは必定ゆえ、先手を打ちたいとな」
峰子様としては、何処の誰が輿入れしてくるかも分からぬのなら、自身が良いだろうと考える知り合いの娘を側室として迎えてしまえということらしい。
しかし引っかかるのは、あまり外へ出ることも叶わなかった姫君だったので、他家の姫との交流がはたしてあったのかという点。俺は普段の生活を全て知っているわけではないが、側室に迎えても良いと思える人の目星が付いているんだというのが正直な感想だね。
「そこで治部に相談なのだ」
「私にですか?」
「うむ。綾を我が妻に迎えたい」
「綾とは、種の側仕えの……」
「うむ」
「私が蘭学を教えている……」
「うむ」
「越中守様が以前から気にかけて……」
「余計なことは言うな」
たしかに峰子様が知り合いというのは間違いではない。普段から体力トレーニングの指導とかその後の健康観察を兼ねた茶飲み友達であったからな。ただ、一つの懸念は……
「綾は町人の子ですぞ」
武士の子供にからかわれていたのを助けたのが彼女と俺たちの出会い。町人の子であるのは定信様が一番良く知っているはずで、峰子様との交流も本来は叶う身分ではない。あくまで俺経由の紹介で格別の配慮があったればこそだ。
「昔は吉原の太夫を側室にした大名もおったようだし、問題なかろう」
「それは前例としていかがなものかと」
それは当時播磨姫路を治めていた榊原家の当主政岑殿のことだろう。派手に遊び回っていたことで知られ、吉原の名妓であった高尾太夫を千八百両で身請けして、自身の側室にしたのだ。
しかし、当時は八代吉宗公の倹約令が施行されていた時期であり、その派手な金遣いは幕府の命に反するものとして、政岑殿は強制隠居のうえ、後継は越後高田に転封となった。石高は変わらないものの、収入は半減近くとなったらしいので、実質懲罰転封である。
「それは冗談として、側室なればどこかの武家に養女としてから迎える手もあろう」
「となると、綾をどこかの家の養女に」
「うむ。それをお主の家で頼みたい」
なんか「これから酒でも飲もうぜ!」みたいなノリで言われたが、藤枝家の養女ってことは、養父は藩主なんだから俺ということだ。
待て。俺はつい先日パパになったばかりなんだが、もう二人目の娘が出来ちゃうのか?
「他の家に頼むことは考えておられぬので」
「あまり不必要につながりを作りたくない。伊奈の件もあったからな」
「たしかに……」
伊奈の件とは、関東代官頭の伊奈忠尊のことで、今回はと言うと、先日の大水の原因の一つに治水工事の遅れがあり、その原因が現地の代官たちへ指示を出す伊奈の判断ミスと言わざるを得ないからだ。
幕府からは予算――これは治水工事だけに限らない領地管理全般の資金を与えられており、川岸の改修はその用途の一つとして指示されていたが、飢饉の最中にあって彼が優先したのは新田開発と旗本御家人への融資であった。
浅間山噴火の際も、彼の油断から触れが伝わるのが遅くなり、被害の規模が増大するかもという失態を犯したが、今回も同じ理屈で被害が拡大したのだ。
いくら家康公以来の名家とはいえ、これは責任問題にせざるを得ず、罷免とか改易まで取り沙汰されたのだが、これに待ったをかけたのが大奥である。
というのも、将軍家基公の生母お知保の方様は伊奈家の養女として大奥に上がっているため、取り潰しとなるといささか外聞が悪いのは事実。なので格別の配慮をと請われれば、一考せねばなるまいというわけだ。
そんなわけで、伊奈への処罰は兼務する勘定吟味役の罷免が主だったもので、やらかしたことに比べると非常に軽微な罰と言えよう。
なんかアレよね。以前俺と拝借金の拠出先で口論となったときに、俺が彼の意見をバッサリ切り捨てたら、怒りなのか屈辱なのかいきなり昏倒したし、権力者に取り入って身分を保証されたりとか、まるで君は天明のフォー◯准将だねと言ってあげたい。俺以外に理解できる者はいないので言わないけど。
定信様はその処罰を決める当事者の一人だったので、面倒事の火種はなるべく作りたくないと考えておられるようだな。
「しかし、私に貸しを作るのはよろしいので?」
「いずれ新たなことを始めるときに其方は必ず無理な願いをするであろう。儂に貸しがあったほうが気兼ねないのではないか」
「人を貸し借りだけで判断する鬼畜みたいに言わんでください……」
「それと、種には先程下屋敷で話はしてある」
「なんと申しておりましたか」
「お兄様なら安心して託せますとな」
既に外堀は埋めてあるということか。
となると、後は綾本人の気持ち次第なのだが、これはちゃんと話をしないといけないな。
なにしろ、お義父様になるかもしれないわけだし……