雷のち快晴
氾濫の原因が俺たちの失態にあると詰ってきた諸侯をどうやって鎮めようかと思っていたら、思わぬところで田沼公に助けられることとなったのだが、公は何やらご不満の様子である。
「父上、どうしてこちらに」
「伊豆守より言伝があった」
「松本殿が?」
「何か一言言わぬと気の済まぬ者たちがお主らのところに来るは必定なれど、生憎と奉行たちはそれぞれの持ち場で手を離せぬ故、陣中見舞いの体で顔を出してくれとな」
そもそもどうして都合良く老中首座がここに姿を現したかといえば、以前から田沼公と昵懇の中である勘定奉行の松本殿がこうなることを見越して手を打っておいてくれたからのようで、来てみれば案の定であったようだ。手間をおかけしたことを詫びると、田沼公は間髪入れずに「まったくだ」と呼応した。
「相応のお役に就いておるのだから、本来なら其方らでどうにかするのが筋というものぞ」
「面目ない」
「とは申せ、この忙しいときにああだこうだと言われれば、頭にくる気持ちは分からんでもない。だが、それが政というものよ」
「そして、それを処せない私はまだ未熟者だと」
「未熟とまでは申さぬ。何かの触れを出すなり、新しきことを始めることに関して申さば、お主の才は他の者より秀でておる。だからこそ要職を任せたのだから、そこは勘違いしてもらっては困る」
しかし決定的に足りないのは、その過程において起こりうる不測の事態、厳密に言えば利害関係にある者が自己の意見を押し通そうとすることに対し、如何にそれを上手くまとめて己の考えに近づけるかであると言う。
「白黒はっきりさせねばと考えがちなのは、其方が学者肌であるからであろう。だからこそ相手にも理詰めで話すことを求めるが、現実はそう易いものではないのだ」
田沼公がそう評したのは、解体新書発刊のときに直接文句を言いに来た漢方医たちに対し、俺は正論をもってそれに正面から向かい合ったことが原因のようだ。
「学問の話題なれば侃侃諤諤の議論でも結構。それが新たな発見に至ることもあるだろうからの。されど政というものは、異なる考えを持つ者を如何に取り込んで反対させぬか、そして要らぬ横やりを入れる者に邪魔をされず上手くあしらえるかじゃ。お主なら正面からぶつかっても突破出来そうだが、一本槍では時間はかかるし、話が拗れれば面倒が増える。それで本来のお役目が疎かになっては、本末転倒というものよ」
「仰せのとおりにて」
「今まで何度となく声をかけたのに、お主はその度にお役に就きたくないと申しておったが、ああいう手合いが苦手ゆえ渋っておったのではないか」
そう言うと、田沼公が意地悪な笑みを浮かべるが、そんなものが好きと言う奴はいないだろう。
俺も前世で仕事をしていたとき、そういった事態に遭遇することはあった。しかし今生と大きく違うのは、その立場の大きさだろうな。
サラリーマン時代は、所属する部署の話とか、自身の持つ案件に関することとか、何かあったとしても非常に範囲の狭いものだったので、予測は十分に可能だったし、対応も出来た。そもそも江戸時代と比べたらそこまで理不尽なことを言う奴は少なかったし、仮に余程の話であれば、上の役職に判断を仰ぐという形になる。
だが、今はその判断を仰がれる立場になった。それも係長とか課長のように、自身の受け持ち範囲だけ見れば良いというわけではなく、部長や取締役など、所掌が非常に広範な役職としてだ。
そしてこれが非常に厄介なのだが、未来ならば部長や取締役にものを言える存在は多くないが、この時代にあっては小大名や旗本がその任に就いていることが多いため、文句を言ってくる人間が比較にならない程多くいる。立場も高くなれば組織も大きいということは、それだけ面倒が増えるということでもある。
そういうときに反対勢力を説得するなり、のらりくらりとかわす技量が、今の俺に求められているということだが、田沼公は俺がそれを非常に面倒で無駄なことでしかないと思っているように感じたらしい。だからこそ、役職に就きたがらないのだろうと言う。
……あながち間違いではない。
「図星じゃな」
「私の成そうとすることは、これまでにない新しきことが多うございます。その都度応じておっては、身体がいくつあっても足りませぬ」
今の俺の立場は、未来でいう部長や取締役のようなものだと言ったが、こと改革を進めるための政策立案において、俺はスペシャリストでありたいと思っている。それが管理職、所謂ゼネラリストの立場も兼ねているのが現状であろう。
これまでの草の根運動で俺の考え方を理解してくれた人も多いし、勘定所でもそれは日に日に増えているが、まだ絶対数が足りないし、未来知識を根本から知る者が俺以外に存在しない以上、判断と指示出しに関しては自身が中心となって動かなくてはいけないことも多い。それだけでも結構な労力である。そこへ理不尽な言いがかりをされれば面白いわけがない。
「まあ気持ちは分からんでもないが、役に就いた以上はそういうものだと割り切ってもらうしかないな」
田沼公も足軽から老中まで昇進を果たした人物だから、周囲の己を見る目が厳しいことをよく分かっている。
とかく身分が絶対の世にあって、公は異質な存在であり、成り上がり、軽輩者、上様の威光を借る狐などと揶揄され、それ以前に上の立場だった者には目障りな者でしかなかった。これまで長い間、そういった悪意ある声をときに受け流し、ときに懐柔したりという苦労を経験した人の言葉は重い。
「お主も正論を吐くだけではやっていけぬと、とうに承知なのであろう。その考え方に理解を示す者を増やそうとしているあたりがよい証じゃ」
「しかし、なかなか難しゅうございます」
「治部、儂がここまで成り上がれたはどうしてだと思う?」
「上様のご信任を得られたからかと」
「それもある。だがそれ以上に、力を貸してくれる味方を増やすことじゃ」
再度の話になるが、田沼公は紀州藩の足軽の子であった。他の老中のように、生まれながらに大名としての未来が約束され、多くの家臣を抱えた者とは違い、身分が高くなるにつれ、子飼いの家臣が足りなくなり、そのためにどうしたかといえば、己の意を汲んでくれる新たな家臣を増やしていったり、協力してくれる幕臣たちを集めていった。
そのためには、己の望みばかりを押し通すわけにもいかず、調整と譲歩の日々であったという。
「だが、それもこれも一番の目的を果たすためよ。そのために違うところで譲れるところは譲る。そうすることで相手に貸しが出来るわけよ。その理屈は分かるな」
「左様でございますな」
「治部はそこが足らんのだ。言い方は悪いが、お主も上様や田安殿の信任を頼りに、五百石の部屋住から四千石、そして二万九千石の大名となった成り上がり者。取るに足らぬと切って捨てるは易いが、立ち回り一つで要らぬ恨みを買わずに済めば安いものであろう」
田沼公の言いたいことは良く分かる。未来に至るまで、協議と調整が日本人のアイデンティティだといえばそうなのだが、面倒なことこの上ない話だなと思う。
「まあ今すぐにとは言わぬが、おいおい身に着けてもらわねばならん。老臣はそのために居るようなものだからな」
「そのために?」
「そうじゃ。後進を育てるのも年寄りの役目よ」
俺が後進のスペシャリストを育てようとしているのと同じく、田沼公は次世代の管理職となる者を育てようとしているのだと言う。
権勢を握り続けたいから居座っているわけではないのだぞと言っているようにも聞こえるが……
「さて、立ち話はここまでじゃ。治部は引き続き勘定方の差配、山城は必要に応じ配下の者たちに命あらばすぐ動けるよう指示を続けよ」
「ははっ」
こうして、十七日は夜遅くまで城内をバタバタと動き回ることとなり、気づけば日付も変わろうとしていた。
そして夜半になると、それまで止めどなく降り続いた雨が止み、朝には空に何日ぶりかの太陽が姿を現していた。
「何とか水も引きそうですな」
「このまま晴天が続いてくれればですが」
「治部殿、治部殿はおられるか!」
夕べは一睡もせず動き回った結果、目の下がクマで酷いことになった俺と意知殿。朝になり、ようやく落ち着けるかと茶をすすりながら晴れ間を見上げていたら、廊下の向こうから俺の名を呼ぶ声が近づいてきた。
「何ぞ面倒事が起こったか……」
「とはいえ呼ばれたからには応じなくてはなりませぬな。こちらだ、藤枝治部はここにおるぞ」
「おお、こちらにおられたか。藩邸より遣いが参っておられる」
呼びにきた者に案内され、勘定所の入口まで行くと、そこには家臣の元・又三郎こと大原外記が待ち構えていた。
「外記、いかがいたした」
「はっ。本日未明、奥方様が元気な赤子をご出産あそばされましてございますれば、急ぎ知らせに参りました」
「どちらだ」
「元気な姫君にございます」
「そうか。大儀であった」
……とうとう俺も人の親になったようだ。