【他者視点】鬼平開拓記(長谷川平蔵)
凍傷の話や死人の話もしているので、若干グロ注意(念のため)
――天明五(1785)年春・松前
俺こと長谷川平蔵宣以が初めて蝦夷地に足を踏み入れたのは六年前だ。偶然にも松前藩とロシアが接触していた事実を掴み、彼らの内情を調べ上げたところ、アイヌの民に対する不当な扱いをはじめとする様々な不正が発覚し、それから三年後に松前藩は転封。その後は天領となった蝦夷地を開拓するために各地に調査隊が派遣されている。
ちなみに松前藩が転封となったのは、政変で失脚した旧秋元家が治めていた出羽山形六万石のうちの二万石だ。本来なら改易でもおかしくないのに国替えで済まされ、なおかつ一万石格から二万石に加増となったことを、詳しいことを知らぬ江戸の者たちは訝しがっておったが、現地の様子を見ている俺からすればさもありなんといったところだな。
一万石格ってのは、米が取れないために仮で格付けしただけに過ぎず、実際はアイヌとの交易品や鮭やニシン、昆布などの海産物を求める北前船の来航で松前の港は賑わっており、規模で言えば十万石の城下町にだって引けを取らないくらいには栄えている。となれば、そこから運上金を取り立てていた松前藩も相応に潤っていたはずで、特筆すべき産物もない二万石に転封というのは実質減知に等しい。
さらに言えば、松前藩に仕えていた者たちはそもそも稲作や畑仕事の何たるかも分かっていないのだから、藩政は非常に厳しいものとなるはず。東海寺の変で多くの家が取り潰しとなっていたので、松前まで改易とするよりは、国替えという名目で実質的に罰を与えたほうが良いだろうという判断かもしれない。これで財政に行き詰まり領地返上などとなれば、失態は藩の責任であり御公儀の非にはならんからな。
そして、俺はそれらを調べ上げた功により、天領となった蝦夷地の探索を指揮する蝦夷目付という職に就くこととなった。
元々江戸の町奉行に就くことを目標にしていた俺が、どこで道を間違えて蝦夷地に赴任することとなったのかといえば、確実に藤枝治部少輔のせいだろう。蘭書の和訳を成し、蘭学の大家として名を上げたあの男に随分と振り回されたもんだ。
いやね、そのおかげもあって松平越中守様に名を知ってもらえたし、その伝手で越中様の兄君である田安公の知遇も得たし、おかげで書院番に推挙してもらったわけだから、有り難いっちゃ有り難いんだが、まさか長崎まで付いていくことになるとは思わなかったし、なんならその後に大納言様の毒殺未遂なんて騒ぎの最中、宗武公から賜ったという御紋付きの扇子一つで西の丸に殴り込みにいくとか狂気の沙汰だぜ。
……まあ心が躍ったのは否定しねえ。
「それにしても寒いな……」
ここで冬の寒さを経験したのは二度目だが、四月になってもこの寒さってのは、いつまで経っても慣れないもんだな。
最近は毎年春になると蝦夷地へ渡り、冬が本格的に始まる前に江戸へと戻るという生活を送っていたが、今年に限っては昨年から年を越して松前に滞在している。というのも、各地の調査がだんだんと進み、規模も大きくなってきたことで現場で指揮を継続したほうが良いという判断が一つにある。
蝦夷地が正式に天領となって以降、小普請など無役の者などを中心に意欲のある者で調査隊を編成し、調査の範囲を広げていったわけだが、そこで分かったのは、やはりロシア人がすぐ近くまで迫っていたということだ。
まずは東蝦夷であるが、こちらはアッケシの首長イコトイが非常に協力的なこともあり、彼の先導によってかなり先の地まで調査が進んだ。
アッケシから更に東へ行くと、この広大な土地の東端に近いところにノッカマップという和人交易地があって、その海の向こうに島々が連なっている。そのことはアイヌの者から聞かされていたので、調査隊は海を越え、クナシリやウルップなど、それらのいくつかの島へ到達を果たしたわけだが、その中の1つエトロフにロシア人が居住していたという。
相変わらずアイヌの者を介しての話なので理解するのに時間を要したようだが、どうやら彼らは交易のために訪れたものの、仲間内で諍いがあったようで、三人だけが島に取り残されてしまったとのこと。どうにかして故郷に帰りたいという意思はあるそうなので、あちらが国を挙げて定住させるために人を送り込んできたわけではなさそうだが、改めてロシアという国がすぐ側まで来ていることを実感した。
一方で西蝦夷の探索は難航した。
こちらも東蝦夷と同じく和人交易地がいくつか点在しているので、そこを拠点にしつつ周辺の土地を調べていったのだが、最北のあるソウヤという交易地から海を越えた先の"からふと"なる場所が非常に厄介だった。
この島は、東蝦夷に連なる島とは比べ物にならないほど広大で、松前藩が治めていた頃からクシュンコタンやシラヌシなど、島の南部にいくつかの交易地や漁場は開かれていたが、状況を把握できるのは港とその周辺の僅かな地域のみで、奥地に何があるかは定かでなかった。
となれば、早急にこの島が御公儀の支配下にあることを示すためにと、調査隊は北へ北へと歩みを進めたのだが、そこで痛ましい事故が起こってしまった。
「亡骸は」
「痛みが激しく、松前に運んでくるのも難しいため、現地に社を建てて弔いましてございます」
「そうか……跡目相続については格別のお取り計らいを賜るよう、田沼様に言上しよう。他の調査隊の者たちにも、くれぐれも深追いせぬよう申し伝えよ」
「はっ」
先月、からふとを調査していたとある隊の者たちが、遭難して亡くなるという事態が発生した。
亡骸を発見したのは、東蝦夷を探索していた隊の一つで、別の隊がクナシリなどの島々を探索していた間に、その隊は別行動でノッカマップから北へ海沿いを踏破してソウヤに辿り着き、そこで既に亡骸となっていた仲間を発見したのだ。
亡くなった者の一人が記録を残しており、それによると、からふとの奥地まで探索を続けていたところ、予想以上に早く雪が降り始め、大慌てでソウヤまで戻ってきたものの、既に周囲は雪に覆われ身動きが取れなくなってしまったようだ。
交易地はあくまで交易のための場所で住むところではないが、狩りや魚捕りをする現地のアイヌが建てた避難所のようなものがあり、食料や薪が蓄えられていたので、そこで冬を越し、雪の収まるのを待って松前に戻るつもりだったようだが、蝦夷地の冬の寒さと満足に食事も取れぬ環境に、一人、また一人と命を落としていったらしい。
「治部の言うとおりになっちまったな……」
あの若者によれば、北へ行けば行くほど冬の訪れが早くなり、ひとたび周囲が雪に覆われれば打つ手が無くなる。だから秋の色が濃くなる前に未練を残さず引き返すことと明言しておった。それより先は冬の寒さに耐えられる家と、これまでにない暖かな衣が十分に整ってからだとな。既に松前にも平賀源内殿考案の家屋が建てられ始めているが、今はまだ試しの段階だから、もう少し改良を加えていきたいんだとさ。
「とは言ってもな。どいつもこいつも出世のために目の色を変えてやがるからなあ」
調査隊の多くは無役の小普請たちだ。役が与えられ、それによって功を挙げれば加増も夢ではないとくれば、多少の危険を冒してもと考える気持ちは分かる。実際に亡くなった者の手記により、からふとにもロシア人らしき者の来訪が時々あったとか、我らが未達の北側は清国が治めているらしいとの話を知ることが出来たから、その功は大きいものだ。
だが、本当に蝦夷地は生易しいところではない。本格的な調査を始めて三年、死者が出たのはこれが最初であるが、これまでも大きな傷を負った者は数知れない。
山を分け入って熊に襲われたなんて話もあるが、一番被害が大きいのは寒さに晒される時間が長くなることによって、手足や鼻、耳などが腫れ上がるものだ。軽いものだと建屋の中に入って温めておけば、しばらくすると腫れも治るんだが、時間が経てば経つほど治りが悪くなり、最悪では手や足の指が動かせなくなったりする。要はそこだけ死んでしまったようなもんだ。
厄介なのはこれを放っておくと、他の元気なところや骨まで悪くなっちまう。アイヌの者に聞けば、そうなってしまったら悪くなったところを切り落とさないと命まで危うくなるとかで、実際に指の一本二本失ったとか、耳や鼻を削ぎ落したなんて者もいる。
十分に注意しろと命じているにもかかわらず、それらの症状に罹る者は後を絶たない。功を焦りはやる気持ちを抑えられない者や、蝦夷地の環境を甘く見て臨む者がいることは否定しねえが、それでもこの環境を知った上で望んで任に就く者ですらそれなのだから、この先何も知らない百姓たちを開拓のために連れてくるとなると、一筋縄ではいかない事業であると改めて感じる。
「まあ任されたからには、俺がしっかりと導いてやらんとな」
なんて偉そうなことを言ってはみたが、実は昨年から今年にかけて松前で冬を越した本当の理由は、アイヌの娘が俺の子供を身ごもったからなんだよな。最初はそっちのほうが理由が強かった。相手はイコトイの治めるアッケシの娘。昨年東蝦夷の視察に赴き、松前に帰る途中で寄ったときに一晩な……
しょうがねえだろ、寒いんだもん。まさか一夜限りで子供が出来るたあ思ってもおらんわ。江戸に帰ろうかとしていた頃にイコトイから実は……って言付が届いて、来年の春には生まれるだろうってんだから、理由を付けて松前に残ったわけよ。
なに、江戸に連れていくってわけにはいかねえから、子供のほうは俺が父親だなんて知らずに育つだろうけど、一応は自分の子の姿を見ておきたいじゃねえか。勝手な理由だとは思っているが、それのおかげで松前に滞在し、今回の惨事を現場で指揮できたわけだからな。もしかしたら生まれてくる子が導いてくれたのかもしれねえじゃねえか。
だからこそ蝦夷地を開拓して、この地に住む者がちっとはマシな暮らしになるよう手を尽くすのが今の俺の役目ってもんだろう。
大納言様、田安公、田沼公、松平越中様。俺みたいな無頼漢を重用してくださる、あの方々のためにもな。
◯登場した地名の解説
・アッケシ…現・厚岸郡厚岸町。 イコトイが首長を務める、かつ平蔵の隠し子がこの先育つであろうコタン
・ノッカマップ…現・根室市牧の内。史実では寛政元(1789)年にクナシリ・メナシの戦い(アイヌの松前藩に対する蜂起)の首謀者が処刑された場所となり、アイヌがここで交易することを忌避したため、翌寛政二(1790)年に交易地がネモロ(ノッカマップの西、現在の根室市中心部)に移転となった
・クナシリ、エトロフ、ウルップ…国後島、択捉島、得撫島(北海道本土から近い順)
・ソウヤ…現・稚内市
・クシュンコタン…樺太南側の湾になっている部分の一番奥にある港。久春古丹とも呼ぶ。日本統治時代は大泊郡大泊町楠渓、現在実効支配するロシア側での呼称はコルサコフとなる
・シラヌシ…樺太南西端の半島の西側。日本統治時代は本斗郡好仁村白主。最初は漁場として開かれ、寛政二年に交易地が設置された。